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映像が肉体を襲っている場合の驚愕の根源について

映像を巧妙に用いる演劇が日に日に増殖している。映し出される絵本や写真をぼんやりと眺めながらそれぞれの登場人物がいなくなってしまった緑子の思い出をつらつらと述べていく鳥公園『緑子の部屋』(3331 Arts Chiyoda B104、2014年)、ムーチョ村松の得意技であるめまぐるしいプロジェクションマッピングと舞台美術の膨大な仕掛けの数々とがぴったりと同期して観客をどよめかせた構想・脚本:マリー・ブラッサール/ロベール・ルパージュ 演出:吹越満『ポリグラフ -嘘発見器- 』(東京芸術劇場シアターイースト、初演2012年、再演2014年)、ひらのりょう手がける躍動的なアニメーションと古き良き商店街のとある家族の悲喜劇を重ね合わせ、ラストシーンのカタルシスへと縺れ込んでゆくロロ『朝日を抱きしめてトゥナイト』(こまばアゴラ劇場、2014年)、そしてなんといっても映像を効果的に舞台へ組み込んでいくことに意欲的な姿勢をみせている代表的な劇団として、範宙遊泳の存在が挙げられるだろう。プロジェクターで映像を投影すればそれは映画的な演劇になりうるのか?当然ながらそう単純なことではないが、範宙遊泳の作品に関しては、その一貫した手法により、映画的な様相を帯びることがままある。動画はほぼなく、静止画をメインとし、雨のシーンであれば雨の音を流すのではなくスクリーンをびっしりと「雨」という漢字で埋め尽くし、スクリーンに表示される字幕と俳優を対話させることで、対話であるにも関わらず俳優が喋らない時には重苦しい沈黙が空間に漂い、写真のごく短い表示で暴力的なまでに即座に場面転換をする。状況説明に堕している映像の使い方では全くなく、範宙遊泳の画期的な発明として、その手法は今なお進化を遂げようとしている。

ここでは範宙遊泳の代表的な作品である 『うまれてないからまだしねない』『さよなら日本 -瞑想のまま眠りたい- 』『インザマッド(ただし太陽の下)』、更に範宙遊泳主宰・山本卓卓が演出を手がけた朗読『東京』(第三回)坂口安吾作『白痴』に触れながら、映画的な演劇が、いったいどのようにして生み出されているのかについて考察していく。

『うまれてないからまだしねない』(東京芸術劇場シアターイースト、2014年)では、まるで映画を観ている複数の観客が無理やり舞台上に引きずり出されてしまったかのように、俳優たちは客席ではなくスクリーンに少なからず見入っており、そしてスクリーンに映し出されるあらゆる現象が俳優たちに、時に深刻な、時に思わず笑ってしまうような影響を及ぼす(及ぼしたという前提でパフォーマンスをする)。ある者は謎の光を浴びたことにより立てなくなって助けを求め、ある者は親族である徘徊老人が突然宙に浮きはじめて途方に暮れ、ある者は考えていることのすべてがスクリーンに表示されていることに激しく動揺する。

 

鉄「君、ちなみに考えてること全部スクリーンに出てるよ。」

あいつ「え?」

 

なんだこれ?

わ、なんだこれ!

地獄だ。ここはきっと地獄なんだ!

(山本卓卓『うまれてないからまだしねない』、2014年)

 

表示されている字幕に当の本人が不満をぶちまけるという、映像を主に使った表現であるにも関わらず、どこまでも演劇的な瞬間が訪れる。仕掛けの性質上、演劇でありながら観客の大多数が俳優ではなくむしろスクリーンに釘付けとなる。そこではスクリーンに映し出される数々の予測不能な映像に、俳優たちがいかに迅速に対処していくか、あるいは対処できずにパニックを起こしてしまうか、その一挙一動を目撃することに、野次馬的な楽しみを見出すことになる。3.11パニックを不謹慎に面白がっていた、匿名のひとたちの気分に酷似したものへと次第に同一化し、軽い罪悪感さえ覚えるほどなのだ。それがたとえ錯覚にすぎないと認識していても、である。

一方で、『さよなら日本 -瞑想のまま眠りたい- 』(STスポット、2013年)、また 『インザマッド(ただし太陽の下)』(こまばアゴラ劇場、2014年)においてもそうだけれども、劇場の規模の都合上、得てして俳優たちはスクリーンの一部と化してしまっており、映像を眺めようとすると自動的に俳優の肉体に視線が集中することになる。ほとんどの肉体に、半強制的に映像が映り込んでしまっているからである。手足や胴体に映るゆがんだ文字やゆがんだ写真。時としてそれは映画館に何度足を運んだところで、決して目撃することはないであろう奇妙な陰影を帯びる。3D映画はあくまでも飛び出している映像だが、この場合は映像が立体的な肉体(立体的どころか当然のことながら汗ばんでさえいる)にべっとりと絡み付いている。字幕が移動する肉体に映っているときなどは、まるで繁茂する蔦が人間を襲っているかのようにみえる。その気持ち悪さへの驚愕は、果たして映画的なものなのか演劇的なものなのか、区別する基準を持つことができないままに、その字幕は過ぎ去っていき、唐突にプロジェクターの光は消えるのだった。

朗読『東京』(第三回)坂口安吾作、山本卓卓演出『白痴』(東京芸術劇場シアターイースト、2015年)では、大きな日の丸が全面に映し出され、戦時中の歌が轟音で鳴り響くなか、日の丸に背を向け、歌にかき消されそうになりながらも、淡々と白痴の描写を朗読していく。その行為は、演劇的というよりはいっそ映画的な、長回しのワンシーンの良さに近いものだった。また白痴を演じる女性がスクリーンの向こう側におり、シルエットだけが浮かび上がっており、ひらがなのたどたどしい白痴の言葉が、字幕としてポツネンとスクリーンに映されている虚しい情景は、あの時代の社会的に保護されていない白痴が、どのような惨状に身を置いているかを端的に示すものとして、興味深い演出であった。

こうして考察してみてもわかる通り、範宙遊泳は映画的な瞬間と演劇的な瞬間の絶え間ない往復によって、独自の世界観を生み出している。では演劇的な瞬間はともかくとして、演劇をみているにも関わらず、映画的な瞬間だとこちらが認識するのは、いったいぜんたいどういう事情によるものなのだろうか?前提を確認するが、劇場の舞台で展開されるパフォーマンスはあらゆるものが演劇的で、映画館のスクリーンで上映されるあらゆる映像が映画的だ、などという乱暴な結論には与しない。生活のふとした瞬間に演劇的な側面を見出すこともあるように、映像の関わるあらゆる瞬間に映画的なものは潜んでいる。もちろんその逆も然りである。劇場の舞台で人間が動いているだけの「演劇的ではないもの」もあるだろうし、映画館のスクリーンで一定時間上映されていても、その映像が遂に「映画的ではないもの」のままだった、という残念至極なケースもある。その前提に従ってみれば、範宙遊泳の行っているパフォーマンスには、確かにしばしば映画的なものが散見されるのは事実なのだ。その判断基準は、各々によって異なるだろう。わたしが映画的だとジャッジした瞬間はここに述べた通りだが、わたしの見逃した、あるいは気づいていない瞬間もたくさん隠されているはずである。映画的な瞬間を、実際に劇場へと足を運び、ぜひ自分の目で探り当てて欲しい。ちなみに範宙遊泳の次回公演は、代表作である『幼女Xの人生で一番楽しい数時間』国内ツアーが、今年度秋に予定されている。

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