印刷

抹消可能性と有限の彷徨

序章 〈わたし〉の輪郭を溶かしたいという欲望

役を演じる、その単純なようでいて複雑な営みに、人生の多くの時間を惜しみなく捧げる者が後を絶たない。もちろん動機は多岐にわたるが、よく耳にするのは、別の誰かになることに対して、言い知れぬ快感が演じている者に齎される、ということである。しかし、よくよく聞いてみると、その快感を求めてというよりもむしろ、〈わたし〉を抹消したいという、自殺願望を薄く引き伸ばしたような感情が奥に横たわっている、と感受されることも多い。確かに考えてみれば、ほとんどの場合において俳優がみずから役を選べることなどなく、演出家あるいはプロデューサー、いや誰でもいいのだがとにかく自分ではない者から半強制的に役を言い渡され、それを粛々と演じなければならないのだ。それが果たして〈わたし〉から遠く離れた別の誰かである保証がどこにあるだろう。〈わたし〉から遠い距離にある別の誰かになるか、近い距離にある別の誰かになるかはただの運でしかなく、丁半博打と何ら変わることがない。唯一確実なのは、その作品が相当変わった趣向のものでもないかぎり、その役が〈わたし〉本人と完全に一致することは永遠にないということである。つまりどんな役がふられるとしても、ごく短時間のあいだだけでも〈わたし〉であることから逃れることが出来る。〈わたし〉という相当昔から演じ続けて、いい加減に飽きてきた役を一時的にであれ放棄することが出来る(舞台上で本当に死んでしまわないかぎりはすぐにまた、そのつまらない役に戻って日常という終幕の合図を知らされていない、無駄に尺の長い、無数の観客の待ち受けている退屈な作品の中へと戻らなければならない義務を背負わされているとしても)。ただこれはあくまでも役を演じるということを始めたばかりの時に囚われやすい、麻薬のように中毒性のある強い錯覚である。なぜなら役を演じているときも決して別の誰かになれたわけではなく、その役と〈わたし〉が重ね合わせになった状態であるに過ぎないということを、次第に自覚してしまうからだ。むしろ強烈な役を演じれば演じるほどに、その反対側の〈わたし〉の存在感も色濃く鮮烈に立ち上がりさえする。ならば〈わたし〉を抹消するために最適な手段は、もはや役と自覚されない役、ある人格が備わっていない役、他の誰でもあり他の誰でもない役を、演じるのではなく沼に潜るようにして、〈わたし〉の輪郭をじわじわと溶かしてしまうことに他ならないのではないか。しかし、それはいったいどのようにしてなされ得るのだろうか?

