かきとめたいこと

浦野すずは初めて空爆を目の当たりにした時、それを描きたい衝動に駆られた。その時、手を繋いでいた幼い黒村晴美の命を奪い去るものだとしても。シュトックハウゼンは911のテロについて「あれはアートの最大の作品」と発言した。それが多くの人々の命を奪ったものだとしても。

中沢新一は著書『緑の資本論』にてシュトックハウゼン事件を彼の発言を含め取り上げている。

「あの事件については……みなさん頭をリセットしてよく聴いてくださいよ。……あれはアートの最大の作品です。……私はルシファーのおこなう戦争のアート、破壊のアートの身の毛もよだつような効果に驚いています。 もちろん、それは間違いなく犯罪です。罪もない人々が否応なく多数殺されてしまったんですから……しかし、霊的にとらえれば、このような安全からの逸脱、自明性からの逸脱、日常生活からの逸脱は、ときどきアートの世界でもおこることなのですがそんなものには価値がありません。しかし、いま言ったことはオフレコにしてください。誤解されると困りますからね。」

マスコミとシュトックハウゼンとのこのやり取りはオフレコにはならず、翌日には「あれはアートの最大の作品」という部分だけが放送さる。そしてすぐさまシュトックハウゼンの全作品が上映される予定だったハンブルク音楽祭は中止となり、その日のうちに彼はハンブルク市を追い出されることとなる。なぜシュトックハウゼンの発言は問題になり、浦野すずの発言は問題にならないのか。なぜ誰も浦野すずに嫌悪感を示さないのか。

もちろんシュトックハウゼンの発言が炎上した理由の大きいところはマスコミの印象操作が入ったからに過ぎない。しかし彼は確かに安全や自明性からの逸脱がアートの世界でおこると自覚し、発言している。私たちはまさにそれを恐れているのだ。文化や芸術は自分自身を破壊する力を持っていることを、自覚することを恐れているのだ。

東日本大地震の後、未曾有の災害を作品化することへの欲望と抵抗が渦巻いた。多くのアーティストたちは自分自身の欲望と抵抗に動揺した。実際私も被災地に入り、すっかり変わってしまった風景を目の前して浦野すずと同じように、書き留めておきたいという衝動にかられた。自然と人々が起こす破壊行為はあまりにも美し過ぎた。私は現在もその動揺の中にいる。

しかし「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」というテオドール・W・アドルノの言葉は誰しも一度は聞いたことがある有名なフレーズだが、詩作をすることの野蛮さ、つまり忘れることも書き留めることも野蛮となってしまう、乗り越えなければいけない文化の存在は今ではすっかり忘れ去られているようだ。

野蛮ではなく「不謹慎」な発言は取り締まりや炎上の対象にはなるが、すべての惨状は記憶しておかなければいけないと、全ては忘れてはいけないと、アーカイブプロジェクトや震災後のアートは盛んとなった。この世界の片隅で起こっていることさえも、いや、片隅だからこそ忘れてはいけないと、『この世界の片隅に』は人々の間で賞賛を受けている。

浦野すずが空爆を描くということは何を意味しているのか。それは悲惨な惨状を後世に伝えたいとう義務感からの制作や、悲惨な風景を描くのではないのは確かだ。あまりに美しすぎるのだ。それは見た目の美しさではない。美しさとは私たちの文化の持つ破壊行為が、私たちの叡智を超えて世界に現れるという現象のことだ。

果たして私たちはこんなにやすやすと、空爆を見てしまった浦野すずを受け入れてしまっても良いのだろうか。文化の両義性を知ってしまった浦野すずを受け入れても良いのだろうか。それを語ることも、忘れることも野蛮ではなかったのか。

『この世界の片隅に』を賞賛することは、文化の野蛮さを乗り越えることなのか。逆にシニシズムに陥ったりナチュラリストになることが文化の野蛮さを乗り越えることなのか。もちろんそうではない。浦野すずは実在の人物ではなく、漫画の映画のなかの登場人物の一人だ。実在しているのは浦野すずではなく、それを描いたこうの史代だ。しかし浦野すずを描いたのだからこうの史代も同じ感情や理性の持ち主だろうというのは、少し話が早すぎる。作者は物語りの登場人物たちの全てではない。こうの史代は紙の中の世界を描き止めるこちら側の世界の住人にすぎない。

私たちは物語りの向こうの世界にも、文化の野蛮さを持ち込んでしまった。この世界とあちらの世界はパラレルな存在なのだから、物語りという世界ができた時点で文化の野蛮さはすでに持ち込まれているのかもしれない。あちらの世界に持ちめば、こちらの世界の野蛮さは少しは減るのだろうか。浦野すずが、空爆に欲望を見出したことを描けば、こちらの欲望は減るのだろうか。否、それは鏡面のように増えこそすれ、減りはしない。しかし、こうの史代は書き留めずにはいられない。それは世界中に溢れている現象だからだ。

文化を乗り越えるとは言葉はたやすいが、その実態はつかみどころがない。私たちは、乗り越えるために空爆をみて欲望した浦野すずをこうの史代を超えてこちらの世界に召喚しなければならない。その方法が賞賛という形では文化に抵抗はできないし、「不謹慎」というタグ付けでは多義性を確保できない。欲望と動揺のありかを問い続けなければならない。

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