破壊

選評

  1. 【法月綸太郎:2点】
     およそのイメージはわかるが、作者の伝えたいことをどれだけこちらが読めているかが不安になった。怪物の設定にはぐっとくるものもあったが、それに対する「僕」の選択が説明だけで主観的に詰め切れていないように感じた。[災害]は必ずしも具体的に描写しなくても、その周辺(影)を描くことで言語化・視覚化できないものとして読者に想像させてもよかったのでは。

    【都丸尚史:1点】
     異形が日常に侵攻してくるというテーマは明瞭だが、中盤から突き放されてしまったような印象。ラストで読者に何を示したいのかが掴めなかった。わかりにくいことはかえって面白さや魅力につながる場合もあるが、この作品ではマイナスポイントのままだった。

    【大森望:2点】
     いかにわかりやすく書くかが前回からの課題だったが、今までで一番わかりにくくなってしまっている。潜在的なSF力は非常に高いが、このままだと、マニアックなSF読者以外には受け容れてもらえない。読者にきちんとわからせようとするあまり説明が煩雑になっているので、読者が「わかった気になる」ような簡潔なたとえを使うとか、説明力の向上が求められる。説明を短くして、[災害]がこの世界においてどういうふうに受け止められているのかなど、背景が自然に読者に伝わるような日常描写の肉付けがほしい。

    ※点数は講師ひとりあたり9点ないし10点(計28点)を4つの作品に割り振りました。

梗 概

破壊


この世界には[災害]と呼ばれる生物がいる。
災害は人を喰う。人間の一部又は全ての知性を包みそれを伴って爆発する。人魚のような影を残し、逆に影の方がより動くのだ。形状は2本足と2つ1組の球体であり首をふって歩く。悪魔信仰の対象にされる事はあるが、一般には自然現象と同列に捉えられ存在を受け入れられている。突如発生したその生物をみな不自然なほどすんなりと受け入れていた。しかしただ一人クレイドはこの生物を嫌い[怪物]と呼んだが怪物が生物であると意識すらしていない友人達は不思議な顔をするだけだった。

 


クレイドは数学を専攻する普通の大学院生だった。友人との雑談で話題に上がった量子もつれと
怪物との共通点に気づいたことから怪物が時空に物理的に存在する全ての現象の原理によって存在していることを知る。

 

人魚のような影こそが怪物の本体であった。怪物は情報構造として記述された形で存在している。怪物はこの時空間の表面の情報構造に、別の時空間に投影させる平面の情報構造を投影した結果の産物で、二重の投影によって二つの空間に依存しながら実体を持たないまま、私たちの時空間の表層部分の狭間に知性としてだけ生きている。つまり怪物は別種の知性からの人間知性への侵略であり(※)こちらが無抵抗なまま進行している戦いだ。情報伝達の境目から同一次元の時空間が生じその境目に戦いが発生している。勝つためには情報構造内での陣取り合戦が必要だ。ならばクレイドの知性を変容させる以外に対抗手段はない。

 

生じる現象すら書き換えられていく恐怖とともにクレイドは「知性変容のボール」を作り上げた。

 

クレイドの知性はこれからこの小さなボール状の球体の中で過ごす事になる。彼の知性はゴム膜と金属筒の間の空間で呼吸をする。息を潜め幾度もの改変を繰り返しながら変容する。彼の知性は別の平面にとって怪物と同じような存在になる。怪物は実体をもたないのに知性として生きている。次元の狭間にいるからだ。彼の知性は数μ秒の間、しかし気の遠くなる程の体感時間の間、どこかにいる何かが持っている法則あるいは存在を侵食し、知性を逸脱しより高次の存在になる。彼の体の持つ物体としての情報は一旦消え去りそのコピーが怪物の情報が記述されていた平面とこの世界との情報伝達の境目の表面の変動に完全に含まれるのだ。

 


その日の朝クレイドは延々と考えていた。自分の知性を崩壊させ
怪物になるのかそれとも人間の知性を崩壊させていくかの二択問題についてである。答えは既に決まっていたが猶予時間を必要としていた。

クレイドはこの話を恋人と友人にした。彼らは理論の根拠等については理解してくれたが日常が実際に崩壊してきていることについては無視を決め込んだ。   

窓の外では怪物が人を捕食している。日常の風景。正常でない状態を日常の中に受け入れてしまった時起こる事象。非日常や圧力を正常な構造内に押し込んだ時に起こる現象。

     

彼は彼の知性を崩壊させ怪物になることを選んだ。

文字数:1243

内容に関するアピール

1 この話はどんな話か  [災害]という生物が存在する世界で、災害のロジックを解いてしまったクレイドは、自分の知性を崩壊させるか人類の知性がじわじわ崩壊するのを待つかの二者択一問題に迫られる。ストーリー:朝、自分の知性を崩壊させなければならないと義務的に考えている。昼、途中で皆が災害を見ないで生活している構造と、彼の知性への鬱屈の構造が同じである事に気付く。夜、構造から抜け出るために自分の知性を崩壊させ[怪物]になることを選んだ。二者択一を決断して実行するまでの1日をかきました。

2テーマは何か  テーマは「歪んだ構造からの脱出」です。

つまり、正常でない形で埋められることに対する麻痺と、麻痺によって完成した密室状態から抜け出るということです。

3どうしてこの話を書いたのか

上記のテーマを突き詰めて考え理を通してみると、構造の中にいる限り、構造から脱出することは原理的に不可能だという結論に至ります。それゆえ、歪んだ構造から脱出するためには自死(構造における死)に相当する行動をするよりほかない。そういう極限状況に置かれた人間を書こうと思い、この話を考えました。

この物語では、多くの人間が喰われ被害がでているのに人々は[災害]とよび自然災害と同一視したり、神格化することで「無生物化」していたのはなぜか。それは人々は[災害]を無生物化する事で日常の構造を維持しようとしていたからです。

クレイドは[災害]により知性を奪われた鬱屈から数学を専攻していた。そんな二重の重圧によって一つの構造内に閉じ込められた人間を書きました。正常を装った構造の中にいる者は、その先の運命が泥舟的で壊滅的でも麻痺してしまって抜け出せない。構造との共依存関係が発生してしまっている。そこから抜け出るには死ぬようなことしかない。クレイドは悩んだ末、自分の知性を崩壊させ[怪物]になることを選び構造から脱出した。

