時と笛

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梗 概

時と笛

 クモキリ・ミナモは、郊外に暮らす普通の高校生――ある一点を除いては。
 物心ついた頃から感じていた自分のなかにある「誰か」の記憶。その誰かは「イチカ」という名前で、大切な約束を果たすためにある人を探している、らしい。そんな記憶を持ちながら長い時間を過ごすうちに、ミナモの心にも、約束を果たしたいという思いが芽生えていった。
 近頃、町には不思議なネズミが大量発生している。それはただのネズミではなく、無毛で半透明、表面は濡れたように艶やかで、捕まえようとすると泡のようにパッと消えてしまう。ネズミたちはあらゆるものを齧りながら特殊な溶解液を分泌し、町を溶かし、破壊していく。
 市の衛生課には苦情が殺到し、行政も対策に乗り出すが、増え続けるネズミへの対応は追いつかず、町はパニックに陥りつつあった。
 そんなある日、ミナモはまだら模様の服を着たホームレス風の男に親しげに声をかけられる。話を聞いているうちにどうやら男は「イチカ」に向けて話をしているらしいことがわかってくる。疲れ果てた様子の男は、町からネズミを追い払う代わりに「鼠捕り」の仕事を引き継いで欲しい、とミナモに提案する。男の持つ特殊な「笛」には特定の生き物を引き寄せ、さらにその生き物が持つ存在値をエネルギーとして利用することで時空間の移動が可能になるというタイムマシンのような機能があるという。
 ミナモは笛を利用して、何時か何処かにいるはずの尋ね人を探すことを思いつき、申し出を受ける。男はネズミを集め駆除することで、この時代に来るために使い果たしてしまったエネルギーを充填しようとするが、ネズミには存在値がないことが判明する。
 ミナモに出会うことでこれまでの放浪のなかで唯一の安らぎを感じた男は、最後に改めて必ず約束を守って欲しいと念を押して、自分の存在値を使うよう言って笛を託す。ミナモの奏でる笛の音を聞きながら、男は安らかな眠りにつく。

文字数:800

内容に関するアピール

 ベースとして選択した物語は「ハメルンの笛吹き男」です。この作品は伝説を語る童話であると同時に一二八四年六月二六日に実際に起きた出来事として記録が残されているという点で興味深いと感じて選びました。
 元の話では約束を破られた男が怒り、町の子供たちをどこかへ連れ去ってしまうという結末になっていますが、では約束が守られていたら丸く収まっていたのかということをまず考えました。
 そのうえで、男を永遠に時空を流離う放浪者と見立て、その目的や笛の正体などを考え、独自に「存在値」というものを設けました。不気味な存在として語られがちな男の哀愁を描きたいと思います。

存在値:その個体が存在するはずの時間と、その時間内に移動するはずの距離。

※どうでもいい捕捉
一 もう四回なので。いちおう講座を通して連作短編とする予定ですが、課題毎に大筋は完結させるつもりです。
二 せっかくなので六月二十六日に課題を提出してみました。

文字数:400

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時と笛

「いってきます」とスクールバッグの取っ手をつかんだミナモは、小走りで玄関へ向かうと手入れの行き届いた黒いローファーに足を通した。玄関脇にかけられている自転車の鍵を取って家を出ようとしたミナモの背中に向かって「ミナモ、帰りに叔父さんのところに寄って、おはぎもらってきて」と母が呼びかけた。
「はーい」と返事してドアを閉めたミナモは、高校に入学したときに買い換えて一年ばかりを共に過ごしてきた水色の自転車に鍵を差し込み、前籠にバッグを入れて、こぎ出した。
 もう夏休みが目前に迫っていて、蒸し暑い真夏の気候が連日続いていたが、午前七時前の陽射しはまだ柔らかくて、自転車を走らせるミナモは心地よい風を受けながら、鼻歌を歌っていた。
 左手側に町を二分する雄大な河の流れを臨む河原沿いの道を走りながら向こう岸に視線を向けると、町を囲むようにして遠くにそびえている山並みが見えた。子どものころから見慣れている青々とした山の景色、しかし、その青さはここ数年の間に、すっかり色味を変えてしまっていた。
 ミナモが生まれる数年前に、遠い南の国の小さな海辺の町で「第一侵食」という現象が起こったということは、これまで社会科の授業で何度となく教えられていた。とつぜん発生した巨大な泡が町を「侵食」していき、そこにあったすべてのものを飲み込み、融かし尽くしてしまった。泡の増殖が治まったとき、町はすっかり変貌しており、その跡地には「青い都市」と呼ばれる、深い群青色をした巨大なブロック群が残されていた、ということらしい。
 教科書に掲載されている「青い都市」の写真をミナモは何度も見たことがあったし、調査隊によって都市の様子が撮影されたムービーもネットワーク上で簡単に見ることができた。
 青い巨大な無数のブロックが無機質に積み重なり、建ち並んでいるだけで、他に何もない、誰もいない「都市」の情景はただひたすらに空虚で、ずっと眺めていたところで何の面白味もないものだった。
「第一」があるということは、当然「第二」「第三」と続く侵食があったということで、これまでに発表されている大規模な侵食は七度を数えており、それ以外にも小規模なものが世界各地で発生し続けていた。
 いま、ミナモの視線の先に広がっている山並みの青さは、その麓で発生した侵食の影響によるものだった。泡によって浸食された土地からは青白い霧のようなものが発生するということが、これまでの調査によってわかっており、立ち込めた霧は周囲の山々を薄らと覆いながら、陽を浴びて、不気味に青く発光しているのだった。
 深くて青い光に覆われた山の景色はとても幻想的で、どこか人を惹きつける魅力さえも帯びており、よく晴れた日の早朝や夕刻にはまるで青い海のなかに山が浮かび上がったまま時が静止してしまったような、静謐でいて壮大なヴィジョンを現すのだった。それは「青凪」と呼ばれ、わざわざその光景を見るためにこの町を訪れる人もいるくらい魅力的なもので、最近ではすっかり町興しのための観光資源として利用されるようになっていた。
 今朝はとてもきれいに見えただろうな、と思いながら、快晴の空の下でもうすっかり薄らいでしまった青い霧の残滓をミナモは遠くに眺めた。
 霧は有毒なものとされていたため、山の近辺は立入禁止区域となっていたが、それでも深い青さの魅力に惹かれて侵入してしまう人は少なくないらしく、役所の管理課はその対策に頭を悩ませている、という話を友人から聞いたのを思い出し、ミナモは苦笑した。
 たしかに、凪の青さが鮮明に浮かび上がったとき、その間近ではどんな光景が見られるのだろうかと想像してみると、それはとても魅力的なもののように思えた。
 青い山並みに見とれて走っていると、前方からキキッという甲高い音が聞こえてきて、慌ててそちらに視線を向けてみると、道路の上を小さな水色の塊が這っているのが見えた。あやうくそれを轢いてしまいそうになったのを、ミナモは素早くハンドルを切って回避し、ブレーキを軽く握って片足を着いて、いったん自転車を停止させた。
 ミナモの存在など無視するように、水色の塊は、再びキキッと鳴き声をあげて走り去っていった。それは水色、正確には半透明の青色をした新種のネズミだった。遠ざかっていくネズミは、その透き通った体に朝陽を浴びて輝き、やがて陽炎のように揺らめきながらミナモの視界から消えていった。
 不意に下方からキキッという鳴き声がして、ミナモが下を向くと、足元を数匹のネズミが素早く通り抜けようとしている姿が映った。思わず小さな悲鳴をあげて、ミナモは地面に着けていた片足を引き、バランスを崩してしまい反対側の足をペダルから地面に下ろした。
 浅い水溜りに踏み込んでしまったときような、ピシャという小さな音を立てて、ミナモの足の下で一匹のネズミが潰れた。潰れたネズミはシャボン玉が割れるようにパッと弾けてしまい、黒いローファーの表面を濡らして消えていった。
 付着した不気味な液体を振り払うように、ミナモは足先を軽く振って、周囲にもうネズミが見当たらないことを確認してから、再び自転車をこぎ出した。
 しばらくすると、気の抜けるような市の広報のチャイム音が橋の上部に設置されているスピーカーから流れてきて、続いて、ここ数日ですっかり聞き飽きてしまった「市役所からのお願い」放送が再生された。

