映画的三人称から噴出する「第三の糞」 ー木下古栗と平田オリザの「専門性」ー

1.糞の前置き

 批評再生塾第一期総代・吉田雅史はかつてその課題批評の中で映画における「排便」に注目し、芸術表現が「真と偽の境界に立つ」ことの重要さを説いた。「Shit」な(=「ヤバい」)作品を産み出そう、つまり「糞」を創造しようと曲作りという名の「排便」行為に勤しむラッパー・トラックメイカーの日常風景を捉えたドキュメント映画『THE COCKPIT』は、作品と観客の間に本当と嘘が揺れ続けるスリリングな場所を生成しているからこそ、非映画的な日常を映画として見せることに成功している。映画の「外から内へ」の動きがここに見られる。対して、難聴の影響でトイレにいけずおむつを着用するという、ドラマティックで映画的な「排便」が描かれていた『佐村河内守事件』は、後にその虚偽が暴かれることで「真と偽の境界」から偽へと転落する。嘘が確定してしまうことは、映画的ドラマが滑稽な日常へと転じてしまうことを意味する。ここで見られたのは映画の「内から外へ」の動きである。両者は対照的に位置づけられる。

 だが、二つの「作品」は映画という境界面を置けば対置関係となるが、日常を非日常へと転じたいという欲望の側面から考えれば、両者は同一平面上に位置することとなり、吉田の見立ては機能しなくなるのでないか。さらにいえば、映画の「内から外へ」の運動であったはずの『佐村河内守事件』は、その後『FAKE』という名を持つドキュメンタリー映画として「外から内へ」回帰してしまっており、二者はすでに対立関係を成していない。なにより、吉田が強調するドキュメンタリーとフェイクの境界、真と偽の境界というものは、果たして表現において本当に大切な要素だろうか。

 批評再生塾第二期総代・山下研は川端康成名義の1928年の映画シナリオ『狂った一頁』が現代の移人称小説に影響を及ぼしていることを指摘した。カメラによる対象の再現度の高さに小説の言葉は勝てない。映像メディアの誕生が小説の写実性を制限するという事実と向き合った作家は映像化できない言語表現を志向するが、実はそうした表現の在り方は人称の問題へと収束する。強烈な三人称表現を持つ映画に対して、一人称と三人称の間を自由に行き来する人称移動で対抗することが川端ら新感覚派作家の肝であり、小説でも戯曲でもないシナリオというテクストを通してそのことが証明される。岡田利規、福永信などが書く現代の移人称小説も川端らの試みの圏内にとどまっているというのが山下の論だ。だが、映画による三人称表現に小説が勝てないというのは、果たして自明の事実なのだろうか。そもそも、映画の誕生が小説における写実的描写を制限するというのは本当なのだろうか。

 両者の論を検討するために、ある小説作品を紹介したい。真と偽の二点から成る直線を垂直にぶったぎる「第三の糞」であり、映画とは別種のリアリズムを頗る奇妙な形で身に纏った小説。木下古栗『専門性』のことである。

2.糞の登場

 喉の奥で押し殺したような呻き声がして、ポチャンと水音が立った。

 まだ静寂の息づく朝の廊下にその音が漏れ響き、玄関の上に鎮座する水を湛えたガラス鉢の中で、小さな金魚がぴくんと反応した。

 がさごそという音、少量の水が滴り落ちる音などがドア越しに聞こえ、ややあっておもむろな機械動作音がしたかと思うと、勢いのある放水がシャーッと騒ぎ立ち、人口の風が唸り、竜巻のような水流がすべてを飲み込んだ。   『専門性』

 この、単行本において11ページ足らずの短編小説は上記した冒頭部分のように、極めて写実的な表現によって書かれている。金魚が音に反応して動く姿をイメージとして想像することは容易いだろう。「ポチャン」という音を立てた主が山村という男の大便であることはすぐに読者に察知されることになり、朝の脱糞をすませた山村が、自らの放った糞をサラダボウルに乗せて食していく様子が詳細に綴られていく。作品内で大きな物語的変化は訪れない。出勤のために家を出た山村の前に巨大な野糞が現れるという事件が起きるものの、それが男の心理を揺さぶる様子はなく、どうやらより清々しい気分と思わぬ興奮を彼に与えただけである。当事者にとっては平和な朝の風景だが、もちろん多くの読者にとって小説内で起きている事態は異常だ。山村は自らの大便を舌鼓を打ちながら食すだけでなく、妻の朝一番の尿もコップに注いで飲み干す。妻はその様子を何事もないように穏やかな表情で見つめている。概要をかいつまんで伝えるだけで吐き気を催す方もいるかもしれない。それにしても、男が自らの糞便を嬉々として食すというのは他人にとっては圧倒的にどうでもいい話だし、なんとも無意味な内容である。

