映画と小説が寄り添う「永い言い訳」

西川美和の新作「永い言い訳」は、彼女は元々小説を書き、それを元に映画化した作品である。『今回はいきなり映画用の脚本を書くのではなく、先に小説の形式で物語を作ってみることにする。』*1 映画を含めて四年間をかけて、この作品を作り上げたという彼女のエッセイ「映画についての覚え書き2」は、克明に今回の作品の製作過程が記述されている。映画としての「永い言い訳」と小説の「永い言い訳」は、それぞれ差異も有りながら、まるで補完し合うように存在していることに気づかされる。

映画界全般において、小説の映画化は多く乱立されている。現在公開中の「フィティシェイズオブダーガー」は元々は、大ヒットした官能小説の二作目である。これらの現象は、作る側や配給する側としては商業的な意味で、読者を劇場に運びやすい。もしくは、見た後に小説を買い読む。など、消費者の消費を生み出しやすい、もしくは劇場まで出向きやすいなどの資本主義的な意味合いを感じる。SNSやレビューサイトを見ていても、このような作品の感想は、小説がいいか映画がいいか。という二つある異メディアにおける同一作品の優劣である。

しかし、今回取り上げる西川美和「永い言い訳」は、私自身は映画を観てから小説を読んだのだが、この作品の小説と映画はお互いに補完関係にある。小説であるからこそ活かせる部分と映画だからこそ活かせる部分が、絶妙に描き分けられている。

「永い言い訳」は津村啓、本名衣笠幸夫という作家の妻である夏子が、スキー旅行中のバスで事故に遭い、その友達であるゆきとともに、亡くなってしまう。彼は、妻を亡くしながらも大きな悲しみは訪れずれなかった。事件後に大宮ゆきの夫の陽一とその子どもたちとの交流を通して彼の心情に変化が現れてくる作品である。

この作品は、小説と映画は大まかに話の筋は同じである。大きな違いと言えば陽一が映画版では寝不足で事故を起こしてしまうが、小説版ではデリヘル嬢に誤って怪我をさせてしまう。もう一つに小説と違い、映画のラスト幸夫は、最後に「永い言い訳」という小説を発表して終わる。小説版ではそれについて明言されない。そこから、映画の原作というよりは、映画の津村啓の書いた「永い言い訳」とも言える。

まず小説版の特徴として、それぞれの視点から小説は描かれている。章ごとに人物の名前が配され、心情が描かれる。妻の夏子の描写は、ほぼ映画版では省略されているが、小説では彼女の感情の吐露が、書かれている。幸夫の愛人、陽一の息子の真平を章の頭に持ってきて、それぞれの内面表現が描かれている。このように、多数の目線から、小説は描かれている。これは映画との大きな違いではある。それぞれに読む中で、人物の内情を理解しつつ、物語の全体が捉えやすい。小説の特性と言ってもいい、多数の視点が、非常に有効に使われている。

一方映画はどうであるかというと、それとは逆にあくまで津村啓/衣笠幸夫の視点を中心として、話は展開される。彼に感情移入させるように物語は進行していき、ラストは彼が止まっていた書くという行為が再開され「永い言い訳」が出版されるというカタルシスが待っている。ひたすら、自意識の高い幸夫が、陽一の子どもたちとの触れ合いを通じて、子どもを持つという可能性があったこと。(劇中、子どもはあくまでリスクでしかいないという幸夫の発言がある。)いつまでも子どもで在った自分(夏子を理解しようとしなかった。という後悔。)に気づかされて物語は、終焉を迎える。あまり、多くの視点を取り入れる訳でなく、ある程度幸夫に絞って描かれていることが、大きな感動を生んでいると言える。

これに関して、小説と映画を比べた時に、映画は視覚に訴えかけてくるところが非常に強い。実際、幸夫はビジュアル的にも、美容師である夏子に切って貰っていた髪を切ってもらえず、冒頭の短髪から終盤は長髪から変化している。また、最後には夏子の経営していた美容師の従業員の店に行き髪を切ってもらう。ここの所はメディアとしての映像は、実際視覚情報として提示できるところの強みを生かしたものが、リアルにせまるわけである。演出を通して、映画は彼女の発言にもある「ありもしない虚構の世界に引きづり込む。」*2力を持っている。

小説は、何を書こうにも自由であり、ページ数だけ増えていく中で、予算は関係ないという彼女の発言もある。「店にはザ・ローリングストーンズの『ジャンピングジャックフラッシュ』がかかっていた。」*1このシーンを映画で実際実現した際に、これだけでこの曲の版権含めて、何百万というお金が掛かってしまう。映画では中々実現できないことであると彼女は言う。

小説内において映画と違い、彼の本名が取り出されることが多い。衣笠幸夫は、衣笠祥雄(鉄人と呼ばれた広島カープの元野球選手)を思い浮かべるわけであり、彼がそれに対して小さいうちから苦しむという思い出も小説の中には現れる。(野球は避けて生きてきた描写が小説版にはある。)明らかに、衣笠幸夫と呼ばれることを嫌うシーンが、続出する。真平との会話の中で、

幸夫「野坂昭如って小説家」

真平「さち・・・・・・衣笠さんより、年上のひと?」

 この会話の中で、幸夫は夏子が、大宮家に訪れた時には、真平や灯に津村啓としてでは無く、衣笠の苗字で呼んでいることが分かる。表向きは、津村啓として体裁を整えている彼が、妻である夏子が、妻として本名で呼ぶのは当たり前のことであるが、彼は妻に対してもその呼び方に嫌悪を覚えている。この場面の後そう呼ぶことに対して、真平を許す。バス事故の中での後を追ったものとして、テレビの仕事が彼に来るところで、テレビで衣笠幸夫という本名を自ら明らかにしたという記述も出てくる。これは映画の描写の中では無い場面である。悩み続けた自分の名前が自意識過剰に彼が考え過ぎであるということを捕えた表現と言える。

両バージョンが、多数の角度から作品を解釈できるところから、脚本のノベライズ化としての役割を超えて、小説として存在していると言ってもいい。この作品自体が、西川美和自身の私小説(彼女自身自分の子どもは居ず、幸夫は小説家であり、彼女も小説家とも言える。子役を使ったことがなく今回の作品で実際に使うことによって、彼女は思い通りに行かないながら作品を完成させた。)とも捉えられる。

この映画版が完結を目的としてないように思える。フィクションであるのは前提としてあっても登場人物がまるで生きているかのように、永く物語が続いているように思える。西川監督自身、作品外に多くの仕掛けを残している。本作のDVDとBlu-rayのライナーノーツでは、無事目的地に着いたら出すはずであった夏子の手紙が記されいたり、パンフレットに付録として付くDVDにも、本木雅宏のインタビューを収録しているが、そこで彼女は彼に本人である本木雅宏というより、演じていた津村啓を求めている。我々の周りで起きていることのように知人のように「永い言い訳」の登場人物たちからは、生に満ちた息吹を感じる。

*1 「映画にまつわるXについて2」西川美和著

*2 DVD特典メイキングにおける発言

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