市民の皆さんへ、市役所からの、お願いです。
最近、水色をした新種のネズミによる家屋への被害が、多発しています。
もし、大量のネズミが発生した際には、すぐに市役所まで、ご連絡ください。
また、ネズミは、叩いたり、刺激を与えることで、誰でも簡単に駆除することができます。
皆さま、ぜひ、ネズミの駆除にご協力いただけますよう、お願いいたします。

 図らずもネズミの駆除に協力してしまったミナモは、ネズミを踏んでしまったほうの足に視線を向けながら、足裏に感じた不快な感触を思い出して背筋を震わせた。
 河原沿いの道を右折して、学校へと続くなだらかな坂道をゆっくりとのぼっていく。毎日のことではあるが、ゆるい傾斜が長く続く坂を自転車でのぼるのはそれなりにハードで、ミナモはサドルから腰を浮かせてペダルをこぐ足に力を込めた。
「クモキリ先輩、おはようございます」
 後ろから声をかけられて振り向くと後輩のシトウ・サヤがミナモと同じように自転車を立ちこぎしながら坂をのぼっている姿が見えた。
「あ、おはよう、サヤちゃん」
 挨拶を返して横に並び、互いに短い言葉を交わしながら、息を弾ませて学校を目指した。
「朝練、ですか?」と問いかけられて、軽く首を左右に振りながら「うんん、委員会」とミナモが答えると、サヤはすこし意外そうな表情を浮かべて「えっと、先輩、何委員でしたっけ?」と質問を重ねた。
「緑化委員。今週、水やり当番なんだ」と到着した先に待つ作業を想像しながらミナモが小さなため息をつくと「あ、なるほど。それはたいへんですね」とサヤは納得がいったように肯いた。
「うん、正直ちょっと面倒かなー。で、サヤちゃんは?」と今度はミナモが質問すると「私は朝練です」とサナは元気よく答えた。
 サヤが刀剣術同好会に所属していると聞いてはいたが、小柄でどこかのんびりした雰囲気のあるサヤが真剣な表情で木刀を構えている姿を想像すると何だか可笑しくて、ミナモは思わず笑ってしまった。
「な、何かおかしいこと言いました? 私」と戸惑った様子のサヤに、ミナモは笑いながら「あ、うん、何でもない。ちょっといつものイメージと違いすぎて」と言い訳をして、大きく息を吸って呼吸を整えた。
 ミナモが見慣れているのは、昼休みに図書室の受付カウンターのなかで可愛らしい小さな弁当箱を広げているサヤの姿だった。休み時間に図書室の決まった席に座って本を読むのがミナモの習慣になっていて、毎日のように見かけるその姿が気になってサヤが声をかけたことが、二人の知り合ったきっかけだった。
 借りていた本をミナモが返却すると「面白かったですか?」とサヤが訊ねるというのが二人の間ではお約束のやり取りになっていて、ミナモがお勧めだという本をサヤはそのまま借りて帰るのだった。
 学校に到着して駐輪場に自転車を停め終えて、昇降口に向かいながら「先輩、今度お手合わせをお願いします!」と真剣な面持ちでサヤに唐突に懇願されたのを「えっと、私のは武術とかじゃないから……」と誤魔化し「あ、私はこのまま裏庭に行くから、またあとでね」と軽く手を振って、ミナモは駆け出した。
 ミナモが裏庭の植物園に到着すると、クラスメイトのクシナがすでに水撒きを開始していた。
「ミナモ、遅いよー。手伝ってー」とシャワー状に噴出する水で大きな弧を描きながらクシナははしゃいで声を弾ませた。
「楽しそうじゃん」と大声で返したミナモに「あっち側まだだから、おねがーい」とクシナはホースの水で指し示した。指示されたほうに小走りで向かいながら、ミナモは小庭園ともいえそうな広々とした植物園に青々と茂った花や草木を眺めやった。すでにクシナの撒いた水を浴びている植物たちは、陽の光を受けて瑞々しく輝いて見えた。
 それから十分ほどかけて二人で手分けして植物園を潤し、ようやく水を止めて「温室は?」とミナモが訊くと「あ、ごめん」とクシナはすっかり忘れていた様子で謝った。「私、鍵もらってくるから、片付けよろしく」と言ってクシナは職員室に向かって駆けていった。
 ミナモが長いホースを丸めて備品庫に戻していると、すぐにクシナは戻ってきて、息を弾ませながら「お待たせ!」と言って鍵を掲げてみせた。蒸し暑いなかを走ってきたせいで、すっかり汗をかいてしまっていたクシナは、温室の鍵を開けるとシャワーを「霧」に設定してスイッチをオンにした。しばらくすると温室の上部に張り巡らされた管を通ってその先に取り付けられたシャワーから霧状の水が噴出されて、温室内を静かに満たしていった。
 霧を浴びてうっすらと透けたブラウスの裾をつかんでバタバタと煽がせながら「気持ちいいね」と満足そうに微笑むクシナに、女子校だからといって無防備すぎはしないだろうかとミナモは透けた自分の胸元を気にしながら、微笑み返した。
 水撒きを終えて温室を出ると外はすっかり炎天下で、木陰を選んで歩きながら「まだ始業まで時間あるね、ちょっと早く来すぎたかなー」とブラウスの裾をスカートから出したままの格好でクシナは校舎の中央に据え付けられている大時計を見て呟いた。
 食堂脇の自動販売機でジュースを選びながら「明日からもう少し遅めにする?」とミナモが訊ねると「ま、いいんじゃない。早起きは三文の徳? とか言うらしいし……ほら、当たった」と言って、クシナはペットボトルのアップルジュースを二つ取り出して、一本をミナモに差し出した。
 裏庭に戻って木陰のベンチに並んで座り、ジュースを飲みながらしばらくぼんやりと植物園を眺めていた。
「ミナモ、帰りカラオケ行く? ユメルとシマハラも来るけど」と遠くに視線を向けたままクシナが言うのを「ごめん、今日は叔父さんのところに寄るから」とミナモも黄色い大輪の花を見つめたまま返して「あー、また叔父さんかー」とからかうような調子のクシナに「違うし、そういうんじゃないし」と不貞腐れたようにミナモは言って「何も言ってないけどー」とクシナに笑われた。
 ミナモの父方の叔父であるクモキリ・シゲンは舞踊の師範をしていて、物心ついたころからミナモはそこでクモキリに代々伝わるという剣舞を習わされていた。剣舞と聞いてサヤは何か勘違いをしているらしかったが、ミナモが習っているのはかつて奉納の儀として執り行われていたものであり、恐らくサヤがイメージしているであろう激しい動きを伴う華麗でダイナミックな舞とはかけ離れた静謐なものだった。
「あ、ネズミ!」と言って勢いよく立ち上がったクシナは、駆け出していって目の前を通り過ぎようとしたネズミを踏み潰した。クシナのローファーの底が触れると、ネズミは水の玉が押しつぶされたように膨らみ、パッと弾けて消えてしまった。ネズミが消える瞬間の、泡が弾けるようなイメージに、ミナモはどうしても馴染めなかった。
「気持ち悪くない?」というミナモに「ネズミ? そう? どうせ消えちゃうし、別に反撃してくるわけじゃないし、社会貢献、ってやつ?」とクシナは笑い「放送でも言ってるじゃん。ネズミの駆除にご協力ください、って」と続けた。
 そんなクシナの言葉を聞いていたかのように、ミナモは本日二回目の市役所の放送を聞くことになった。

