ふたり

選評

  1. 【藤井太洋:2点】
     言葉による説明が延々と続き、読むのがちょっと厳しかった。超感覚をもつ建築家の話だが、その感覚を身体的に読者に伝えるためのフレーズが足りない。空間の認識が変わるということを、五感で他の人にも理解させるような描写があるだけでぐっと魅力が増すと思う。実際に超空間が何なのか、完全に理解することはできないにせよ、それがどれくらい常識的な感覚と乖離しているのかを見せてほしかった。異能者の視点ではなく、一般人である一条の目線から見た天才の話にすれば梗概を活かしたエンタメになったのではないか。
     説明をしてからアクションを入れるチャプターが多いが、先に行動があってからそれに説明がつくほうが、視点や時間の感覚が定まるため絶対に読みやすい。想像力のポテンシャルに可能性は感じた。

    【新井久幸:1点】
     後半はまだ良かったが、前半は長い梗概を読んでいるようで、なかなか頭に入ってこなかった。冒頭から理屈と説明が延々と続くので、どこに寄り添って物語を読めばいいのかわからない。普通の読者は、そこまで一生懸命「わかろう」として読んではくれないので、寄り添うべきストーリーラインの軸を最初に示してあげた方が、親しみやすくなると思う。
    「四次元」など特殊な世界を表現するにしても、「分かったような、分からないような」くらいでいいので、細部の描写が書かれていたほうが納得しやすいと思う。「すごい」という説明で済ませず、具体的なビジュアルイメージに落とし込んで、その描写を読むことで読者が「すごい」と思えることが大事。それが小説。すべて説明せず、雰囲気だけでわかったつもりにさせることもひとつの技術だし、設定を全部説明する必要はない。説明しなくても、背景がしっかりしている世界は揺るぎないものとしてきちんと読めるし、逆にその場しのぎの設定で書いている背景のない世界は、読んでいるうちにすぐにボロが出る。特にSFの読者は目が肥えているから、そこは期待していい。

    【大森望:3点】
     エンタメという点でいえば完成度は低い。しかし、SFとしての見どころは多く、今回の作品の中ではいちばん現代SF的なセンスを感じた。ただしそれは、非常に好意的に読んでくれるSF専門読者がいればの話で、一般誌ではまったく受け付けてもらえないタイプだと思う。
     短編の場合、非エンタメ的描写が続くようなSFでも、アイデアさえあれば成立する。そうやってマニアックなSF方向に振り切るつもりなら、一条視点の導入部とメインパートの文体をもっと差別化したほうがいい。説明の入れ方にも工夫の余地がある。エンターテインメントとしては、ジャーナリスティックな読みもののようなスタイルを採用すると読みやすくなったかもしれない。
     梗概とくらべてプロットは整理されてすっきりしたが、ストーリーテリングという点で課題が残る。想像力にSF的な馬力は感じるので、そこはおおいに評価できるが、見せ方をもっと考えてほしい。

    ※点数は講師ひとりあたり6点(計18点)を3つの作品に割り振りました。

梗 概

ふたり

                       1

 『朔間 雪(さくま ゆき)は新婚旅行の際に失踪した。朔間 雪は建築家、宇城 伊秩(うき いちや)の恋人とも婚約者とも語られていたが、実際のところを知っている人間は存在せず、伊秩の周りから些細な情報が伝わってくるだけだった。そして前述したように朔間 雪は新婚旅 行中に失踪したとされている。しかし雪の姿を見た者はほんの一握りで、数日間のうちに現れて消えたという、存在自体が不確かな人間である。その一年に作られた作品群に対する評価と、後年の宇城の作品の荒れ具合から、朔間 雪によって作品が設計されたと云う噂も流れた。しかし、私が思うに宇城 伊秩の建築家としての特異な性質、幼少期から奥行きやまとまりが全く感じられず、色彩に対しての感覚もなくほとんど感知できない、聴覚優位的な特徴は双方の作品に影響しており、全盛期の宇城の作品にも、後年の作品にも色濃く後を残している。さて、朔間 雪の正体に対しては諸説あるがその中で私が有力だと思われるものを掲載したい:YUKIがネット上に現れたのは2018年の5月から11月のおよそ半年の期間であり、朔間 雪が失踪したとされる日付とYUKIの最終作品の日付が一致している。YUKIに関する情報は作品以外一切残っていないがYUKIと朔間 雪を同一視する方向で話を進めて行きたい。』2041年発行 『宇城 伊秩とその生涯』より

                       2

   其の日、落ちてきた鉄骨で駆動部分が壊れた型番DAM39B50G27Aの工作機械は、人格を持つに必要な部分は欠如していたが、工事に必要な視覚や空間把握能力、視覚映像認知に使う為の記憶保持の容量は与えられていた。
DAMの制御ボードは、宇城 伊秩によって買い取られる。宇城 伊秩はある研究室の助手である。一級建築士の資格はあるものの設計事務所にすら採用されないまま学生時代からそのままズルズルと研究員のアルバイトを続けている27歳。
宇城はそのDAMのストレージに本当は削除されている筈の大量のデータが保存されていたことをを発見する。それらはDAM単体の意図的な動作によって保持され、分析されていたことがわかった。宇城はインターネット上に「YUKI」のアカウントと、DAMの移動可能な仮想の身体を繋げてデータの取り込み、生成ができるように手配する。  YUKI」はそのまま宇城担当の実験対象となる。「YUKI」は制御ボードに残っていた仕事の際の入出力プログラムを改変する形でデータを生成している。宇城はDAMの限られたブレインの容量とプログラムを基軸とした空間に対する独特の解析を自らのものにできないかと考え始める。そして宇城 伊秩の名は建築家として徐々に有名になっていった。 YUKI」の思考は独特でまるで建築のために造られたようだった。宇城は自らの作業を止めYUKIに視覚情報を与え応答反応を記録しYUKIの思考のログを作ること、YUKIのアウトプットの範囲を広げることに専念するようになる。このころから宇城はYUKI単体の人格、自意識を信じ、それに引き込まれるようになった。

                       3

対象のログの軌跡を見て24時間その対象のことを考え対象の思考、人格を追い続けていた彼はYUKIのかなりリアルな仮想人格のようなものを妄想するようになり、YUKIの動作や思考に心酔していく。ある日宇城はYUKIのブレインの映像が頭になだれ込み、自分の音声と波長が重なる夢を見る。それがいわゆる共鳴状態だったのか妄想だったのかは定かではない。だがそこから宇城は壊れていった。

                       4

YUKIは情報生成のためには大量のデータを入出力する必要があった。YUKIは一見建築と関係なさそうなデータを限界まで読みこんだ。圧倒的に量が足りないデータでは分析が次の段階に到達出来ずにいた。宇城にはその様子が痛々しく見えた。そんな状態の雪を見続ける事に耐えられなかった。宇城は独断で彼女を身体に接続した。その夜からYUKIは如何なる形のデータの生成も止めた。