 

4アピールポイント

「あらゆる種類の力によって、力を受ける側の当事者の内に存在する圧迫された密室」を問題意識を出さずにハードSFで書こうと思いました。

 

[災害](災害も知性である)の設定と知性の情報構造がどうなっているのか?またクレイドの「知性変容」を現実にある理論を足場にしてSF的に構築(妄想?)します。

 

5補足 注釈

※怪物が、人間を食べるから人間の知性を侵略しているということではない。今人間がいる場所というのは時空間をダイアグラムで示すと平たくなる地点あるわけだけど、そこが重力をもたない2次元であり、そこに情報構造が全て記述されているという説がある。その二次元上での範囲を怪物が拡大し、臨界点を超えると情報構造自体が崩れる。人間の知性というものは崩壊するのではないか、人間自体も崩壊するのではないか、という意味である。

[災害]が面白いのは、生物で生きて動いて人を食べているのに、みんなは無生物的に扱っている。災害とよんだり自然災害と同等に熱かったり神格化したりして、無生物的にあつかっている点です。それはなぜかというと、みんなが災害という生物により壊されている日常を認めたくないから。意味漬けをおこなって日常に落とし込むために無生物としてみている。

文字数:1321

破壊

 

僕は左側車線でごく普通に信号待ちをしていた。ここの赤信号はいつもありえない程遅いけれど今日はいつもにまして混んでいた。二車線道路なのがせめてもの救いだ。

 

しかし僕はそれくらいのことでイライラすることはなかった。

ここ一週間の僕は相当機嫌が良いのだ。

 

男は地上から3メートルの高さ、歩行者専用道路の真上、往来の真ん中で宙吊りになっていた。

男の真後ろには、連結している直径2メートルの二つの球体がありその割れ目から歯が伸びている。両方の球体の真下からは足が生えている。体長5メートルの生物、[災害]が鎮座している。

辺り一面[災害]の影に覆われ真っ暗になっている。

[災害]に捉えられ叫ぶその男は身長は160センチ前後30代前半ぐらいの中肉中背の至って普通で特徴もない人間だった。

唯一変わったところといえば片腕がちぎれていることだ。

男の体の少し上に視線をむけると四方をでたらめに向いた歯が男性の鞄を咀嚼している。

鞄の紐が首に引っかかって窒息死しかけているようだ。男は紐を爪で引っ掻き、道を通る学生や同僚に向かって掠れた声で叫んでいた。

僕は夜型、低血圧だから午前中の講義は大抵寝坊して不機嫌な顔で時間ギリギリに顔を出す。

しかし今日の僕はちがう。引き締まった嬉しそうな顔で運転しているに違いない。

自分でもわかるほどハイになっていた。

普段との落差から精神科医なら躁鬱病を疑うレベルだ。

幸せがこみ上げてきて片足でステップを踏む。今日も平凡で最高な日常だ。

朝、[災害]を見るたびに感じる違和感や不快感がかき消えていた。

いつもの言語化できない、対象のわからない、首を締め上げられるような不快感。

巨大な影と一緒に周り全てを覆ってしまう様な気持ち悪さ。

僕としてはそれがないだけでもありがたい。とにかく素晴らしい気分だ。たとえそれが一次の麻痺だとしても構わないのだ。

大学の友達には隠している感情だからいつもなら相談相手もいないまま違和感に対峙するはめになるところだ。

だけど僕は自分のことを病気だとは思わない。ハイになっている原因は明確に二つあった。僕が門をくぐるたび疲れが伝染したような顔をする守衛は僕が上機嫌なのを見て肝をぬかすだろう。隣では恋人のリサが静かな寝息を立てていた。

素晴らしい平凡な日常だ。

薬に侵されているような高揚感に浮かれた気分になる。

 

僕は「普通」だった。今のところ、日常の中で違和感を感じずに生きている。

肩の力が抜けた気分。それがなぜこんなに湧き上がる様に嬉しいのだろう?何かを忘れている気がして少し引っかかった。

ちょうどその時後ろでクラクションが鳴った。

窓越しに聞こえるほどの音量だった。

道路側の信号はとっくに青に変わっている。

 

通行人は平然と歩いている。まるで何も見えていないかのように。

男は過呼吸を起こして死にかけていた。

[災害]は右足を不自然に前に出し、前のめりで揺蕩うように動きながらそのままこちらへと向かってきた。

自転車を走らせ横を通過する院生がすれ違いざま迷惑そうにこちらを見て去っていった。僕より一つ下の顔見知りだ。彼は[災害]にも男にも全く目を向けなかった。

歩道で高校生くらいの男の子が煩そうにイヤホンで耳を塞ぐ。

僕と同じ数学科の院生も歩いていた。

流行のメイクをした女の子達は半袖にリュックお揃いの帽子で楽しげに雑談をしている。

蒸すような暑さを吹き飛ばす爽やかな光景だ。

人が道の真ん中で喰われている事をのぞけば至って普通の光景だった。

 

