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永遠に「再生」する人々

舞台で音響というと、一般的な音響とは少々違う意味を有する。音響プランと選曲プランが同じ意味で語られることもある。声の録音を再生しただけで音響と呼ばれることもある。以前から、現場に応じて音響と呼ばなかったり音響と呼んだりする方が不自然で非効率的であるということはわかっていながらも、開き直って、すべての仕事を精査せずにひとくくりに音響と呼んでしまう、呼べてしまうことに少なからず違和感を持っていた。特に一曲鳴らしただけ、舞台とミスマッチ、音の制御も雑、みたいな音響?に巡り会ったときなどはなおさらである。しかし、こと多田淳之介の主宰する東京デスロックに関していえば、たとえどのような楽曲が鳴っていたとしても、選曲プランの奇抜さ、タイミングの絶妙さ、音量の制御の的確さにより、それを音響と判断するに相応しい豊穣な営みが行われていると判断していい、少なくとも責められはしないはずだ。本稿では劇団の代表作である『再生』のアップデート版である東京デスロック『再/生』多田淳之介+フランケンズver. 、コンセプトのみを引き継いだ完全に別の作品である岩井秀人×快快『再生』、話題作でもあり問題作でもある東京デスロック『モラトリアム』を比較し、そこでいったい何が行われていたのか、それぞれの「再生」がどのような効果をもたらしていたのかについて検討する。

 

東京デスロック『再生』(2006年、アトリエ春風舎)の初演はあいにく見逃してしまったが(いや見逃すも何もそのころ筆者は中学生でその公演の存在すら認知できていない)、東京デスロック『再/生』多田淳之介+フランケンズver.(2011年、STスポット)に駆けつけることは出来た。ここで『再生』の説明を簡単にしておく。『再生』のコンセプトの説明の仕方にも色々あるが、ここでは「同様の音響プランで同様の芝居を三回繰り返そうとする舞台」としておこう。繰り返す、ではなく、繰り返そうとする、という微妙な表現なのは、その芝居が基本的に爆音で鳴り渡る音楽に合わせて踊り狂うというもので、時が経つにつれて少なからず俳優たちが疲弊し、一回目と二回目、二回目と三回目では差異が生まれ始めてきてしまう、その差異を観客は楽しむ、というものだからである。映像ではできない(あるいは実際に映像でやったところであまり面白くない)、俳優が疲弊していく一部始終を目撃できる舞台ならではのアイディアといえるが、幾度となく形を変えて再演されてきた『再生』のなかで、東京デスロック『再/生』多田淳之介+フランケンズver.は、「繰り返そうとする」が「繰り返す」に最も近づいた例といえるだろう。相当にハードな振付、めちゃくちゃにみえる動き、全力で叫ばなければ出ない大声などが上演の際に求められているにも関わらず、フランケンズの優秀な俳優たちが揃ってあまりにも忠実に三回とも同様の芝居を再現しようとするので、一挙手一投足を丸暗記することが事実上不可能な初見の観客にとって、一回目と二回目と三回目の目に見える明確な違いは、照明の明暗を別にすれば、それこそ俳優たちの服にじんわりとにじむ汗の染みしかないほどなのである。だからこそ『再/生』の終わり、あっけなく突然鳴っていた曲がぶつ切りにされて、無音になった瞬間に訪れる疲弊しきった俳優たちの荒い呼吸音は、これまで延々と暴力的な爆音を摂取し続けていた観客の耳には、全く逆の、そしてなかなかすぐに慣れることの出来ない別の暴力として襲いかかる。まるであたりまえのように繰り返されていたために、荒い呼吸音を耳にするまで、それが映像の再生と違って、超人的な達成によって成り立っていること、膨大な努力の果てにようやくたどり着いた彼岸であることを、観客は半ば忘れかけていたのである。

 