役の話を始めるにあたって、まずは筆者自身が出演した直近の舞台を参照し、演じる側、観る側の両面から効果を考えたい(これからの説明を読めば理解出来るとおり、この作品に関しては演じると同時に自分の出演した作品の、自分以外が出演した瞬間を目撃することが叶った)。スイッチ総研『下北沢演劇祭スイッチ』(下北沢あずま通り商店街周辺、2016年)で上演された演目のひとつである「ダチョウ」は、観客が任意の場所でジャンプすると目の前で話している仲のよさそうな座っている三人も会話を続けながらジャンプし、しかもどうやらその三人は座りながらジャンプするという不自然な行為を今しがた自分たちがしたことにもどうやら気づいていない様子である、ということを楽しむ、簡単でわかりやすく、以前から何度も再演されてきた定番の演目の一つであるが、今回だけなのか、今回もなのか、特殊な配役がこの演目には設けられていた。上演自体は三人の芝居だが、出演者は五名である。上演当日、出演者五名はジャンケンによって、ランダムに配役が決定される。上演時間は45分で二ステージあり、15分ごとに出演者が一名ずつ入れ替わる。ABC→BCD→CDEと移り変わっていくため、上演でずっと出演しているのは五名のうちCのみということになる。筆者は一ステージ目はジャンケンの結果、上記で云うところのBになり、後から合流したEに話題を渡し、二ステージ目はジャンケンの結果、上記で云うところのDになり、後から合流してAとは全く違う話題を素知らぬ顔で持ち込んだ。しかしどちらの場合も、ある統一感をうっすらと五名で共有している感覚があった。不思議に思ったのは、観客にとっても出演者にとっても、役は重要視されておらず、空気感だけが共有されていればそれでいいという前提が、暗黙のうちに了解されているということである。ここでは役を演じるというよりも、ある特定の空気感をキープすることのほうが優先的に求められている。それではこの「ダチョウ」という演目が、三人芝居だから三人で最初から最後まで演じられれば良い、ある特定の空気感をキープするだけならそれでも十分に可能だ、というように思えるかというと、そうは思えないところがこの演目の特質である。途中で出演者があくまでも素朴に交換されるという仕掛けが、ある特定の空気感を、誰の演技に依存するものでもない、極めて通気性の良いものにすることに成功しているからである。三人で最初から最後まで演じられれば、出演者はどうしてもある特定の役を演じてしまうだろう。素のままの自分に限りなく近い状態で臨む出演者もいるかもしれないが、いずれにせよ途中で別の役に切り替えることは、あまりにも不自然で難しい。そうなると空気感よりも、他の誰でもないその三人の会話が目の前でなされているという事実の方が、演目の必要性とは別に、強調され過ぎた状態で、観客に届いてしまう。演じると同時に俳優の個性が抹消されて、空気感だけがそこに残る舞台、ナチュラルに入れ替わっていくことを本人たちも気づいていないのではないかと思わせるような出演者のラフなスタンス、誰でもないことによって誰かであるときよりも芯を太く持つ骨組み、それらのことについて考えることは、恐らく昭和の時代に俳優にも観客にも求められていた方向性と、現代で求められている方向性との著しい断絶を考える契機に繋がる。

第一章 役の沼

もはや役を演じているわけではないのかも知れない、人類が全員アクセス可能な役の沼がどこか遠いところにあって、その沼に無数に沈んでいる役のどれかを鷲掴みにして持ち帰ってくるのだけれども、その際にぼろぼろと大切なものを落としてしまう人と落としてしまわない人のあいだに俳優になれるかどうかの壁があるのではないかと、そう勘ぐってしまうぐらいに、ある単一の人がある単一の役を演じているようには、一対一でそれが紐づいているようには、どうしても考えられないということがたびたびある。そもそも〈わたし〉自体が、状況に応じてとっかえひっかえ登場したり退場したりする役の集合体で常に存在しているにも関わらず、舞台で別人を演じている時にだけまるでそれがなかったことであるかのように、ある単一の役に縛られた状態でいなければならない、ある統一された人格でそこにずっと居なければならない、というほうがむしろ、甚だナンセンスなことであるのだ。しかしその当然といえば当然に過ぎる違和感を、どのように作品の中に落とし込めば良いのか。

1 移人称小説と移人称演劇(?)

渡部直己『小説技術論』(河出書房新社、2015年)で提唱している移人称という概念が、小説には適用されても舞台にはあまり該当させることが出来ない理由は明確にある。舞台には基本的に俳優がいるから、ただそれだけである。例えば、滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋、2016年)のように何の予告もなく、わらわらと複数の人物を登場させ、しかも登場したばかりの人物がしれっとした顔で語り手の座におさまることは、ばかばかしい想像だけれども舞台でいえば、上手や下手や奈落から、あるいはその作品が上演されている劇場特有の舞台に上がり込める細い隙間から、当日パンフレットに書かれていない人物が次々と登場しては、観客にまったく説明もなくスポットライトを浴びるポジションにいきなり食い込むということに他ならない。俳優が細心の注意を払って忍び足で音を立てずに来れば目立たないからたぶん大丈夫、という雑な解決で問題をスルー可能なわけでは決してなく、これではあまりにもお粗末な茶番、とてもではないがさりげなくいつのまにか人物が増えているという目標を実現出来そうにない。それでは一度、暗転を挟んで人物を増やせばいいのか、いや、観客は突然の暗闇が訪れるとこちらの予想を遥かに超える想像を巡らせる生き物だから、人数がどれほど急に変化していても驚かず、明かりがついたときに人物の人数が暗転の前と比べて変わっていなければ、むしろ落胆するに違いない。もちろんここで、岡田利規『三月の5日間』(白水社、2005年)の存在をまるで忘れているかのようにふるまっている筆者に手厳しい野次が飛んでくるさまはありありと想定できる。しかしいまこだわっているのは、戯曲の段階でスムーズにナレーターとアクターが入れ替わることが出来るように設計され、しかも丁寧な説明があらかじめラフな口語でなされることによって、戸惑いではなく歓迎の意思をもって、その俳優が役を切り替えていく姿を観客はまじまじと見つめることが出来るという、ここ十年で爆発的に普及した、岡田が発明したあの方法以外のやり方で、失笑を巻き起こさずに役の紐づけを解除することが出来るのかという問いかけである。それについて熟考することは先ほど述べた違和感を少しでも解消することに貢献する、そしてこれについての答えはすでに複数、作品の形で準備されている。