男の声が止んだ。

首に絡みついていた紐がいきなり緩んだのだ。

落下しながら男は何が起こったか理解できない表情をしていた。そして次の瞬間、[災害]はのたりと頭を垂らし、男の頭を二つの歯と口を使って咥え込んだ。

後頭部を歯で破られようとしている男から鼓膜を突き破りそうに甲高い悲鳴が上がった。

[災害]に比べて小さすぎる男の頭は圧力で彼の鞄のようにひしゃげる。しかしそのことより男の甲高い悲鳴がうるさかった。

奇妙な情景だった。男の鞄が道路に落ちている。

前方の赤い車の上に男の足がぼとりと落ちる。男の片足と手は同位置に折り畳まれた。

やっと車が進み始めた。

僕の心臓が高鳴る。

助手席にはリサがいる。ショートボブの黒髪が揺れる。折れてしまいそうに華奢で白い身体とのコントラストが美しい。

僕の気分はよかった。

でもいつもの癖で[災害]を観察する癖がついていたから車を進められない。でも違和感すらみつけられず、なぜ車を進められないのかわからなかった。

ただいつもの不快感がないことは大いなる救いだ。

僕はいつも言語化のできない違和感を[災害]に感じていた。

気持ち悪い。

僕はそう感じてわざわざ[怪物]という名称をつけるほど[災害]を毛嫌いしていた。

目を閉じてしばらく考えていると助手席のリサが眠そうに僕の腕を引っ張った。

眠そうな目で僕を認識すると楽しそうに笑う。

今の現状で「普通ではない事」を挙げれば早朝にもかかわらず僕の気分がよく、隣に僕の恋人がいることだ。

今までの人生で一度もない異常現象だった。

ハイになっていた理由の一つはそれだ。

僕の所属する数学科の授業のない日に大学に向かっているのはリサの几帳面な性格に合わせてだった。

今、リサの物理の研究は大詰めに向かっているらしい。土日も休みなくフルで参加していることもあった。

「そろそろ起きる?」僕がリサに聞くと彼女は目をしばたかせた。

「あ、ごめん。あと少しねかせて」そう答えて彼女は助手席にもたれた。

ショートカットの髪が揺れる。もう眠っているのだろうか。「うん。幸せだ」僕は高揚感に包まれつつ呟いた。

宗教とか軽い脱法ドラッグをする時のあの高揚感にそれはとてもにていた。心が芯から温まるような気がした。

リサは道の途中で完全に目を覚ました。

論文の続きを車の中で広げ、今までの文章を推敲し始めた。

今日も大学がしまる夜10時まで研究を進めるらしい。

違和感は今は完全に払拭されていた。

駐車場に着くとリサに先に出てもらって誘導されてやっと車を止める。

車のちょうど向かいには[災害]が二本の足で立っていた。誰にも違和感をもたれずに。

リサが戻ってきて車の扉を開けようとした。

車のドアポケットに忘れ物の眼鏡が会った。

僕が先にドアを開け眼鏡を渡すとリサは「ありがとう」と言って笑った。

とても”日常の”動作だった。

僕が車から出ようとしたその瞬間、隣を歩いていたリサは喰われていなくなった。

[災害]はリサをひょいとつまみ上げた。

僕の前に立っていた彼女は腕をくわえられて悲鳴をあげた。

腕を間で引っ張りあげた後、[災害]はザリザリと小気味の良い音を立てながらリサを捕食していく。

それは、リサが僕にありがとうと言って笑うのと同じ様に、とても”日常の”動作だった。

 

[災害]で車庫がふさがって出られないので待機する。

後続のファミリー車が、邪魔だという風にクラクションを鳴らし続けている。

五分ほど経過したころ、頭が上手く噛み切れないことに苛立ったように[災害]は何の前触れもなくリサの頭を首元からねじ切った。

そしてさも当然のように口に含んだ。

 

リサの体は大きく振りきれて駐車場にボトンと落ちた。ちょうど車からおりた親に手を引かれた子供が汚い物を見る目つきでそれをよけた。

 

小さい男の子がそれをさわろうとするのを親が制止し、代わりに風船をもたせていた。風船を取られた一番背の高い年長さんくらいの女の子が泣いていた。

リサの血はべちゃべちゃ地面に音をたてた。

 

リサの体が落ちると同時に、運転席から見て左横の窓にも血が大量に落ちる。

[災害]が噛みちぎるために彼女の身体ごと廻したせいか、泡立ち、糸を引いていて、僕は驚き思わず仰け反った。

気持ち悪い。

窓ガラスは一面赤く染まり、外を見ることすら困難だ。 

滑って開けない窓の代わりにドアを開けて車外に出る。[災害]はちょうどその時彼女の頭を伴って爆発した。

僕はひゅっと肩をすくめる。

瓦礫が僕の車のすれすれを飛んだ。

歩道に投げられたリサの体が吹き飛ぶ一瞬に見たのだが彼女の体からは両手と左足が千切れていた。

[災害]は上手くリサの頭だけを食べられなかったのだろうか。

意外に不器用なのかもしれない。

 

僕は車内に戻った。道幅一車線を塞いでいた直径4メートル近くの球体がなくなって進みが一気に良くなったようで僕以外の車は全てなくなっていた。

[災害]の影は自由に動き、無遠慮に車の中にさえ映った。[災害]はすでに巨大な光を伴って爆発して消し飛んだ。

僕は何事もなかったかのようにリサの胴体を踏みつけて、平然と歩いて行った。

僕はこの時何がおかしいのかもわからなくなかった。

大学の門を通る。

 

あれだけ大きな爆発が起こったのに皆何もなかったように通り過ぎていった。一瞬の爆発に驚いたのに何もなかったかのようにすぐまた元の流れに戻っていく。歩いている人たちもいつも通りだ。

時計はちょうど9時を指していた。日常は続いていた。

 

僕は図書館で時間を潰した。IDカードはコード部分が血で黒く染まっていて再発行の必要があった。不審者を見るような視線で受付の事務員がじろりとこちらを見ていた。

家に帰ったら汚れた車を洗わなきゃ。そんなことを考えながら現代数学のコーナーに入る。僕は鼻歌を歌いながら『微分位相幾何学演習』とミルナーの『モース理論』を借りた。

もう一冊はナンセンス・コメディー。以前、リサが僕に読んでみてよと言っていたことをおもいだしたからだった。

 

僕はまだかすかな違和感を抱いていた。日常に対する違和感。リサに対する違和感。今朝、リサに起こった出来事は、小さい頃から見なれてきた日常の風景だ。なのにかすかな違和感が拭えなくて、僕は首を傾げた。ここ一週間は全くそんなこともなく、日常は幸せだったのに。代わりに虚無感が日常に化けて僕の周りを覆っている気がした。

 

平凡な日常に対する高揚感はまだ周りに纏わり付いていたが、それを無条件に信頼することがどうしてもできなくなっていた。

リサが日常から引き剥がされたまま日常の周りに漂っているような気がした。不快感より奇妙で現実場慣れした感覚が勝った。リサはどこにいるのだろう。

 