一方で、岩井秀人×快快『再生』(2015年、KAAT)を観て、一回目と二回目と三回目の上演の区別がつかない、という感想を抱いた観客はごく少数だったように推測される。忠実に再現する、という目的自体が上演側にあまりなかったであろう。元々の『再生』の意志は尊重しながらも、新しい作品へと作り替えてしまう大胆不敵な試みであった。もちろん三回上演を繰り返し、次第に疲れてくる、という構造は一緒なのだが、東京デスロック『再/生』多田淳之介+フランケンズver. が現代日本の飲み会というあくまでもリアリティ重視の設定を採用していたのに対して、快快はテレビゲームのキャラクターのコスチュームにも異国の儀式の際に用いられる民族衣裳にもみえる、日常的にまず着ないであろう奇抜な服を誰もが身につけており、服をほとんど着てさえいない者もおり、山崎皓司の全身を覆っている赤いインクに至っては、上演が進んでいくうちに汗でみるみるはげていくため、徐々に素肌が露呈していく。これは劇的な変化と判断していい現象だろう。忠実さを放棄することで躍動的な生命の力強さをあぶり出す作品だったからだろうか、これまでKAATに足を運んだなかで最大の音量を耳にしたからだろうか、劇場の規則的にアウトだということは重々承知していながらも、観劇中唐突に、なぜ、わたしは今、立って、頭を振って、踊り狂っていないのかという本能的な疑問に囚われた。いわゆる第四の壁と呼ばれる舞台と観客を隔てている透明な壁を、むしろみずから進んで破りに行くことこそが、極めて自然な流れ、それがこの舞台の求めているものだという強烈な思い込みに支配されたのである。そこではたと思い出したのだ、東京デスロックが第四の壁を緩やかに破った作品、『モラトリアム』を。

 

東京デスロック『モラトリアム』(2012年、STスポット)は上演時間が八時間ある長大な作品で、しかも短いパフォーマンスが数回断続的に行われる以外は特に何もなく、退屈な時間の方が遥かに長い。真っ白な空間のなかに置き去りにされた観客は、劇場のなかに準備されたものを使って各々の楽しみ方、それもPSPで延々とモンハンをやる、東京デスロックの俳優ととりとめのない雑談をする、配られた毛布を使って爆睡するなど、舞台とはそれほど関係のない行為で暇をつぶし始める。「観」ることを放棄した「客」とみなすこともはばかられるただの「人」へと次第に近づいていくのだが、終了間際、 Perfume「GLITTER」が流れ始めてから状況は一変する。PSPは床に置かれ、雑談は唐突に断ち切られ、毛布は劇場の隅に放り投げられ、ひとり、またひとりと自主的に立ち上がり、これまで一度もみせなかった輝いた目をして踊り始める。筆者も速やかにグダグダとした体を踊り狂うモードへと切り替えたうちのひとりだ。この瞬間のために七時間待った、とさえ思った。この第四の壁の緩やかな溶解は興味深い。本来の『再生』あるいは『再/生』が、回を重ねるごとに俳優がぐったりとしていくのに対して、七時間もほとんど放置されていたに等しい観客は、それとは対照的に、Perfume「GLITTER」が爆音で繰り返されるほど、次第に躍動的になり、舞台の住人へと生まれ変わっていくのだ。一回目は参加していいといわれても急にモードの切り替えが出来ずに端っこで見守っていた者も、二回目には東京デスロックの俳優と手をつなぐこともやぶさかではなくなる。三回目に至っては、歌詞を覚えている観客が数人、サビを熱唱するという事態にまで発展した。しばしば見落としがちな事実だが、悪質な客いじりのような羞恥プレイでもないかぎり、観客は動きたい、踊りたい、歌いたい生き物なのである。舞台をわたしたちの世界の延長線上にあるものとしてがんばって捉えようとするよりも、舞台を実際にわたしたちの世界へとそのまま引きずり込みたいのである。俳優が、観客が、劇場職員さえもが、手をつないで円になってぐるぐると回って踊り狂う、この単純で幸福な瞬間が永遠に続いて欲しくて、三回目のPerfume「GLITTER」が爆音で鳴り渡った時、恐るべき寂寥に囚われた。なぜ、ここで終わらせるのか、「再生」してくれないのかと。三回なんて物足りない、三十回でも三百回でも三千回でも、何らかの致命的なトラブルが起きるまで、いや、起きたとしても永遠に「再生」し続けてほしい。徐々に抜ける者も現れるだろう、しかしそんな現実的な問題はここではひとまず考えないことにする。わたしが本当に知りたかったのは、わたしたちが何度でも/何度まで「再生」出来るのかという限界、突破できそうで突破できない第五の壁である。その存在を肉眼で確認したかったのだ。その意味では、音量を最大限まであげてほしかった。たとえ鼓膜が破れたとしても、人間の鼓膜は放っておけば「再生」するのだから。

 

蘇ることが不可能になるまで、何度でも「再生」し続けたい。

そのように強く思ったのがもしあの日、わたしだけではなかったのだとしたら。

わたしたちはきっと永遠に手を繋いだままで、「再生」し続けることが出来たはずだった。

 

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