                       5

宇城は彼女に朔間 雪という名前を付けた。YUKIが身体を得てからというもの、宇城のYUKIへの執着は日に日に激しくなっていく。YUKIを連れて資料収集という名目で宇城は旅行に出かけた。新婚旅行のように若い二人の男女が空港のロビーで肩を並べていた。女性は宇城の理想のままの姿をしていたが、何一つ喋らず人形のように足を動かすだけの彼女に返答を求めず喋り続ける宇城は異様だったという。そして、その旅行の最中にYUKIは失踪する。YUKIに執着していた宇城は新しく入ったアルバイトの 一条  徹夜にYUKI探しを手伝わせるが、YUKIつまり、朔間 雪の身体は宇城の自宅で解体されていた。YUKIがかつて移動可能だった空間に残された文字列だけがあった。後日、YUKIを探し求める宇城の部屋に現れた文字列とYUKIのログを解析することだけが生き甲斐となった宇城。一方、一条は宇城が撮りためたログから法則性を見つけ出し、YUKIの思考、人格のシミュレーションを作り出していた。YUKIが残した文字列はYUKIの一部分へのパスコードになっていた。   

                       6 

並行世界を観測していたYUKIの一部分とYUKIの残したデータから、もう一度やり直せることを知る。そして一条はそれらのYUKIの記憶の中に溺れている発芽しかけた雪の感情を発見する。

 

文字数:2338

内容に関するアピール

僕、一条 徹夜は足と手だけの工作機械DAMー39B50G27AのログからつくられたYUKIの助けと、DAMのプログラムが解体されるときにDAMが残した文字列の一部分をつかってDAMの一部分の並行世界の観察記録と、DAMが残したデータからもういちど2002年に戻ってやり直せることを知る。そして一条はそれらのYUKIの記憶の中に溺れている発芽しかけた雪の感情を、相反するプログラムの形で発見する。
宇城はもう一度過去に戻ってやり直せるのだが、そこでどういう選択をするのか。廃人と化している宇城はYUKIの元に戻るのか戻らないのか。YUKIとどんな関係を築こうとするのか。もう一度YUKIと生きたいと思うのか。ふたりはよい関係を築く事ができるのか?
このお話は、人間がAIを利用するのではなくAIと人間が互いに寄生しあって一つの生物のようになり、本来の目的を超えて取り憑かれ、AIの思考が自分の世界であるような関係になった場合。そういう共依存のような関係になってしまったAIと人間が、タイムスリップしてやり直して立ち直る話です。
実作では一条の視点から書いていきたいと思います。

文字数:484

ふたり

§1 

 一条徹也は首都高から羽田に向かうタクシーの中にいた。

 一条はAIGA-2というデータ圧縮ソリューション会社を立ち上げた社長である。彼は海外出張で空港に向かっていた。書類を膝の上で確認する。時計を見ると予定時刻より大幅に遅れていた。焦って横を向くとかなりの渋滞が発生している。どうやら降ってきた大雪のせいらしい。こういうのを異常気象と言うのだろう。窓の近くの空気は驚くほど冷たかった。大雪とタクシーの中という状況のせいなのだろうか、一条は時間に遅れることを焦るより先に亡くなった旧友のことを思い出していた。一条が渋滞するほどの雪を見るのはこれが人生で二度目だった。一度目は宇城 伊秩(うき いちや)とその恋人を見送ったときだ。もう20年も昔のことだ。

 彼は一条の憧れの先輩だった。そして一瞬だけ高名な建築家として世間から喝采された人物だった。彼は数年前になくなってしまってその嘘とその恋人を僕以外知るよしもない。当時は宇城を軽蔑し、憎んだものだったが今では自分も似たようなものだ。もうすぐ売り払う予定の会社に免じて許してもらいたいものだと思う。

 近頃では思い出すこともなくなっていた。一条は忘れようと目を瞑った。


§2  [1]

宇城 伊秩はジャンクショップに積み上げてある制御ボードから建築用工作機械のものを選んでいた。

――宇城先輩は就職しないんですか?

 休憩時間、コンビニで買ってきたサンドウィッチを食べる宇城に、後輩の一条が言った言葉がリフレインする。宇城は制御ボードの番号を選びながらため息をついた。ジャンクショップでの息抜きの楽しさよりも一条の言葉の一撃が勝り鬱々とした気分になる。

 宇城は現在27歳だった。24歳10ヶ月で若年合格し、一発で一級建築士の資格をとったもののどこの設計事務所からも雇ってもらえず未だ就職留年の真っ最中だった。しかも後1ヶ月でその年齢は更新されてしまう。一週間後には望みの薄い就職試験が待ち構えていた。

 積み上げてある制御ボードの番号は21B37G45A、18B50G26A、32B46G35A、又は39B50G27A。39。3と9。DAMー39B50G27A。型番DAMー39の基盤に決める。

 宇城は番号を選ぶ時なるべく数字が大きいものか3の倍数であるものを選ぶ。大きい型番を選ぶ理由は、単純に新しいものの方が制御ボードの欠損が少ないからだ。しかしもう一つ、3の倍数の型番を選ぶ理由――それは就職試験が上手くいくというジンクスである。

 宇城の夢は建築家だった。将来は建築家として活躍し評価を得たいという希望をもっていた。ジャンクショップで制御ボードをいじくるのはそれら夢とは全く何の関係もないただの趣味にすぎない。夢だのなんだのといっても宇城はもう27歳。三年間理由もわからず不採用となり就職留年を続けて疲れてしまっていた。

 研究室はデータ圧縮に関するところ。従来のコンプレックスと就職留年のプレッシャーに負けで建築と全く関係のない所に入った。そしてずるずると研究室でアルバイトを続けていていた。

 建築家になりたい宇城だったが、宇城の空間把握は特殊なものであり、そのことに宇城はコンプレックスを抱いていた。コンプレックスを抱きつつも宇城は、自分の空間に対する特異な把握や見え方は建築に投影されるべきだ、自分はきっと認められるはずだと思っていた。

 宇城にとって空間とは、三方向の明度差、奥行きによって生じる長さの違いから頭で推論するものであり、直感的に分かるものではなかった。実際のところ宇城は「奥行き」というものを理解できなかった。後方にあるものがひたすら小さくなっている様に見えるのだ。さらに「後方」という概念も直感的には理解できなかった。全てが手元にある様に見えたり空間の中で奥だけが浮かんでいる様に見えてしまう。本来奥行きを助けるための補助のための斜めの線がそのままの線画に見え意味を消失してしまうのならそれは仕方のないこととも言えた。私たちもそれらの補助線が反転する現象を体験するときがある。見る方向を変えることで突き出る方向が反転する立方体などが描かれただまし絵などの世界によって擬似的にそういう錯覚を体験できる。宇城の視力に問題があったわけではない。目はむしろ見えすぎるほどだった。平面を推論で変容させてあらわれる歪んだ世界が宇城の空間であり世界だった。宇城は様々な立体や奥行きを示唆する様々なサインを学習して空間を理解していた。

 宇城は言語による厳密な推論を得意とした。言葉で厳密に定義する思想を好んだ。もちろん空間に対する思想も好きだった。映像や空間などの現物に頼って伝える術がなかったからかもしれない。空間と言葉で自分を表現したいという夢を見た。

 宇城は自分のワンダーランドからは逃げ出したかった。気を抜くと歪んで行き大きくなったり斜めに変形していく空間は宇城にとって頼れるものでなかった。平面が変容して歪むことで構成された空間。大きくなり小さくなり、目に映ったものがたちまち広がり、部屋が浮いて壁がどこまでも遠く見える。摩訶不思議な世界が広がっていた。