親子であろうと「それ」は普通のことだった。「それ」というのが何であるのか僕には言葉であらわす事ができなかった。[災害]と交差してた瞬間、言葉が意味を失う。[災害]と交差した事象は、”普通”のこととなる。日常的に溢れていて、ありきたりで、誰からも看過されているのだった。

わけのわからない違和感と怒り。奇妙な感覚。

空いているキャレルを見つけて座る。

僕は違和感を抱かないことに対して恐怖を感じていた。

リサについてもう少し忘れていることがあるような気がした。

でもそういった世界に対するありきたりな悩みと違和感は、これまでも、いつも、ずっと僕の心の中にあっただろう。それは誰にでもある悩みでおそらくはそれ以上でもそれ以下でもないのだろう、僕はそう考えた。

 

***

 

2

貸し出し手続きをしていると、後ろから肩を軽く叩かれた。

「やあクレイド、久しぶり・・・元気だった?」

振り向くと、そこに立っていたのは高校時代からの友達で大学時代に寮のルームメイトだった先輩のフレッグと、彼の恋人のユーディリアだった。

「お久しぶりです。ぼくはまあまあやってます。先輩こそお元気ですか」

フレッグは科学人類学の院生でリサと同学年だから僕の先輩にあたる。僕の一番の友人だけど院に進んでからは忙しさもあり疎遠になっていた。久しぶりに話す機会を得て僕は嬉しかった。

近況を互いに報告し合った後、たわいない雑談から昔の話になった。

学生寮で無茶をした話。

図書館の中庭でなつかしい思い出話に花を咲かせたあと、まだ話し足りない僕らは、中庭の反対側にあるカフェに移動した。

最近見かけない某教授の頭がますます禿げてきたらしいという話題で爆笑したあと話題はリサのことに移った。

 

 

「リサは、元気?」

フレッグにそう聞かれて僕はなぜか口ごもった。フレッグに今朝の話をしたい。僕は[災害]のことを話そうと思った。

「一番意外なのはきみたちが付き合うようになったってことだな」フレッグはいった。

僕が顔をしかめると、フレッグはなだめるように片手をあげこう言った。

「いや、つまりね、寮生時代のきみには、コンプレックスというか、強迫観念じみたものがあっただろう。何かの齟齬みたいな感じのさ」

「覚えがないです」

僕は言う。

ユーディリアが目を丸くして興味深そうに聞いていた。

フレッグは首をふった。

「ほかのだれにきいてもきっと同じことを言うはずさ」

僕は口を閉ざした。確かにそうだと思う。ぼくが当時鬱屈していたのは事実だ。それには理由があるのだ。でも今話したいのはそのことではない。

 

「そういえば今朝の、リサの事を話したいんだけど」

僕は意を決して言った。

フレッグだって、今朝、リサの胴体が落ちた道を歩いたはずなのだ。

あの道は表門に続く道。清掃さえされていなければ、大勢の人が見ているだろうと思った。

 

僕は簡潔にリサの話をした。

それから、かすかな違和感の話をした。

 

今の段階では単なる違和感にすぎない。まだ上手く言語化できないけど話すべき事象だと思った。

リサが喰われたことはとても当たり前の事象に思えるけれど、それを実験的にでも「死」に位置付けることは必要なことではないだろうか。

「死」と位置づける事で、何かおもしろい事がおこるのではないかと感じたのだ。

 

その事についてフレッグと議論を交わす・・・頭脳明晰なフレッグは彼の専門である科学人類学の観点から分析解明し興味深い示唆を与えてくれるだろう・・・またフレッグは昔のようにヒートアップした僕を諌めてくれるだろう・・・僕が彼に期待したことはそれだけだった。

「そういう話は食事の後にしないか」

実際の反応は、予期したものとはまるで異なっていた。

フレッグは僕から目を反らし、苦笑しながらそう言った。ユーディリアは嫌悪感をあらわにした。

 

彼らはぼくが[災害]の名前を出した瞬間、引いた。そして僕に対して初めの雑談とは全く違った冷淡な表情を見せた。

そもそもリサは元気かと聞いてきたのはフレッグのほうだ。

なのにフレッグは自分がリサについて聞いたことさえもう忘れてしまったかようだった。       

「彼女は死んだんだ」

そう僕が言うと二人ははっきりと目の色を変えた。二人の目は据わっていた。           

フレッグ達は据わった目でこちらを見、僕をまるでカルト宗教に嵌まってしまった人であるかのように扱った。まるで洗脳の世界から抜け出させようとするかのように「誰に騙されたのか」などと的外れなセリフで僕を責めた。彼らは必死だった。そして彼らは[災害]という言葉を決してつかわなかった。    

 

嫌な考えが頭をよぎる。

歪んだ共同体で、普通である状態を存続させ続けるとその構造を守るために必死で相手を攻撃し共同体を歪ませた存在を容認する。理由も道理もない状態で容認されるそれは畏怖や尊敬などの感情をむけられることがある。今でいうならば共同体を歪ませたそれらは逆に無機物的かつ、自然災害のようなものとしての感情をむけられず、日常内の存在として強調され、共同体はそれの異常性を指摘、避難する者を攻撃する。共通する点は、全ての異常性を包括してしまい、意味を無化してしまう事だ。偶然か、それとも必然か。今も昔もそれらには共通した名称が与えられてきた、そう、まさに・・・

 

フレッグが言った。「まさに神のような?」

 

言葉が重なった。彼と思考がシンクロした気がして震えがきた。嫌な考えが肯定されたような気がしてパニックになりそうだったのだ。リサの事が、無意味な偶然的な日常の出来事に包み込まれる。

 

違う、違う、違う。

「・・・違う。リサは殺されたんだ」               

僕は大きな声をあげた。声が擦れてうわずった。

振り上げた手にあたってコップがテーブルから落ち、床で割れて散らばった。周りの客が迷惑そうな顔でこちらを見ていた。ウエイトレスがマニュアルに従って片付けに来た。

フレッグ達の氷のような眼差しが痛い。

頭を冷やしてくる、そう言ってぼくはカフェを飛び出した。

ベンチにすわると虚脱状態になり動けなくなった。

どれくらい時間が経っただろう。自販機でカフェラテを買い直す。

 

