ニッポンの象徴「すずさん」

はじめに.

 

 映画『この世界の片隅に』の異常なほどの評価の高さは一体なんなのだろうか。2016年度のキネマ旬報と映画芸術の邦画ベスト1位・映画秘宝のベスト2位と、主要映画誌の年間ベストを独占し、斎藤環は「120年に一度の傑作」とこの上ない高い評価を与え、宇多丸はラジオ番組での映画批評コーナーで「5000億点」という途方もない点数をつけた。この映画の何がそれほどの高い評価をもたらすのか。だいいち、斎藤も宇多丸も原作マンガを映画同様の傑作と認めているのに、何故原作が発表された時に賞賛の声をあげなかったのか。そこには、映画自体が優れているという内的要因だけではなく、作品の外にある環境的要因が大きく作用している。その要因とは、一言で言えばポピュリズムの世界的台頭である。

 

1.ポピュリズム流行と反多元主義

 

 イギリスのEU離脱、トランプ米大統領の誕生、ヨーロッパでの排外主義の広がりなど、ポピュリズムが世界規模の大きな潮流と化しているというのは誰もが知るところだ。この国でもポピュリズム的政策を掲げる日本維新の会が支持を集め、現安倍政権も排外的な政策を進めている。こうした時流に対抗するための武器として、『この世界の片隅に』は利用されているのではないだろうか。

 「ポピュリズム」といっても定義は一様ではなく、共通認識が確定されないまま言葉が流行している印象もある。本稿ではヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとはなにか』の定義に従う。ミュラーの定義が明確で、意味の取り違いを生む余地がなく、かつブレグジットやトランプ政権誕生といった現在の政治的状況を示すのにも適当なものだからだ。以下が主な定義である。

・代表制から生じるものである

・反エリートかつ反多元主義である。道徳性を強調し、他者の排除の根拠として不道徳性を強調する(「怠惰なエリート」「犯罪を起こす移民」といったイメージ形成)

・「真の人民」を象徴的に代表し、「我々、我々こそが人民である」と主張する。

 

 上記の定義を現在の欧米および日本の政治状況と照らし合わせると、「反多元主義」というポイントがポピュリズムかどうかを判断するのにより重要となる。代表民主制を敷く国家では、実際に民衆から選ばれている以上多かれ少なかれどの政党も政治家も「人民を代表する」と宣言せざるを得ないし、同様の理由から反エリートの主張も必然的に(少なくとも表面上は)必要となってくる。だが、反多元主義は、民衆から選ばれているからといって主張せざるを得ないものではない。民衆を多種多様な人々と考えるならば、選ばれた代表者も多元主義的になるはずである。民衆を一元的に捉え、そこに当てはまらないものを排斥するという主張は、その政治家の意思が反映されていると考えていい。したがって、反多元主義がポピュリズムを定義する上で最も重視すべき要素となる。

 

2.大衆の特徴

 

 ポピュリズムの流行には尻尾をふる大衆の存在が不可欠となる。ファシズムがヨーロッパを席巻する時代の手前において大衆の分析を試みたのが、1929年に発表されたオルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』である。以前なら少数者が責任を持って引き受けてきた政治・宗教・文化のリーダーシップを、大衆が侵し始めた。新たなエリート層として台頭した科学者は自らの専門知識に自閉する傾向があり、総合的な知の力を持たない。オルテガはこうした現象を執拗に観察して、大衆の本質を透かし彫りにする。(引用元は中公クラシックス・寺田和夫訳『大衆の反逆』)

大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれたものをすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。この《みんな》が本当の《みんな》でないことは明らかである。《みんな》とは、本来大衆と、大衆から離れた特殊な少数派との複雑な統一体であった。

 

 排他性を用いて集合体を形成するというイメージは、ミュラーのポピュリズム定義と重なる。さらに、大衆は生活を豊かにしてくれるものに対する恩を忘れた存在として描かれる。

 

