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疑心暗鬼的メタシアター

疑心暗鬼的メタシアターの定義付けをこれから始めよう。疑心暗鬼的メタシアターとは造語だが、そうとしか形容しようのない大きな流れがここ近年の日本現代演劇の中で確かに起こっているのである。そもそもメタシアターとはアメリカの批評家、L.エーベルが提唱した「演劇についての演劇」のことである。W.シェイクスピア『ハムレット』みたいに劇中劇が行われる芝居やルイージ・ビランデッロ『作者を探す六人の登場人物』のように登場人物が作者を探す芝居など、古典にも数多くの優れたメタシアターの例が見受けられるが、そのようなメタシアターの代表的な作品は演劇への疑義から出発し、大胆な設定は存在するものの、ある意味では律儀に最初から最後までその設定を守りきるのに対して、疑心暗鬼的メタシアターは演劇への疑義というより、世界への疑念や人間への不信から、段々と最初の設定が綻び始め、脱臼し、なし崩し的な様相を呈し、芝居が途中から空中分解していくようにみえること、あるいは空中分解する危機に見舞われているという体裁を取っていることが、特徴としてあげられるだろう。それは日本の先行きを見据えると不安な要素があまりにも多く、絵空事の夢や希望を語られても容易に信じることの出来ない観客が増えてきたこと、端的に言えば無邪気さの喪失に、アーティスト側が敏感に反応した結果である。

例えば、お布団『幽霊と王国』(シアター・バビロンの流れのほとりにて、2015年)では、『ハムレット』を上演しているにも関わらず後半からハムレットがひきこもり始め、舞台上に姿を現さなくなる。他の登場人物の呼びかけにも応じず、したがって父の仇であるクローディアスとの決闘は行われず、ただゆっくりと国が滅亡へと向かう。最後の決闘の場面がなければ「苦しいだろうが、すさんだこの世で生きながらえ俺のことを語り伝えてくれ」(W.シェイクスピア『ハムレット』松岡和子訳、ちくま文庫、1996年)というハムレットのセリフにもたどり着くことが出来ない。よって、後世に語り伝えられないであろう悲劇が、推進力を失いながら劇的な展開もなく、淡々と進んでいくことになる。ハムレットがひきこもった理由は劇中で詳らかにされていないが、原作のハムレットが狂気に苛まれていくとするなら、『幽霊と王国』のハムレットは常に正気を保っており、最善策を選ぼうと葛藤した結果、ひきこもる以外の選択肢が失われてしまったようにみえた。ハムレットがひきこもる時点で、ただでさえメタシアターの構造を持つ『ハムレット』に、もう一つのメタ的な視点を取り入れたという言い方も出来るが、みているあいだはそのような複雑な思いは去来しなかった。極めて自然な判断に従って、ハムレットは行動していたように思えたからである。ラストシーン、宰相・ポローニアスの娘であるオフィーリアが国の滅亡する直前に言い放つ「誰もいなくなっちゃった。なんか、がらんとしちゃった。でも、私本当に大丈夫だと思うんですよね。私、お祈りとかしたことないんですけど、でも、今、全然、不思議と何にも心配じゃないの。(中略)何ができるかわからないけど、できることやらなくちゃいけないなって思うし、だからかな……。」という素朴な感想は、筋通りに全く進まなくなってしまった、構造が完全に破綻してしまった物語を終わらせるうえで、あるいは終わらせずに観客の現実へ繋げるための、適切な処置だった。

例えば、ワワフラミンゴ『野ばら』(下北沢B&B、2015年)では中盤、なくしたメガネの捜索の最中、メガネの代わりに何故かいま上演されている芝居の台本ではない台本の切れ端が発見される。登場人物たちによってとりあえずその切れ端は読まれるのだが、本当にこれまで上演されてきた芝居とまるで関係のない内容であるため「罠じゃないよね?」 「こんなものが100も200もあっても、意味ないよ。」とメガネをなくした人物がいきなりキレるという、不安感を煽るだけのシーンが出来する。台本の切れ端は二度発見され、二度とも釈然としない雰囲気が残る。そして三度目の切れ端が発見された際には、メガネをなくした人物の友達によって、それはそのままそっと元の場所へと戻される。物語を推進するうえで邪魔でしかない劇中劇の存在が、登場人物の判断によって否定されてしまう。実際にくまなく辺りを探せば100も200も切れ端が発見されるかもしれないが、まるでそんな可能性はなかったとでもいわんばかりに、物語は別の方向へと移っていく。物語の周囲にも無数の物語は転がっているだろうが、そこに目を向けることは、いままさに行われている物語の破綻のきっかけになり得る。破綻の可能性は、そうして静かに排除されるのだ。