2 簡単にキャンセル出来る(ようにみせかけられた)〈わたし〉

妹 わたしは話されているうちは、ここに、現世にとどまり続けることができます。言い表される中に、立ち現れることができます。浮かび上がることができます。永遠に落下し続けるような空白の場所。間でしかないところ。そこにいてつくられ、そして破壊され

発砲。

姉 ています。わたしは被造物です。しかし『わたし』が『わたし』と言い続ける限り、この場では『わたし』として存在し続けることができます。すでに死に続けている者として、生きているからだのなかに半身を置いて。ふたつの『わたし』に渡って。肉体と言語のさかいで。言語と

発砲。

妹 意味のさかいで。意味と音声のさかいで。その微分の中に冥府があります。これは冥府の言葉かもしれません。本当の破壊の前に留まっている場所としての言葉です。『ここ』は宙吊りの辺獄です、無重力の煉獄です。そして、立っている《ここ》は地獄です。

麻 って書いてあるんですけどね、ここに。(文字を指さす)どうも大蔵麻月です!って勝手にここで私がしゃべりだしたらこの人消えちゃうんですけどね。どうも大蔵麻月です!

妹 ということなんです。

発砲。

兵士 ちなみに、今喋っているのは、どっちなんだ?

妹 どちら……誰ということですか? 誰というよりは、そうであるしかないのでは?

(得地弘基『アンティゴネアノニマスサブスタンス/浄化する帝国』、2016年)

お布団『アンティゴネアノニマスサブスタンス/浄化する帝国』(サブテレニアン、2016年)の中盤に、兵士の発砲に倒れてはすぐに蘇りながら妹と姉が交互に、そもそも〈わたし〉と〈ここ〉の存在理由から問い始め、兵士を混乱の渦中に陥れる悪夢的な場面がある。原作のベルトルト・ブレヒト『アンティゴネ』(光文社古典新訳文庫、谷川道子・訳、2015年)序景では、突然ナチス親衛隊員が家に侵入してきたことに姉妹が怯えているところで幕を閉じるが、お布団の上演ではその更に先のあらゆる可能性を追求するうえに、何回も時間が巻き戻り、微妙に先ほどとは違った結末の悲劇が繰り返される。兵士以外の三名の俳優はスタートの段階で全員が紙の台本を舞台上に持ち込んでいるため、たやすく役をキャンセルしては〈わたし〉に戻り、紙の台本を眺めてはまた別の役として、あるいは役ですらない、誰でもない、世界の声の代表として作品に復帰する。原作とは逆に、世界の化身である三名の俳優に、唯一〈わたし〉に縛り付けられている兵士のほうが虐殺されようとしているといっても過言ではない。三名の俳優はどれだけ銃殺しても蘇り、どのルートを辿っても幸運に遭遇することは出来ないという事実を兵士に突きつける。兵士は混乱する、兵士だけは〈わたし〉の葛藤から逃れることが出来ないのだ。〈わたし〉の大量虐殺、死体の存在しない死の積み重ね、膨大な殺戮とそれに関係なく続行される舞台。それはやがて、この後どのような展開をみせたとしても彼らは死ぬことが出来ず、まして彼らは本当の意味で〈わたし〉をキャンセルすることなど始めから出来はしなかったという、誰もが知っている常識に改めて立ち返らせる。あまりにも頻繁な役の入れ替えによって、〈わたし〉の輪郭という肉眼では確認できないものが、より深い霧の奥へと入り込み、観客は足場を失ったような不安感を覚え、その常識の前でただただ呆然と立ち尽くすことになる。