皆さま、ぜひ、ネズミの駆除にご協力いただけますよう、お願いいたします。

「ほらね」とクシナはいたずらっぽく笑い「うちのお父さんがさー、市役所勤めじゃん? 毎日苦情の電話がすごいらしくてさー。私もすこしは親孝行しないとなー、なんて。ま、ミナモみたいな“お嬢様”にはネズミの駆除はちょっとハードルが高いかな?」とからかい半分に言って短いスカートを翻してベンチへ戻ってきた。
 クシナの短いスカートと、そこから健康的に伸びた足を見つめながら、そういえば今年は短いのが流行っているらしい、とクラスメイトが話していたのをミナモは思い出した。ラフにはだけたブラウス、丈の短いスカートとソックス、そんな格好のクシナはとても涼しげで、たしかに猛暑の夏には相応しく見えた。たしか少し前まではひざ丈のスカートに、夏でも黒のタイツと長袖のブラウス、というのが一つのスタイルとなっていたはずだった。特にタイツはデニール高めの厚地のもののほうが清楚さが強調されるとかで、夏場でも厚地のタイツを履いていると尊敬(と同情)の眼差しを集めたものだった。そんな一昔前風の自分の格好を顧みながら、ミナモはすでに過ぎ去った流行のなかに取り残されたような気分になった。そういえば、サヤのスカートも自分に比べれば少し短めだったかもしれないと思い出して、ミナモは小さなため息をついた。
 自分だって子どものころはどちらかといえば男の子に間違われるようなタイプで、夏ともなればラフな格好で健康的に日焼けして、河原で遊んだり、山のほうまで探検に行ったりしていたのに、いつの間にか“お嬢様”なんてからかわれるようになってしまった、と考えて、ミナモは何だか寂しさを覚えたけれど、もしかするとそれは、自分のなかの「もう一人の自分」に抵抗する気持ちが働いたせいかもしれない、とも考えていた。
 もう一人の自分、というよりは、もう一つの記憶、のようなものが、物心ついたころからミナモのなかには芽生えていた。記憶のなかのミナモは、こことは違う海辺の小さな町に暮らしていて、祖父と二人きりの生活を送っていた。記憶のなかでミナモは「イチカ」と呼ばれていて、耳に覚えのないはずのその名前は、しかしたしかに自分のもののようにも感じられた。
 長い間、イチカが誰なのか、海辺の町がどこにあるのか、わからないまま、やけにリアリティのある夢の世界のような感覚でミナモはその記憶と付き合っていた。社会科の授業で「第一侵食」について詳しく聞かされるまで、ミナモにとってもう一つの「誰かの記憶」は、自分だけが知っている特別なお伽噺のような存在にすぎなかった。
 巨大な泡が町を飲み込んでいくという「第一侵食」を再現したイメージ映像をはじめて見せられたとき、ミナモは気分が悪くなって授業中に倒れ、保健室に運ばれてしまった。そんな経験ははじめてのことで、周囲からも散々心配されて、自分でも何が原因なのかわからずにしばらくは不安だったが、そのころから自分のなかの「イチカ」の記憶がより鮮明に、そして何かを訴えかけるように活発に呼びかけてくるようになったのをミナモは感じていた。
 それからというもの「イチカ」の衝動に突き動かされるように、ミナモは「第一侵食」について積極的に調べるようになった。侵食された町の名前、侵食される前の町の風景写真、町の中央の丘に建つ西洋風の城塞を模した大きな図書館、はじめて知るはずの何もかもが懐かしく感じられて、ミナモは戸惑った。
 調べを進めていくと、早い段階でネットワーク上にアップロードされていた被害に遭った町の住人の名簿が見つかった。アルファベットで表記された見慣れない大量の名前を一つずつ確認していく作業には数日を要したが、そのなかに「イチカ・ミカムラ」という名前を見つけたとき、ミナモは自分の心臓が高鳴る音を聞いたように錯覚した。
 ついに何かがつながってしまったような、後戻りのできないような恐怖感と、ようやく自分の存在と居場所が確認できたような安心感を、ミナモは同時に味わった。そして、もう一つ、この名簿にはまだ探すべき名前が残されているという、強迫観念にも似た強い気持ちが沸き起こってきた。
 イチカの祖父である「コウゾウ・ミカムラ」の名前はすぐに見つかったが、それは探していた名前ではなかった。それから数日かけて名簿を最後まで確認してみたが、けっきょくその名前を見つけることはできなかった。そして最後の名前を読み終えたと同時に、ミナモは探していた名前を、思い出した。その名前を入力して検索をかけてみたが、やはり名簿から彼女の名前が発見されることはなかった。
「シタルが、いない……?」
 思わず声に出して呟いてしまったのを、ミナモは自分の言葉ではないように感じた。ほんの短い期間だったけれど、たしかに自分はシタルという名の少女と一緒に夏を過ごしていた、という確信を「イチカ」はもっていた。そして、第一侵食によって泡に飲み込まれてしまう直前まで二人は一緒にいて、再会を約束したのだった。そのために、これまで自分はいろいろな場所や時間を彷徨って、今もこうしてここにいるのだ、と「イチカ」は思った。
「シタル……」と無意識のうちにミナモは呟いていた。
「ミナモ! 早くしないと授業はじまっちゃうよ」とクシナに促されてミナモが我に返ると、大時計の針は始業の五分前を指しており、二人がベンチから立ち上がって駆けだすと予鈴の音が校内に鳴り響いた。教室に向かって走りながら「その漫画、今度貸してね」とクシナに言われて、ミナモは一瞬何を言われたのかわからなかったが、すぐにベンチでの会話を思い出して「あ、うん、明日もってくる」と約束した。
 昼休みに図書室へ行くと、閲覧室のテーブルの一つに本が山積みにされていた。不思議に思ってミナモが近づいていくと、サヤが「先輩、見てくださいよ」といって本の山から一冊取り出して、その端が欠けているのを憤慨した様子で指さした。
 テーブルに積まれた本は、どうやらネズミの被害を受けて欠損してしまったものらしかった。昨日の夕方にたまたま欠損した本が一冊発見されたのをきっかけに、図書委員が手分けして調べてみたところ、すぐにこれだけの欠損本が見つかってしまい、深刻な被害状況に対して、放課後に緊急対策会議が開かれることになったということだった。
