六月の暑い日に何故だれも汗をかかないのか ー『ダロウェイ夫人』論ー

 ジョルジュ・バタイユは『文学と悪』の中でこう述べています。

ただ文学だけが、創造すべき秩序などいっさい無視して、掟への背反ーこれがなければ掟も無用の長物となるだろうがーのたわむれを、あらわにしてみせることができたのである。

 

 バタイユは労働や貯蓄といった実利的な目的のための行動と、生そのものとを同一視する考えを否定しました。彼はあらゆるカモフラージュを引きはがした裸形の在り方としての生を、意味や秩序のない生を思考した作家・思想家であり、文学にも裸形の生と同質のものを感じ取っていることが、上記に引用した文から窺えます。それでは、「掟への背反のたわむれ」は実際の小説の上でどのようにあらわにされるのでしょうか。『文学と悪』ではエミリ・ブロンテ、サド、ボードレールなど八人の作家が取り上げられていますが、ここではバタイユが言及しなかったヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』について検討してみます。本作のある不自然さが、小説の本質的特徴を炙り出していると思われるからです。

 『ダロウェイ夫人』は一九二三年六月のロンドンのある晴れた一日を、多くの人物の心理と視点を借りながら描いた作品です。地の文に登場人物の心内語が頻出する本作の特徴が、人間の内面を克明に文章化しようとした「意識の流れ」の手法であると文学史的にはよく語られます。そんな小説の舞台となる一日が暑い日であったことは、登場人物の感慨や熱波の訪れを告知した新聞記事の紹介から読み取れます。主要な登場人物たちはロンドンの街中を歩き回っており、その距離が数マイルに及んでいると推測される人物もいます。

 ところで、暑い日に野外を歩いたり、パーティの準備をしたりして過ごしているにも関わらず、誰一人汗をかいていない、少なくとも汗の描写がなされていないことは、いくばくか奇妙なことではないでしょうか。人ごみのなかにいたり、あるいは強い緊張状態に置かれている状況のなかでも、誰も手に汗をにぎることすらない。小説内において日本語の「汗」「汗をかく」に相当する単語が現れるのは一度だけ、ダロウェイ夫人ことクラリッサ・ダロウェイが娘の家庭教師ドリス・キルマンへの不満を漏らす描写においてのみです(「年がら年中あんな緑のレーンコートを着て、をかいて」”Year in year out she wore that coat;she perspired;”)。しかし、これは普段の様子についてのクラリッサによる寸評であり、小説で描かれる当日の状況を表したものではありません。実際に、テクストがどのように暑さを表しているか確認してみまましょう。

 この小説の中で最初に暑さが示されるのは、第一次大戦の戦場で友人を失くして戦争神経症を患った三十歳の男、セプティマス・ウォーレン・スミスの登場直後です。

すべてが動きを止めていた。車のエンジンの唸りが不規則な鼓動のようにとどろき、体全体を震わせた。太陽が異様に暑くなった、とセプティマスは思った。車がマルベリー花店の外に止まったせいだ。

 この文の前に、「どうやら総理大臣が乗っていると思わしきブラインドを下げた車が花屋の前に止まった」という趣旨の描写があり、それにセプティマスが反応します。車が止まったがために「太陽が異様に暑くなった」というのは少し奇妙な表現ですが、セプティマスは病気のせいで神経が鋭くなっている人間として描かれているため、温度上昇に対して過度な反応を示していると考えられます。この時点では、暑さは心に病を抱えてしまった男の妄想的反応と捉えることもできます。

 ですが、もうひとり、かつてクラリッサ・ダロウェイと非常に近しい関係にあったものの結ばれなかった、インド帰りのピーター・ウォルシュという男が公園のベンチで横になる時に「暑さ」が現れます。

暑いベンチで、ピーター・ウォルシュは鼾をかきはじめた。同じベンチにすわる灰色の子守女は、やりかけの編み物をまた手にとった。

 ここでベンチが暑いといわれているのは、ピーターの主観的判断ではなく、小説内における客観的事実として書かれています(本作の語り手は誰の心理にも入り込める、神の視点を持つ無記名の存在です)。ベンチが暑くなるほど日が照っているということが客観的に認められるのです。暑いところで居眠りしていても、ピーターが汗をかいていることはテクスト上確認できません。アニメや映画であれば、ここで汗の一滴くらい映されても不思議ではないのですが。

 暑さは日が落ちても続きます。そして新聞による熱波の報道が、テクスト上に現れます。ピーターが夕方のロンドンをたむろする場面です。ちなみに、ピーターは朝から夕方までロンドンの路上にいて、一番移動距離が長いと思われる人物です。

実に暑い夕方だ。行き来する新聞売りの少年の手には、巨大な赤文字で熱波襲来を告げるビラがある。ホテル前の石段には藤椅子が置かれ、数人の紳士がすわって、我関せずという顔で酒をすすり、タバコを吸っている。

 熱波の情報が大きな赤い字でビラに印刷されているということは、それだけ当日の暑さにインパクトがあるということでしょう。この六月の一日は熱波が報道されるほど暑い日であった。そんな中で、汗が一切描かれないのはやはり不自然です。実際に人間の身体を使って表現をおこなう演劇や映画であれば、暑さにともなって自然と汗が流れます。たしかに、小説は言葉という象徴記号の操作によって形成される表現なので、汗を省略しようと思えば自由に省略できます。自然の法則から考えれば不自然な状況も、人工的な操作で用意できるのが小説です。では、『ダロウェイ夫人』において汗を描かないことに、一体どんな必然性があったのでしょうか。