3 絶対に違う、なんとなく同じ人たち

ワワフラミンゴの登場人物たちは、お互いがお互いの鏡として機能しているかのように、別人でありながらも人を食ったような言動や気まぐれな行動、それでいてとぼけた雰囲気などの共通項を全員が持っているという特徴がある。ワワフラミンゴの公演の中でも男性バージョンと女性バージョンが同時に上演された『野ばら』(本屋B&B、2015年)は、文字通りそれぞれがそれぞれの鏡になっており、なおかつどちらかが本物でどちらかが偽物というわけではなく、どちらも本物である、という点で、他の公演とは違う意味を持つ。いわゆるダブルキャスト、ある役を演じる俳優が二人いる公演と様相を異にするのは、セリフはある程度共通しているものの、基本的に男性バージョンと女性バージョンで登場する人物たちは全くの別人のように描かれているからである。それにも関わらず同じ役を兼ねてみせていることで、改めて役と人格は別物であるということに気づかせてくれる。強いて言えば両方を観たうえで、観客の脳内にぼんやりと浮かび上がる、男性バージョンの俳優とも女性バージョンの俳優とも違う、両者のあいだに横たわるイメージが役なのであり、それぞれがそれぞれの可能性を肯定している。〈わたし〉は生まれ変わりなどしなくても、たやすく別人であり得る。

第二章 女性のみに統一され、女性同士で交換される

ところで、話題になっている舞台の多くで、出演者の性別が女性のみに統一されていることが、以前から気にかかっていた。もちろん女性のみといっても、俳優がインターセックスやトランスジェンダーといったセクシャルマイノリティであり、なおかつそのことを公式に表明していないケースも見受けられるため一概に括るのが危険であることは、この文章を執筆するあいだ終始気に留めておきたいが、いま注目したいのはむしろ上演効果、例えばセリフの発語が女性特有の高い声、ソプラノやメゾソプラノのみに統一された際に観客が受ける印象や、戯曲上は男女混合であるにも関わらず男性役をすべて女性の俳優で統一することの意図などについてである。贅沢貧乏『みんなよるがこわい』(三鷹北口共同ビル2階、2015年)、額田大志『それからの街』(東京藝術大学 第7ホール、2016年)、チェルフィッチュ『現在地』(KAAT、2012年)、それぞれの演目の内容よりも形式に注目して、この章は進められる。