 ミナモが読みかけていた本を書架から抜き取ってみると、昨日までは何ともなかった本は後ろのほうのページから下の端が欠けてしまっていた。手にした本を「被害者」の山の上にそっと置いてから、ミナモは図書委員の作業を手伝うことにした。毎日図書室に顔を出しているミナモは、図書委員全員と顔馴染になっていて、彼女が作業を手伝うことに異論を差し挟む者はいなかった。
 いつか読もうと思っていた本に被害が見つかるたびに、これはたしかに深刻だ、とミナモはため息をついた。今朝のクシナの話ではないが、学校の図書室一か所だけでもたった数日でこの被害だとすれば、市に苦情が殺到しており、執拗に注意喚起のアナウンスがなされているというのもよくわかる状況だった。
「先輩、すみません。せっかく休みに来たのに手伝わせてしまって」と申し訳なさそうなサヤにミナモは「早く収まるといいんだけどね、ネズミ」と応じた。
 放課後になると、ミナモは予定通り叔父の家へと向かった。クシナたちと思い切り遊びたかったという未練は残っていたが、しばらく稽古のほうも休んでおり、久しぶりに叔父に顔を見せておきたかった。
 叔父の家に向かう途中、信号待ちで自転車を停めたミナモの横に、小さな兄妹と思しき少年と少女が並んでいた。ミナモが二人に目を留めたのは、少女の乗った車椅子を少年が押しているというその出で立ちが気になったからだった。車椅子の少女と目が合って、ミナモが笑顔を浮かべて「こんにちは」と声をかけると、少女はにっこりと微笑んで「こんにちは」と可愛らしい声で応えた。二人の声に反応するかのように少年はミナモのほうに顔を向けて「こんにちは」と快活に言ったが、少年の両目は閉じられており「兄は少し目が悪いんです」と少女が補足をした。
「どこかにお出かけ?」とミナモが問いかけると「はい、市役所まで」と兄のほうが答えた。ここから市役所まではかなりの距離があり、途中には急勾配な坂道もあることに思い至り、ミナモは少し心配になった。しかし、そんな気持ちを見透かされたかのように「お姉さん、困っている人がいたらきっと助けてあげてくださいね」と妹に言われてしまい、ミナモは戸惑った。
 いつの間にか信号は青に切り替わっており、兄妹は軽く会釈をするとそのまま横断歩道を渡って市役所のほうに向かって進んでいってしまった。横断歩道を渡った先で、しばらく二人の背中をミナモは見送っていたが、思いのほか速いペースで進んでいった二人の姿は大通りの角を曲がったところで見えなくなった。
 広大な敷地の周りを高い塀に囲まれて、入口には重厚な門扉を構えた叔父の家は、中に稽古場まであって、ここに普段から出入りしており、しかもそれが父親の実家でもあるのだとすれば、たしかに“お嬢様”と見られてしまっても仕方がないかもしれないとミナモはため息をつきながら、塀沿いに入口の門を目指した。
 玄関先に打ち水をしていた舞踊の弟子の一人であるフナイさんが「あ、ミナモちゃん、いらっしゃい」と軽く会釈して「待ってて、もう準備できてるから」と言って柄杓と水を張った桶を置いて奥のほうへ向かっていった。
 座敷に通されて、叔父と向かい合って座ったミナモは、たしかに父と雰囲気の似ているところはあるかもしれないが、引き締まった精悍な顔つきでスッと背筋を伸ばして正座した美しい佇まいの叔父と、リビングのソファに横たわって難しい顔をして読書をしている父とが兄弟だとは信じがたいと、いつも思うのだった。
 一見強面だが、物腰は柔らかく紳士的で、子どものころからずいぶんと可愛がってもらっていたこともあって、クシナが期待しているのとは別の意味で、ミナモは叔父のことが大好きだった。
「ミナモさん、いつもすみません」と熱いお茶で一服してから叔父は微笑し、ミナモも冷たい麦茶でのどの渇きを潤して「いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます。母も喜んでます」と受けた。
 叔父の家では月に一度、弟子同士の交流も兼ねて知り合いの茶道の先生を招いてささやかな茶会を催しており、そこで振る舞われる菓子をお裾分けしてもらうことになっていた。ミナモは身内ということもあって遠慮して茶会に参加したことはなかったが、弟子たちによって手作りされるおはぎの味は一級品で、母の大好物になっていた。
「今度、義姉さんにもご挨拶に伺わないといけませんね」
 是非、とミナモは叔父の後ろにある刀掛けに置かれた舞踊刀に視線を向けながら、その言葉に肯いた。
 包んでもらったおはぎを前籠の底に置いて、ゆっくりと自転車を走らせていく。雲一つなく晴れ渡った空には、徐々に傾きつつある真夏の太陽が大きく浮かび上がっていた。今日はきれいな青凪が見られるかもしれない、と思いながらミナモは山並みのほうへ視線を向けた。前方を数匹のネズミが駆け抜けていき、本日何度目かになる市の放送が街中に鳴り響いた。
 ゆるやかな坂を下り、カーブを曲がった先に、赤と黄色のシーツの塊のようなものが転がっていて、それを避けるためにミナモは慌ててハンドルを切った。あやうく踏みつけてしまいそうになって、かろうじて布の塊を回避したミナモだったが、うまく停止することができず、そのままバランスを崩して転倒してしまった。
 何とか勢いを抑えて倒れたミナモは、身体のあちこちに痛みがあるのを感じつつ、大きな怪我のないことを確認し、腰の辺りをさすりながら立ち上がった。避けようとした塊がいったい何なのか様子を窺いながら、ミナモは横倒しになっていた自転車を起こして、前籠から飛び出して転がっていたスクールバックを拾い上げると、スカートの裾を軽くはたいて整えた。
 黄色と赤のまだら模様の布に包まれていたのは、二十代半ばくらいの男だった。気絶しているのか眠っているだけなのか、にわかには判断できなかったが、まったく手入れのされた様子がない伸ばし放題のぼさぼさ髪と、口の周りに生えた無精ひげ、そして何よりも汗の乾いたような臭いから、ミナモは男を行き倒れの浮浪者であると認定した。
 そのまま放っておいてこの場を去ることもできたが、男の健康状態がわからないため、いちおう警察に連絡を入れたほうがいいのかもしれないと思案していると、それまで微動だにしなかった男が、とつぜん手を伸ばしてミナモの右の足首をつかんだ。