現代の大衆的人間の心理分析表に、二つの重要な特性を書き込むことが出来る。生の欲望の、したがって、かれの性格の無制限な拡大と、かれの生活の便宜を可能にしてくれた全てのものにたいする、まったくの忘恩である。 

 

 これらの言葉は、本著の発行から100年近く経った現代の大衆にも驚くほどあてはまる。いや、むしろインターネットの発達以降、オルテガにより描出された排他性・忘恩性・自己中心性が世界中で加速度的に強まっているように感じる。SNSの広がりに比例するように人種差別的主張が力を持ち、理解できない文化に対して平気で否定的な評価を与える態度がネットの至る所で顔を出す。事実確認がなされないまま情報が受け取られ、社会意思を形成してしまう現象は「ポスト・トゥルース」という名付けが行われるほど一般化している。どこまでも自己中心的で無限の欲望に駆られる大衆にとって、ポピュリスト政治家はニーズに応えてくれる格好のヒーローである。

 

3.アンチポピュリズムの顔をしたポピュリズム

 

 オルテガが示した大衆性とポピュリズムが合流するような状況の中で、アンチポピュリズム的でありながら大衆的人気を博した作品・作家を批評的権威が称揚する現象が今、多く見受けられる。北米の音楽ネットメディア、pitchfork(ピッチフォーク)は欧米を中心としたインディ系音楽の紹介者としてゼロ年代以降強い影響力を持ったが、2016年のピッチフォーク年間ベストアルバムは1位から5位までをビルボードチャートでトップ1を獲得したアルバム(つまり’売れた’アルバム)が独占する結果となった。遺作となったデヴィッド・ボウイ『ブラック・スター』の4位をのぞくとすべてアフロアメリカン、所謂黒人アーティストの作品である。3位のビヨンセ『レモネード』は、黒人人種差別に反対する「ブラック・ライヴス・マター」の運動に呼応するように黒人の自由を謳った作品であったし、2位のフランク・オーシャン『ブロンド』には黒人性に加えて作者のゲイ・パーソナリティが強く反映されており、LGBTの運動とも連動している。黒人かつ同性愛者という二重のマイノリティ属性は、2017年のアカデミー作品賞を受賞した『ムーンライト』と共通する要素だ。

 また、ポピュラーミュージックの歌手・作詞家としてははじめてボブ・ディランが2016年のノーベル文学賞を受賞した。ディランはユダヤ系という出自もさることながら、ポピュラー音楽の歌詞に抽象性を導入し、現実の多様性を歌において描くことを可能にした多元主義的な要素を持つ歌手である。

 日本では2015年にお笑い芸人として著名な又吉直樹の『火花』が第135回の芥川賞を受賞し大ヒットを記録、2016年の第137回芥川賞受賞作の村田沙耶香『コンビニ人間』も大きな売り上げを記録した。『火花』も『コンビニ人間』も日本社会の一般通念から外れた人物を描くことにより、多元的な想像力を刺激する小説となっている。

 反多元主義に抗する要素が含まれているという点が共通しているこれらの作家・作品を評価することで、批評は世界を包み込まんとしている薄暗い脅威から身を守ろうとしているのではないか。武器を一つに集めようとするような想いがどこか無意識的に働いてはいないか。そして、映画『この世界の片隅で』の絶大な評価も、 同様の文脈で考えると納得がいくのではないか。

 だが、果たして数に対して数で対抗するのは手段として適切なのか。そのやり口はもう一つのポピュリズムを生み出すだけではないか。反ポピュリズムの作品を、批評がポピュリズム的に利用しているのではないか。オルテガは大衆の反語としての「貴族」、地位としてではなく責任と義務感を持った少数者としての貴族を称揚した。しかしながら、『大衆の反逆』は大衆分析の書ではあるものの、決して大衆を覚醒させんとするアジテーションの書ではなかった。なぜなら、大衆に貴族観念を植え付けようとしたその瞬間に、エリート主義と反多元主義が結びつき、最も醜悪なポピュリズム、つまりファシズムに転換するからだ。あくまでも個として、孤独の中で自らに課した義務を全うすること以外に人類が生き延びる道はないと考えたところにオルテガの慧眼はあった。大衆心理に最も精通した男の一人と言っていい秋元康が、2016年に「No!といいなよ!サイレントマジョリティ」と少女たちに歌わせたことはとても象徴的だ。