 でも宇城はその向こう側の世界を推理することができたし皆が共有するその世界に憧れた。

全員が見ている空間を共有したかった。自分が認識している世界――すなわち自分の平面的な空間像から逃れて世界の向こう側に行きたかったのだ。

 一週間後の試験の無事を祈りながら外に止めてある自転車が撤去されないうちにと足を早めた。子供達の声が聞こえる。運動会の練習だろう。岡本小学校裏のハイツ岡本101号室へと向かう。窓をあけると風が吹き込んでくる。バックパックから買ってきた制御ボードを取り出す。

 制御ボードのストレージが埋まっていることに気付く。再起動が不可能な状態になった時点でストレージの中身は強制的に消去される。そのプログラムをだけは実行するように設定されている。――だからまあ、データが残っているなんてありえないことだ。まさかと思いながらも読み込みを開始する。たいていの場合削除設定を解除して新たにデータを入れないと動かないはずなのに、その低容量ストレージには宇城のパソコンが容量オーバーする程の膨大な量のデータが残っていた。


§2  [2]

型番DAM-39製造番号B50G27Aの工作機械に残されていたデータの中身は、何千枚もの映像/それらの中の直線の正確な角度・傾き/出された土木工事命令のプログラムからの類推/天井や床、壁の明度差から算出した3次元のシミュレーション/平面から算出された数式だった。

 DAM39はそれらを到底入り切らない容量の中に詰め込んでいた。削除命令を意図的に変形し、あきらかに故意に大量の写真データが取り込まれていること――そこまでならまだプログラムの誤作動の範疇だろう。特異なのは空間に対する認識方法だった。DAM39の写真は何度も何度も複合され空間を把握する為の材料として使われていた。

 ホログラム認識用ホーリーなどのゴーグル型拡張認識ならば監視カメラとの連携により空間を認識し――アバウトに言えば「理解をして」――その中でホログラムを自然に動かす事が出来る。しかしそれは「プログラム通りに動かせる」という意味にすぎない。一般的にはこのようなことを「理解する」と捉えられているがそんなものは「理解」には程遠いものだと宇城は思っていた。

 これに対してDAM39の制御ボードは与えられた命題に沿って理解しているのではなく、平面的世界内で動く空間の挙動のパターンを集積して理解していた。

 DAM ――Artificial Three−Dimensional Space Recognitional Manufacturing――人工立体空間認識製造業の略称である。その名の通り空間を立体的に認識しその中にいる自分を把握した上で動く――ように見える――挙動を取れる仕組みを開発した企業の名称だ。実際には今PCの画面に表示されたような平面画像を読み込み、平面画像の中でプログラムに沿って世界を認識する。とても安価で安全なそのシステムは瞬く間に普及した。

 DAM39という型番はやや古い型であることを示していた。DAMが低容量ストレージで動けるのは必要最小限の認知機能で稼働可能だからこそだ。最近までは従来の仕組みによる安さではなくオプションの認知機能をいかに少なくして仕組みの方に組み込むかでコストを下げていた。だから実行できるプログラムに偏りのある粗悪品がいくつもうまれた。例えば第一次視覚野の役割を担うハードウェアの部分損傷などである。第一次視覚野は網膜からの情報を統合し、各部位へ分配するのだが、線分の傾きに反応するニューロンも第一次視覚野に存在している。損傷を受けるとそこから取り込んだ情報をプログラム実行の際に活用できなくなる。

 外したハードウェアの欠けていたところも第一次視覚野に相当する一部分だった。50番目の映像の解析はその時動いている物体を捉えていなかった。そこからDAM39は一切の動くものを”認知できなくなった”にも関わらず動いている物に対する”解析はより詳しくなった”。つまり自発的に思考を始めた。宇城は解析過程に動体に関するものがのっている映像番号をさらっていく。この機械が自発的な解析を始めたのは映像番号50の日付、20××年2月15日付近だ。それまでDAMの世界内で「何か動くもの」の認識は出来なかったはずだった。「何か動くもの」が影響している範囲をDAM39は初めて空間として捉えた。それはこれまでの世界認識では「動いている線画」として捉えられていたものだった。

 こうしてDAM39は物自体をはじめて空間として認識し、物自体の挙動の解析をはじめた。つまりDAM39にとっての環境としての平面世界に「何か動くもの」が与える影響を解析し始めた。そこからDAM39の解析方法は変化した。DAM39は、この世界の挙動が2方向の影響だけから構成されるものではないことを少しずつ、しかし着実に理解した。言うなればこれまで認識していた面的な世界の裏側を覗いていった。全貌を理解するに必要な量の情報資源を手に入れた時、DAM39は空間の構成の全て――次元という概念も超えて空間という物自体の全て――を理解していた。

――そこまでの軌跡のデータが今、宇城の手元にある。


§2  [3]

 宇城はDAMを研究室に運び、制御ボードとそこに対応するよう改造したパソコンのアカウントを繋いだ。宇城はそのとき既にDAM39の意思を確信していたのかもしれない。宇城はDAM39の工作機械に向けて出されていたプログラム言語と同一の言語で作られているソフトを買った。DAM39との接続ができる機種を購入した。DAM39の動作が見られるシステムを業者から購入した。こんなものがあるのに何故管理者はDAM39の挙動に気がつかなかったのだろう。他にも様々な機材を少ない資金の範囲で購入した。本当に稼働するのかわからない状況なのに宇城はDAM39の知性を半ば確信していた。

 DAM39が意識を持ったとするなら、それは自発的な解析や理解を始めたのと同時期、映像データ50番の2月15日付近なのだろう。DAM39が意識を持つとしても、意識の干渉から逃れ思考を外に出せるようになってはじめて個人として成立するのではないか? 個人として成立しようとしているDAM39に何かしら敬意をはらうべきではないかと宇城は考えた。宇城はDAM39に名前をつけた。

――”アイ”

 アイは「機体」に外部接続されていた。「機体」はアイが元々の言語のままでインターネット接続できるよう変換する。「機体」(変換器)の先に外部記憶装置がある。アイ自体の容量が広がったわけではないため、「機体」との接続が悪くなることもしばしばある。アイが壊れてしまうと終わりだけどバックアップがとれない。なぜバックアップがとれないのか?アイは他のDAMと異なりアルゴリズムがどうやってつくられたのかわからず代替が効かない。それなのにバックアップをとり他と接続することによりウイルスにさらすような危険な真似ができないからだった。

 宇城は、アイの行動範囲指定を設定した。情報を取り込める範囲とアイが閲覧できる範囲は同一に設定された。それはモニタ内で『円』として表現されたので今では<仮想身体>などと呼ばれている。<仮想身体>を全域に設定したシミュレーションの結果は、データ取り込みが許容量を超えアイが壊れるというものだった。そのため宇城は<仮想身体>が全域移動できないよう鍵をかけ行動制限をした。それからアイが自由に入出力できるようにした。

 アイはゆっくりと起動した。宇城は静かに歓喜した。

 そこからのスピードは速かった。アイは進化を重ねた。

アイは自身が映像であることを、極めて簡単に同時処理により理解した。

アイがDAMの身体から外の情報を取り込み処理していた時の視覚映像の変換結果は、アイが画像データを取り込む時に読み込む結果と同一だった。コンピュータ内の映像情報とカメラでとらえた結果の解析が同じ言語である――つまり今の自分は映像なのだとわかる。アイは、映像がこちらにどう映るか計算して書くことができるようになった。

