《手の届くところまでが手の届くところ》ステートメント

作品プラン

《手の届くところまでが手の届くところ》ステートメント

私の周りには社会問題は無い。
それは嘘であり、本当である。日本の私の日常の中に投げ込まれるマスメディアが伝える新聞やテレビやネットの中の出来事は「出来事」であるが「お話」であり「フィクション」であるとしても、日常生活の上では「問題」は無いとして過ごせる。身近な者の上に起きた出来事は「問題」として扱われるが。どこか遠くの土地で戦争をしていたとしてもミサイルがこちらに飛んで来ない限り、または、どこか遠くの土地で天災が起きたとしても余波がこちらに及ばない限り。それは嘘であり、本当である。オオカミが来たぞ!、と誰かが叫んでもオオカミが来ない。叫んだ者は統合失調のように扱われる。個人の中の社会問題は実生活に直接の影響を及ぼさ無い限り問題が生じ無いように見える。または、生じない。そして問題意識も生じ無い。だから、ここではない遠くからやって来た問題は無くなってしまう。そして、その遠くの範囲も私たちが手を伸ばしても火傷しない程度に離れていれば遠くなのだ。
私たちにとっての問題は、日常の自分の手の届く範囲で起こったことである。問題は、問題として起こった際に、処理できるものが処理されて、のちに問題が起こったとされる。処理されなかったもの、処理できなかったものについては、問題として扱われるが、処理できななかった問題としては扱われず、処理しなくても済んだ問題に置き換えられる。処理出来る範囲の問題には取り掛かるが、範囲を越えれば逃がしてやる。または、問題が問題として見えなくなった頃に、問題を別のものに摩り替えて処理する。この国が国際的に参加した戦争という出来事は未だ問題のままだが、そこに辿り着くまでの近代化の部分や明治維新という出来事はほぼ熱が冷めて、お話に摩り替えられ、或いは神話化され、感情の上で消費されている。昔々、などの遠い過去のお話として、現在の感情に乗せて二次創作するのである。社会の価値観の変化を自覚できた頃にタイムカプセル化したパンドラの箱を開けて、それから漸く熱心に箱の中をつついて吟味していくのである。問題の問題とは、問題が解決されなくても、問題が済まされてしまう、または、問題が変化してしまうことだ。
それらは本当であり、嘘である。二次元の世界から三次元の世界を眺めるように、個人と社会との認識の物差しは変わる。近親の死では泣けても、遠い土地の誰かの死には同情はするかもしれないが泣けないのだ。そして、泣くべきかも解らない。誰かを近親に摩り替えてまで泣くべきかも。そもそも、泣くという行為が感情という回路を通して吐き出されている。私は感情を排した回路を辿りたい。感情という次元から遠く離れた次元から、近親の死も見知らぬ誰かの死も等価になる地点から、私たちに備わっている情緒を思い出したい。

 

 

22_五十嵐大輔_160508課題_写真

文字数:1153

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