よろづ自由にして、大方人に従ふといふ事なし

小説はわがまま。言葉は音と意味を持つ。両者は離れては近づき、他とくっつくいた後に戻ってくることもある。戻ってこないこともある。私たちはその性質を知っていながら知らんぷりして生きている。なぜなら知らんぷりをしないと、矛盾に沿ってしまうと分裂症を起こしてしまうから。人間がもつ本来的な分裂症へと向かう道に気がついてしまうから。言葉は何かから何かを引き剥がす行為。つまり言葉を与えることはそれ以外から区別をする、取り上げる、分裂させること。新しい世界は、世界を認識する統合への道のようでいて、分裂への道である。小説家はその特性を活かしたり殺したりしながら読者の脳内に彼らの世界を刻んでいく。駄作や傑作を問わず、言葉を扱う小説は無理や道理を承知で通す。小説の中のわがままをこれから論じてみたい。

人々の不安が風船のように危うく膨れ上がる中、堪えきれず発せられる叫び声。その声はもはや自分の声なのか他人の声なのか区別をつけることができない。大江健三郎の小説『叫び声』は、「私」が私であるがゆえに「私たち」に回収されてゆく様が描かれている。現実の叫び声は、その声色や声の発生場所から誰が発したのかは特定できるが、小説が描く「私たちが共有する不安感」は、文字であるがゆえに身体と精神の領域を曖昧にしている。

JG・バラードの小説『ハイ・ライズ』は、高層アパートにおける社会的属性のヒエラルキーの肥大を実生活に投影することで起こる不条理を描く。下層階に住むものたちは、上層階に住むものたちに虐げられる。上層階の人々は下層階の人々からの侵略に脅かされる。各階層に住む人々は一度仮想敵を設けてしまうと、そのアパートから離れられる権利を忘れ、住人たちは個人ではなく、たかが社会的な属性の中で死を賭した戦いを続ける。

『ハイ・ライズ』の恐怖の感情と暴力の描写は先にあげた『叫び声』と同じように、個人の持つ不安を社会的な問題へと発展させる手法をとっている。それでいて個人の内面を描写することで、身体と感情を入れ違いを可能にしている。なぜなら「社会」自体がそもそも概念的なものだからだ。個人も概念的かもしれないが、身体を伴う個人を概念に推し進めるには一度、個人と結びつく社会構造に落とし込み、その上で個人を語ると個人がより簡単に概念的な存在となる。

さらにその手法が進んだ例として、フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?Do Androids Dream of Electric Sheep?)』が挙げられる。象徴としての老人が苦悩の象徴として永遠に歩み続け、そして永遠に石を投げ続けられる。ここにも身体における苦悩と精神の苦悩を入れ違いにした描写がある。さらに、あまりに人間的なアンドロイドによって、あまりに生物的で愛着を与えられた羊はビルから突き落とされる。領域の曖昧性を身体と感情のみならず、AIと人間という生物と無生物へと置換することで、人間の欲望と倫理の向こう側を描く。

文字から想像される脳内の映像は鮮明ではあるかもしれないが、映画や絵画のように現実の絵として固定はしずらい。一度脳内ではっきりと描かれた絵とて、ピントを合わせるたびに表現は少しづつ変化する。現実の自分の家族の顔も頭の中で描くと細部は曖昧になり、描く度に少しづつ変化する。小説では、その曖昧性が身体と感情の表現を入れ替え可能にしている。この随筆自体も、いい加減に内容と意味を混合させて書いている。混合はしようと試みるからできるのはない。勝手にそうなってしまうのだ。どのように操れるかが小説家の腕の見せどころだ。

さて。物質と精神の領域横断が可能な表現は、映像を伴わない文字つまり文学だけなのか。映像は身体と精神の領域を自由に行き来することはできないのか。もちろん答えはノーだ。テリー・ギリアム監督の映画『未来世紀ブラジル』では、主人公の妄想や夢と現実を同じトーンで映像化することで、観客に映画内における現実と妄想の区別の曖昧さを試みる。その映像的な混乱を精神の崩壊と重ねている。どの映像が現実で、どの映像が妄想なのか。観客の判断の不安定さからくる感情を映像に結びつけることに成功している映画だ。

小津安二郎監督は映画『お早よう』は、日常生活において言葉と意味のずらしが多用される。今日の天気を聞く言葉は相手への好意の意味を持ち、意味のない「お早よう」は社会の潤滑油としての重要な意味を持つ。セリフ運びの意味のなさから、意味の深みを掬いとろうとしている。そこには言葉だけでなく、大げさではない表情や人間同士の物理的な距離の映像描写が必要となる。文字では野暮ったくなりがちな、距離感を描く。

デヴィッド・リンチ監督『ロスト・ハイウェイ』は、登場人物の脳内の映像と現実が交差するのではなく、登場人物そのものを短い時間軸の中で入れ替える不思議な映画だ。抽象的だが映画内の映像は登場人物の妄想ではなく、現実のこととして描く。その理不尽な現実に映画内の他の登場人物でさえ戸惑う。このように全てを理不尽な現実として描くことで、この映画は現実ではなく意思の道理を通している。意味が理解できなくとも映像の流れを楽しみながら物語を進められるのは映画の特権の一つと言えよう。観客は映像の楽しさゆえに後追いで意味の解釈をする。

ここまでで、いくつかの映画と小説を例に挙げて身体と精神や意思の表現方法を論じた。文字による図像の曖昧性を活かした小説、映像による意味の曖昧性を活かした映画。その両者に甲乙はつけられない。そして重要なのは、今この論じているこの随筆は映像ではなく文章だ。言葉で、言葉の世界の捨て子である小説と映像の世界の捨て子である映画を同等に論じれるのか。答えはイエスでありノーである。

柳父 章は『翻訳語成立事情』において、自由という項目の見出しを「はき違えられることば「自由」」として以下のように書いている。

「自由」ということばは、正しく理解されればいい意味であり、「はき違え」て理解されれば悪い意味になる、というように、私たちは漠然と考えがちであるが、そうではない、と私は考える。問題は、理解の仕方にあるのではない。母国語の中に深い根をおろして歴史を担っていることばは、「はき違え」ようがないのである。

「はき違え」られている「自由」は、翻訳語「自由」である。

ということで、私は今回「自由」を翻訳語ではなく、徒然草で書かれている自由、つまり我が儘な捨て子と解釈して論じた。

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