自分が「ポップカルチャー」の枠の講師に入っていることに気づいて驚きました。なぜなら、僕自身の執筆のキャリアは、短編作品をはじめとする大衆文化では「ない」アニメーションの可能性についての考察から始まったからです。(その成果は『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』という書籍にまとまっています。)

しかし確かに、最近、僕はポップカルチャーと呼びうるものについて思考をめぐらせつつあるのかもしれません。実際、『21世紀のアニメーションがわかる本』はポップカルチャーの領域にも足を踏み入れるものでした。この本は今世紀に入ってのアニメーションの変化について、世界的な市場を視野に入れた劇場用長編から、鑑賞される範囲がきわめて限られる短編まで網羅して語ろうとするものでした。いやそれどころか、他の表現分野においても、きっと同じようなことが起こっているはず、というボンヤリとした確信とともに書いた本でもありました。

そんなようにあいまいで広い射程を持たせようと思ったのは、僕自身の関心というかカルチャーに対する原体験が短編アニメーションそのものになかったからかもしれません。僕が物量的に最も多く吸収してきたのは(まだ何かを執筆したことはないですが)インディーズを中心としたポピュラー音楽であり、(いまちょうど初めてのまとまったものを執筆中ですが)ゲームでした。マンガや映画も、おそらくアニメーションに比べれば断然多い。今回、批評再生塾に講師として呼ばれたことは、そして、「ポップカルチャー」の枠で講師を務めることは、僕自身のアニメーション論が、アニメーション以外で積み重ねたポップカルチャーの経験を元に、それをアニメーションに援用するものであったという自分の立ち位置を再認識させてくれました。

そんな気づきを元に課題を考えてみました。とても抽象的に言えば、あなたはなぜここにいるのかを考えてみてください、ということかもしれません。

具体的に書いていきます。自分が今ここにいてこのようなことをしているのはなぜだろう?と考えたときにふと思い出すのはとりわけ音楽との遭遇です。音楽というか、むしろ特定の音でしょうか。中学生のときに背伸びして買ったオアシスのセカンドをCDラジカセで聴いて、一曲目「ハロー」のイントロのギター音を「うるさいな」と思ったことだったり、高校生のときに背伸びして買ったビルト・トゥ・スピルの『キープ・イット・ライク・ア・シークレット』の一曲目「プラン」をCDラジカセで聴いて「うるさいな」と思ったことだったり(繰り返し)、ペイヴメントの『ブライトン・ザ・コーナーズ』の一曲目の「ステレオ」のイントロを聴いてCDウォークマンが壊れたと思ったり、もしくは新宿のタワレコにいたときにフレーミング・リップスの『ソフト・ブレティン』の一曲目「レース・フォー・ザ・プライズ」のイントロが流れた瞬間、頭をぶち抜かれるような思いをしたことだったり、そういった”イントロ経験”の積み重ねが今ここへと自分を導いてきたような気がします。あれらの爆発するようなイントロ音との遭遇の前と後で、世界の景色もまた随分と変わったなと今になってみれば思いますし、今でもなお、そのとき自分が起こった衝撃が何なのかを繰り返し考えてしまうのです。

それらの”イントロ体験”は、同じような体験をした、同じような価値観と知識を共有する人たちのいる場所に集うことで、ある程度咀嚼可能にはなります。でも、どうしても、そこからはみでてしまうものもある。それはつまりどういうことかといえば、あるポップカルチャー的事象が見せてくれたもの(これらはコミュニティ内で共有できる)とは別に、その事象のなかに自分だけが見出してしまったものもある、ということです。

