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〈現実〉のもっと近くに―演劇化するセカイの想像力

私たちは「演劇化するセカイ」に生きている

「演劇」を知らない人はいない。さらに、このジャンルが、西欧では古代ギリシャ悲劇、日本では能楽に端を発する長い歴史を持っていることは、教科書的な事実です。歌舞伎や能が日本古来の伝統芸能であることは日本人のみならず、むしろ西欧がイメージする「原-日本」のナショナルブランドを再生産してきました。

本書は、こうした誰もが知っているはずの「演劇」という形式が、2000年以後、文学・美術・音楽・映画・アニメ・マンガといったハイ/サブカルチャーの区別にも、ジャンル間の境界にも拘束されず、あらゆる文化的表象の想像力を急速に規定していった時代的な意味を考え、演劇的想像力から見える時代精神のあり方を分析することを目的とします。

もし想像力の単位というものがあれば、文学から演劇へという想像力の移行は、10年単位のそれではなく、100年単位の文化的な地殻変動を示すものです。00年代から10年代への文化的想像力の変遷は、演劇的想像力が全面化した時代における弁証法的な展開の結果とも言えるでしょう。つまり、私たちは「演劇化するセカイ」に生きている。

したがって、私たちは1900年代において「演劇」が置かれた歴史的な位置づけを知るところから、本書の幕をあけることにしましょう。

役に立たない〈演劇〉と1900年代の想像力

演劇的想像力の近代日本史における歴史的な位置づけを、簡単に確認しておきたいと思います。

非常に長い歴史を持つ「演劇」というジャンルは、批評の歴史においては乗り越えられるべき想像力として、近代日本の文化的想像力にエッジを立たせるための「噛ませ犬」的な役割を果たしていました。批評といえばまずは「文芸批評」であり「演劇批評」であったことはないのです。なぜか。

批評家・渡部直己が編纂した『日本批評大全』では、日本批評史の出発点に坪内逍遥『小説神髄』が置かれています。坪内は『小説神髄』のなかで、荒唐無稽で勧善懲悪的な歌舞伎の想像力からの脱却を唱え、江戸時代には遊郭と並んで「悪所」と言われつつも町民のポピュラーカルチャーであった歌舞伎に代わり、人間の感情や行為を因果関係に沿って「ありのまま写実的に写す」小説のリアリズムを近代日本の文化的想像力の中心に置いてみせました。

そうした小説=リアリズムの文学的想像力は、印刷技術と産業革命がもたらした「知性を持った人間が教育を受ければ、誰でも自然や社会を理解できるし、社会の悪を生む原因/制度を改革すれば、より善い社会を実現しうる」とするリベラル/民主的な進歩史観を背景に、「私」が社会を変えてみせる「アクティビスト系」想像力を育んでいきます。言い換えれば、小説=リアリズムは、自然・社会・人間の背後で働く普遍的な因果法則に裏付けられた「唯一の客観的な真実=リアル」にリアリティを与える想像力だった、というわけです。

「○○だから××になったんだ」という知性の働きを使わないで、観客の五感と直観へ直接的に訴えかけるライブ感(いま・ここ性)をウリにする演劇は、頭を使えば誰もが客観的に理解できる現実=リアルを、何の根拠もない観客の無勝手な感覚へと霧散させてしまう客観的ではないアンリアルな想像力とみなされました。

この小説というジャンルに代表される文学的想像力は、1900年代(20世紀)の世界像を強く規定してきました。演劇もまた、「役になりきる」=「仮想の役をリアルにする」ことを目的としたスタニスラフスキー・システムという演技メソッドを武器に、現実を因果法則から客観的に理解し改革しようする文学的な想像力=リアリズムに規定されてきました。

しかし、日本演劇史には、文学と演劇は全く異質の想像力であるとして、両者を切断しようとする運動が1968年に産声をあげた時代があります。アングラ四天王とも言われた唐十郎、鈴木忠志、佐藤信、寺山修司、そして演劇の意味を根本から覆した太田省吾らによって牽引されたアンダーグラウンド演劇の潮流です。

本書で注目したいのは、彼らアングラ世代が「文学」から切断してみせた「演劇」の想像力が、なぜか00年代以降に、メディアテクノロジーの支援を受けて回帰しているように見えるという謎の現象です。

