「女」でも「男」でもなく――村田沙耶香『消滅世界』について――

 三島由紀夫は1970年11月の自決の前に、次のように記している。

日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

「果たし得ていない約束――私の中の二十五年」の最後に置かれたこの部分は、生前の三島がその後の日本の変容を予告したものとして有名な一節だ。「経済的大国」というのは今や当てはまらないかもしれないが、いずれにせよ、三島が生きた時代と比較すれば、日本が無機的で平板な社会に変わっていることは間違いない。それは個人主義や合理主義によって過剰に清潔な空間を欲望しながら、すべてを計算可能性、可視性のもとに従属させる、偶然なき世界と呼ぶことができるだろう。それは例えば、次のような文章からも容易に見て取れる。

30代限定、子供希望、共働き希望、家事・家計完全折半希望、都内マンション購入希望、年収400万円以上希望 ※家の中に互いの恋人を連れ込んでの性行為厳禁

※から始まる一文を除けば、巷にあふれる婚活サイトなどにありふれた記述である。このような場所で人間は、細分化された分類の集合として表現される。言い換えれば、人は「確定記述の束」に還元される。「相性」のような言語化不可能なものが介在するだろう恋愛や結婚という出来事でさえ、パートナーとなりうる他者への細かいタグ付けが要請され、マッチングの多寡がそのまま相性の一致/不一致であるかのような錯覚が蔓延してしまう。失敗しないように、あらかじめ相性を計算しておく合理主義。以前には主流だったお見合いにおける残酷なほどの偶然性など、すっかり忘れてしまったかのように。
 では、そうした合理性の徹底、偶然性の排除をさらに徹底させたら? そのような試みとして、われわれは村田沙耶香『消滅世界』――実は上の引用は、この小説からのものだ――を参照することができる。
 舞台はパラレルワールドのしての現代日本。第二次世界大戦以来の人工受精研究の発展により、生殖行為としてのセックスはほとんど消滅し、妊娠や出産は恋愛から完全に切り離される。それどころか、夫婦同士のセックスは「近親相姦」と呼ばれて忌避され、性は家庭空間から完全に排除される。家族は経済的な安定や家事の分担のためにのみ必要とされ、仮に恋愛がしたければ、配偶者の他に恋人を作るのが当たり前になっている。
 小説は、このような世界の変化を半ば受け入れつつも、家族やセックス、恋愛が「消滅」していく世界への違和が消えないヒロイン雨音の語りによって進行する。物語の後半、雨音は夫とともに千葉の実験都市へ移住するのだが、そこでは生殖が徹底的に管理された「楽園(エデン)システム」が採用されている。統計的処理で選ばれた住民が、年に一回人工授精をおこない(相手は選べない)、生まれた子どもはセンターに預けられる。すべての子どもは「子供ちゃん」と呼ばれ、すべての大人がその「おかあさん」となる。「おかあさん」はどの「子供ちゃん」も区別せず可愛がり、愛情を注ぐ。しかし「子どもちゃん」には名前もないし、同じように育てられるため表情や仕草にほとんど個体差はない。この異様な世界に雨音は気持ち悪さを感じるものの、それは実験都市に住む誰とも共有されない。夫との間に「自分たちの」子どもを産み育てることを願った雨音だが、それも叶わず、しまいには実験都市の狂気を「正常」として受け入れてしまう――。
 合理性の過度な徹底によって生じる不気味な世界を、旧来の価値観を手放せずにいる語り手が眺める。恋愛感情と生殖行為が完全に分割され、後者が徹底して管理下に置かれる。『消滅世界』は、まさにディストピア小説の常道をいっている。それゆえ、合理性が即正しさとしてまかりとおってしまうような現代日本への警鐘として、この小説は受け取ることができ、事実多くの評者はそのように『消滅世界』を評価している。
 しかしながら私は、村田のそれまでの小説風土からすれば、このような単なる思考実験、あるいは社会批評として『消滅世界』をとらえることには違和を覚える。むしろ、否定の対象とみなされているディストピアの方にこそ、村田の実存的な主題が深化されている様子を見て取りたい。どういうことか。
 村田はこれまで、主人公の女性の日常における他者との葛藤や、特異な性のありかたを描き、「女」であることや「普通」であることへの違和や拒絶を執拗に主題化してきた。例えば、処女作の「授乳」の結末において、それは象徴的に示される。少し長くなるが引用しよう。

 わたしは、ふと、母の布団の上に黒い点が動いているのに気づいた。(中略)私は蟻を目で追っていた。蟻は母の薄汚れたパジャマを上っていった。甘いものをさがし、触覚を意地汚くなでつけながら、母の乳房の山をあがっていく。
 蟻が甘いものに到達してしまう。なぜかそう思い、気づくと、母の乳房の上の蟻を、ローファーで踏みつけていた。ローファーの下で蟻の体が破裂した。
(中略)
 そうしている間にもどんどんと、靴の下にある蟻の死は決定的になり、やがて風化していく。私はだんだんと、足の下で死んでいるのが蟻なのか母の乳房なのかわからなくなっていく。

