このみかんは誰のものか

そもそも自由って何?

そもそも自由とは何を示していうのだろうか。例えば「料理」の場合、「時短」という言葉が流行っているが、冷凍食品を買ってきて、短時間で調理をし食を取り、その後の時間を満喫する。それは冷凍食品に限らず、「ちょい足し」のようなちょっとした裏技で料理が劇的に変わるなどの方法も存在する。かたや1から材料を購入し、この場合きっと食材はオーガニックで無農薬でとまずは食材にこだわり、じっくり出汁をとり、弱火でコトコト。その後じっくり1つ1つ丁寧に調理をし、時間をかけてゆっくりご飯をいただくも気づいたら夜に。それでも「時短」では味わえない贅沢な1日を味わうことができた。この場合、自由に料理を作ることができる、もしくは自由な時間を作ることができる、どちらが自由と言えるのであろうか?

これは「料理」に限ったことではない。「DIY」という言葉が人気を博し、専門のショップも出来ている。週末には多くの人が訪れ、いってしまえば日曜大工が流行っているが、これはIKEAやニトリなどで買ってしまえば、安く早く済むものにも関わらず、敢えて遠回りを楽しんでいるようにも見える。自分が少しでも関わるということに意味があり、それはその出来上がりという自分だけの満足ではなく、SNSに写真をアップすることを中心としたそのあとのコミュニケーションまでの満足を踏まえて設計されている。先に述べた「料理」と同じように、これまでであればその場の満足、ある個人や隣人の満足度=自由であったものが、SNSという空間が出来上がったことで自由という意味合いも変わってきたのではないだろうか。そんな奥深さを踏まえた上で自由ということを考えてみたい。

一度話は脱線するが、このSNSという存在、先日テレビでやっていたが、「ディズニーランド」にて危険エリアでも構わず、どこかしこでも写真を撮る人が現れ、それにより危険エリアが封鎖されるということが起きている。この「写真を撮る」という行為が最優先でその場所をカメラに治めることに一心不乱になる姿、そこにはルールは存在せず、ただ欲しいものを手に入れたい、そんな姿、何かに似ていないだろうか。そう、「ハト」である。目の前にエサがあると察する否や、一直線にその宝物へ向かう。その時は周りのことは関係ない。「ハト化する現代人」。「平和の象徴」であるハト、そんな平和の象徴にはルールは存在しない。それも確かに自由とも言える気がする。

ただこの現象をもう少し細かくみると、自分が写真を撮るという行為だけではその活動は完成しておらず、自分が SNSに写真をアップし、そこに何かしらのリアクションが加わることで完成する。その関係性の余白までをも担保している。この「未完の余白」、これは小説の自由度を考える上でも一つ、参考になるのではないだろうか。つまり自作品だけでは完結しないということを自由としてみる。

「未完」はどう浸透してきたか

「未完」ということでその他のジャンルを調べてみると、文学はもちろん、映画、音楽、建築、絵画など様々なジャンルが出てくる。未完ということで各ジャンルへの知識がそこまで豊富でない人間でも知っているものといえば、『サクラダファミリア』が有名だろうか。2020年に完成するとされているが、果たしてそれまでに完成するのであろうか。またガウディ没後100年の2026年という説もあるが、そもそも完成まで300年と言われていた代物である。更新される技術や環境によって、これだけ期間が短縮で来たということは、この余白に関わる人が増えたことによる産物だということができる。一方、ワイドショーなどでよく聞くのは「映画」ではないだろうか。出演者に何かしら不祥事などがあった場合、制作途中で終了になってしまい、そのまま1から作り直す場合もあるが、もしそうならなければ未完になる。ただその場合、その未完の状態が世間に出ることはないので、そこで終わってしまい、何かしらの関係性、余白を残すことができない。音楽であればどうであろうか。クラシックの場合は多々存在しているようだが、現代でも同じようなことがあり、ビートルズは、すでに死亡していたジョン・レノンの未完成音源をバンドメンバーがつなぎ合わせて作成した『フリー・アズ・ア・バード』と『リアル・ラヴ』を発表し、こちらは結果イギリスのチャートにも入る結果となり、すなわち客観的に多くの人に届く結果を残すことができた。

それでは小説はどうであろうか??これまで多々の作品が未完成で終わっているものがあるが、その中に『グッドバイ』という太宰治の小説がある。愛人をたくさん囲ってしまった編集長の田島がそれまでの気持ちと変わって、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しようと、これまでの女たちと上手に別れるべく、「すごい美人」の永井キヌ子を従え、女房を演じてもらうことで、解決していくという彼の珍騒動。現代でも心痛い男性がいるかもしれないが、これは太宰の未完の作品である。様々な女性と別れていくというこのストーリー。未完ながらもそのユーモア溢れる設定が魅力となり、本作に着想を受けいくつかの映画や劇作品が作られた。ケラリーノ・サンドロヴィッチもその一人であるし、劇だけでなく、『恋と門』の羽生生純も漫画として現代風にアレンジしてリリースされ、これまでの太宰ファン以外にも目に触れる機会ができた。このように未完だからこそ続いていく、終わらないという風にも捉えることができるのではないだろうか。

もう一つの視点からの未完

未完、それは完成しているか否かということに留まらないと考えてみる。例えば小説の場合、読み手が進めようとしなければ話は進まない。ページを開いたままテレビをつけながらビールを飲み、そのまま眠りふけった場合、それが音楽や映画であれば目が覚めた時に話が完了しているが、小説の場合は完了しない。ページは勝手に進むことはあり得ないのである。つまり先ほど述べた「未完」という状態はその作品自体の未完もあるが、読者が関わるか関わらないか、そして読み進めるか否かという、自由にそのものに関わるかを選択できるという意味でも「未完」ということができる。

例えばこれが先のガウディの『サクラダファミリア』であれば、その場にいくこと、遠くにいてもその写真や映像を見ることができる。これは時代が進めばより精度の高い状態で体感できるようになる。それは開発技術も同様である。だけど太宰の『グッドバイ』は想像の範囲でしかその先を体感することはできないし、それは見方を変えればどんな世界、キヌ子と田島の関係はいくらでも想像することができる。ひょっとしたら田島の性器が怪物化して、世界を終わらせてしまうかもしれない。どんな物語でも存在しうる。ただしこちらが関わろうとするその姿勢があってこそがゆえ、相手の世界に身を委ねることにもなる。気持ち次第では自分の時間を奪われると考え、不自由にもなりうると考える人もいるであろう。でもその選択こそが自由であるということを証明している。

そして、何より「未完」という響きがいい。ここで終わりではない、もっと可能性がある。君も参加できる。そんな遊びや喜びの塊である「未完」。僕の好きなセリフがある『マリアビートル』という伊坂幸太郎氏の小説中で「蜜柑、おまえに教えてやるけどな、『うるさい』は褒め言葉じゃないぞ」。ストーリーに関係なく描かれているどうでもいい世界、想像を呼び起こすような言葉、その字面から起こる想像は自分だけのものだ。そんな自分だけが描ける世界、蜜柑は甘いのか、酸っぱいのか、甘酸っぱいのか、それは食べた私の自由であり、蜜柑ができるのはそこまでだ。そんな未完な関係性こそが小説の自由度であり、関わりが主体的という点で、「捨て子」の自由度ということができるのではないだろうか。

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