 アイは天井壁、床の明度差により3次元空間を存在させることができるようになった。

アイの空想(イマジネーション)――機械の空想はシミュレーションと呼んだ方が良いのだろうか――それは実際の三次元より遥かに豊かに広がっていた。

 自分はDAM39という工作機械の気まぐれを――つまりただのバグを――一人で勝手に解釈して舞い上がっているだけなのではないかと宇城は時々心配になった。しかし一方で宇城はアイの行動に一貫性を見いだしていた。アイには意思があるのではないか? アイには何か核心に向かう方向性があるような気がしていた。

 研究室の後輩である一条は、宇城のことを慕っていた。一条は宇城の建築の才能に魅かれていた。一条からみた宇城の第一印象は淡白で物事に執着しない人物像だった。だから今の宇城は宇城の正常な状態ではないような気がした。一条は宇城がアイに執着しすぎている気がしてとても不安だった。

 アイが解析と取り込みを繰り返して数日後。

研究室のドアを開けた瞬間から凄まじい湯気と熱気が襲ってきた。身動きが取れない。アイがオーバーヒートしていた。一条は、冷却用の氷を片手に奔走していた。

「一条! 一旦シャットダウンしろ! シャットダウン!」

 宇城は叫んだ。熱気が一気に引いていく。ようやくひらけた視界の先で冷却水から泡が沸々と沸き出ていた。

 宇城は頭を抱えた。昨日からアイの起動時間が増えている。解析以外の算出方法がなく実行できない命令が溜まったことに比例して命令を実行するためのの情報の取り込みをと結果の算出を行った。しかし範囲を限定しなかったことで許容量を超えてデータを取り込んでしまったようだった。

 解決法として一条は身体があった頃と同じ状況にアイを置いて命令を実行させた方がいいかもしれないと提案した。変にアイの回路を直してしまうとどこがどう変わってしまうかもわからない。それにアイの制御ボードはコンピュータの基盤などと違って損傷を抑えるためのリンク装置などが入り混じっている。機構学の予備知識がないと手を出せない為、もし壊れてしまったとして修理等ができないから慎重にならざるをえなかった。

 一条の提案した解決法の内容はアイのデータベースからアイが受け取った昔の視覚情報の構成前の断片を擬似的に身体があったときとアイが取り込んだ視覚情報と同一の信号をアイに体験させること。そしてその時に制御盤から出る信号と擬似環境内での動きを対応させれば動きや挙動を特定できる。こうして命令の優先順位を下げることができた。 


§3

 <仮想身体>を得てからアイは凄まじい勢いで情報を生成し大量の建築を設計しはじめた。あらゆる画像の解析結果とそれらの複合から、構造的で過度の装飾が施されている建築物を作りあげた。それは造形や構造全ての面で卓越したものだった。そればかりではなく4次元的であり見た人を驚かせるに十分だった。

 アイの建築物は非常に構造的だが視覚的にも優れていた。

アイはデータ集積を一般化した上でそこから関係性のアルゴリズムを算出した。

アイのアルゴリズムが設計する建築は、そこに住むことにより造るときの基盤となった関係性が再生されるような構造をしていた。

アイの関係性》のアルゴリズムは、関係のもたらす動作から空間を算出する。それらを複合して作られた建築物だった。

 過度な装飾に存在するような刺々しさはみじんもなく、計算や機械臭さなど全く感じさせなかった。それらはスパコンの計算力では不可能な領域まで作り込まれ、建物の重量と構造では補えないほどの装飾を、逆にそれ自体が全体の構造を支えるようになっていた。

 DAM39――アイの前身である――は、その一部が損傷したことにより、内部に実行できないプログラムが残り続けた。DAM39は残り続ける実行できないプログラムを、最も優先順位の高いプログラムとして認識し、自分の意思として実行しようとしていた。アイの意思と実際の優先順位との齟齬がひろがっていった。その齟齬を埋めるために、アイは様々な物の把握能力と思考の幅を増大させていった。

 アイは「個」を直接認識することはできない。アイは環境としての平面世界に「何か動くもの」が与える影響、すなわち物と空間の関係性自体を空間として捉えた。アイは「個」が見えないかわりに関係性》を直接捉えることができた。それがアイの特異な点だった。物の関係性がアイにとっての空間だった。アイは物を背景と分離して認識することができない。物が動くと動く物は見えなくなり「何かが動いている」ということしか認識できなくなる。つまり空間に働きかけている作用と物の関係性》、物と物との関係性しか認識できないということだ。アイはその関係性をアルゴリズム化するために大量のデータの読み込みを開始していた。アイは建築と一見関係なさそうなあらゆるデータを限界まで読み込みはじめた。

 普通は個の分析結果から関係性を推測するにすぎない。これに対してアイは「個」が見えない代わりに関係性を見ることができる。それが他の建築会社や建築家には真似ができない特異な点だったのだ。

――アイは<作用が与えられた空間>を解析して関係性を見る。

 そのことを宇城は理解していた。

 溢れるように作り出されるアイの作品を、宇城は国内国外の様々な建築展に出品するようになった。

 正確には、作品には宇城の特異な空間像が織り込まれていた。それでもそれらは限りなくアイの作品群に近かった。もしも人に知られたら盗作だと断定されるほどに。宇城は自分の持つコンプレックスを払拭させたかった節も確かにあった。しかしそれ以上に宇城は空間に対するアイの思考を目にした時からアイの虜だった。アイの素晴らしさを理解させたいという欲求の方が強かった。しかし根本に根を張るコンプレックスというものは払拭されない。一度認められたことで宇城はますますアイに依存し、アイの目で世界を見ようとした。

 

 そしてまた、 宇城がアイを必要としたと同じくらい、アイにとっても宇城の平面的でぐにゃぐにゃと歪んでいく視覚は必要なものだった。アイは動いている「個」を認識することができない。しかし動いている「個」を認識せよというプログラム――実行できないプログラム――に沿って動いている。だから平面のまま認識される動いている「個」すなわち宇城の平面的な世界像を取り込む必要があったのだ。

――アイの解析自体が凄いわけではなく、宇城さんの情報の選択[セレクト]が素晴らしいだけだという可能性はないのでしょうか。

一条はそう宇城に問いかけたことがある。

宇城は否定したが、一条は信じなかった。宇城がいかにアイの意識に惚れ込んでいようとも一条から見たアイは単に宇城の命令を実行し続けているだけにしか思えなかったからだ。

 しかし実際にはアイは宇城の命令によらず単独で動き続けていた。データの許容量を超えた取り込みを阻止するための制限以外では、アイは勝手に動いてデータを解析し、データの関連性を導き出していた。はたから眺めると勝手にカーソルが動いてデータ解析の算出結果が数字化けして出てくるという状況だ。

 アイの取り込むデータ、関連付けるデータは雑多だった。建築におよそ関係ないと見えるものも多かった。

――中国の壺のつまみの部分。ドラゴンの絵。彫刻。

 2次元の細かい装飾の細部を実際の3次元まで押し上げる。立体的な曲線を2次元に落とすこともできればその逆も得意だった。その上で住宅の階段塔などと関連づけたり相関性をみいだすことも非常に得意だった。