 私はさらに足に力をこめた。

母の乳房も、そこに群がる蟻も、同時に踏み潰すこと。つまり、女性的なものと男性的なものを、ひとまとめに拒絶すること。 「処女作にはその作家のすべてがある」とはよく言われるが、まさにこの一節は、村田が以後反復していく主題を明確に示している。それは、「授乳」と『消滅世界』のちょうど中間に位置する『ハコブネ』において、より具体的に展開される。主人公の一人の里帆は、多くの村田的主体と同じように、恋人が求める普通のセックスに馴染めずにいる。里帆は自らの性自認や性的志向をめぐって悩み、試行錯誤を繰り返す。次に引くのは、そうした迷いがあらわれた心内語である。

 生まれ持った肉体の性別が女であることはわかっているが、身体は女でも中身は男なのか、そこがわからないことには、たとえ本当に芽衣ちゃんが好きだとしても、自分が異性愛者なのか同性愛者なのかすらわからない。女のままで女が好きなのか、男が好きなのか。それとも心は男で女が好きなのか、それを正確に把握していないからセックスがあんなにも辛いのかもしれないと思う。そのために、まずは自分の意思での第二の「第二次性徴」を成功させるのだ。

自分の性を問い返し、そしてやり直すために、里帆はタンクトップで胸の膨らみを抑えてウィッグをつけ、男装を始める。なんとか自分の志向を確認しようと、友達の女の子とのキスにも挑戦してみる。すなわち、自分は男で、女が好きなのだ、と。だが思ったようには女性への欲望はわいてこず、里帆は自らの性のわかりえなさ、名指し得なさに苛立つ。

 家に帰って、すぐにパソコンを開いた。
 インターネットの情報の海を泳いでいると、自分の身体の中を漂っているような気持ちになる。しかしそこは、必死にもがけばもがくほど広がっていく沼で、溺れていくだけで答えは見つからないのだ。
 無性愛、パンセクシャル、Aセクシャル、何でもそれらしい言葉を見つけると片っ端から印刷ボタンを押して、読む気力もないまま印刷物だけがたまっていった。

この後も自分の性を探しては悩む里帆だったが、物語の結末部分、人間とですらなく、地球とセックスすることに自らの性を見出す知佳子に、「性別を脱いでセックスするってさ。そんなの、里帆ちゃんが思ったより、よくあることかもしれないじゃん?」と諭される。知佳子が寝静まった後、里帆は独りクッションを愛撫し、それと彼女独自の仕方で交わる。
 女性にせよ男性にせよ、自らの性が持つ規範性から逃れたいと思うことはあるだろう。あるいは里帆のように、既にある様々な性のかたちのどれにも、自分の性が当てはまらないと苛立つこともあるだろう。村田はモノとの性愛という位相を導入することにより、男/女とそこに当てはまらない種々の性、という枠組みそれ自体を脱臼させ、性のあり方を拡張する。
 しかしながら、と私は問いたい。そもそもプリインストールされた性がなければ、と。私たちは誰もが固有の生物学的な性を持っている。それをそのまま内面化するか、懐疑するかの様々なバリエーションはあるにせよ、私たちは出発点として不可避的に性をかかえてしまっている。
 『消滅世界』に戻ろう。村田が「実験都市」のディストピアで描いたのは、性をもたない主体のあり方だ。人工子宮での出産が可能になるその世界において、赤ちゃんルームで集団的かつ画一的に養育される「子供ちゃん」には、私たちが考えるような男性性、女性性はまるで存在しない。

 にこっと笑うと、「子供ちゃん」は躊躇せずにズボンと下着を一気に下ろした。
 バスルームのドアを閉めようとしていた私は、驚いて硬直した。
「パンツないけど、このまま穿いていいのかなあ」
 にこにこと首をかしげる姿に、この子には「恥じらい」も存在しないのだと気が付いた。

立木康介は『露出せよ、と現代文明は言う』の中で、「私たちの社会はいまや、(中略)『心の闇』の不在によって、だから抑圧の不在によって、特徴づけられる社会になりつつある」と述べている。今の社会――三島がおよそ50年前に予測したような平板で無機的な社会――に、その診断は確かにあてはまるだろう。しかし種々の抑圧が限りなく薄まったとしても、精神分析的にはその抑圧の根源にある、性という条件はなくならないし、あるいは母親や父親(やその代理の養育者)に育てられるという我々の生の条件は変わっていない。『消滅世界』の村田が描くのは、人間が産まれ落ちる際のそうした原初的条件がすべて取り払われた世界だ。そこには、我々が知る「人間」はもはや存在しない。私はそうした世界に不気味さを覚えると同時に、性をそもそも持たないような主体こそが、村田がこれまでの作品で描いてきたことの一つの論理的な帰結ではないかと感じてしまう。
 『消滅世界』で示されるのは、 「女」でも「男」でもない、性をプリインストールされない「第三の人間」のかたちだ。それはジェンダーの二元性を脱構築する『ハコブネ』の試みから、さらに一歩先へ進むものだと言ってよい。まったく別の仕方で生まれ育てられる性なき主体。確かにグロテスクかもしれない。しかしながら、まさにそうした主体こそ、村田が欲望してきたものではないだろうか。『消滅世界』のディストピアは、性という枷なしに生きたいという村田の闘争の果てにあらわれた、両義的な世界にほかならない。

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