序章では「演劇化するセカイ」の一例を挙げ、演劇的想像力の徴候を思想的に準備したオタク系文化批評を参照することでその背景を押さえ、初音ミクに象徴される演劇的想像力に「演劇化するセカイ」からの突破口を探り、10年代カルチャーの行く末を輪郭付けてみることにします。アングラ演劇が切断した「演劇的想像力」については次章以降で本格的に扱いますので、ここでは、作業仮説としてアングラ期の演劇人である太田省吾の言葉を引用しておきたいと思います。

劇とは、一人の人間が立ち、歩くことが、事実としてなにごとかであること、あるいはなにごとかでありうることを示す行為であってよいのであり、そういう場面を劇的であると言ってよいのである。/とすれば、劇は、人が立ち歩くということが「感性的、すなわち直接的な事実」としてどのようにあらわれているかによって、この「全文化段階を判断することができる」のである。(太田省吾『裸形の劇場』p32)

ここで太田が言っているのは、演劇は身体が持つ「感性的で直接的な事実」から、彼が属している「文化」を理解するような想像力のベクトルを持っている、ということです。単純に図式化して言えば、演劇的想像力とは、「知性」からではなく「感性」から〈現実〉を理解する想像力なのです。

2次元と3次元の液状化

確かに、私たちはいまでも「客観的な現実=リアル」を知るために小説を読みます。演劇が「カラダ」という不透明な媒体に歪められた形でしか現実を描けないのと対称的に、言文一致で書かれた小説の言葉は、現実のイメージを直接的に写し出す「透明な媒体」であるがゆえに、現代人の悩みや社会の問題がありのままに描かれていると理解されるからです。「小説」の領土をもう少し広く取って「文学」と名指せば、小説=文学は芥川賞に象徴される「純文学」として、マーケットの論理に従うエンターテイメントとは別の文脈で受容されますし、転じて「客観的な現実=リアル」を経験させる他ジャンルの作品は「文学的な映画/音楽/マンガ/アニメ」と理解されるのです。

小説には(賛否あるにせよ)村上春樹のようなエンタメ性の高い純文学があるわけですが、演劇がメディアを賑わすのは、むしろ週刊少年ジャンプで連載された許斐剛の人気少年マンガ『テニスの王子様』を舞台化したミュージカル(略して「テニミュ」)のような2.5次元演劇です。原作の『テニスの王子様』に登場する「ありえないテニス」が、しばしばネット上でネタにされるように、要するにこれは荒唐無稽なエンターテイメントなわけですが、2003年に始まった「テニミュ」は、2014年には累計観客動員数170万人を突破するなど、大きな成功を収めています。本作を鏑矢に、2015年には2.5次元専用ミュージカル劇場「アイア 2.5 シアター トーキョー」が渋谷に開設、2017年には代々木アニメーション学院に2.5次元演劇科が出来るなど、2.5次元演劇の流行は、まだ当分続くでしょう。

「2次元を3次元化する」傾向は、「マンガ・アニメの実写映画」の分野でも顕著に見られます。試しにWikipediaで作品数を見てみると、90年代には130作品ほどだった「実写映画化」も、00年代には約220作品に上ります。それどころか、2次元のスクリーンを「3次元化」する3D映画も、今や当たり前の映画体験になりつつあります。2009年にはジェームズ・キャメロン監督の3D映画『アバター』の世界的ヒットを皮切りに日本にも広く普及し、2015年には「観るから体感する映画へ」をキャッチコピーに映画のシーンに合わせて座席が動いたり五感を刺激する風・水しぶき・匂いの特殊効果が使われる4D映画なんてものも出てきました(2016年の時点で、4D映画を体験できるスクリーンは前年比600%、43スクリーンと急激に増加しています)。

逆に、「3次元を2次元化する」傾向も同時に観察できます。2016年には90年代後半に社会現象にもなった人気アニメ『新世紀エヴェンゲリオン』の監督・庵野秀明の最新作『シン・ゴジラ』が大ヒットを記録しました。ゴジラの”リアルな”動きには、狂言師・野村萬斎の動きを瞬時にデータ化してCGに反映させるモーションキャプチャーの技術が使われています。つまり、モーションキャプチャーを介することで、3次元の「リアル」は2次元の「バーチャル」へ即座に変換可能になったのです。