 ミナモが悲鳴をあげてその手を振り払うように足を動かすと、その足が偶然、男の額に命中してしまい、男はつかんでいた手を離してうめき声をあげながら両手で額を抑えて悶えた。
「ご、ごめんなさい」と思わずミナモが謝罪すると、男は額をさすりながら「だ、大丈夫……それより――」と言ってゆっくりと上体を起こし「何か、食べる、ものを」と絞り出すような声で懇願した。
 食べ物と聞いて、とっさにおはぎのことがミナモの脳裏によぎった。それは月に一度の母親の楽しみだったが、目の前の今にも飢え死にしそうな人を見殺しにするわけにもいかず、お母さんごめん、と心のなかで謝りながら、ミナモは包みをほどいて男におはぎを差し出した。
 差し出されたおはぎを手づかみすると、男はそれを勢いよく口に放り込んで、次々に平らげていった。男が夢中でおはぎを頬張っている間に、ミナモは自動販売機を探してミネラルウォーターを二本購入し、その一つを男に渡した。渡されたペットボトルを、男は訝しむように眺めていたが、ミナモが飲み口のキャップを捻って開けるのを見ると、それを真似して開封し、一気に半分以上を飲んでしまった。
 汚れた赤い袖で口元を拭いながら、男は「ありがとう、助かった」と微笑んだ。その屈託のない笑顔には、どこか無邪気な少年を思わせるところがあって、ミナモはすこし安心してほっと小さく息を吐いた。
 男はゆっくりと立ち上がって、それから両手を思い切りあげて伸びをした。並んで立った男の背丈はミナモよりも頭一つ分以上高かった。ミナモはどちらかといえば背が高いほうだったが、恐らく男の身長は一九〇センチ近いのではないかと思われた。その反面、飢えていたせいなのか、男の身体はやけに薄くて、その佇まいはまるでバランスの悪い電柱のようであった。彫りの深い男の顔は、陽に照らされて鮮明な陰影を作っており、明らかにミナモとは異なる人種であることを示していた。
 その異様なスタイルもさることながら、さらに男の異常性を際立たせているのはそのファッションセンスで、原色に近い赤と黄色がセンターできれいに左右に分かれたバスローブのような裾の長い服を着て、服と同色に分かれた先の尖った革靴を履いていた。
あり得ない、と思いつつも、見た目で判断してはいけないと思い直して、ミナモが「あの、どこからいらしたんですか?」と恐る恐る訪ねてみると、男は眉間に皺を寄せて目を閉じて、しばらく考え込んだ挙句、河向うの青い山並みのほうを指さした。
 まさか、この格好であそこからここまで歩いてきたのだろうか、と山のほうに視線を向けながら、ミナモは考えた。よく途中で通報されなかったものだと呆れつつも、男をこのまま放置しておくわけにもいかず、ミナモはどうしたものかと思い悩んだ。
「そうだ……」
 とつぜん何かを思いついたように男が呟いて、ミナモが視線を向けると、男はミナモと視線を合わせるように顔を近づけてきて「食べ物のお礼をしなくっちゃ」と言って、ニッと歯を見せて笑った。薄い唇の隙間から覗いた、きれいに並んだ白い歯がミナモには意外だったが、黒い餡子の残りかすがほんの少し残念に映った。
「何か困っていること、ないかい?」と軽い調子で男は言ったが、むしろ今現在ミナモが困っていることといえば、目の前の男の処遇をどうしたものかということだった。
 ミナモと男の立っている間を、数匹の小さなネズミが駆け抜けていった。ミナモが思わず小さな悲鳴をあげて身を引くと、男は素早くしゃがみ込んで最後尾の一匹の首根っこをつかんで持ち上げ、観察するようにじっと見つめた。
 触れたら泡が割れるようにパッと消えてしまうはずのネズミが、男の手の内でジタバタともがいている様を、ミナモは驚きと好奇心の入り混じった不思議な気持ちで見つめていた。間近で見てみると、それはたしかにネズミとよく似た形をしていたけれど、半透明な体の表面はプラスティックのようにつやがあり、細部のつくりはずいぶんと粗雑にできていて、まるでビニール製の無機質な玩具のようだった。
 不思議そうにネズミを見つめているミナモに「こいつをつかまえるにはコツがいるんだ」と男はいたずらな笑みを浮かべ「やってみるかい?」と訊いてきたが、ミナモは大きく首を左右に振って「え、遠慮しておきます」と断った。
 いつの間にかだいぶ陽も傾いており、遠くに見える山並みは、見事な濃紺に染まっていた。青い絵画のように霧のなかに浮かび上がった山の輪郭は、時が停止したかのような静謐さを称えて、町を包み込むように広がっていた。
「……きれい」と思わずミナモが呟いたのを聞いて「この町も、青く染まっているんだね」と悲しげな口調で言って、男はネズミをつかんでいた手を握りしめた。男の手のなかでパッとネズミが弾けて消えた。
「君はこの町が好きかい?」と訊ねられて「たぶん」とミナモは曖昧に答え「生まれてから、ずっとこの町しか知らないから」と付け加えた。男はバスローブのような服のポケットから、服と同じ黄色と赤のまだら模様の悪趣味な帽子を取り出すと、それを誇らしげに被り、もう一方のポケットから小さなハーモニカのようなものを取り出した。
「ハーモニカ?」
 ミナモの問いかけに男は無言の微笑で応え、取り出したそれを口元にあてがって、悲しげな旋律を奏ではじめた。悲しくて、それでいてどこか懐かしいメロディが、静かな夕暮れの町に響いた。曲が調子にのってくると男はその場に座り込んで、リラックスした様子で胡坐をかいて、身体を小さく揺らしながら演奏を続けた。
 スカートが汚れてしまうのを気にしつつ、ミナモも男の横に座り込んで、遠くの空に広がった青凪を眺めながらしばらく演奏に聴き惚れていた。その魅力的な旋律に惹かれるようにして、いつの間にか二人の周辺には大量のネズミが集まってきていた。
「ちょ、あの……え?」
 周りをすっかりネズミに取り囲まれて逃げ場を失ったミナモは、ただ戸惑いを口にすることしかできず、徐々に迫りくる無機質なネズミの群にただ恐怖を募らせるしかなかった。隣の男はネズミなど気にする様子も見せず、目を閉じて気持ちよさそうに演奏を続けていた。