  『美術手帳』2017年2月号に、斎藤環による『この世界の片隅に』評「すべては「すずさんの存在」に奉仕する」が掲載されている。斎藤はこの論を批評というより「映画史的な傑作」である本作がいかに受容されたかを記録するドキュメントの意識で書いたという。クラウドファウンディングの力を借りて公開までこぎつけたこと、63館という小規模な公開規模が200館にまで膨れ上がったこと、批評紙から今までない評価を与えられたことなどは記録として残されなくはいけないというのだ。だが、紙面上8ページを締めるこの論の上で、ドキュメント的な記述がなされるのは冒頭からおよそ1ページ半までで、それ以降はすべて作品分析に当てられる。ほとんど純然たる批評文といって差し支えないだろうに、何故「ドキュメントという意識で書かれた」などとわざわざエクスキューズを差し込む必要があるのか。それは本作の受容の経緯を記録するためではない。本作にまつわる苦難と成功の物語は斎藤の論を待たずともすでに広く共有されている。そうではなく、この映画が大衆に受け入れらていることを示したいのだ。数の上で反多元主義に勝りたいのだ。そうした意図が、むしろ反多元主義を呼び込むことになる。排他性を排除することでより排他的になるという罠にはまり込む。

 

4.異物性というリアリティ

 

 ここまでの話であれば、「批評の捉え方の話だけで作品に罪はないではないか」と思うかもしれない。批評家の態度の問題だけで、『この世界の片隅に』という作品自体は汚れていないではないか、と。そう。ある意味汚れていない。実に潔白だ。だが、その潔白さこそが、観る者をファシスティックな熱狂へと導く。映画『この世界での片隅に』自体に、批評や評価を排他的な方向へと押し進めるポリュリズム的力が内在しているのだ。

 一見、多元主義的な映画に見える。反多元主義的な日本軍がもたらした戦争によって、大切な日常を失った人々の様子が描かれているからだ。日々の営みの表現が詳細で、特に食事に関しては配給物の減少とともに節制を強いられてまともなご飯が食べられない中、工夫して家族全員分のご飯を作る様子がこまめに描かれる。主人公すずと義姉の娘である晴美との交流、一緒に魚の絵を描いたり、高台から海を行く戦艦を眺めたり、かぼちゃを植えたりする様も印象的だ。一度観ただけでは気づかないような細部にも気が配られている。たとえば、すずが嫁入りした家から一度実家に戻り家族四人で食卓を囲む場面ではお茶碗やみそ汁の器が五つならぶが、これは出兵して今は家にいない兄の分までご飯を用意しているからだ。魚や戦艦やかぼちゃがそれぞれ別のところで再登場するのも見逃してはいけないだろう。

 ところで、この映画を語る際に「リアリティ」という言葉がよく用いられる。リアルさの論拠として、上記のような生活描写の細やかさや、時代背景や当時の広島や呉の町並みを綿密に調べ上げて描写量を増やしたことによる風景の再現性の高さなどがあげられるが、いくら資料を読み込んで当時の生活を知って再現性の高い絵を描いたところで、リアリティが得られるわけではない。そもそもリアリティとは、ある対象を見えるままに表現する度合いや観客の心情との近似性で測れるものではない。作家が感じる混沌とした世界を混沌のまま記述することによってはじめて、リアリティは生まれる。リアリティのある作品とは人に異物感を覚えさせるものだ。なぜなら、同じ感覚や経験を共有し得ない他者の混沌とした世界そのものに、触れることになるからだ。そうでなければ、よく似ている肖像画や上手な風景画よりも、ピカソやゴッホやヘンリー・ダーガーの絵にリアリティを感じる理由が説明できない。そして、リアリティがいくつも共生している状態を指した言葉が多元性である。

