《窓のある部屋》

作品プラン

《窓のある部屋》

私は今回、「日本私小説美術のアップデート/わたしの日本の風景」を描きました。

この作品の目的は、大きくふたつのことが挙げられます。「現在の日本の風景と自分自身にしか機能しない記号の出会いによる新しいイメージの創造」、そして、「かつてなくなってしまったものと自分(作品)を接続すること」です。
私が日本というものを題材に扱おうとするとき、どうしても必ずある問題に行き当たります。それは恐らく今を生きる私たちの多くがそう感じているように、過去に実際に起こったことはおろか、たったいま起こっている物事に対してさえ、なぜか切実な実感を持てないという事実です。では、私自身がありありと実感できることとは何でしょうか。それは自らが小さい頃に起こった出来事・自分が実際に経験したことです。しかし日本の現代美術が内向的、私小説的なものに偏りやすいことは度々指摘されており、かつそれは今なお氾濫し辟易する事態です。とはいえこの揺るぎない蔓延りは、おぼろげな日本(美術)の精神を掴むための、重要なヒントを示唆していると捉えることもできます。現在の、このほとんど絶望的な日本美術の有り様に風穴を作る為にも、むしろあえて極めて個人的な、私自身が過去に作り出してしまったニセモノのおまじないのマークを、相対的に用いることによって、あたらしい日本の風景のイメージの錬金を試みました。

 

さて、この日本現代美術の内向性に反発するように、美術家たちがアトリエから飛び出し、社会に介入していく動向も確認できます。ところが皮肉な事に、誠実な態度と配慮の結果、これらはジャーナリズムに陥ったり、ままごとに過ぎないものであるとしばしば批判されます。現実的な政治的意志を投入すればアクティビストに成り代わり、他方みずからの軽薄さを肯定すれば、たちまちひやかしに終わってしまうことが殆どではないでしょうか。このような状態にある今こそ、絵画の力について検討したいと思います。
物体としての、そして長い美術史においても必ず軸として語られる絵画は、ひとり部屋に籠って誰と関わることもなく生み出されるものだとしても、それが優れたものであれば(そしてあらゆる巡り合わせによって)、いつか何かの拍子に未来のどこかの誰かに届きます。はじめに、ずっと前になくなってしまったものと自分を接続することについて書きましたが、これは過去だけでなく未来も含めて、作品を接続させることも意味しています。なぜなら私たちはそれぞれ、もれなくとある日死んでしまうし、自分たち自身が「なくなって」しまうためです。そのうえ私たちは、日本という悪い場所が、美術における知的な比喩だけでなく、実際の地質学的にもそうであることを知らされています。それでも祈るように、こちらから信号を遠い未来人へ送ることは、芸術の大きな意義とロマンのひとつであると考えます。

この実現のためには、少なくとも、未来に作品が残っていることが前提です。そのために今回は、ハードウェアに依存せずに存在できる自立した物体であること、場所を取らない(移動/運びやすい)ことを必要条件として設定し、制作しました。

 

 

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