ぼくも今回で3度目の出講ですが、今期の課題を振りかえると、全体的にデカい課題が多い。というわけで、ぼくもデカい課題を(笑)。

 

「2010年代の映画文化の状況を踏まえながら、今日の「観客」の内実をかたどる概念ないしキーワードを、具体的な作品分析とともに提示せよ」

 

今日の映画批評について考えるときに、「観客性spectatorship(s)」への問いは欠かせません(これはまた、ゲンロンが実践している「観(光)客の創出」や佐々木敦さんのパラフィクション論とも通底していると思います)。

たとえば、今年、蓮實重彥は自身を特集した『ユリイカ』誌のインタビューのなかで、かなり唐突に、こんな考えを表明しています。曰く、「本当に見つづけなければならないのか? ことによると、あるとき見ることをやめてしまうことこそが最大の映画批評であるという可能性もあるのではないか?」(「「そんなことできるの?」と誰かに言われたら「今度やります」と答えればいいのです」)。

この蓮實の発言は、おそらくはぼくを含め、長年、かれの批評文を読んできた少なからぬ読者を大いに戸惑わせるものであったでしょう。周知のように、かつて「表層批評」という標語で要約され、大きな影響力を誇った蓮實の批評的方法とは、あくまでも観客の瞳に映る具体的かつ物質的な「画面」のみから理路を組み立てるというものでした。そして、その批評的=観客的倫理は同時に、当時の映画・映像の支持体であったフィルムの物質性と関係していたこともいうまでもありません。

それは、蓮實の薫陶を受け、今回の批評再生塾の講師でもある黒沢清監督の作品読解についても当てはまるでしょう。ごく最近でも、蓮實が鋭く指摘した『岸辺の旅』のクライマックスで画面を横切る鳥の影のイメージをはじめ、無数の不穏な細部に満ちた黒沢映画について、これまで多くの観客=批評家たちが、そうした特権的な「画面」から魅力ある読みを導きだしてきました。しかし、以上のように「画面を見ろ」とひたすらにいい続けてきた蓮實が、ここに来て(あえて)「見ることをやめてしまうこと」の生産性について語りはじめたことは、今日の観客性の変容について考えるときにあらためて兆候的です。

そして、この蓮實のある種の「態度変更」は、他方でいままさに生まれつつある新たな映像批評の可能性とも呼応するものでもあります。その一例が同じく今年刊行された『21世紀のアニメーションがわかる本』で著者の土居伸彰さんが提示する、「空洞化」や「私たち(性)」、あるいは「原形質性」という刺激的な概念群でしょう。土居さんはここで、表層批評とは対照的な、画面に映るもろもろの細部を空虚な記号として捉え、観客がそれらをどう「誤解」して読みとるのか、その気散じ的なバグこそが重要だと主張していたりする。

いずれにせよ、こうした観客性の変容は、もちろん作品そのものの変容や社会の変遷とも密接に関わっているでしょう。どんなアプローチからの論述でも構いませんし、場合によっては批評対象を映画や映像に限定する必要もないかと思います。アクチュアルな観客性の「再発明」は、(かつて蓮實が小津安二郎やクリント・イーストウッドに対して行ったように)黒沢映画の新たな可能性を「再発明」することにもつながるはず。何より、2010年代の「観客性」について考えることは、まさに塾生のみなさんがその場所に立とうとする「批評家」とは何か、という問いそのものにまでそのまま拡張可能なものです。

今回は、ぜひこの問いを突き詰めて考えていただきたいと思っています。

<運営による追記:今回提出されたすべてのテキストに対する下読み委員からのコメントはこちらからご覧ください。>

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