 『この世界の片隅に』のリアリティは、むしろ時代風俗や生活風景の再現性が崩れることにことによって生じる。例えば、海の白波を白ウサギに見立ててすずが風景画を描くシーン。もしくは、空襲がはじめて呉に訪れたときに、空に浮かぶ大砲の煙が赤、黄、青など色彩をともなって描かれるシーン。極め付きは、すずが時限爆弾によって晴美と自らの右手を失った後に、心象風景を黒背景に描かれた白い落書きで表すシーンだ。絵が好きで想像力豊かというすずの設定を意識した幻想的な表現と写実的な描写との落差によって、異物的なリアリティが生じるのだ。この落差は、晴美と右手を失う前と後との落差とシンクロしている。現実と幻想の差と、大切なものの喪失前と喪失後の差が二重になっているのだ。

 本作には他にもいくつかの二重構造がみられる。自分の意志もはっきりしないままお嫁に行き、慣れない家事や義姉との関係などに苦しむすずの姿は、理由も定かでないまま戦争に巻き込まれた挙げ句、貧困や空襲に苛まれる日本の市民の姿と重なっている。ここには日本の家制度の問題と戦争の問題が両方潜んでいる。すずは苦難の中で生き続けることを選んだからこそ、敗戦を認め正義を諦めてしまった日本に対し怒りをぶちまけるのだ。昭和20年8月15日のすずの慟哭のシーンは、日本の一般市民が被害者であると同時に、韓国などの植民地から米や作物を奪った加害者であるという二重性にすずが気づくシーンでもある。

 現実と幻想の落差が生むリアリティや二重構造に見られる多義性は、すべてを象徴的に一元的に捉えるポピュリズムと対立しているように思われる。だが、この映画にはリアリティや多義性を裏切る視線が存在する。その視線は中心に位置する存在を象徴的、かつ一元的な視線で見つめてしまう。中心とは、もちろんすずのことである。

 

5.「普通」の女というファンタジー

 

 前述した通り、すずの心理は効果的な表現手法によって、容易に形容しえないリアリティを持って描かれてはいる。だが、すずと関わりを持つ人々のすずの捉え方にはある種の単純さが感じられる。

 本作の印象的なシーンの一つとして、すずと幼なじみの水原が納屋で一夜を共にする場面があげられる。両想いだった二人は互いに気持ちを告げられず、すずは呉の北條家へ嫁いでいった。海軍から呉の軍港に戻ってきた水原はすずと再会するため北條家に尋ね、納屋で二人きりになる。ここで水原はすずを見て、お前は「普通」だと何度も口にする。

 

あーあーたまげるくらい普通じゃのう。当たり前のことで怒って当たり前のことで謝りよる。

 

 「普通」という言葉は、水兵として水原が目の当たりにした戦争の異常さと対比される。

 

お前だけは最後まで普通で、この世界でまともでおってくれ  

 

 このセリフは、水原とすずが朝になって無言で納屋を出る場面に重ねられていて、水原のモノローグのように響き、言葉が強い意味を持つよう印象づけられる。すずの「普通」には、純粋さを例外的に保っているという特権性が含まれている。無垢たるすずの日常はあまりに健気で、あまりに道徳的で、あまりに汚れがない。無知であることやカンの悪さが苛立たしさと共に描かれることはなく、離縁を示唆した言葉を里帰りを勧めているものと取り違えたり、空襲警報の際に愚鈍にいちいち指差し確認するのもただただユーモラスな行動として処理される。リアリスティックな本作の中で、すずを見つめる視線だけが欠けたるところのない純粋な聖女としてのファンタジーを描き続けるのだ。