 『専門性』は、映像喚起力の高さという点において映画的と形容されてもおかしくない作品だが、仮に本作が映画化されるとして、面白い作品になる可能性は無に等しい。それは糞尿を飲食する映像を誰も観たくないからだけではなく(観たいという趣味・嗜好を持つ方がいてもおかしくはない)、映像になった瞬間に読者が想像したくないものを無理矢理想像させてしまうという作品の強引な力が失われるからだ。リアリスティックな描写力を誇りながら、本質的に映画化不可能であるという矛盾がこの掌編を比類なき孤高へと押し上げており、映画とは別種の三人称表現の達成がここで為されていることがわかる。糞は、映画的三人称から噴き出してしまっている。

 『専門性』を含む短編集『グローバライズ』の創作姿勢について木下古栗自身が書いた文章によれば(『表現と書く技法 ーー『グローバライズ』創作をめぐって』)、彼は「語り」を排した「描写」のみの小説を志向したという。ここでいう「描写」とは登場人物の身体、行動、彼らに知覚される周辺環境を具体的にリアルタイムに文章にしていくものを指す。具体性のない説明や、逆に細密過ぎて時間の流れが遅滞するような描写は「描写」ではなく「語り」となってしまう。「描写」は常にリアルタイムの行動を描くものとして定義される。登場人物の心理を語り手が代弁するものや主観的な判断や認識を伴う表現も、あるいは「誰某は何処何処に勤めている」など設定の説明もすべて「語り」として排除される。「描写」だけの文章は「何も「語り」はせず、言葉を用いながらにして沈黙を志向する」。では何故「語り」を排斥するのか。それは「語り」がネットに溢れる「ブログ的」な文章と同じ類型にあり、小説としての独自性のないものだからだ。

 小説とはかつて、どんな内容のことも書こうと思えば書けてしまうなんでもありの表現であった。その自由さが小説の魅力たりえていたのだが、時が経ちネット時代になると、ブログというより自由に何でも「語る」ことのできる表現形式が現れてしまい、小説の特権が侵された。小説が孤高の独自性を保つには、ブログ的な「語り」の要素を徹底的に排除する必要がある。そこで、一人称的な「語り」を封じるために三人称を選択し、「描写」のみで文章を構成するという手をとったのだ。結果産出されたのが、ハイパーリアルな、超写実的な文体による小説である。

 また、木下は「ブログ的」な文章には私小説的なものが多く、ほとんどが実体験や自らを取り巻く環境がら題材をとっていると語る。平行に広がった日常の地平から適当なものを選択して書けば、ブログは成り立つ。そのお手軽さに対抗するために、『グローバライズ』の作家は実体験を一切扱わず、自らの小説技術のみに頼ることで垂直に屹立するような芸術を目指した。

 木下の理論と実践に近いことを、全く別の地点で以前から行っていた人物がいる。本稿のもう一人の主役、平田オリザだ。劇作家・演出家の平田と彼が率いる劇団青年団は1990年前後から新しいタイプの演劇を作り始め、その理論的結実として『平田オリザの仕事 現代口語演劇のために』が95年に上梓される。本著の中で、平田は近代の芸術の歴史を「主観からの逃走の歴史」と定義する。文化が特権階級から市民階級のものへと移行する中で、芸術は普遍的な真理を求めるリアリズムへの道をひた走っていった。だが、人間は世界や社会や人間自身を正確に知ることは出来ない、絶対的真理など決して知り得ないということが次第に明らかになった。そして、主観的な心も客観的な真理も伝えることができないとわかった今、芸術家に伝えるものなどなく、ただ彼が認識した世界を、真・善・美の価値判断抜きにそのまま直接的に描くこと以外にするべきことなどない、というのが平田の主張だ。「人間は世界や社会や人間自身を正確に知ることはできない」からこそ、価値観の混乱状態において「私はこのように世界を把握する」という一つの個的な世界の認識を示すことに意味がある。主観でも客観でもない、記述という第三の方法こそが最も現代的であると同時に、古来から続く普遍的な芸術の在り方なのではないかと平田は問いている。もしコップを表現するならそれは特に意味のないただのコップとしてしか表現できないし、もし糞を表現するならそれは主観的にも客観的にも意味を成さないただの無意味な糞として記述されることとなる。20世紀において、映画・映像においてはそうした記述性は発展をみせたが、演劇は主観的な心の表現に後退してしまった。演劇による記述的リアリズムを可能にするには無為を志向しなくてはならない。無為とは何もしないということではなく、徹底した作為によって主観性を巧妙に隠蔽することである。表現者に要求されるのは作為の技術であり、心の有り様は関係ない。「俳優に心はいらない」「俳優は私にとって将棋の駒」という平田の挑発的な言葉は、以上のような認識に基づいており、その実践の先にあったのが内面を持たない機械によって演じられた、いわゆるロボット・アンドロイド演劇である。

