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混濁せよ、フラッシュバックメモリーズ

対象との距離感を保たねばならない批評という営みにおいて、私情を挟むのは御法度であるとすれば、想田和弘『演劇1・2』(2012年)という作品を扱うことは最悪の選択である。青年団演出部に所属している団員として、定期的にこまばアゴラ劇場に通っているわたしは、平田オリザを追うことで自動的に普段の生活と密接に絡んだ場所、会話、人間がたびたび登場するこのドキュメンタリー映画とわたし自身の記憶とを、明確に切り離して、平静を保って観ることが出来ない。この文章のアイディアを思いついたのが遅く、Amazonで購入しても手遅れだと判断したため、やむを得ずこまばアゴラ劇場の事務所から『演劇1・2』を借りてきたのだが、家でDVDを再生すると、さっきまでいたこまばアゴラ劇場の事務所が長回しで延々と映っているというのは、やはり狐につままれたような気持ちになる。見慣れた棚には当然のように『演劇1・2』のDVDはない。逆に言うとそこに存在しないのはわたしと 『演劇1・2』のDVDだけであり、大体のものは現在と変わらない姿で映し出されている。よくあるSFで誰かが消えたのに主人公以外の人間は誰かがいた記憶自体を無くしており、気味が悪いほどいつもの日常の風景がそこには広がっている、というパターンがあるが、わたしのなかをぐるぐると駆け巡る違和感は、まさにその主人公の困惑に近いものである。(何と自己中心的な考え方だろうか!)「少なくとも俺のいる記憶は、映画の記憶じゃなくて綾門くんが確かに体験した記憶だよ。俺が青年団に入団したのは、撮影終了と入れ違いだから。」と先輩にいわれたとき、わたしははじめてドキュメンタリー映画のその後の現実に飛び込むということが、どういうことであるのかを認識し、驚愕した。

 

それは松江哲明『フラッシュバックメモリーズ3D』(2012年)におけるGOMAの体験とは、真逆のものだといっていいだろう。2009年、追突事故に遭い、高次脳機能障害となったGOMAは、過去10年近い記憶の多くを失ったり、新しい事を覚えづらかったりするという、記憶障害を後遺してしまった。そのため、GOMAを追ったドキュメンタリー映画であるにも関わらず、そこに映し出されるほとんどの出来事を、現在のGOMAは記憶していないという切ない事情が本編のなかで明かされる。GOMAが以前のことを記憶していないことへの苛立ちを覚え始める妻の日記と、努力しても取り戻すことが出来ない記憶によって家族に溝が生まれつつあることに戸惑いを隠せないGOMAの日記が交互に映し出されていくシーンは、観客にとってはしたたかに感銘を受ける部分だが、短期の記憶がなかなか定着しないGOMA自身は、いきつけのそば屋でそばの美味しさに新鮮な感動を覚えるように、映画祭の舞台挨拶のたびに、『フラッシュバックメモリーズ3D』を観ることで自身を襲った数々の悲劇に少なからずはじめて遭遇したようなショックを受け、「ご感想は?」とインタビュアーに尋ねられたにも関わらず、何も言えずに泣き崩れてしまうという痛ましい出来事もあった。2014年に渋谷WWWで行われた、フラッシュバックメモリーズ4Dライブで、演奏を披露した後のGOMAはMCで、映画のことをようやくある程度記憶したとラフに語っていたが、それまでに何度自分の脳内をいくら掘り返しても存在しない記憶に直面して涙を流したのだろうか。

 

わたしにとって『演劇1・2』は「そこに自分のいないことが不思議に思えるほど見覚えのある風景」、GOMAにとっての 『フラッシュバックメモリーズ3D』は 「そこに自分のいることが不思議に思えるほど見覚えのない風景」が堂々と映っている。それは理性的に考えれば説明可能なことだが、観ているあいだはどうしても生理的な拒絶感がつきまとう。拒絶感まで覚えなくとも、当事者にとって困惑するのは避けられないだろう。根本に立ち返れば、この世に映像を撮影する技術さえなければ、このような複雑な事態は生じ得なかったのだ。大袈裟にいえば、撮影して記録に残すという行為自体が、自然の摂理を冒涜しているのではないかとさえ疑いはじめてしまう、それほどまでに、生きている時間を暴力的に侵されているような感覚に陥るのだ。

 

わたしはこの『演劇1・2』という作品を見返すたびに、新鮮な記憶をフラッシュバックさせるだろう。平田オリザにわたしの作品を苛烈にダメ出しされた直後に頭が真っ白になったままとぼとぼと駒場東大前駅に向かった帰り道の夏の空も、平田オリザの演出助手についた本番の最中にこまばアゴラ劇場トイレで人知れず唸っていたことも、入団時の面接で平田オリザにさらっと言われたひとことも、芋づる式にありありと思い出してしまう。わたし自身の記憶と映画のなかでの出来事は分離不可能なぐらいに混濁する。封印しておきたかった記憶の箱の蓋は、半強制的に開く。

 

永遠に存在するものなどこの世にはない。不謹慎であることを承知でいうならば、平田オリザが、青年団が、こまばアゴラ劇場が、消滅する直前に、あるいは消滅した直後に、この『演劇1・2』を是非とも見返したい。その時、フラッシュバックする記憶はいったいどのようなものであるのだろう。その時の未来のわたしに対する興味は尽きない。そこまで見届けたところで、このドキュメンタリー映画は、ようやく静かに幕を下ろすことが出来る。もしも幕を下ろす覚悟が足りなければ、『フラッシュバックメモリーズ3D』内でたびたび引用される、事故後のGOMAの日記のとある一文を、思い返すだけに留めよう。

 

未来の僕へ 今日も笑顔で思いっきり楽しんでいるかい?

 

(松江哲明『フラッシュバックメモリーズ3D』より)

 

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