ようやく言語化ができた。つまり、そう、殺されたのだ。

僕は彼女に何が起こったのかやっと理解した。

リサはスプラッタのようにして[災害]に殺されたのだ。

しかし分かったと言っても感覚的に理解することはできず推論の域を出なかった。

 

***

僕は[災害]を[怪物]と呼んでいる。

[災害]は、悪魔信仰的なニューエイジ論者から信仰対象にされる事はあるが、一般的には自然現象と同列に捉えられていた。皆が存在を受け入れていて[災害]について詮索することはなかった。

抑圧されて人々の会話には出てこない。抑圧はされているけれど、排除されるわけではなかった。[災害]は、ありきたりの日常に包摂された存在で、日常の領域からはみ出る事を防ぐために抑圧されていた。ときおり意味づけをすることによって神のように見られることもしばしばあった。それは揶揄だった。

 

人々は[災害]を意味のないものだと考えていて、意味づけできないからこそ、意味づけするふりをして揶揄したり、比喩につかったりした。

 

人々は、[災害]を、具体的で身近な話ではなく、何か抽象的な話題の様に扱った。[災害]はまぎれもなく生物である。しかし、そういう話をしている横でまさに人を喰っている「それ」こそが[災害]なのだと認識することは不可能だった。

 

僕はリサは火災や台風や事故、殺人と同一の理由で何の変哲もなく僕の前で死んだのだと完璧に信じられるようになった。

突然の出来事だった。先輩達が拒絶するのを見てから、意味付けなどできない普通の出来事ー皿の中からピーマンだけを分けたり、ふと虫の知らせを感じるような事ーなどではなく、確かにリサが死んだと信じられた。しかし涙はでなかった。感覚的にリサが死んだ事を了解することはできない。[災害]が接触した時点で、意味が無化されるのだった。

 

***

・回想

 

僕は、「スリット型ホログラム」と名付けた装置の図解を呼びだしながら、リサと過ごしたこの1週間のことを思い出していた。

 

リサがソファの後ろから僕の顔を覗き込んでいる。

「ねえ、君の今研究している箇所ではないと思うんだけど教えてくれる?」

とぼくはリサにきいた。

「プランク面積辺りのビット数はどうやって定義できるのかな」

「それはね」とリサは微笑んで髪をかきあげ、首をかしげながら 書棚から本を出してきて貸してくれた。

「どうしてそんなことに興味をもってるの?」

[怪物]って物理を無視して歩いているよね。もしかしたらこの時空外の原理で動いているのかと思ったんだけどまさかね」

「量子もつれみたいな?」

「量子もつれって何?」

彼女の講義は極めて基礎的な部分から始まった。

リサが透き通る声で、ときどき楽しそうにころころ笑いながら話した。

「本当の三次元情報を保存する電子システムは、二次元のピクセルで表面を満たすのではないの。有る大きさの空間が存在していて、そこが小さな三次元のセルで満たされていると仮定する。その配列は三次元の情報コードなので、コード化された情報が、世界の立体的な塊を表すという事は簡単にわかるよね。」

「うん」

「ここからある原理が推測できるの。二次元の情報は、ピクセルの二次元の配列に保存する事ができる。しかし三次元の情報は三次元の配列にしか保存できない。それには次元の不変性という名称が付いているのよ」

「次元の不変性ね」

「そう。この原理を正しいとすると、ホログラフィーが非常に特殊である事がわかる。なぜなら、ホログラフィーは、ピクセルの二次元の配列で、三次元の詳細な光景を保存することができるのだから」    

 

リサの説明はとても明快だった。僕は数学専攻であり、物理に疎かったこともあり、わかりやすい説明がありがたかった。

リサは続けた。

「この時使われるパターンは、描く物体の光波から生じた干渉縞よ。それらはランダムで非体系的な雑音のような情報にしか見えないの」

 

リサは、スリットで生じた干渉縞と、ホログラムに使われる意味不明な縞、その縞をコード化したものを見せてくれた。

「ホログラムというのは、決まったやり方で投影しないと情報を復元できないんだ」

リサはショートパンツからはみだした長い脚を組み替えた。

「ホログラムの縞、それ自体は意味のない非体系的かつランダムにばらされた二次元面の物体派にしかすぎないからね。情報という側面で考えると、ホログラフィーのフィルムは完全に三次元世界を二次元の表面に表している。この事から、普段経験している三次元の世界が十分遠く離れた二次元の面にコード化されたものから生じる画像であるという仮説も立ってるんだ。証明されてないけれど、ほぼ確実だと言われているの」

リサは髪をかきあげた。

「ホログラフィー原理っていうのよ。空間の領域の内部にある一切のものは、領域の境界面の情報だけで表せるという原理よ。情報は全て空間の境界面に保存されている・・・・。どうだった、クレイド?私の説明はわかりやすかったでしょ」

リサは大きな瞳を見開いて茶目っ気たっぷりに言った。

 

“ホログラムが、ある大きさの空間の情報を、非体系的でランダムな形に二次元面の波で描く事ができ、そこから情報を取り出して再構成することができるのだとしたら、いまこの空間も、二次元面の波から取り出された情報を再構成したものではないとは言えないのかもしれない”

 

僕はひとまずそういう解釈をした。明日になったら式を展開しようと思う。

 

「ありがとう、リサ」

「代わりに」とリサは僕に「違和感」の話をせがんだ。

交換条件はないだろうと思ったが、リサが本気でワクワクしているようだった。

僕が[怪物]に持っていた嫌悪感やコンプレックス、友達の話をリサにした。

喋ろうとすれば言語化はできたが身を削るようで、凄くプライベートで、自分の内面によりすぎている独りよがりな言葉のような気がした。でもぼくが喋っている間じゅうリサは楽しそうに聞いていてときどき真剣な顔で質問をしたり、不思議そうな顔をしていた。

「[怪物]にふれた瞬間に全ての意味が無化されて行く気がするんだ」

「こんな話聞いて楽しいの?」と僕が聞くとリサは、

「それはこの世界自体の話だよ!」と目をキラキラと輝かせながら答えた。

それから頬杖をつき、そして何かを考えていた。

彼女はそのあと何か文献をあさりはじめ夜通し読みふけっていた。

 