1  それぞれがそれぞれの分身であるならば

贅沢貧乏『みんなよるがこわい』は女性4人芝居、というよりも1人芝居+3人芝居で、1人の心中のネガティブな思考回路や葛藤が、その1人の心の声の役として登場する3人の、すれ違いや口喧嘩という形で表現される。3人は1人の寝ているベッドの下の狭い空間を更に三分割した、狭い狭い空間の中に押し込められており、上演中にそこから決して出ることはない。そのことによって、ベッドの上の1人とは違う位相に3人は存在していることが、早い段階で観客には察せられる。1人は自由自在に動き、いわゆる20代女性のありふれた日常生活の芝居を淡々と演じる。3人の動きは極度に限定されているため、少し動いただけで簡単に頭が下に、足が上になる。3人の大きな動きといえば、自分の空間の隣の壁を叩いて干渉を試みること、自分の空間の照明をつけたり消したりすること、これぐらいしかない。上演時間の大半は、ナンパをしてきたよく知らない男に、心細い夜だからという曖昧な理由で、電話をかけるかどうかの逡巡に費やされる。1人芝居であればあまりにも小さな出来事を、3人の豊かな表情と声色、バラバラのようで妙に一体感のあるコミュニケーションによって、まるで大きな出来事であるかのごとく誇張し、話題、議題、問題をじりじりと広げていく。この作品で重要な点は二点あるように思われる。一点目は、その3人がサイズは微妙に異なるものの色やデザインの同じ衣裳を身に付けており、同じサイズの空間に押し込められているという点である。ここでは3人のそれぞれの個性が尊重されながらも、ある意味で抹消されている。すなわち、交換しようと思えば交換出来るような配慮がなされている。3人はそれぞれの人格を主張するようでいて、混然一体となった、ある熱を帯びたひとかたまりを産み出そうと尽力しているようにも見える。それぞれがそれぞれの別の可能性を引き受けており、完全に同じ役にはみえないように細心の注意が払われている。二点目は、意を決して電話することになった際に、本来は微妙に漏れ聞こえるであろうはずの相手の男性の声が、全く観客には聞こえてこないという点である。会場が大変に狭いこともあり、任意の部屋を近距離からのぞき込んでいる気分になっていた観客は、目の前で行われていたこの光景が芝居であったことを、このタイミングで改めて思い出すことになる。すべての内容を聞き取るのは難しい程度の小さな声であっても、架空の電話の向こう側に架空の男性の存在が想定されていたほうが、リアリティは保たれていたであろう。それにも関わらず、架空の男性が想定されなかったことによって引き出され得る有益な効果とは、いったい何だったのか。これについて近似する問題系をはらんでいるのが、額田大志『それからの街』とチェルフィッチュ『現在地』である。

2 女性だけに限定された、架空の共同体としての村や街や部屋

額田大志『それからの街』は女性のみで行われる4人芝居である。それぞれの4人のキャラクターは潜在的にあるものの、すべてのキャラクターが女性である必然性は乏しく、むしろこの選択はこの作品の持つ固有の音楽性を守るために行われたと考えるほうが自然である(額田大志はアフタートークで、この作品にバスにあたる声を含ませたくないという理由が何よりも、キャスティングを女性のみに統一した大きな理由である、と述べていたことを付記しておく)。この作品独特の手法として、「あの」や「えき」などといったあまりにも短いフレーズが数十回、数百回と厳密なタイミングで反復されることによる、意味とはあまり関係のない心地よさがある。この心地よさは、4人の持っている声質がそこまで遠いものではなく、同じセリフが4人の間で執拗に交換されるにも関わらずそこまで違和感なく聴くことが出来ることによって担保され、物語とはまた別の固有の魅力をはらむ。チェルフィッチュ『現在地』についても、近似したものがある。『現在地』はとある近未来の村の存亡を巡る話だが、不自然なことに、登場人物である7人はすべて女性であり、父親や彼氏、親族じゃない赤の他人の男性の姿すら、影も形もない。神様がその村にいきなり7人の女性を置き去りにでもしないかぎり、そのようなことは起こり得ない。人工授精が極度に発達してでもいなければ、必ず7人には母親がいるように父親がいるからだ。しかし『現在地』で親族として登場するのは姉妹だけであり、他の親族の気配もない。女性だけに限定された、架空の共同体としての村。生活感は一切なく、7人の話題はバラバラではなくむしろ似通い、喋るスピードや立ち姿もほとんど同じであるこの作品は、それによってある種の神聖さを帯びる。女人禁制の真逆、男人禁制にすることによってしか得られない、音楽的な効果がある。ある一定より低い声は、あらかじめ排除されているからだ。『みんなよるがこわい』にしても『それからの街』にしても『現在地』にしても、そこに男性が存在しないことによって、急速にそれぞれの距離感、それぞれの声質、それぞれのふるまいは接近し、交換可能性は一気に跳ね上がる。彼女たちは全員で大きなひとかたまりをそびえ立たせようとしていると言い換えてもよい。ラストシーンに近づくにつれ、それぞれのバックボーンが明らかになっていくにも関わらず、キャラクターはむしろ抹消されていく。舞台上にはただ質感だけが残る。巨大なものが通過していったような不穏さだけが。

