人類、または、モービィ・ディック

 

 失敗を繰り返そうとすることはさらなる失敗への第一歩であり、何も捨てずに新たなものを手に入れることはできない

――霧間誠一

 

 ハーマン・メルヴィル『白鯨』の「エピローグ」は、物語の語り手イシュメールの生還をもって幕とされる。三日間の戦いの末、白鯨に敗北したピークオッド号の、唯一の生存者である彼は、海上で渦に巻かれる最中、棺桶をブイ代わりにして救助船を待ち続け、ついに生還を果たす。ゆえに、彼は事件の生き残りとして、過去を振り返りつつ物語の語り手を務めることができる。
 二〇〇四年に刊行された岩波文庫版『白鯨』の訳者である八木敏雄は巻末解説にて作品の円環構造に触れつつ、「『白鯨』の語り手イシュメールは、あの「エピローグ」からふしぎな文学空間を経由して冒頭に「再登場」してくる」と書いている。
 この事実は意味深長である。なぜなら、『白鯨』には「エピローグ」が存在しない版が存在するとされているからだ。一八五一年の十月、ニューヨークでの出版に一ヵ月先がけて、ロンドンで刊行された版がそれにあたる。「エピローグ」が不在となった理由は諸説あるが、真相は定かではない。ニューヨークの版以降は、「エピローグ」が存在する。この不在の問題について、八木は「もしこの作品に「エピローグ」がな」ければ、「『白鯨』の冒頭にイシュメールがあれほど颯爽と「再登場」できたかどうかは疑問であ」ると書いている。
 では「三日間の戦い」、「エピローグ」、「ふしぎな文学空間」という三地点を経由して冒頭へ現れるはずだったイシュメールは、どこへ行ってしまったのか?

 本論の主旨は次の通りだ。冒頭へ戻り白鯨探索から三日間の戦い(第二の航海)を繰り返すはずだった彼の行方は、『白鯨』とはまったく別の作品にあるのではないか。「再登場」した彼が再び挑むはずだった戦いは、『白鯨』ではない作品で再演されているのではないか。そして、その作品との接続から、「三日間の戦い」、「エピローグ」、「ふしぎな文学空間」の三地点に宿る『白鯨』の物語の力の秘密に迫ることができるのではないか。
 結論をまず最初に述べておこう。本論で挙げる作品は、普通に考えればメルヴィルの『白鯨』とは縁もゆかりもない作品である。しかし作品を分析したとき、そこには明確に、あのピークオッド号の乗組員たちと白鯨との死闘が再演されている。
 その作品とは、上遠野浩平の「ナイトウォッチ三部作」である。

 この作品について、まずは概要を述べよう。「ナイトウォッチ三部作」は、二〇〇〇年から、二〇〇二年まで長編三作が刊行された、上遠野浩平による宇宙SFである。『ぼくらは虚空に夜を視る』『わたしは虚無を月に聴く』『あなたは虚人と星に舞う』の三作品(以降、順に『虚空』『虚無』『虚人』と表記)の世界観はすべて共通しており、人類が外宇宙へと進出した先で遭遇した虚空牙という謎の存在との闘いと、カプセル船や月面基地などで冷凍睡眠した人々の見る夢(そこはコンピュータによって現代社会が再現されており、人々は自分たちが絶対真空の宇宙空間にいることを忘れられるようになっている)という二つの世界が並行し重ねられて語られる。要は、人類の宇宙進出の物語というSF的世界観に、十代の若者の自意識的悩みなどを扱った青春物の世界観が重ねられた作品なのだ。
 しかし本論では、その世界観の重ね合わせ自体には大きな意味を見出していない。ここで重要視すべきは、虚空牙と、虚空牙と戦うための人類側の兵器ナイトウォッチの二つである。それらはいかなる存在なのか。

 この二つの対峙は、人と怪物の対峙である。ただし、虚空牙が人、人類側が怪物なのだ。虚空牙は光の巨人の姿をして人類の前に現れる。一方、それに対するナイトウォッチは、「鳥やら恐竜やら人やら虎やら蛇やら翼竜やら――サイズも生きていた時代もバラバラな生物の骨を寄せ集めて組み上げた超巨大な”骨細工”」であり、端的に「怪物」と描写される。ここにはイメージの逆転がある。人類のイメージは怪物として現れ、人類の敵たる虚空牙のイメージが逆に人型として現れる。
「ナイトウォッチ三部作」は、人(虚空牙)と怪物(人類)の戦いを描いている。本論はここにこそ、『白鯨』における人(イシュメール)と怪物(白鯨)の戦いの重ね合わせを見出そうとしている。それは同時に、あの三地点(「三日間の戦い」「エピローグ」「ふしぎな文学空間」)の秘密の重ね合わせでもある。
 では「ナイトウォッチ三部作」における「三日間の戦い」ならぬ「三部作の戦い」とはどのようなものだろうか。本論は『白鯨』と「ナイトウォッチ三部作」の重ね合わせこそを重視するので、その意味は常にイシュメール=虚空牙の視点から考えなくてはいけない。虚空牙の戦いの動機とはなんだろうか? それは作中では「人類の考察」であると語られている。