 すでにネズミたちはミナモの目と鼻の先まで迫りつつあった。恐怖に声が上ずってしまい、悲鳴さえあげられず、ミナモは立ち上がってしがみつくように壁に身を寄せていた。何とか振り絞って「た、助けて……」と声をもらすと、ようやく男は立ち上がって、足元のネズミの群をかき分けるようにして、河のほうへ向かってゆっくりと歩きだした。
 男が歩きはじめると、ネズミたちはそのあとに続いて一塊となって移動していき、あっという間にミナモの周囲から一匹残らず消えてしまった。取り残されたミナモは、自転車に乗ってそのままその場を立ち去りたい気持ちでいっぱいだったが、男のことが気になって、あとを追うように河原のほうへと向かった。
 男のあとに続く半透明のネズミたちは、夕陽を浴びて焼けるように赤く輝いて見えた。炎のようなネズミに囲まれていると、男の着ている黄色と赤のまだら模様はまるで火柱のようだった。男は移動する間も演奏を続けており、その音色に惹かれて集まってくるネズミの数はどんどん増え続けていた。
 そのまま河原まで下りて行って、河縁で立ち止まった男が、これまでに吹いていた曲とは別の躍動感のある旋律を奏ではじめると、男のあとにつき従っていたネズミたちは踊るように飛び跳ねながら河のなかへと飛び込みだした。水面に触れると同時に、ネズミは泡へと姿を変えて、河にはまるで洗剤を流してしまったあとのように無数の泡が浮かび上がっていった。次々に増殖し膨らんでいく泡の様子を見ながら、ミナモは寒気を感じて背筋が震えた。
 巨大な泡が溢れていく映像が、悪夢のようにミナモの脳裏によぎり、直後、激しい頭痛に襲われた。頭の中身を強引に引き剥がされ、奪われてしまうような強い痛みに、思わずミナモは両手で頭を抱えてその場にうずくまってしまった。横で自転車の倒れる音が聞こえたが、確認するために目を開けることさえできなかった。閉じているはずの目の、まぶたの裏側には、暗闇のなかに無数の泡の残像が浮かび上がっていた。大きく膨らんだ泡が自分を包むように飲み込んでいく感覚、それから泡の表面が肌に触れるような感覚があった。まるで自分も泡の一つになってしまい、密着する無数の泡と一体となってしまったかのような奇妙な解放感があって、それから「イチカ」と自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
「イチカ、懐かしいな」
 すでに演奏を終えて、泡が消えかかってゆるやかな流れを取り戻しつつある河を眺めながら男は独り言のようにそう呟いた。
「ずっと昔のことのような、ついこの前のことのような、変な気分だよ」
 同じ調子で続けながら、男はハーモニカをポケットにしまい、夕陽を背にゆっくりと振り向きながら「ぼくは君に会うためにここに来たんだ。会って、ちゃんとお別れを言うために」と言って寂しげに微笑んだ。
「は?」と、ようやく痛みの治まった頭をさすりながらミナモはふらふらと立ち上がった。ミナモには、初対面の男にお別れを言われるような心当りは、なかった。もちろん、ここでお別れをして、あとは男のほうでうまくやってくれるならそれに越したことはないのだが……。そんなことを思いながらミナモのなかのイチカは「久しぶり」と返事をした。
「君の探していた人に、会ったよ」と言って男はポケットから再びハーモニカを取り出して「これは君に会うために彼女がくれたものなんだ」と撫でるような手つきでその表面に優しく触れた。
「詳しい仕組みはよくわからないけど、これは時間と空間をつかまえるための“波”を操る装置なんだってさ」
 男が何を言っているのか、ミナモにはさっぱりわからなかったが、イチカには何となく男の意図が伝わっていた。
「シタルは元気?」とイチカが訊ねると、男は何かを確認するようにハーモニカの側面を覗き込んでから「ああ、少なくともあと一〇〇年は……まぁ、ずいぶんと忙しそうではあったけど」と答えた。
「君もずいぶん遠回りをしてここにたどり着いたんだろ?」
「時間とか距離とか、もうよくわからない」
「たしかにぼくも同感だ」
 お互いの距離感を測るための、軽薄な会話が交わされた。
「さてと、ネズミ退治に向かうとしようか」と男はハーモニカを口元に近づけながら、ゆっくりと歩きだした。倒れていた自転車を起こしながら「え? ちょっと待って」とミナモが声をかけると「ぼくがお礼をすると言ったとき、君は助けてくれと言っただろう? ぼくは約束は守る男なんだ。約束というのが君たちにとって大切なものだってことは、君が教えてくれたんじゃないか」と言って、男はそのままハーモニカに唇を押しあててネズミたちを引き寄せる悲しい旋律を奏ではじめた。
 ぞろぞろとネズミを引き連れて行進していくのに、町の人々の目を完全に避けて通ることは難しかった。男の奏でるメロディと、市の流すアナウンスが、夕闇の深まりつつある町に響き渡り、大量のネズミの群を見た多くの人々は驚き戸惑い怯えた様子で立ち止まってその行方を見守っていた。
 ここ数日ですっかりネズミ退治に慣れてしまっていた子どもたちは、はしゃいだ声をあげながらネズミの群の上を駆け回って、大量のネズミを蹴散らしていった。子どもたちはネズミを次々に消していったが、それでもどこから溢れて来るのか、ネズミの数は一向に減ることなく、行進を続ける間にどんどん増えていった。
 先頭でハーモニカを吹く男のあとに、大量のネズミと子どもたち、それから市役所の駆除係やボランティアの大人たちが続き、いつの間にか大行列となっていった。ネズミを避けるために男に並んで先頭で自転車を押していたミナモは、振り返って自分の後ろで起こっている騒ぎを見るたびに居心地の悪さを感じた。
 行列は青く染まった山のほうへと向かって進んでいった。立ち込める青い霧が濃度を増していくにつれて、あとに続いてくる人の数は次第に減っていった。侵食の影響で青く染まった大地に触れると、ネズミたちは吸い込まれるようにして地面のなかへと融けて消えていった。麓から山道を臨むあたりまでくるころには、だいぶ霧が濃くなっており、もう人影はまばらになっていた。
 立入禁止区域の柵を乗り越えて、男は山のなかへと突き進んでいった。後方からは戻るように叫ぶ声が聞こえてきたが、男は構わずに先を目指した。そんな男の背中を柵の向こう側から見送る、つもりだったミナモは、けっきょく山の麓まで押してきてしまった自転車に鍵をかけて、前籠からバッグをつかみ取ると、男のあとに続いて歩きだした。