例えば、柿喰う客『天邪鬼』(本多劇場、2015年)では、舞台上に学芸会の舞台のようなものが更に設置されている。そこでは子供たちが配役でもめ、童話の演目でもめ、人間関係でもめている。たとえ上演が始まってもすぐに中断されてしまい、芝居をやりたくない子供まで現れる。ここまでうまくいっていないのはどうしてなのか、事態は段々と明らかになる。他国との戦争に突入した近未来、銃撃戦ごっこをすれば銃が、戦車ごっこをすれば戦車が、本物と同様の機能を果たし、人々を大量に殺戮できる能力を発見された子供たちが、トラックに片っ端から載せられ、戦場に送られている。戦場では芝居を上演しなければ、我が身を守ることが出来ない。しかし子供たちといっても、五歳児ぐらいから戦場に簡単に送られ、大人は一人もいないため、チーム内での意思疎通はスムーズに行われない。こうして劇中劇の失敗が延々と繰り返されるという珍事が到来する。しかもただでさえ危機的状況であるにも関わらず、チームメイトのひとり、あまの・じゅんや君が『赤ずきんちゃん』に夢中になるあまり、存在しないおばあちゃんのお見舞いに旅立ち失踪したことで、レパートリー作品である『桃太郎』はおろか、『はなさかじいさん』や『一寸法師』なども主役不在で上演出来なくなってしまった彼らは、あまの・じゅんや君の生涯を、複数の役を兼ねて無理矢理上演することで、物語の中へと旅立ってしまったあまの・じゅんや君を、物語の外へもう一度引き戻す最後の賭けに出る。…何が何やら、というぐらいの入れ子構造である。要約してみよう。劇中劇を上演しなければ生き残れない世界で劇中劇が上演できなくなったために、劇中劇から世界に帰ってこれなくなった主役を連れ戻すための劇中劇が最後まで上演されたことで、無事劇中劇の呪縛がとけて帰ってきた主役を巻き込んで、これまで幾度となく上演されてきた劇中劇を上演して敵を倒せるようになったのだが、一方で劇中劇の最中に足を轢かれた少女は、劇中劇に旅立ったまま、主役が世界へ帰って来れなくなることを祈る。…どういうことだろうか?この芝居では、天邪鬼な態度が一貫しており、説明されたかと思うと即座に前の設定を塗り替えるような設定の説明が始まるため、信頼に足る軸がひとつもなく、観客は霧の中をさまようような体験をすることになる。まして、語り手の中心となる少年が『狼少年』の劇中劇の最中であったことが明かされ、「狼が出たぞ」で幕を下ろすこの芝居において、本当と嘘の区別、劇と劇中劇の区別はないも同然である。第n次メタ視点が採用された時、そしてnにあてはまる適切な数字がわからなくなるまで事態が進行した時、観客は考えることをやめ、ただただ事態を俯瞰するモードになる。

例えば、終演アナウンスが何度も何度も執拗に中断され、何度も何度も照明がついたり消えたりしながらも、断固として芝居は続行される少年王者舘『超コンデンス』(2011年、ザ・スズナリ)、例えば、舞台裏から突如現れた巨人が「憧れのカッコイイ先輩」や「ちょっとクセのある担任教師」などを続々と踏み潰し、甘酸っぱい青春ラブコメの続行が困難になるシベリア少女鉄道『あのっ、先輩…ちょっとお話が……ダメ!だってこんなのって…迷惑ですよね?』(座・高円寺1、2014年)、例えば、俳優ではなく制作が前説の直後から舞台袖で、劇団員である篠崎大悟の(嘘の)半生をべらべらと語り始めるロロ『ハンサムな大悟』(こまばアゴラ劇場、2015年)…例示には枚挙にいとまがないが、このような上演の妨げになる仕掛けが途中で現れる疑心暗鬼的メタシアターの発達には、日本の現状があまりにもショッキングな出来事の連続で、観客自身が疑心暗鬼に陥っており、通常のメタシアターでは「それぐらい疑ってても当たり前だよね」という麻痺の感覚がスタンダードになりつつあるために、大きな嘘をひとつ準備するだけでは、観客を撹乱することは難しくなったという切ない事情が見え隠れしている。最後にもう一度だけ例え話をさせて欲しい。例えば、入間人間『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 幸せの背景は不幸』(電撃文庫、2007年)のみーくんとまーちゃんの関係性が、作品と観客の関係性と、相似を成しているのではないか?まーちゃんは過去に悲惨な事件に遭遇して精神状態が不安定であり、その悲惨な事件に一緒に遭遇したみーくんは「嘘だけど」という口癖とともに数々の嘘を弄し、第二、第三の悲惨な事件にまーちゃんが傷ついてしまわないよう、万策を尽くすことになる。ここでは悲惨な現実から別の現実へと跳躍するために嘘が用いられている。そういった動機でつかれた嘘は、現実に対抗するための新しい現実として産声をあげるのであり、まーちゃんが現実を直視しないために、みーくんが現実を嘘に変換し続けることを、決して責めることは出来ない。恒常的に騙され続けるという疑心暗鬼的メタシアターの醍醐味、それは観客にとっての福音となり得るだろう。

嘘だけど。

 

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