「我等は、我等こそが、ずっと考察してきた――おまえたち人間は一体、なんなのか、と」
(『虚空』239頁)

「虚空牙は人間の心を通してしか、人間というものを把握できない」
(『虚人』216頁)

「そいつは”死”で満ちているために心というものが理解できずに人類をいじっている」
(『虚無』103頁)

 作中で、虚空牙の力は人類を圧倒しているとされながらも、彼らが人類を本気で殲滅しようという意志を見せることはない。それは彼らの目的が、人類殲滅ではなく、人類の考察にあることの証左と言える。虚空牙は人類を理解するために、人類と対峙している。
 だがその考察は空回りする。物語中の時間にして、少なくとも虚空牙は数千年以上もの時を、人類の考察に費やしているが、その試みは成功の気配を見せない。虚空牙は「心を通して」人間を理解しようと試みるが、そもそも、その「心というものが理解でき」ない。虚空牙の試みは失敗が宿命づけられている。
 失敗を宿命づけられた戦い。それが「三部作の戦い」の意味である。
 そしてまた、『白鯨』における「三日間の戦い」もまた失敗を宿命づけられている。語り手イシュメールは、未来のある時間から、過去を回想する形で物語を語っている。ゆえに「三日間の戦い」は語り始めた時点ですでにイシュメールたちの敗北が決まっている。

 二つの戦いは失敗が宿命づけられていた。それでは、その次にくるはずの第二の地点、「エピローグ」とは何だろうか?
 言葉通りに捉えれば、それは終着点のことだろう。しかし私たちは、そのあとに続く「ふしぎな文学空間」を経た「再登場」を知っている。とすれば、「エピローグ」とは終着点のことではない。それは中断点と考えるべきだ。物語は一度、「エピローグ」にて(完結ではなく)中断される。そしてまた冒頭へと回帰する。

 ところで、上遠野浩平は中断に取りつかれた作家である。例えば、彼の代表作である「ブギーポップシリーズ」に登場するブギーポップという怪人は、十代の若者たちの間で「その人が一番美しいとき、醜く老いさばらえる寸前に」殺しにくる死神として語られており、そこには若者がもつ「老いの中断」という願望が込められている。あるいは同シリーズで「世界の敵」と呼ばれる異能力をもった存在たちは、世界のもつ可能性を止めてしまう(中断する)、現在の世界にとって危険な存在として描かれている。他、「事件シリーズ」に登場する探偵役EDは、戦地調停士という、国際間の紛争を調停(中断)する役職を務めているなど、例は枚挙にいとまがない。
 また、彼の作品は(ノベライズなどの数作を除き)ほぼすべてが世界観を共有しており、過去現在未来、さらには異世界までが接続しあう世界観は、上遠野サーガと呼ばれている。そのサーガは決してリニアで単線的な物語群とは言い難い。例えば、虚空牙という存在一つをとっても、「ナイトウォッチ三部作」をはじめ、「ブギーポップシリーズ」や「ソウルドロップシリーズ」にも登場しているし、あるいはナイトウォッチについても、未来の地球の戦争を描く『冥王と獣のダンス』(二〇〇〇年)に登場を果たしている。しかし、それらは物語的な繋がりは薄く、各作品の間には断絶がある。出版順に作品を並べた時、各作品の物語はまるで幾度も中断と再開を果たしているかのように見えることだろう。
 実は『白鯨』も同様の中断につかれている。八木敏雄は『『白鯨』解体』(一九八六年)で、『白鯨』の各章をグリッド状に配置し、その章の内容ごとに「物語」「仕止め鯨学」「はなれ鯨学」「劇形式」「準劇形式」「出会い」の項目を作成し、グリッドを色付けしたモザイク図を作成している。その図からは、『白鯨』もまたリニアで単線的な物語とは言い難い構造をもち、物語や鯨学はたえず中断と再開を要請されていることがわかる。その構造は上遠野サーガがもつ構造と重なり合っている。
 また、三部作の三作品目である『虚人』の物語(つまり「ナイトウォッチ三部作」のエピローグの地点に相当する)は、虚空牙によってその機能を停止させられていた宇宙港およびナイトウォッチが、その活動を再開するといった内容である。

 ここまで、第一の地点「三日間(三部作)の戦い」=失敗の宿命、第二の地点「エピローグ」=中断という図式を確認してきた。それでは第三の地点「ふしぎな文学空間」とはいったいなんのことか。最後にそれに触れなくてはいけない。

 まずは「ナイトウォッチ三部作」から考えよう。そのエピローグ的作品である『虚人』の物語のラストは、宇宙港でただ一人の人間かつ、ナイトウォッチの操縦士であるキョウという少女の帰還を、宇宙港の人工知能である公坂が「待つ」という選択をする場面で終わる。キョウの帰還は絶望的であり、公坂の選択は無意味かもしれないことが示唆されている。虚空牙は、そんな人工知能に、待つのをやめ、自分たちとともに人類の観察を行わないか、と誘うが、公坂はそれを断る。虚空牙は公坂の決断が変わるのを「待つ」と告げて去っていく。
 イシュメールが「エピローグ」で選んだ選択もまた、「待つ」ことだった。