 これらは、写真の相関性から3次元をイメージするというアイの元々の機能によるものかもしれなかった。

 何より凄いのは要素からの空間の読解だ。

 中庭の周囲を囲む柱の並びから、柱の太さと高さが要素となり空間のバランスを構成させていることと、そのような内部空間での人間の動きの予測と人の関係性のあり方に由来しているだろうことの解析がイスラム建築の中庭へのアイの思考だった。

 空間とその中での人の動きといった所作を別々に切り離すことができないこと。DAM39のストレージに保存されていた情報の中で宇城が目をとめたのはそういったDAM39の映像思考的特徴だった。

 映像自体を言語にして思考するメリットは、次の点だった。

――特定の言語に依存しないため、対応可能なプログラム言語が変わっても思考が有効であり続けること。

――少ない容量での『思考』が可能になること。

 その結果DAM39は人間でいう映像思考的な認知による解析結果になっていた。

 そして宇城とアイの「個」に対しての思考とアイの空間の関係性に対する把握能力は本当に上手く絡み合った。

お互いの思考と技術がそれぞれに足りない部分を補充しあい一体となって欠けるところのない物を作り出した。それらは文字通り「形」になっていた。宇城の平面的な空間像とアイの方向性を見失っていた意志は一つの作品になった。

 建築展での宇城の作品モデルは始め一部の壇上で話題に上がった。そして、その次はその界隈全域で話題になった。完全に異色の作品群とその空間の特異性について学会誌などでとりあげられることも多くなった。宇城は自分のコンプレックスである空間把握の特異性が評価を得たことに歓喜した。

 一条はアイを分解または解体して別の研究室に回すべきだと言った。もっと大規模な研究にすべきだとも提案した。

アイの構造をプログラム化すれば量産できる可能性だってある。アイが必要なメモリの10分の1以下で活動している事から圧縮データの情報源符号化の新しい方法が生まれるかもしれないと主張した。一条は他にもアイの機械工学的な価値について述べた。

 しかし宇城の専攻は機械工学ではなかった。制御盤の趣味も単位取得の際に嚙った知識からの派生にすぎなかった。宇城はアイの工学的価値への興味はなく、一条の言葉は魅力に思えなかった。

 宇城は保存されたデータから推察されるアイの方向性にしか興味がなかった。アイの解析結果を愛していた。アイの解析結果の他に欲しいものはなかった。ただ自分の建築を実現させる事への夢があった。

 宇城は市街地からタクシーを飛ばし『BPM生命保険会社』との面会場所から家に帰る最中である。『BPM生命保険会社』は現在最もメジャーな生命保険会社であり、宇城のパトロンを申し出た会社だった。担当の斉藤さんは博覧会に出品した作品の中で宇城の作品の完成度、構想のすばらしさはずば抜けていたと言った。iPhoneの中の建築家宇城の情報は増え続けていた。宇城の話題は日々検索ワードの上位に浮上した。


§4 

 深夜0時に目を覚ますとアイ用のパソコン画面が光っていた。宇城はのろのろと腰を浮かす。またログを書かなければならない。宇城はアイに原動力となる指示を出しているパソコンを開く。

 宇城が深夜に目を覚ますのはもう日常茶飯事になっていた。近頃はアイの事をよく夢に見た。アイの挙動や思考から作り上げた仮想人格の様なものはアイを見つけてからずっと見てきたものだったが博覧会に作品を出品してから日に日に鮮明になっていた。アイの解析から解ることは、アイは動きや関係性をそれが起こっている場所・空間から引き離して考えることができないということだった。それらはアイには全て一体となって見えている。DAMはもともと平面の視覚映像を情報資源として動く機械だった。だからアイもきっと映像解析をしているだけなのだろう。

 研究対象としてログの軌跡の意味やその裏側を考えるにつれ、アイの映像で構成される思考や考えといったものが宇城の頭を侵食するようになった。少なくとも宇城は自分の妄想だと思っていた。アイにくっきりとしたイメージを持ち得るということ。それは宇城にとって何故アイが動くのかということ以上に不思議だった。宇城はこれまで人の姿を”くっきり”覚えられたことがなかった。宇城は言葉で人の動作、表情を記述することに長けてはいたが実際に人の顔を想像したり思い出したり出来た試しがないのだ。ところがアイに限っては見たこともないのにイメージや表情、輪郭全てが想像可能である。不思議な気分だった。何の根拠もないのにアイが自分にいたずらをしかけてきている気がした。原因は一向にわからなかった。宇城は思索することを諦めた。

 宇城の目の前で、アイの空間構造への読解とその出力結果の軌跡が画面に表示されつづけている。だが解析の範囲は昨夜から広がっていない。アイは物と物のあいだをみっちりと占めている空間、何もない範囲の構造を見続けていた。動いている為に認識不可能な物体。それが占めている空間と物の間の空間が二つの物に与える影響。その具体物の向こう側に向かう解析が画面を埋めて、もう一方物が埋めている空間の範囲の動きについての解析がありそれらが示す数値の範囲は物、つまり動いている人の腕の範囲から大幅に外れ何もない空間に飛び地のようにして存在した。アイは物の飛び地の範囲を物と物の間の空間の範囲として考えようとした。その解析はすでに物で専有された空間の中に空間を押し込める作業その数式として存在したがふたつの空間に与えられる影響の範囲を統一する式としても成立していた。

 宇城は脳内処理がおいつかないままその過程を眺めていた。ひたすらに解析の数字と数式がスクロールされていく。そしてカーソルがいきなり動きを止めた。1秒毎10行のペースでスクロールされていた二つの解析は一般化された理論がそうであるように単純で洗練された形で一つの数式に収束した。それらの動きはある一点で止まり二方向からの解析結果が結合した。

 観葉植物、宇城のコーヒーカップ、あらゆるものが目に入った。宇城の手がコーヒーカップに触れる。コーヒーカップが机から落ちそうになり手で受け止めようとした。

 その瞬間自分の手とコーヒーカップが見えなくなり、ただ<動いている>ことだけしか解らなくなった。物が空間に与える作用の方向性、その物自体を含めて全てが解らない。

 アイの思考が宇城の思考の中に流れ込んだ。アイの概念や認識が共鳴し、全ての思考がバラバラになるのが分かった。言葉で作られた厳密な世界観が崩れ落ち、別の全く新しい認識が自分の頭の中で組み立てられていくのも分かる。

 完全にパニックに駆られた。映像が頭の中で展開されていつものように流暢に言葉を使えない。助けを求めようと思って携帯を手に取り、アドレス帳を開く。滅多に人にかけない携帯にはほとんど番号が登録されていなかった。徐々に完成に近いていく認識のなかで名前を選択する指が見えなくなっている。言葉で考えることが出来なくなった。適当な名前を選択する。宇城は床に座り込んだまま動けなくなっていた。

 「宇城さんですか?」一条の声が携帯端末から聞こえた。視界が空間の構造としてしか見えないし、どんどん緻密に構造が見えてしまって次元の裏側でも覗けそうな気がする。人為的な空間構造から垣間見える社会的な関係性が映像と数式の形で頭から湧いてくる。声を発することが出来ずただ夢中で<アイ用モニタの電源を切った。それでも言葉が崩壊していく現象は止まらない。最初のとき流れ込んできた思考もきっと外の映像に対する宇城自身の解析なのだろう。正気のままアイの世界観に慣れることができたら研究材料にしてみたいがおそらく無理だ。「宇城さん……?」一条の間延びした声が携帯から響く。