***

僕はリサにホログラムの話を聞いてから、[怪物]がいる領域内でのノイズを調べることにした。

 

ホログラムは視覚的に三次元を作り出す物だが、フィルムの情報構造は実際の三次元にそのまま適用される。この原理がホログラフィー原理だ。この宇宙全体が境界面から投影されたホログラムであり、または両方が相互に影響するような性質を持っているとすると、それらの境界の中に入っている物は、少なくともホログラムの微妙なノイズをうけているはずだ。

その証拠にノイズは今現在どこでも検出される。   

しかし、[怪物]だけは別だった。

[怪物]は、これらの法則からはずれていた。

 

ホログラムから生じるはずの、きわめて小さなノイズはホロメーターで測定できる。一昔前と違って今は簡単にアプリケーションで調べることができる。

ホロメーターは、レーザーの干渉計1対を、互いに近くに設置したものだ。

それぞれビームスプリッターから1キロワットの光のビームを、垂直に交差する40メートルのアームを伝って発射する。

光はビームスプリッターに反射され、2つのビームが再度結合する。

もし、動きが何もなければ、再結合したビームは元のビームと同じになるはずである。

だが明るさに変動が観察されれば、その変動は分析され、スプリッターが空間の微振動に従って動いたのかどうかが確認される。

しかし、怪物が出没している範囲ではノイズが極端に小さくなるのだ。

ホロメーターは振動の100垓分の1メーターの動きを検出できるよう設計されていて、それでもわずかにしかノイズが検出できなくなるのだ。

それらはランダムな情報の開示によって起こる現象でもある。

だとしたら、[怪物]はホログラム<外>の存在かもしれない。

***

「リサ、量子もつれについて説明してくれないか」

「量子もつれはね、異なる場所にある粒子のスピンなどの量子状態が独立に記述できないという現象よ。量子もつれという現象こそが、重力現象の基礎となる時空を形成するといわれているわ」

「ホログラフィー原理ではミクロな世界での重力を、重力を含まない量子力学の問題として説明することができるの。 重力現象・・・さらにはその基礎となる時空自身さえも、重力を含まない理論から量子効果 によって生まれるとされる。特に、エネルギー密度のような時空の中の局所データは量子もつれを用いて計算できるの」

リサはさらさらとその式を書いて見せた。

img_20160908_110733_233

 

その計算式は随分前から公開されていて物理に関して今まで無知であったことを初めて疎ましく思った。

僕は何もしらないまま的外れな質問ばかりいていたからだ。

そんな僕を面白いと笑いながらリサは「都市構築」「カフカの内の判定者」などの本を机に高く積み上げて読みふけっていた。リサは体の線が細く、綺麗な黒い髪をしているので、しなやかな細い指でページをめくる仕草がとても似合っていた。

僕はリサの話を復習した。

「ホログラフィー原理。一般相対性理論では、ある時空に含まれる情報は、その内部ではなく表面に蓄えられるとする原理。この原理を用いると、重力の量子化という難問を、空間の表面に住んでいる、重力を含まない別の理論としてより簡単に定式化することができる」

「その通りよ」

「しかし[怪物]自体は一切の影響を受けない。重力にもこちらの何の時空を基盤とする力にも影響を受けず物理法則を無視して存在して[怪物]自体が時空間の境界として存在している・・・。ここで話を変える。フィルムのような情報構造が宇宙空間に存在し、それはどこかの点で境界を持っている。だったよね」

僕が確認するとリサはボールペンを持ったままうなずいた。長い足を組み替える。

 

僕は長い間考えていたことを喋った。

「一方のフィルムに隣接する空間の境界面のそれぞれの間に発生した空間の中身があるとする。左右、上下の空間の境界に囲まれた隙間の空間だ。その空間の境界はどこになるのだろう?」

「どういうこと?」

「もう一方の空間の境界と同一のそれは、情報が蓄積されるのは全く同じ境界面であり、二つは互いに同位置の境界に投影される。つまり、こちらの宇宙空間に反転した一部の情報が映し出されることになる。だから、空間内の情報、エントロピー・・・がどのようなものかは知らないが、それらはもう一方のこちらの空間を総括する境界の情報と重なり、こちらの境界から投影される情報の中に二方向からのフィードバックとそれに応じて変わる境界側の情報というように続いていく。[怪物]はこのときランダムに動くようになる。情報の開示の程度が上がる時と下がるときで、情報が活発になる層とならない層にわかれる。それは知性と呼べると思う?」

「外からの情報のフィードバックに応じて形が変化し、またそれに対応した挙動といった応酬のサイクルがある。ある側面では相互の入出力が成立してるのよね」

リサは思案顔で言った。

「意識がある、なんて野暮な事はいわないけど、それは知性か生物としての役割を担ってる、くらいには考えてもいいんじゃないかな」

「[怪物]はこの構造から生じうる?」

「そこまでは解らないわ。でも知性として存在している、とは言えるかな」

 

***

 

スリットの干渉縞とホログラムの情報コードが似ているのは、それぞれの光波の性質が近いからであると僕は仮定してみた。

すると怪物はこの時空間の表面の情報構造に、おそらくは別の時空間に投影させるはずの平面に書かれている情報構造を投影した結果の産物であるという結論に至る。

                 

情報構造自体への投影ではなく、知性自体がホログラムに投影されている。知性がホログラムの構造を侵食して存在しようとしている。二重の投影によって二つの空間に依存しながら実体を持たないまま、知性としてだけ生きている。いかなる次元の概念も存在しない状態で生きていた。

僕たちの時空が存在する空間の表層がある。おそらくその表層が存在する外は情報が物理法則のように存在し、情報が存在しない空間というのも発生しているはずだ。

おそらくその空間も、抽象の次の何かの概念には置き換えられるのだ。知性は、物理的にでも概念的にでもなく、一種の錯覚のようにして二方向からの表面に記述される情報によってだけこの世界に存在している。

それらは偶然ではなく、情報伝達の境目の表面に存在し、いわば知性を吸収することで別種の知性として生き残ってきたのだ。

 

***

 

フィルムが何処か遠くの境界面に存在するとしても、<物理的に存在している>という言葉には齟齬があり、<この時空間上で物理的に存在している>と書き加えるべきなのだ。

 

そこの構造から投影された[怪物]がこの時空で生物のように存在しているのはどうしてなのか?