 映画史の中で、時代に翻弄された女性の苦難をテーマに据えた名作は数多く存在するが、それらは女性を悲劇的に美化して描いたから名作であるわけではない。たとえば、ジャンヌ・ダルクの異端裁判から火あぶりの刑に処されるところまでを描いたカール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』は、毛穴がクリアに見えるほどの極端なアップを多用することにより、安易な感情移入とは別種の物質的なリアリティを獲得することに成功した。日本で女の苦難を多く取り上げた映画監督としてまず挙げられるのは溝口健二だろうが、代表作の一つ『残菊物語』で、病床のヒロインを捉えたラストシーンが観る者を動揺させるのは、ヒロインの姿だけでなく、団扇を扇ぎ続ける借家の親父の姿もカメラに写っているからだ。運動のリアリティが映り込んでいるからだ。こうした作品はヒロインを、ややともすれば気味が悪かったり愚かに思えたりする存在として描いているが、安易な理解を拒むような他者性がそこにこめられているからこそ、観る者はより生々しいリアリティを感じることが出来る。一方、『この世界の片隅に』の中では、すずは夫を支え、困難にも屈しない、道徳的な間違いを起こさない、可愛げがある、おっちょこちょいだが愛嬌がある、極めて愛らしく美化されたキャラクターとして見つめられている。絵の才能を持っていたのに右手を失うことにも強い同情が寄せられるだろう。一体この映画を観ただれがすずを疎ましく思うことができるだろうか。彼女は失われた生活と再建の意志を理想的に体現する、「普通」の人々にとっての「ニッポン」の象徴なのである。それは大きな物語を背負った、人々に戦争をもたらした「日本」の象徴とは対を成している。

 

6.隠蔽

 

 象徴化のために、原作には描かれていたすずの心の闇の部分が映画ではいくつか隠蔽されている。まず、原作を読めば誰もが気づくことだが、呉の街で娼婦をしている白木リンとすずの交流が大幅に割愛されている。もちろん、エンドロールでリンの物語は密かに描かれているのだが、重要なのはすずの夫の周作とリンとの恋愛関係を示唆するものが全て失われており、すずの嫉妬心、猜疑心が映画では欠落していることだ。水原とすずが納屋で二人きりになるのは夫周作の計らいによるものだが、周作とリンの関係を前提としなければ、彼らを二人きりにする理由がわからず、非常に不可解な印象が残る。周作×リン、すす×水原という対応関係が機能しておらず、すずの周作に対する負の感情が消去されているのだ。

 もうひとつ、決定的な隠蔽がある。それは原爆に対するすずの反応だ。確かに、すずは目の前で晴美を失い、同時に右手を失うことにひどく傷を負うし、その時点で大きくすずは変容する。それまでのおっとりした朗らかさを失い、内省的に自我と格闘する存在となる。この映画の後半は、晴美と右手を失ったことに対する痛みや罪悪感の混ざった負の感情に対して、すずが折り合いをつけていくまでの物語である。だが、晴美と右手だけがすずの喪失ではない。彼女は原爆により父と母を失い、妹も原爆の後遺症を患っている。それ以前に兄の戦死を告げられている。故郷の家族のほとんど全てを失っているのだ。確かにこの映画は、最後に拾い児を育てるところに顕著なように、血のつながりだけで定義されない家族の在り方を示している。だからといって、故郷と家族を失ったことにすずが痛みを感じないわけではないのに、広島の街で行方不明の家族を探す人々と出会っても、失われた自分の家族に思いを馳せる描写がない。原作にはすずが行方不明の母を探しまわり、頭蓋骨を眺めて母の死を想像してしまう場面が存在するが、映画では割愛されている。晴美と右手を喪ったことと同等の喪失感があるはずなのに、そんな感情はほとんどないかのように処理されて、映画は痛みを受け入れて未来を祝福する感動的なシークエンスとともに終わりを迎える。容易に理解できる物語が出来上がってしまい、そこにリアリティの入り込む余地はない。