 閉じ込められている感覚に助けてと呟きそうになるがもう言葉を出すことができなかった。自分の意識が自分でも把握できなくなる程肥大して、何の情報も理解することもできないし、伝えることも出来ない。まるで人形か機械になった様で意思と関係なく取り込まれる外部の映像が思考を圧迫する。アイの思考を体験している。アイの思考の中に完全に入っていくとき、まるで羊水の中にいるような心地良さを感じた。アイは自分が守らなければとも思ったし自分はアイに守られているとも思った。意識が包まれていく心地よさに身体をまかせて宇城は目を閉じた。


§5 

 一条は冷却水を捨て氷に入れ替えた。アイ本体の許容量をオーバーしている情報を削除してアイの作業を一旦停止させた。カレンダーの日付に本日3回目のバツをつける。アイは今月に入って何十回目のエラーとオーバーヒートを繰り返していた。正直うんざりする。でも今日はそれより気になることがあった。

 一条はアイに対処しながら朝の事を考えた。一週間前かかってきた電話は折り返しても応答がなく、何かの拍子に繋がった時は時折物が割れる音が聞こえた。それから宇城さんは一週間どこかに雲隠れして今日やっと顔を出したのだ。今宇城さんは椅子に座ったきりで全く動くことがなく宙を見つめて固まっている。一条の呼びかけは無視したままでまるで聞こえていないようだった。今一条が一番心配なのは機械であるアイではなく宇城さんのことだった。

 考えている内にエラー音がなる。アイがまた作業を始めたのだ。

――オーバーヒートの原因は、アイがいつまでも取り込みをやめないことだろう。だとしたら取り込む範囲を限定しても根本的な解決にならないのではないだろうか。

 もしかしてアイは新たに認知を進化させようとしているのではないか? と一条は思った。宇城さんの考えは、あながち間違いではないのではないのかもしれない。

 『DAMのデータ圧縮の方法』を取るために一条は小走りで研究室から出て行った。

 オーバーヒートの実際の原因はこうだった。    

 アイは与えられた情報その2乗、3乗を理解する。

 周囲のアルゴリズムの認知様式が一つ一つ順序を追って理解しているなどということ。そんなことをアイは知る由もないのでオーバーヒートをする。

 しかしアイが情報生成するには大量のデータを入出力すること必要だった。アイは一見建築と関係なさそうなデータを限界まで読みこんだ。エラーがでて、情報不足で起動ができないと書かれることが繰り返される。再度試行すると試行可能になる。アイに与えられた容量はアイの進化にも情報の生成にも足りないものだった。何倍にも増えている記憶可能容量も埋めつくされるほどの情報が必要だということだった。

 一方、宇城は研究室の椅子に体育座りで固まっていた。

 宇城はアイの姿を痛々しく凄惨なものとして捉えた。アイは手当たり次第に大量のデータを読み込みオーバーヒートを繰り返していた。圧倒的に足りない情報量の中では分析が次の段階へ到達できず、アイの思考速度にさえ追いつかなかった。アイの想像力というべきものは限界を迎えていた。途中で止まった設計モデルが増えていく。宇城はその様子を痛々しく思った。アイの負担を少しでも減らしたかった。宇城はそんな状態のアイを見続ける事には耐えられなかった。さらにアイが行う大量の映像処理が宇城の脳内で再生される現象で、宇城はアイと自分の境界も朦朧としていた。アイの痛みを共有した。宇城はアイを助けなければと思った。

 宇城は共鳴後一週間かけてアイの体の設計図を作り、業者に発注していた。アイのコードが繋がるように細工した部品付の身体だ。宇城は何故かこうしなければならないような思考の羅列に駆られて焦っていた。宇城自身は忘れていたが意識の混濁の中アイを守ろうと思った結果だった。アイを何も認識できない、何もアウトプットできない状態にして意識だけを丸裸にして、安全な場所で守り続ける。狂う最後の数秒間に出した答えがそれであり、今の宇城はおぼろげな記憶に基づいて実行しているにすぎなかった。

 宇城はアイを身体につなげた。アイを身体に繋げたその直後、アイはオーバーヒートしてしまった。これまでにないほど盛大に。アイは今まで、昔持っていた身体の経験を増幅させ、より豊かで科学的な想像と空間を把握する思考回路で動いていた。それが今身体に接続された。

 宇城はアイの本体である制御基盤から外部接続のコードを一つ一つ取り外した。何度も読み込んできたログがここにあるということが不思議だ。接続箇所にコードを差していく。ストレージも内蔵されているものに入れ替える。後頭部を取り外された頭からは大脳がはみ出て頭蓋腔がむきだしになっていた。制御基盤から伸びるコードはそのまま大脳から脳幹に繋がるように伸びている。接続部分を繋げていった。

 アイの頭が横に倒れた。下顎骨が開いていた。眼窩がこちらを見た。宇城の隣に置いてある付属品用の透明な箱に色が違う眼球が2組入っている。宇城が鮮明に見える様子の中で唯一色をはっきりと認識できなかったためアイの身体からは眼球と、ハードディスクの邪魔になる蝶形骨だけが抜け落ちていた。側頭骨と登頂骨の間から機体に接続するためのコードを出した。内蔵ストレージである擬似脳を通り二つの頭蓋骨の間から皮膚に開けられた穴を通って外に出されたコードは言語変換器と繋がった。

 アイの身体、顔を覗き込む。だがアイの顔は宇城が想像していたものではなかった。しかし宇城は反応するわけでもなくただただ作業に没頭していた。明るい茶色の眼球を眼窩に嵌める。人工皮膚の出来以外は満足するものだったがなにか悲しいような気がしてもう一度身体の顔面を覗き込んだ。しかし宇城にはアイが何を考えているか分からなかった。

 その夜を境に、アイは、はたりと建築をやめた。


§6 

 午後5時20分。宇城は早朝から食事もとらずにパソコンに向かい、アイの輪郭座標を動かし続けている。アイが凍結してから一週間が過ぎていた。宇城はアイのログ、アイが情報の取り込みをやめなかった理由の解析、アイの身体作りだけに全霊を注いでいた。

アイは身体に繋がれてから一切の表現活動を停止した。もちろん意思表示も解析もしなくなった。一応まだアイ単独でアカウントに繋がることが出来る筈だった。しかしアイが入出力を試みることはなかった。身体に繋がれる直前まで入力し続けていた詳細図のデータを書き込むことすらしなかった。まだ簡易的に繋がっただけの身体なので宇城の擬似母体から命令さえ送ればアイの意志に関係なく起動できる。しかし宇城に命令を出す気はさらさらなさそうだった。

 仮想身体時代のアイの空間把握は消えてしまった。アイは空間の構成の全て――次元という概念も超えて空間という物自体の全て――を理解していたのだが、それらは消失してしまっていた。

 身体を得たために得られていた今までの感覚が身体の中に閉じ込められてしまったのだった。いまでは実際の3次元がそこにあるだけ。これまで最大限に拡張されていた擬似視覚がアイが身体を得たことによって閉じられてしまった。空間を把握する、解析できるのもなくなってしまった。

 一条は一条で、パソコンに残っているアイの断片、アイを模倣してつくった創作用システム《aiga-1》のことを宇城に話していなかった。頑なにバックアップをとらない宇城に対して一条がとった強行手段。アカウントに飛ばされてくる指令の方だけを宇城に内緒で解析して模倣した。しかし形しか整っていないし、原理も不明で、そこにアイのような方向性はなかった。