今回の課題で追求したいのは、その後者の部分です。あるポップカルチャーの事象との遭遇は、確かにあなた個人としての経験を世代や地域といったコミュニティの経験へと接続するフェーズをもたらしたでしょうが、さらにその先にまで広がる射程を持っていなかったでしょうか? 極端な言い方をすれば、中間的なコミュニティのその先の、たとえば人類としての経験であったり、もっと極端にいえば、無生物も含めた地球の経験、もしくは一回性のある宇宙の経験にまで広げていける可能性はなかったでしょうか? 自分が想定していなかったものが、揺さぶり、そして新たな地平でものを見せてくれたこと。それが、自分を新たなコミュニティに連れていってくれたこと。ここまではよくあることです。ここにいるみなさんならばほぼすべての人が通ってきていることでしょう。ではその先は? ここにいるようなみなさんなら、同世代、同じ経験をして、先輩や同輩、後輩たちとかりそめのコミュニティを作りつつも、誰もついてこられないところまでその広がりと射程を感覚してしまった瞬間というものをどこかに抱えているはずです。そのときあなたには何が見えてしまったのか? それを追求するとき、あなたは再び(いや、初めて、でしょうか)孤独になっているはずです。そしてその場所こそが、あなたの批評家としての立ち位置なのではないかと僕は思います。

ちなみに、これらのことは、僕の『個人的なハーモニー』という本の重要なテーマでもありました。ほかでもないあなたの元にしか訪れず、あなたにしか生きられなかった何かについて認識すること、です。それが本のタイトルにもなっていた「個人的なハーモニー」でした。今回の課題は、ポップカルチャーがもたらしたその「個人的な」瞬間を描き出してみてほしい、ということでもあります。ちなみにノルシュテインは、芸術は時代とともに進歩するわけではない、ということを語っていました。そのときその場所ごとで、宇宙のなかの自分の立ち位置を確かめていく行為こそが、芸術創造だと言うのです。おそらく、芸術の受容体験についても同じことが言えるはずです。

改めて課題をまとめます。ポップカルチャー的事象との遭遇によって、あなたには何が見えてしまったのか、それを今回の課題では文章化してください。その事象が何を見せてくれたのか、だけではなく。課題に取り組むにあたって、あなたの個人的なポップカルチャー体験をベタにそのまま書いてくれてもいいのですが、なるべく自分語りを排したかたちで書くことも試してみてほしいということです。「個人的な」瞬間を、あなただけに固有の固定的で限定された現象として記述することを試みる……それは間違いなく、あなたの特有の出来事であるにもかかわらず。この課題は巨大な対象・領域を自らに降ろす経験を目指すものです。なので、あなたの既知にすべてをおさめてしまわぬよう、心がけてほしいということです。そのために、あなたの経験でありつつあなただけの経験ではないものとして書いてみてください。おそらくそのためには、文体などの工夫も必要となってくるかもしれません。文章が読み手の脳裏に浮かばせるイメージそれ自体が重層的かつ流動的に(僕の本が書くところの「原形質的に」)混ざりあうような文体が必要になってくるかもしれません。僕にとっては、『個人的なハーモニー』という本がその実践でした。音楽体験とアニメーション体験が混ざり合うことで(異なるコミュニティの掛け合わせというのも今回の課題のひとつの取り組み方として有効かもしれません)、僕自身の姿は後景化され、自分だけのものではない瞬間として拓くことができました(…と僕は思っています…)。

講師の専門はアニメーション映画ですが、ベースとなるポップカルチャー的事象について、みなさんが取り上げる題材は何でもかまいません。文字数の指定も特にありません。この課題をきちんとやれば、おそらくですが、自分の原点に立ち返るために繰り返し参照しうるような文章が書けるのではないかとなんとなくですが思っています。僕自身が読みたい文章もそういうタイプのものです。あなたと宇宙の交流の両方が混ざり合った状態の残滓が漂うような文章を、ポップカルチャーとの遭遇をベースに書いてみてください。なので必ずしも批評のようなルックにならずともよいのですが、批評としても十分に通用するものが書けたとしたら大成功なので、そこまで狙ってみてください。批評再生塾という場で取り上げるには勇気がいるような固有名詞がもたらした十代の頃の原体験をベースにしてみてもいいかもしれません。逆に、大きな地殻変動を起こせるかもしれませんし。

<運営による追記:今回ゲスト講師から文字数制限はありませんので、批評再生塾の基準である「2000字~8000字」を選考対象とします。また、今回提出されたすべてのテキストに対するチューターからのコメントはこちらからご覧いただけます。>

課題提出者一覧