「先輩!」と呼ぶ聞き慣れた声に振り返ると、心配そうな面持ちのサヤが口元にハンカチを当てて立っているのが見えた。可愛い後輩に心配をかけるわけにはいかず、自分としても無理をしたくなかったミナモは足を止めて引き返そうと思いながら、軽く手を振って「大丈夫、すぐ戻ってくるから」とサヤに微笑みかけてしまった。
 麓とは異なり、山のなかはまだ侵食の影響を受けておらず、地面が青く染まっているようなこともなかった。町からついてきていたネズミの大半は青い大地に吸い込まれて消えてしまっていたが、山のなかを走り回っていた数匹が、男のハーモニカに引き寄せられて、その周囲に集まってきていた。
 多少は整備されているハイキングコースとはいえ、傾斜のある山道をミナモは息を切らしながら男を追ってのぼり続けていった。そのまま山頂を目指していくのかと思っていたのを、途中で男が脇の獣道へと入っていったところで、ミナモは一瞬あとを追いかけるのを躊躇し、しかしすぐに覚悟を決めて藪のなかへと進みだした。月明かりに照らされていた開けたハイキングコースとは異なり、木々に覆われた薄暗い獣道は歩きづらく、ミナモは何度も男の背中を見失いそうになりながら、ハーモニカの音と不気味にうっすらと青く発光しているネズミのゆらぐ影を頼りに必死に追いかけていった。男のほうでもミナモのことを気にかけてくれている様子で、ときどき振り返って立ち止まり、ミナモが近づいてくるのを待ってくれているようだった。
 そんなことがしばらく続き、ようやく目的の場所にたどり着いたのか、男は演奏をやめてミナモがそばまで来るのを待ってから「プロトタイプってところかな、まだ玩具みたいなものだね」と、叢に隠れていたネズミを一匹つかまえて持ち上げてみせた。
 男はポケットを探り、小さなケースを二つ取り出して、その一つをミナモに渡してから、ケースを開封してなかに入っていたイヤホンのようなものを耳に装着した。ミナモも男にならって同じようにイヤホンを装着してみたが、不思議と耳が塞がれたような感覚はなく、音が聞こえづらくなるようなこともなかった。
「しばらく着けたままにしておいて」と男はハーモニカの側面に付いている小さなボタンを操作しながら「絶対に外さないように」と念を押した。今までになく真剣な男の口調に、ミナモはもう一度、イヤホンを耳の奥にしっかりと押しこんで「大丈夫、だと思います」と返事をした。
「もともとネズミはたいした存在値をもっていないんだけど……こいつらはどうだろう?」と独り言のように呟いてから、男はこれまでとは違った重苦しい雰囲気の曲を演奏しはじめた。旋律が周囲に広がっていくと同時に、それまで細かく走り回っていたネズミたちの動きが硬直したように静止していった。ミナモはすぐそばの足元で停止しているネズミの様子を、目を凝らして見つめた。木々の隙間を縫って差し込むうすい月明かりしか照らす光のない深い暗がりのなかでも、濡れたようなつやをもったネズミたちは不気味に青く輝いて見えていた。
 その光が、徐々に失われていった。ネズミのつやは、乾燥していくように少しずつ失われていき、その表面に亀裂が走ったかと思うと、もうそれ以上形を維持することができないというように、粉々に砕けて崩れていった。周囲からはネズミが砕け散っていく渇いた小さな音がパラパラと響いて聞こえてきた。
 男が演奏を終えると、周囲は完全な静寂に包まれた。ネズミたちの気配や光が消えてしまうと、ミナモは急にこれまで感じていなかった不安を覚えて、辺りを見回してみたが、暗闇に微かに浮かぶ黒い木々の輪郭と、少し離れた場所に立っている男のぼんやりとしたシルエット以外、何も見当たらなかった。
「ああ、やっぱりそうか」と呟きながらポケットにハーモニカをしまってイヤホンを外す男の動きが、ミナモには不鮮明な影絵のように見えた。男に合わせてイヤホンを外すと、風に草木のそよぐ微かな音が聞こえてきて、多少はこのイヤホンにも効果があったのかとミナモは思った。
 月の光の射すほうを目指してゆっくりと歩きだした男に駆け寄って、ミナモは男に並んで歩いた。しばらく黙っていた男は「もしかしたら少しは使えるんじゃないかって、思ったんだけど」と言いながらハーモニカをミナモのほうに向けてみせた。ハーモニカには小さな液晶画面のようなものが付いて、そこには「0」という数値が並んで表示されていた。
「どうやらネズミの質と現れる時代にはあまり関係がないようだね」と男はため息をついて「少しは君の役に立てると思ったんだけど」と残念そうに呟いた。
 歩きながら、男は「存在値」というものについてミナモに話して聞かせた。それはある存在に与えられた時間と距離の値のことなのだ、と男は言った。ある存在が、どの程度の時間を、その存在として生きるのか、生きている間にどの程度の距離を移動することになるのか、それを数値として示したものをシタルは存在値と名づけた。存在値はそれぞれの存在に固有の値をもっており、生まれおちたときの最大値から、徐々に減少していき、命の尽きたとき、その値は「0」になるのだという。シタルはある存在の残りの命と引き換えに存在値をエネルギーとして利用することで、距離と時間を超えた移動を可能とするシステムを開発した。それがこの小さなハーモニカだということらしかった。
 男の話を聞きながら、あの機械音痴のシタルがまさかこんなものを作ることになるなんてと考えて、ミナモのなかのイチカは思わず小さな声をあげて笑ってしまった。
 次第に辺りが明るくなってきたかと思うと、周囲を覆っていた背の高い木々は姿をひそめ、二人の前にひざ丈ほどの高さの草が生い茂った草原が広がった。草をかき分けて進んでいく男の足元からパラパラと何かが砕けるような渇いた音が聞こえてきた。男のあとに続いて草原に踏み込んだミナモは何か硬質なものを踏み砕くような感触を覚えて、その歩みを止めて足元を見下ろした。
 彫刻のような、小さな白い腕が、ミナモの足元に転がっていた。それはとても精巧に作られており、異様な生々しさを帯びて見えたが、乾燥してうっすらとひび割れている個所もあり、ミナモの足先が軽く触れていた部分を起点として、ゆっくりと静かに砕けていってしまった。