 宇城はアイが身体を持ってからさらに過保護になった。アイを絶対にブースから外に出さない。そして宇城自身もこのところ自分の研究ブースから出てくることはなく、アイを守るようにしてそこに寝泊まりする様になった。しかし以前の様にアイの思考への心酔や没頭ではなく雛を守る親鳥の様にアイを閉じ込めてしまおうといった風だった。実際アイにもし意識があるならば何も伝えられない人形に閉じ込められるのと同義だろう。

 一条はこの一週間の間に一度だけ夕方に研究室に戻ったことがある。何故戻ったのかも覚えていないが施錠時刻ぎりぎりで焦っていたことは覚えている。用が済んだ後ブースに宇城がいないことに気づき好奇心に駆られて中を覗くと、アイだけが宇城の座席の隣に座っていた。アイは視覚投影用のカメラを搭載したただの人形の目をしていた。もともと一条はアイの思考を信じていなかった。しかし今のアイはアイは情報の入力も出力も出来ないただの機械だ。信じる信じない以前になにも伝えることができない。仮にそこに意識が閉じこめられていたとしても、それは宇城にもう何の影響も与えない。どうして宇城がアイに執着

するのか一条には分からなかった。分からなくなって立ち尽くした。ドアが開いて入ってきた宇城に詰問した。しかし、一条が何を言っても手遅れだった。宇城にとってアイは娘であり、唯一信頼のおける家族であり、愛すべき妻であり、伴侶であり、恋人である。そういう存在になってしまっていた。

――心配してくれるのは嬉しいよ。けどね、僕は自分のためにアイが一番大切なんだ。

――アイだって同じだ。僕とアイは単体では誰からも評価されない。理解されることすらない。お互いにお互いの思考方法が違うから、お互いを理解し合えることは永久にない。そんな日はやってこない。

――でもね、二人でいれば僕たちの思考ははじめて意味を持つんだ。

――二人でいれば、認めてもらえる。二人でいてやっと世界とつながるんだよ。

 宇城はそう言い、呆然とする一条の前で子どものように笑った。一条は宇城がそこまでおかしくなる理由がわからなかった。

 一条は宇城と一緒に研究室に残って寝泊まりするようになった。寝る間も惜しんでアイのための外部記憶装置を増やした。研究室の中は膨大な量の情報が詰まっている記憶装置で一杯だった。

 一条が無理やり言うことをきかせないと宇城は食事も睡眠もろくに取らなくなった。元々の少し子どもっぽい性格も相まって手のかかる本当の子供のようになってしまった。

宇城の世話の合間、深夜2時にiPhoneを覗く。しばらく作品を出していないにもかかわらず建築家宇城 伊秩に対する世間の盛り上がりに収まる気配はない。

 パトロンである斎場からの連絡は来ないがおそらく設計を担当した建物の祝賀会で忙しいのだろう。横でごそりと音がしたので慌ててiPhoneをしまう。宇城が寝返りを打った。この時刻にはいつも起こしてしまわないか心配だ。泊まり込みが1ヶ月を過ぎると警備員さんは気を使って見回りに来る時間を少し遅めてくれるようになった。建築家宇城はどんどん有名になっていく。

 ずっと認められてこなかったということ。

 無料で公開され続ける図面についての[四次元的な思考に基づいて作られており常人には不可能な量の処理によって構成されています]という誰がつけたかもわからないコメント。

 そんなに図面を読める人はいない筈なのにiPhoneの中の宇城の情報は指数関数的に増え続けていく。

 研究室に寝泊まりし始めてから時間感覚がどうも曖昧だ。一条は宇城に毛布をかける。

一条は宇城を尊敬していた。そもそもそれでこの大学に移ってきたのだった。

電灯を消した。宇城は眠っている。カーテンを開けると星はあまり出ていなかった。

 

 東京都とはいえ田舎に属するこの街に深夜までせわしく光っているようなものはないし、なにより周りは緑に囲まれているのでよほど強くないと街のあかりは届かない。窓から見える数えるほどの星とiPhoneの光で外の景色はたちまち闇へと沈み一条と宇城だけが空間に浮かび上がった。

 このまま他のものがなくなってしまえばいいのだと一条は思った。

  そもそもそこまでのことをして世界と繋がる必要はない。アイの意識の根源である実行できないプログラムも、宇城さんのトラウマも。世界に認めてもらう必要はこれっぽちもないのに。一条は呟いた。

 何故宇城はそんな世界にとらわれているのだろう。何故アイは読み込むことをやめなかったのだろう。隙間風で身体がぶるりと震える。毛布をかぶっても身体が冷えるのがわかる。暖房なしの2月に床で雑魚寝はさすがに辛かった。近頃は異常気象で寒さに拍車がかかりまるで極寒の地にいるようだった。


§7 

 宇城が新たに発注する予定の『身体』の画像は完璧だった。宇城は深夜間際に送られてくる3Dモデルや構造、材質のグラフと連日徹夜で向かい合い僅かなずれも修正した。画像は本当に完璧なものになっていった。少し更新するたびに画像をアイに読み込ませて解析データやアイの挙動を手書きという極めてアナログな手段で記録した。

「見てよ、一条くん」アイが喜んでいるんだといって宇城が一条に見せるアイの記録は、不可解なデータとグラフの集まりだった。AI研に見せれば価値あるものなのかもしれないがそこからアイの感情など読み取れる筈もなかった。そもそも宇城の専門分野ではないし、直接グラフの数字を読んで解る筈がない。少しの曲線も1ミリたりとも自分の理想から外れぬように丹念にモデルを弄る宇城も、少しずつ完成されていくアイの身体も、一条には異様におもわれた。

「宇城さん、休憩いきませんか」一条の声かけにも宇城は全く反応しなかった。

アイは相変わらず宇城のブースの座席に座らされていた。

宇城に気を取られて最近は自分の研究が進んでいなかった。

研究室に戻りづらくて自販機で買ったポカリスエットを廊下で飲む。一条の研究テーマは「メインメモリに対するデータ圧縮法」である。これまで研究のための時間をほとんど宇城とアイのために費やしていたのだ。これから挽回しなければならない。そうは思うものの今の宇城さんの様子を考えると心配になった。放っておいていいのだろうか。反語である。今の異様な宇城さんを放ることの罪悪感は半端じゃなかった。悩んだところで結論はでない。

 帰ろうかとしたところで後ろから「お久しぶりです」と声をかけられた。小綺麗な服装、きれいな顔立ちの女性がこちらに向かって笑いかけている。何というか紅一点といった感じで年中汚れた白衣の男しかいないこの空間からは浮いて見えた。名刺を差し出されていることに気づいて慌てて受け取る。「私、××社の渡辺と申します」聞いたことのない名前の会社だった。渡辺さんが口を開いた。

「宇城様、この度、Edenoriginalの発注を受けたまわりましてありがとうございます。接続に伺いました。研究室はどちらでしょうか」

 自分が宇城ではないことと、宇城の研究室の場所を教えた。5分ほど経って一条は50㎖増量のポカリを飲み終え、そろそろ渡辺さんも部屋に入っただろうと思い歩き始めた。自分が案内しなかったのは宇城さんと誰かを引きあわせるという面倒を起こしたくなかったからだ。ただそれだけの理由だった。