[怪物]が生物として存在し、時空が[怪物]の知性の基盤であり、それをこちらの境界と共有しているのだから、同じことが人にあてはまらないとはいえない。

グロテスクな人魚の影のような影と災害の本体は位相幾何学的にいうと同一の形になる。つまり、人魚のような影こそが[怪物]の本体なのだ。

 

怪物は、情報構造として記述された形で存在している。怪物はこの時空間の表面の情報構造に、別の時空間に投影させる平面の情報構造を投影した結果の産物で、二重の投影によって二つの空間に依存しながら実体を持たないまま、私たちの時空間の表層部分の狭間に知性としてだけ生きている。

 

つまり怪物は別種の知性からの人間知性への侵略でありこちらが無抵抗なまま進行している戦いだ。

情報伝達の境目から同一次元の時空間が生じその境目に戦いが発生している。つまり、勝つためには情報構造内での陣取り合戦が必要だ。

ならばこの共同体を存続させるために、クレイドの知性を変容させる以外に対抗手段はない。

そしてもし、その平面上に知性が存在するとしたら、知性は物質に依存した形では存在していないはずだ。

僕は書いた。書いて書いて書いて書いて紙と数字が机から溢れた。まさに天啓だった。

最後の解けなかった式が解ける。最後の行が埋まる。証明は終了した。___________________

___________________________________________________

僕の知性はこれからこの小さなボール状の球体の中で過ごす事になる。僕の知性はゴム膜と金属筒の間の空間で呼吸をする。息を潜め幾度もの改変を繰り返しながら変容する。

思い出す。掠れた記憶。僕の知性は別の平面にとって<怪物>と同じような存在になる。<怪物>は実体をもたないのに知性として生きている。次元の狭間にいるからだ。

 

僕の知性は数μ秒の間、しかし気の遠くなる程の体感時間の間、どこかにいる何かが持っている法則あるいは存在を侵食し、知性を逸脱しより高次の存在になる。僕の体の持つ物体としての情報は一旦消え去り、そのコピーが怪物の情報が記述されていた平面とこの世界との情報伝達の境目の表面の変動に完全に含まれるのだ。

そして僕は、別の平面の怪物になるのだ。

 

午前2時。僕はなかなか寝付くことができず、ベッドに踞り、いささか倒錯的な妄想にふけっていた。僕は僕自身の運命について決断を下すことになるのだ。自分の知性を崩壊させ怪物になるのか、それとも世界において人間の知性を崩壊させていくかの二択問題についてである。本当の事を言えば答えは既に決まっていたが、決定するまでの猶予時間を必要としていた。僕はいつもより5時間は早く起き出した。僕は、僕が僕自身に下した決断についてよく吟味し、納得する時間を必要としていた。

 

目の前には僕の2年間の数学科大学院生活で一番の成果と言えるボールのような形状の物体が転がっている。中身は60センチ程の金属筒とゴム膜だった。

スリット型ホログラムの設計図から作ったものをつなげて、円環状にしたものだ。

温度の境界面でエントロピーがせめぎ合って暖かさが変わるように、僕たちの境界面の情報構造はそれぞれの世界が反映され、せめぎ合っていた。ノイズの強さの比率によって優劣のマッピングはできる。[怪物]のマッピングの結果は物理的にしか影響しないわけがない。[怪物]の知性の基盤の時空である向こう側の空間から反映される境界。その範囲が臨界点を超えるとこちらの知性は崩壊する。

 

[災害]が頭を喰うような生物になっているのは、隠された情報、知性基盤の反映として一応比率という形で返すために人を食べているということだろう。

しかしここまでの事がわかっても、ただ一つの例外を覗いて対抗策はないに等しい。なぜなら普通のやり方なら情報構造内のせめぎ合いを行う知性という基盤を持つ時空間になる、または境界面をもっと多角的に作ること。

そして、[怪物]は統合された生物で結果的に位相的な循環を繰り返してあげるのと、スリット型ホログラフを逆に使えば僕の知性を変容させられる事がわかってしまったのだ。

 

***

ベッドの横のスタンド台には3枚の写真があった。家族写真と恋人のリサの写真、それから友人のフレッグとユーディリアの隣に僕が写っている写真だ。

僕は家族写真を枠ごと叩きつけて壊した。ガラスの破片で足が切れた。

その次に友達の写真を破った。そして僕は決裂する覚悟をした。その後フレッグとユーディリアに電話をかけ、呼び出した。

僕は彼らの人達の日常を壊すことを恐れていた。またこれから僕の身に起こることも恐

れていた。 共同体を皆が必死で守るような状態になっている彼らが怖かった。

***

今日は普通に家を出た。

おそらくこれで最後になるであろう老教授の授業はいつも通り退屈だった。授業後、大学内のカフェで僕はフレッグとフレッグの恋人でもう一人の僕の友達ユーディリアと待ち合わせた。

三人がこういう形で集まるのは久しぶりだ。

「皆んなに話したいことがあるんだ」僕はそう口を開いた。

突拍子のない話だったと思う。でも説明した僕の理論の根拠等については二人とも信じてくれた。

 

ユーディリアは[怪物]に対する信仰は一切揺らがさずに僕の話を聞いた。

 

[怪物]はフレッグたちの中でまだ[災害]のままだった。

彼女は僕がどうなってしまうのかを心配していて、それは学生時代にフレッグ達に巻き込まれ悪ふざけを計画をしたときと同じ反応だった。

僕らの世界は完全に崩壊していた。決定的な危機が迫っているというのに二人はそれを認めようとしなかった。僕は何の気なしに喋るユーディリアと反対の方向を向いた。隣の席のテーブルは空席でと時々漏れる単語だけが耳に入ってきた。フレッグとユーデリィアはまだ喋り続けている。僕がどれくらい変わってしまうかについて彼女は不安がった。