3 男性のみで同じ試みは成り立たないのか

なぜ男性のみで同じ試みは成り立たないのか、あるいは成り立つとしてもそのような設定であまり作品が作られないのだろうか? 第一の理由に、男女同権と言いつつもいまだにホモソーシャルな組織の多い日本では、男性のみに統一した作品にそれほどの神秘性も宿らず、どちらかというと日常の地続きのような感覚で観客が受け取ってしまうということが挙げられる。これについては作り手が悪いというよりも、社会のほうが本当の男女同権に近づいてくれなければ、このような傾向はしばらく根強く残るに違いない。第二の理由に、交換可能性は女性のほうが高い、という端的な事実がある。例えば化粧。もちろん男性にも化粧をする文化はあるが、女性ほど浸透してはいない。化粧は統一された美しさに全員が近づくうえで、最適な手段のうちのひとつである。歌舞伎ほど徹底した化粧であれば交換可能性は男性にも保証されるが、そうするとナチュラルな題材の作品は自動的に除外されることになる。例えば集団性。女子会という言葉はあっても、男子会という言葉はあまり口にされない。井戸端会議などもそうだが、話し方も内容も、交換可能性が極めて高い事象である。一人増えていても油断すると気づかない可能性さえある。男性も群れないことはないが、あのようなコミュニケーションの共同体を築くことは皆無である。特に学生時代はそのような傾向が強く現れる。ある一人の女性の一生を複数の女性がかわるがわる演じるという趣向の、しかし学生時代のエピソードに大きなウエイトを置いているままごと『あゆみ』(森下スタジオ、2012年)を、男性のみで上演することは果たして可能かどうか、可能だとして相応の効果を生むにはどうしたらよいか? 筆者には明瞭な解答を見出すことが出来なかった。

第三章 「世界霊魂」

第二章までに列挙した作品はすべて、平成の世に生まれたものである。これらと比べて、実際に観ることは出来ていないため戯曲のみからの判断になるが、昭和の時代を代表する作品のなかで登場する交換可能な役は、あくまでもコロス的なものに留まっている。

アトム 一天にわかにかきくもり、火のつく赤児の泣き声に、ここヴァヌカンのリングの幕が切っておとされる。闘うは誰。そは永劫の敵、鶴だ! 空という空に鶴! 鶴、鶴、鶴だ!

小人2 鶴をよく見極めなければならない。

3 鶴という鶴を。

4 ミリタリズムにキャピタリズム、ナチズムにシオシズム。アラヴィズムにツルリズム。

アトム すると何だ、おれたちの闘っている鶴とは皆、カタカナの化物か!

(唐十郎『戯曲 唐版 滝の白糸』角川書店、1975年)

任意で唐十郎の代表的な作品から引用した。膨大な昭和に書かれたすべての戯曲に目を通せているわけではないことをご容赦いただきたいが、例えば渡辺保 高泉淳子『昭和演劇大全集』(平凡社、2012年)で取り上げられている、岸田國士や三島由紀夫、清水邦夫や野田秀樹など、長く続いた昭和という時代のどの世代の劇作家の作品においても、交換可能な役はいずれもコロス的な役割に限定されており、その交換可能な役が主軸となって、物語を牽引していくことは決してない。この時点ではまだ、社会に対しての反発はあっても、〈わたし〉の輪郭を構成する要素そのものに対しての疑念は、顕在化していなかったのだ。

〈私〉の存在についての驚きは、ただひとつ現実に存在する「世界霊魂」のほかに、やはり「世界霊魂」としての資格を満たす「他人の魂」というものが、すなわち、私の表記法を用いるならば「他の〈魂〉」と、あるいは「他の〈私〉」としか表現しようのないものが、存在しているはずだ、という認識によって、第二段階に達することになる。なぜならば、〈私〉とは唯一者であり、「最も重要な意味において隣人をもたない」もののことであった。「他の〈私〉」とは、だから、矛盾表現であり、他の〈私〉の存在とは、一個のパラドックスでしかありえないはずなのである。唯一者の複数性。隣人をもたないものの隣人。たとえそのようなものがどこかに存在するとしても。それが〈私〉の世界の中に登場してくることは、原理的にありえないはずなのだ。他者が存在するとは、しかし、まさにそのような不可能性が存在するということ、すなわち〈私〉の世界の中に登場してくることが原理的にありえないものが存在するということ、にほかならないのではなかったか。