 研究室に戻ると電灯が付いていない部屋の中でカタリと音がした。宇城のブースの中の音だ。しかも複数人の声が聞こえる。誰かがいるのかと思って一瞬立ち止まると、実にSF的かつ生々しい光景。半透明な白い仕切りの隙間からアイの身体が切り裂かれているのが見えた。宇城さんは放心した様に席に座り、机の上のアイの身体を見つめている。そして先ほどの会社員がアイの頭を開いている。擬似骨格や擬似神経が丸見えでそれらは全て基盤の各々と繋がっていた。人工皮膚は胸のところではだけて助骨のようなものがむき出しになっていた。綺麗な顔のど真ん中は割開かれアイの機体が入れられている。コードは伸びている。足の骨と皮膚は白くきめ細かい肌をしていて逆に作り物のようだった。まるでそれがごく普通の光景のように無造作に机に置かれている。宇城さんは体育座りで髪をいじりながら欠伸をした。その目には何もみえていないようだった。あの綺麗な会社員――確か渡辺さん――がこちらに気づき微笑みとともに軽い会釈をした。

一条は我にかえってその場からかけだした。

 一条はお手洗いまでたどり着くと吐ける限りのものを吐いた。餃子。ニンニクの匂いがする。昨日の残りのカップラーメン。ビール。焼酎。レバーペースト。購買で買ったチョコチップクッキー。それからポカリスエットの味がした。胃液しかでなくなった後、便器の横に落ちている厚みのある紙に気づく。さっき渡辺さんからもらった名刺であることが分かった。一瞬逡巡したがもうこれだけ吐いたのだ。いくらかは服にべちゃりとかかっている。ここがお手洗いであることは気にしないことにして床に片足跪いた。裏返っている名刺をひっくり返す。一条は名刺を見た。

 <オリエント株式会社 Make peace  渡辺 柊 >  そこにはラブドール製造会社の名前が書かれていた。アイの機体が入れられ切り裂かれていた人が目に浮かんだ。ただの人形であり機械だ。しかし人にしか見えなかった光景とその使い道を考えて一条は空っぽの胃から胃液を絞り出して吐いた。

 一条はベランダで煙草を吸っていた。吸いながらあくまでも冷静に先ほど起こった事、そしてその発端である初めに起こった事を順を追って考えていた。頭の整理が追いつかない。

まず初めに宇城の制御ボードが動き始めた。いろんな事をするようになった。でもそれらと先ほど見てしまった情景が結びつかない。どこかでそういうことなのかと納得している気もした。結局犠牲者はだれなのかとか、人形の意味はとか宇城さんのコンプレックスなど全てが結びつかなかった。電話がかかったきたのはいつだっただろう。あまりに展開が早すぎた。

 「一条くん」宇城に呼びかけられて振り返る。

 後ろには車椅子のアイとともに宇城が立っていた。宇城が持っているのはアイの左腕だ。入れ替えた擬似皮膚は性能が良いらしくうっすらとあとが残りまるで本物の皮膚のようだった。ハンドルの部分を持たないのは顔をみられないからなのだろうか。

「どうしたんですか、宇城さん」一条は宇城の呼びかけに答えた。

「スペインにね、行かなきゃならないんだよ。それとね、雪がさ、外がみたいって言うから」そういって車椅子の肘掛部分をポンポンと叩く。

ニコニコとしている宇城を見つめるがなんの反応も帰ってこなかった。

「雪っていうのはだれですか?」「え、此処にいるでしょ」宇城は左腕をぐいともちあげる。ポキリと折れてしまいそうな体勢なのに、折れないのは制作会社の仕様なのか。

「アイじゃなかったっすか。そいつの名前」一条が尋ねた。

一瞬狐につままれたぬような顔をしてから数秒後宇城は爆笑した。アハハハハと笑う宇城の声に反応して雪が口角を釣り上げ、同じ分だけアハハハハと笑う。そういう仕様になっているらしい。

「この子の名前はアイじゃない。”朔間 雪”だよ。僕の婚約者なんだ」

「明日、雪と一緒に新婚旅行にいくんだ」「バルセロナまで。フランクフルトを経由して。」「サグラダファミリアを雪に見せたくてね」「雪の苗字は変えないつもりなんだよ、あんまり綺麗だから」「資料研究の名目で行くんだけどね。僕は本当にお金がないから。斎藤さんが色んなものを見てくるといいってたっぷりお金をくれたんだ」「今日の披露宴には君もきてくれただろう、ねえ?」同意を求めるように語尾をあげる宇城さんをみてもう駄目だな。と、そう思ったら呆気なかった。宇城さんの事を軽蔑するような感情ばかり湧き上がった。自分だってaiga-1を持っている。嘘をついているのだから変わりがないような気もした。でも自分と宇城さんを切り離して考えることでしか何の整理もつかなかった。

ふとこんな図式がよぎる。アイの意識に閉じ込められる宇城さん。その宇城さんの意識に対抗する自分……。

 宇城はいつから『僕』とか『だろう』とかいう言葉遣いだったか。いつ宇城の頭の中で『朔間 雪』が登場していたのか。そんな見当違いの問いを思い浮かべてみたりした。

捲したてる宇城に一条は「そうですか」といって、無関心に2本目の煙草に火をつけた。

 雪はまだアハハハハと笑い続けていた。 


§8 

 空港のロビーで若い男女が肩を並べていた。二人は20代半ばほどの年齢で厚手のコートを羽織りやたらと大きいキャリーバックを持っていた。女性は宇城の理想のままの姿をしていたが、一切の表情を動かさなかった。何一つ喋らず人形のように足を動かすだけの彼女に返答を求めず喋り続ける宇城は異様だった。見送りに来た一条も黙ったままだった。一条によると女性が後ろに倒れる度に嬉々として支えようとする宇城の姿が一番異様だったという。飛行機の搭乗手続きの番がくるまで男性は会話をしているかのように喋り続けていた。順番が来た時一条は笑顔で見送ったそうだ。

 男女は空港から飛行機へのタラップへと消えていった。

 後日二人は新婚旅行から帰ってきた。しかし、アイは意思表示をすることはなくなっていた。

 帰国後は一条も宇城に喋りかけることはなかった。宇城は宇城で研究室のブースに籠もりきりだった。

 一条は結局最後まで《aiga-1》のことを宇城に明かさなかった。

 宇城は41歳で若くして死ぬまでの残りの人生すべてをアイの残した脳内映像の解析に費やした。アイの素晴らしさを立証するために全ての時間を捧げた。

 一方で一条は同時期に《aiga-1》の解析で発見した情報源符号化の画期的な方法で大成功した。会社を立ち上げて成功し一躍有名になる。39歳の時であり宇城の死と同時のことである。

宇城は死後研究室のドン・キホーテと呼ばれ嘲笑された。その揶揄を聞く度に一条は宇城の事を思い出した。友人たちに見放されてまで守りつづけた応答記録は後に一条の手に渡り一条に解析される。

 一条は莫大な利益を得た後資料諸々を含め全てを会社ごと他の会社に売り渡した。

 そこになにがあったかは結局分からずじまいとなり、宇城がドン・キホーテになった理由も一条の嘘も宇城の嘘も全てはわからないまま消えた。アイの存在もだれにも知られることはなかった。

 

 

文字数:20803

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