 足を止めていたミナモに、男は振り返って「抜け殻みたいなものだよ」と何気なく言って「ここへ来るために、彼らを使ったんだ」と笑った。ミナモが「彼ら?」と問い返すと「ここの時間でいうと八百年前くらいかな? それに場所もずいぶん離れていたから、けっこうなエネルギーが必要だったんだよ。たまたまその時代に出会った人から、ここでイチカを見かけたって聞いたから、時間と場所さえわかっていれば、会うのはそんなに難しくないと思って」と楽しそうに言った。
「君みたいに、意識だけを飛ばしているやつらはけっこういるからね。そいつらのネットワークに引っかかりさえすれば、きっと会えると思っていたんだけど……。ぼくみたいにこうして身体ってものに閉じ込められてしまっているといろいろと不便でさ」と男は心底煩わしいといった表情で自分の身体を見下ろしていた。
「どういう、こと?」とミナモが問いを重ねると「ああ、ごめん、つまり、ここへ来るために彼らの存在値を使わせてもらったというわけさ。こんなに大掛かりに波を使ったのははじめてだったから、まさか抜け殻まで一緒にこっちに来ちゃうとは思わなかったんだけど」と男は無邪気に笑った。
 状況を理解したミナモは生理的な嫌悪感を覚えて吐き気を催した。その場にかがみこんで嘔吐しているミナモの背中に向かって「どうして君たちはそんなに身体ってものを気にするんだろう」と悲しそうに男は呟き「ぼくらが出会ったとき、そんなものはちっとも重要じゃなかったじゃないか」と拗ねた子どものように続けて「ねえ、イチカ、ぼくは君たちにとって何か間違ったことをしたのかい?」と質問した。
 スカートのポケットからハンカチを取り出して、汚れた口元を拭いながらミナモはゆっくりと立ち上がり、憐れむような気持ちで男を見つめた。そんな視線を気にするそぶりも見せず、男はミナモに背を向けて、折り重なった無数の抜け殻を蹴散らしながら先へと進んでいった。
 少し離れた場所で立ち止まって足元を確認した男は「残念だけど、もう波は消えてしまったみたいだ」と呟いて大きなため息をつき、しばらくその場に佇んだあと戻ってきて、ポケットから取り出したハーモニカをミナモに手渡した。
 掌に載ったハーモニカをミナモが眺めていると、男は何かを要求するように手を差し出してきた。
「イチカ、君たちのルールによると、何だってタダというわけにはいかないんだよ」
「お金とるの!?」と男の言葉に戸惑いながらも、ミナモは肩から下げていたスクールバックを開いて財布を取り出した。周囲の異様な状況のせいで、最悪の気分のはずだったが、男の軽薄なペースに乗せられたためなのか、それともイチカの強い意志が働いているからなのか、ミナモは冷静に財布の中身を確認している自分の行動もまた異様なものであると感じた。
 紙幣を一枚抜き取ろうとして、一瞬躊躇って、ミナモは銀色の硬貨を一枚取って、それを男に手渡した。男は硬貨を月の光にかざすように高く掲げて、しばらく眺めていた。
「これがこの時代のお金、ってやつか。ぼくにはよく理解できないけど、これは君たちにとってはとても重要なものなんだろう?」とその小さな金属を男は不思議そうに掌のうえで転がすように弄び「ありがとう、記念に一枚もらっておくよ」と微笑んだ。
 ポケットに硬貨をしまい込むと、男は何かを思案するような面持ちで月を見上げながら「ねえ、イチカ。君にとっては身体とお金、それとも約束、どれが一番大切なんだい?」と訊ねた。
「前にぼくがお金を欲しがったとき、彼らはそれを惜しんで約束を破った」と何かを回想して呟きながら、男は開けた草原を離れるように歩みを進めていくと、大きな木の根元に腰を下ろし、硬い幹に背中を預けるようにしてもたれかかった。ミナモは正面に立って、力を抜いてぐったりとした様子でだらしなく座り込んでいる男の姿を見下ろしていた。
「私は約束を叶えるために、シタルを探してる」とミナモは言った。
 男は小さく肯くと「相手が約束を忘れているとしたら?」「その約束が君の勘違いだとしたら?」「相手に約束を守るつもりがないとしたら?」といった言葉をゆっくりぽつぽつと呟いていった。
「それを確かめるために、会いたいんだ」とミナモははっきりと、言った。
「なるほど……。イチカ、ぼくは君との約束を守って、あの星から君を連れだしてあげただろう?」と男は目を閉じて、遠い昔を懐かしむように深くて低い声で言った。その声に応えて、ミナモは小さく肯いた。
「今度は、ぼくの頼みを一つ聞いてくれないかな」と男は片目を開いて、ミナモを見上げた。
「私にできることなら」とミナモが応じると「そのマシンをぼくにかざして、画面に数値が表示されたら確定ボタンを押してくれ。そうしたら何か一曲、君の好きな曲を聞かせてくれないかな」と再び目を閉じながら男は願いを口にした。
 指示されたとおりにハーモニカを操作しながら「その格好、どうにかならなかったの?」とイチカがからかうと「これは君がぼくを見つけやすいようにわざと《おかしな》格好をしているんだ」と男は軽く口の端を上げた。
 何の曲を吹こうかと考えて、祖父に習った懐かしい曲、海辺の小さな町に伝わる民謡の穏やかなメロディが浮かび上がってきた。
 イヤホンを再び装着し、唇をハーモニカに押しあてて、確かめるように軽く息を吹き込んでみると、うすくかすれた音が小さく響いた。懐かしいメロディを思い浮かべながら、一つひとつ旋律をなぞるように、ゆっくりとミナモは演奏をはじめた。
 ハーモニカに設定された数値は、男のためだけの特別な周波数を示しており、曲の流れにしたがって、徐々に男の存在値を奪っていった。その存在が薄れていくにつれて、男は次第に渇き、色褪せていった。
 目の前で薄らいでいく男を見つめながら、ミナモははじめて聞いた懐かしい曲を奏で続けていた。とつぜん強い風が吹いて、ミナモが目を閉じた瞬間、木にもたれかかっていた男の身体は倒れ、砕け散って、白い灰のようになり、そのまま風に乗って流されるようにどこか遠くへと消えていってしまった。
 あとにはハーモニカの穏やかなメロディだけが残されていた。

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