 陰惨な体験を描いた映画の終わりがハッピーエンドに感じられる一因は、コトリンゴの歌の使い方に帰する。冒頭ではザ・フォーククルセイダーズのカヴァー『悲しくてやりきれない』が流れ、「悲しくて悲しくてとてもやりきれない」という歌詞と朗らかで明るいメロディーとの衝突が作品全体の情感を決定づけるが、終幕には原作最終回のモノローグを歌にした『みぎてのうた』の後にオリジナル曲『たんぽぽ』が流れる。『たんぽぽ』は、映画内にも幾度か象徴的に登場するこの植物を生命力の象徴として捉えたポジティブな歌で、すずが感じただろう心の暗部をすっかり覆い隠してしまっている。「小さな光が燃えている 土の中で音もなく 明日自由の時がきたら きっとあなたに会えるから」というタンポポの芽生えを表した詞と、家族や右手を失って生きるすずの心情を安易に重ねてしまっていいのだろうか。むしろ『悲しくてやりきれない』から『たんぽぽ』への変化は、朗らかな心に暗い時代の影が忍び込む物語の流れと逆行しており、描かれて然るべき暗部を打ち消す効果を生んでしまっている。すずの心のねじれは、想像を絶する強烈なものではないのか。少なくとも、理解し得ないものは理解しないまま描き出すのが誠実さなのではないか。この作品はすずの心の陰湿な部分を見せずに、単純な善として、純粋な女性としてすずを形式化してしまっている。前述した美術手帳の斉藤環の評論と、直前のページに掲載されている片渕須直と斉藤環の対談では、すずは常に「すずさん」という愛称で呼ばれている。「浦野すず」、結婚後は「北條すず」という固有名を与えられた存在であるのに、あたかも「すずさん」という固有名を持つキャラクターであるかのようだ。対談の中で、片渕はすずを「自分という主体性が絶対視しない、曖昧さをもった存在である」と語っている。すずは自分を絶対化しないかもしれないが、すずを描く作家は彼女を「すずさん」として絶対化している。そして、その唯一無二の絶対性を観客も共有できるように、映画は作られてしまっている。繰り返そう。リアリティは、もうそこにはない。

 

おわりに. 「ニッポン」の象徴

 

 「普通」のニッポンの象徴であるすずが、暗部を抱え込んまま未来に進むことは許されないようだ。希望のファンタジーであるためには、暗い感情を溜め込んだまま終わりにもちこんではいけない。理解不能な存在でいてはいけないのだ。聖女である「すずさん」はもはや片隅にはいられず、この世界の真ん中へと担ぎ込まれることになる。江戸時代の終わりに、将軍とは異なる新たな中心が日本国に置かれたように、戦争の終わりを描いた映画の中で、「日本」の旧体制とは異なる「ニッポン」の象徴的中心が置かれる。そう、すべては「すずさんの存在」に奉仕するのだ。リアリティはファンタジーに奉仕し、多元性は一元性に奉仕する。エリートではない「普通の人々」を一人の存在が代表すること。「普通」であることを道徳的に描くこと。象徴性で多元性を否定すること。『この世界の片隅に』に見られるこれらの特徴は全てポピュリズムの特徴と一致する。この映画は、表向きの装いとは裏腹の反多元主義的な、ポピュリズム的な作品なのである。そして、心を歪ませられて、「ニッポン」の中心に置かれることになったすずは戦争の被害者である以上に、ポピュリズム精神の被害者である。一元化による歪みを持った作品が絶賛で迎えられてしまうことは、反多元主義的な象徴性を前提としない限り日本人が国民としてのアイデンティティを持ち得ないという限界を示しているかのようだ。日本人であること自体がポピュリズムを必然的に呼び込んでしまうという恐ろしい可能性を、この映画とそれを取り巻く状況は物語っている。であるとするなら、我々は自らの限界を更新するためにも、宣言しなければならない。映画『この世界の片隅に』を賞賛することは、文化の多元性を殺すことと同義である、と。

 

 

文字数:9841

課題提出者一覧