〈私〉と世界とは、双方ともが「〈私〉の世界」であることによって一致するのであった。それは唯一でありかつすべてである。他人も他の動物も、宇宙の果ても、過去も未来も、そして考えられるあらゆる可能世界が、この〈世界〉の内部にしか存在しないのであった。この「ただひとつ現実に存在する」世界霊魂に外部がありうるだろうか。〈私〉は、すべてであるこの〈世界〉の外にあるものに、すなわち別の──それゆえ「ただひとつ現実に存在する」のではない──世界霊魂に、いかにして到達しうるのか。

(永井均『〈私〉の存在の比類なさ』、勁草書房、1998年)

昭和90年代、すなわち昭和という時代の終焉と平成という時代の更新が同時に行われる現代の、役が交換されてしまう、〈わたし〉が抹消されてしまう作品の数々は、「世界霊魂」への到達の軌跡であるように思える。役の沼にわざわざ役を取りに行くのではなく、おのずと役の沼に身を沈め、慣れ親しみ、あまつさえ泥を塗るようにして複数の役を肌にこすりつける時代へと突入するのである。それが文字通りの泥沼であるとしても、底なし沼であるとしても、全員が全員〈わたし〉か特定の役のみをただ往復するだけの世界には、もはや戻れない。

終章 役の信憑性の耐えられない薄さ

このような疑いを口にすれば、場が凍り、あるいは白い目で見られることを承知しているから、いつも飲み込んでしまわざるを得ないけれど、それでも時々怖くなるのだ。役が役としての信憑性を失う瞬間があることを、どうして先ほどまで役という幻をすんなりと受け入れていることが出来ていたのかあっという間に理解できなくなることを。任意の漢字が「こんな字本当にあったっけ?」と首を傾げるや否や、瞬く間に意味を剥奪されてしまい、しばらく読めなくなってしまう一時的な麻痺の感覚に、その恐怖はとてもよく似ている。逆にすべてが役であるとしか考えられない時もある。比喩的な表現ではなく世界は最初から広大な舞台だったのであり、〈わたし〉の上手な人と〈わたし〉の下手な人のオーディション会場へと、この世に生を受けた直後に無理矢理連れ出され、誰に一票を投じるか、誰からの一票を得られるか思案しながら、今日の今日まで日常をやり過ごしていたかのような幻想に、囚われて容易に抜け出せなくなる時間もまた存在する。いずれにせよ、舞台上の役者に役が全くといっていいほど宿っておらず、路地裏の見知らぬ人が神がかった演技をみせている場面を偶然目撃するということが日常茶飯事で、四六時中行われているのであるとすれば、劇場というのも本当はどこにも存在し得ず、稀に天災のように目の前に劇場が現れるのを、指をくわえてただ待っているほかに仕様がないのかもしれない。たとえゴドーみたいに予兆だけがあって、結局訪れないままであったとしても。神が死んでいるように劇場も、とっくの昔に死んでいるのかもしれないのだから。

役が無限に注がれる器として、無数の〈わたし〉は生かされている。生涯にわたって役に満たされ、役は捨てられ、器は痛み続け、器はやがて消滅する。器だけは有限であるからだ。役を出し入れするゾンビとして彷徨い歩きながら、何を夢見ればいいのだろうか? 器の決壊の遅延か? 〈わたし〉を磨き上げることか? 役を収める棚の増設か? この問いに対しての正解は存在せず、人それぞれであるという他にないが、ひとついえることは〈わたし〉と役のあいだに横たわる溝を埋めようとするのではなく、楽しもうとすること、その違いに喜ぶことの出来る筋道を開拓することが、決して無益な行いではないということだ。役を役として受け取れなくても困ることはない。〈わたし〉が〈わたし〉であり続ける必要はない。明日には生まれ変わっているだろう。昨日とは別人であるかもしれない。この文章を書き上げた役はもうすぐ死ぬ。〈わたし〉は恐らく、今しがた生まれた。

文字数:11996

課題提出者一覧