 わたしはその棺桶につかまり、ほとんどまる一昼夜、おだやかに挽歌をかなでる海原をただよった。(中略)二日目に、一隻の帆船がちかづいてきて、ついにわたしをひろいあげた。
(『白鯨』(下)409頁)

 イシュメールは漂流二日目にして、帆船に救出される。「待つ」という行為を経て彼は生還する。しかし思い出してほしい。それは「エピローグ」が付された『白鯨』のイシュメールである。「エピローグ」不在の『白鯨』のイシュメールは、帆船に救出されることなく待ち続けている。ゆえに『白鯨』冒頭への「再登場」はかなわず、再び登場するのは、待ち続ける別の物語「ナイトウォッチ三部作」だった。そこでイシュメールは、虚空牙として物語を生きている。
 イシュメール=虚空牙の物語は、果てのない「待つ」という行為の物語にほかならない。虚空牙の人類への攻撃は、人類が外宇宙に進出した際に始まった。しかし実際には、虚空牙と人類の接触は、それより以前から始まっている(例えば、上遠野のデビュー作であり、現代を舞台とした物語である『ブギーポップは笑わない』(一九九八年)で、虚空牙という名称こそ使われていないが、既に虚空牙と思しき宇宙人が登場している)。にも拘わらず、イシュメール=虚空牙は外宇宙で人類を待ち続けた。そして戦いが始まってからも、彼らは人類を殲滅するギリギリの状態で生かしながら、外宇宙の果てへ人類が向かってくるのを待ち続けている。

 思えば、『白鯨』もまた「待つ」ことを巡る物語でもある。イシュメールをはじめとしたピークオッド号の船員たちは、「三日間の戦い」の最中、モービィ・ディックの姿が海上に現れるのを待ち続ける。長大な物語全体は、数多くの中断を挟みながら、その「待つ」時間へと収束していく。世界中の海を旅してきたピークオッド号は、その移動距離に反して、耐えず「待ち続ける物語」でもあった。
 そしてこれこそが第三の地点「ふしぎな文学空間」の正体であろう。
 イシュメールは「三日間の戦い」「エピローグ」、そして「ふしぎな文学空間」を経て冒頭に戻る。これを物語の章構成にそって考えてみると、第一三三章~第一三五章(「三日間の戦い」)から、「エピローグ」へ進み、そして冒頭である第一章へ戻るために、第一三五章から第一章までを、逆向きに進んでいく。「エピローグ」から冒頭へ向かうために経由したこの一三五の章、つまりは『白鯨』という物語全体が、「ふしぎな文学空間」を形成する第三の地点だったのだ。
 そして「ナイトウォッチ三部作」にも同様の「ふしぎな文学空間」が存在する。実は、三部作の刊行順は『虚空』『虚無』『虚人』だが、その時系列は逆になっていて、虚空牙との戦いの始まりから数えて、『虚人』が半世紀後、『虚無』が数世紀後、そして『虚空』が数十世紀後となっている。ゆえに、『虚人』という「エピローグ」を迎えたイシュメール=虚空牙は、それから数十世紀もの間、「ふしぎな文学空間」=「ナイトウォッチ三部作」で人類を待ち続ける。
 イシュメールは過酷な海の上で白鯨を待ち続けた。イシュメール=虚空牙は、宇宙空間の虚空の海で人類を待ち続けている。そして彼らは物語に再登場する。

「待つ」ことは時に失敗と中断を物語に呼び込む。それらは様々な世界や情報を接続し直し、巨大なモザイク図のような物語群を形成する。その完成図こそが、『白鯨』であり、「ナイトウォッチ三部作」なのだ。待ち続けることによって物語が動き出す。そこには「待つ」ことのポジティブ性が宿っている。「待ち続ける物語」が継続するかぎり、そのポジティブ性は失われない。言い換えれば、イシュメールが再登場を果たす限り、物語はその力を失わない。

 

 危険で長い第一の航海のおわりは、第二の航海のはじまりにすぎず、第二の航海がおわると第三の航海がはじまり、それが永遠にくりかえされる。 

――『白鯨』ハーマン・メルヴィル

 

 

※本文中と末尾の引用は次の版を使用した。
八木敏雄訳『白鯨』(上、中、下)(岩波文庫、二〇〇四年)
上遠野浩平『ぼくらは虚空に夜を視る』(徳間デュアル文庫、二〇〇〇年)
上遠野浩平『わたしは虚無に月を聴く』(徳間デュアル文庫、二〇〇一年)
上遠野浩平『あなたは虚人と星に舞う』(徳間デュアル文庫、二〇〇二年)
また、冒頭の引用は上遠野浩平『ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティブ・エゴの乱逆』(電撃文庫、二〇位一六年)

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