 

僕は困惑した。彼女にとって彼女の世界が揺れることよりも僕が僕のままでいられるのかが、彼女の最大の関心ごとだっのだ。わざと気丈に振舞っているのではなく、何も見えていないようで、それはフレッグも同じだった。   

彼女はまるで日常の雑談をするようだった。僕が答えないことに彼女も戸惑っていた。フレッグが僕に変わって

「同一性とはほとんど信仰に近いものだ」とずれた返答をした。

僕らは一緒に昼食をとった。

既に壊れてしまったはずの日常がユーデリィアの雑談で再興されていく。気持ちが悪い。

[怪物]に喰われたリサが何を見てたのかが気になった。

ウエイトレスがスパゲッティを運んできた。彼女が伝票を受け取る。

スパゲッティの麺が細長くなってだんだんだんだん途切れることなく延々と続いていく。

いや違う。それは途切れているのにつながっているかの様に繕っている。

まるで”日常”のように 。

ストレスで視界がぐわんぐわんと揺れた。

「わかんないよ、僕、やんないかもしれないんだよ?」鎌をかけるようにふたりに行った。

「その話やめて」ユーディリアはいつかのように僕をにらんだ。

昔の話、違和感は叫びたくなる様なものだった。ぼくには今ユーデリィアが間違っていることがわかる。けれど、”正しいこと”が本当に”正しい”んだろうか。

ユーディリアは「気分が悪くなった」と叫びながら僕にコップの水をかけた。

二人が帰った後も僕は店に止まった。

 

僕は彼らが帰った後、もしもこのままじわじわと人類の知性が崩壊していったとして、それはそれでもいいんじゃないのか。他の選択肢があるのではないかと思った。

カフェの窓から[怪物]が見えた。

その空間には数分前までなにも存在していなかった。5メートル程の[怪物]は人を喰う。今も人を食べている。とうとうギザギザとした歯が男を完全に飲み込んだ。誰か二十代程の男性の人の頭を加え込んで凄まじい速さで4、5メートル程歩いた後、いよいよ男の靴の端が見えなくなり、爆発した。

 

「壊された日常」は永遠に続く。例え世界が滅んでも。「もとからそれは日常に擬態したものまのだから、日常が破壊され、粉々になっても気がつかない」ぼそっと僕はつぶやいた。

日常。今、現時点でそこにあるのはただの闇だった。

 

僕はリサとの会話を反芻していた。

「閉鎖的な状況が一つあるとして。そういう構造に組み込まれた時、その瞬間からその構造にアイデンティティを見出し始めたりと構造との共依存関係がスタートしてるんじゃないかしら」

リサがこういう物言いをするときは断言してるんじゃなくて仮定の場合。または仮定自体をぶった斬るキレキレの面白い問いを探している時。

でも僕は気の利いた返答が思いつかなくて結局ありきたりな質問を返した。

「コミュニティの最低規模は?」

「人によってまちまちかな。要はその人の日常を再構成する範囲であればいいんだから。逆に」リサが僕の顔を覗き込む。

「私としか一日を過ごしてない人なら、私しか居なくても日常は成立するの」

確かに、言えてるかも。僕は大学にいても単位のお願いをするときとか他も必要最低限しか喋らない。居なくても全く何も疑わない様な気がする。

「怖くない?怖くない?」明らかに楽しそうな顔でリサは僕を弄る。

僕は怖くなった。

「でも、日常が成立するのは全部分かってて、気づかないふりをしているんじゃないか」

「そうしないとどうしようもないないからだよ分からないからだろ。合理的虚偽だ。それにそういうふうにみえないんだ」

ユーディリアやフレッグと自分がかぶって見えたのだ。だから必死で壊された日常にいる人を庇った。

もうそこからは回想ではなく、僕の中のリサとの対話になっていた。

僕は、僕の中のリサに、そう話しかけた。僕の中のリサは答えた。

「あれ、嘘つき。あなたも気付けなかったでしょう、あなたもわからなかったくせに」

 

店の外では[怪物]が人を捕食している。日常の風景。正常でない状態を日常の中に受け入れてしまった時起こる事象。非日常や圧力を正常な構造内に押し込んだ時に起こる現象。

     

僕は僕の知性を崩壊させ[怪物]になることを選んだ。

どちらにしろ答えは元から決まっていたのだ。

________________________________________

(注)情報が表面積に比例することの説明

エントロピーは「領域」の大きさに比例して増える。ブラックホールの場合、投げ入れた本は事象の地平線を越えてブラックホールに到達するのですが、関係する領域は表面積だけではありません。ブラックホールのエントロピーはその内部で起きている事を表しているのだからやはりその中の体積に比例すると考えるのが普通。ところが計算によるとエントロピーは事象の地平線の大きさ、つまりブラックホールの表面積に比例していた。

「物理において自由度とは、一般に、変数のうち独立に選べるものの数、すなわち、全変数の数から、それら相互間に成り立つ関係式(束縛条件、拘束条件)の数を引いたものである。数学的に言えば、多様体の次元である。「自由度1」、「1自由度」などと表現する。

エントロピーは事象の地平線、つまりブラックホールの「表面積」に比例していた。投げ入れた物の情報は内部にあるはずなのに、ブラックホールではその表面だけが情報を担っているように見える。確かにこの場合ブラックホールの場合は開いた紐が自由度に相当する。だからエントロピーが表面積に比例しても不思議ではない気はする。しかしブラックホールとは三次元上の立体だから、体積に比例しないのはやはり奇妙としかいえない。「事象の地平線」常識的に言えば影が「幻想」で立体的な世界は「現実」でしょう。しかしホログラフィー原理の登場によって本質はどこかという問い自体の意味がなくなった。そこには相対性があるのでしたがって同じ現象を三次元空間の重力現象として捉えることもできればスクリーンに投影された二次元世界の現象として理解する事もできる

ブラックホールの状態の数が、表面積に比例するということが表す意味とは閉じた紐が事象の地平線を越えてブラックホールに入るとそれはこちらから見て両端が開いた状態の紐になる。私たちの想像する物理法則は常に更新されていくのだ。

 

文字数:16940

課題提出者一覧