3.糞と戯れる専門家

 こうして見てみると、木下古栗と平田オリザは異なる問題意識から同じ実践論理を得ていることがわかる。一に、作品において主観的な心理表現を排斥・隠蔽し、世界そのものを直接的に「描写」・「記述」していくこと。二に、言葉を用いながらにして沈黙を、作為の徹底によって無為を、つまり「無」を目指していくこと。注視したいのは、二者とも映画が発展したことを理由に三人称のリアリズムを退けていないことだ。平田に関して言えば、直接的な表現のルーツとして小津安二郎の名をしばし挙げてすらいる。彼らは小説・演劇というそれぞれの条件下の元で、技術を駆使して各々のリアルな表現を作り上げており、条件が異なる以上、たとえ映画を参照していたとしても木下・平田の作品が映画とは異なるものになるのは当然である。仮想敵となるのは、木下にとっては「ブログ的」文章であり、平田にとっては主観的な心に後退した20世紀演劇であって、あくまで自らが専門とする芸術様式と同じ条件を持つ表現傾向が対象になる。「映画が小説の描写を制限した」という山下の論は、「サッカーの人気が出たことにより野球のルールが変わった」というのと同じくらい支離滅裂なものである。

 また、吉田の論考にあった「真と偽の境界」の重要性についても木下・平田の論理によって否定される。一つの世界把握の在り方として作品が成り立っていれば、作品内の出来事が本当でも嘘でも、OMSBや佐村河内の動作が素でも演技でも構わないのである。『佐村河内守事件』で嘘が暴かれたということは、それが主観性の隠蔽に失敗した出来損ないの作品であるという事実を示しているにすぎず、ドキュメンタリーにおける重要な契機となり得えるはずもない些末な出来事である。表現者が日常を非日常化したいかどうかなど、作品にとっては極めてどうでもいいことなのだ。

 木下と平田を結びつける第三の共通点を最後に上げよう。それは遊戯性である。両者の作品とも裏に厳密な論理をもつからこそ、ルールを守ってさえいればそれ以外のことは何をしてもいいという自由さを有する。想田和弘監督による平田と青年団を映したドキュメンタリー映画『演劇1』のなかで、平田は学生たちにむけたワークショップでの最後の言葉として「演劇以上に楽しい遊びはない」と発言している。もちろん、演劇を遊ぶことができるのは、彼が日本語の詳細な分析を行った上で巧みに言語を操作する高い技術を持っているからだ。木下の作品はしばしば「ふざけている」と形容されたりするし確かにふざけているのだが、彼がふざけられるのも映像喚起力の高い描写力を持っているからこそである。自由を得るための高度な技術を有することが、芸術家という職業の現代における「専門性」なのだ。今、芸術に必要なのは「心が大事」などとのたまう糞真面目なアマチュアリズムではなく、「無」と戯れることのできるプロフェッショナルな遊戯性。彼らの言葉からは、そうした主張が静かだが確信に満ちた声として聞こえてくる。

本稿が参照した論考

吉田雅史『排便の出来事性 ~『THE COCKPIT』と『佐村河内守事件』から考える~』(http://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/yoshida/380/)

山下研『再読『狂った一頁』』(http://school.genron.co.jp/works/critics/2016/students/dada20c/1693/)

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