 

 「汗」の不在の意味を検討するために、別の角度から小説を眺めてみます。『ヴァージニア・ウルフ再読 芸術・文化・社会からのアプローチ』の著者である奥山礼子は『ダロウェイ夫人』を「イングリッシュネスの内と外」という視点から読んでいます。本作の中にはクラリッサ・ダロウェイをはじめとする英国上流階級に位置するイングランドのインサイダーと、戦争帰還者(セプティマス)や移民や外国人などのアウトサイダーが両方描かれています。奥山は外国人である女性二人がイングランド人を否定的に描く時に、どちらも「車椅子(Bath Chair)」という単語を使っていることに注目しており、これを「歩行能力があるのに車椅子に縮こまり、車椅子で動ける安全な範囲でしか行動しようとしない、精神的にも病み、老性した半病人のような当時のイングリッシュネスに対する鋭い指摘」だと述べています。

 『ダロウェイ夫人』を「英国文化への頑なな固執を止め、イングリッシュネスの中にさまざまな文化を融合させ、多様な価値観を受け止めていく」ウルフの提言と受け取って奥山が論を終わらせる点に関しては、小説をマルチカルチュアリズムの思想伝搬の道具として捉えているようで疑問が残ります。ですが、「車椅子」という単語へ目を向けること自体は意味のある指摘だと思われます。どういうことか。「車椅子」が登場する箇所を確認してみましょう。まずは、セプティマスの妻である二四歳のイタリア人女性、レーツィアによる街の観察です。

 イタリアは遠い。白い家並も、姉がすわって帽子を作っている部屋も、毎日にぎわう通りも、みな遠い。その通りには大声で笑う人々がいて、ここは違う。半分死んだような車椅子の人たちが寄り集まり、植木鉢から二、三本突き出す醜い花を眺めているだけのこことは……。

 次に、スコットランドのエディンバラから二日前に出てきたばかりの十九歳の娘、メイジー・ジョンソンが見たロンドンの街の様子を確認してみます。

メイジーはいまブロードウォークに戻り、大勢の人に交じって歩いていた。石造りの噴水も、取り澄ました花々も、老人が多くてそのほとんどが車椅子の病人であることも、エディンバラとは全然違う。とにかく変。周囲の人々はその風に押され、ぼんやり辺りをながめながら、とぼとぼ歩いている。

 両者とも、自らの故郷と比べてロンドンの街に不愉快さを感じ、その象徴として車椅子について言及します。たしかに、ここにはイングランド人への痛烈な批判が読み取れますが、重要なのは「車椅子」という言葉そのものです。論考の冒頭近くで、私は『ダロウェイ夫人』の登場人物たちはロンドンの街中を歩き回っていると述べましたが、実は「歩く」という動作以上に「座る」という動作の頻度が多いのです。小説内で「walk」という単語は六十三回出てきますが、「sit」の回数は百三回で、「sit」が上回っています。加えて「椅子(chair)」の登場回数は二十八回です。つまり、この小説は「歩く」小説である以上に「座る」小説であり、「動」のイメージに対して「不動」あるいは「静」のイメージが勝っているのです。小説に描かれた「暑さ」を示すために前述した三つの引用文の中には「車が止まる」「子守女がすわっている」「数人の紳士がすわっている」と、「止まる」「すわる」という動作の停止、あるいは固定を表した動詞がまぎれています。「暑さ」に対して、「不動」が拮抗しているのです。「不動」「静」のイメージに支配権がある以上、「動」のイメージを随伴する(運動することで分泌される液体を表す)「汗」という言葉をテクスト内に書き込むことは、小説内の言葉の力学においてはむしろ不自然です。小説における言葉は、自然科学の掟よりも、言葉そのものの力学に従うのです。自然の秩序を無視して、言葉そのものの力関係の中で自由に戯れること。そうした小説の本質が、『ダロウェイ夫人』における「汗」の不在によってあらわになるのです。

 最後に、「動」と「静」の綱引きが結末部に与えている影響を確認して本稿を締めくくりたいと思います。『ダロウェイ夫人』はさまざまな登場人物が歩くことでいくつもの出会いが起こり、複数のドラマが同時進行で展開していく小説であるのは間違いないですが、こうした「出会い」のドラマとテクスト内の「綱引き」のドラマは、結末においてついにめぐり会います。ダロウェイ家のパーティがお開きになり、手の空いたクラリッサのところへピーターと、二人の古い友人で現ロセター夫人であるサリーが駆けつけようとします。一日ロンドンを歩き回ったピーターは、最後、座ったまま、汗一つかかないまま、二つの異質なドラマの出会いによって「異常な興奮」に包まれるのです。

 リチャードはよくなった。あなたの言うとおり」とサリーは言った。「行って話してきましょう。お休み、くらいは言わなくてはね。心と比べたら、頭なんて何よ」レディ・ロセターはそう行って立ち上がった。

「おれも行く」と言いはしたが、ピーターはしばらくすわりつづけた。この恐怖は何だ、この恍惚は何だ、と心の中でつぶやいた。異常な興奮でおれを満たすものは何だ。

クラリッサだ、と言った。

そこにクラリッサがいた。

 

 

 

※本稿における引用は

Woolf,Virginia. Mrs.Dalloway. Cambridge University Press.2014

バージニア・ウルフ.土屋政雄訳『ダロウェイ夫人』光文社.2010

ジョルジュ・バタイユ.山本功訳『文学と悪』筑摩書房.1998

を参照しております。

文字数:4643

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