こうした技術を用いれば、モーションキャプチャーで役者の動きをCG化しつつ、それを即座に3Dホログラムで舞台上に再現することが出来るようになります。究極的には、舞台裏では実在する役者が演技するけれど、観客が目にするのはリアルな演技をするキャラクターのホログラムといったようなステージが考えうる。つまりは、役者が実在しない2次元のキャラクターを演じるという意味では「2次元の3次元化」であり、なおかつ、役者の動きが実在しないCGになるという意味では「3次元の2次元化」である、といったような。

こうした2次元と3次元の区別そのものが意味を持たなくなる液状化現象のもとでは、観客の目の前で起こる現象が「2次元=バーチャル」なのか、「3次元=リアル」なのかという問いそのものが失効してしまいます。私たちは最先端テクノロジーの支援を受けて、リアルとバーチャルが全く等価であるようなリアル=バーチャル空間が次々に生成されていく時代を生きているのです。

リアリティへの一元化

演劇は客観的な現実=リアルを全く写実することなく、しかし確実に実在的な現実=リアルを侵食し始めています。そこでは、坪内逍遥以来、文学的想像力が欲望した「リアル」を「客観的かどうか」から理解するといった基準では捉えることの出来ない、パラダイムの異なる別のリアルが顔を覗かせているのです。

では、こうした意味での「リアル」とは一体なんなのでしょうか?

また、なぜリアルとバーチャルの区別は失効してしまうのでしょうか?

出典:海外で発見されたプーチンとあずにゃんの落書きアート、異様すぎると話題〈http://www.all-nationz.com/archives/1066865570.html〉

前者の問いに対しては、次のように答えることが出来ます。リアルとバーチャルの区別が失効した後に残された「リアル」とは「リアリティ(現実-感)」である、と。象徴的な事例を一つ紹介します。上図を見てください。オーストラリアのメルボンで発見された、プーチン大統領と人気アニメ『けいおん!』のキャラクター「あずにゃん」の落書きです。この落書きが与える違和感には、プーチン大統領という実在=リアルな人物も、あずにゃんという観念=バーチャルな人物も、同一平面上で全く違和感なく出会ってしまっている、というところにあります。本来であれば、3次元に属するはずのプーチン大統領も、2次元に属するはずのあずにゃんも、それが知覚―体感される「リアリティ(現実-感)」のレベルでは等価であるのです。

つまり、「とある人間に、とある感情が起こる因果関係の必然性」を知ることで、現象の背後に隠された客観性に近づくことを〈現実〉の基準とする文学的想像力とは異なる、それぞれバラバラなリアリティ=感覚に根拠付けられた「いま・ここにそれが現前していると感じられるか否か」を唯一の基準にする演劇的想像力が支配的になったことで、〈現実〉の意味それ自体が変わったと考えるべきです。であれば、前節にあげた「2次元の3次元化」と「3次元の2次元化」の区別がつかなくなるという事態は、もっと簡潔に「リアル/バーチャルをリアリティ(現実-感)に一元化する演劇的想像力が〈現実〉の基準となった」と記述可能なわけです。

したがって、私たちは「リアル」と「バーチャル」が全く等価であるような「演劇化するセカイ」に生きていると端的に表現することが出来ます。

それでは、もう一つの問いには、どのように答えられるでしょうか。実は「演劇化するセカイ」の背景にある時代精神は、すでに00年代の初頭から、それと名指されることなく、いわゆるオタク系文化批評において集中的に議論されています。次節では、東浩紀・大澤真幸の議論を参照して「演劇化するセカイ」の背景を辿っていきます。

シミュラークル=リアリティ

00年代のオタク系文化批評の基盤となる議論は、そのシーンを牽引してきた東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001)でまとめているので、簡単に見てみましょう。

東浩紀は、オタク系文化がポストモダンの特徴を色濃く反映していることを指摘しました。近代社会において人間のなすべき役割から人生に意味を与えていた「大きな物語」の同調圧力が低下した結果、多様性を特徴とするポストモダン社会が到来するのですが、こうした時代の変化を反映して、(象徴的には1995年に放映されたTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』以後)オタクたちは「物語」とは無関係に「断片的なイラストや設定」だけをてんでバラバラに消費する「キャラ萌え」と呼ばれる消費行動をとるようになります。東は、こうした「断片的な萌え要素の集まり」をデータベースという比喩で表現しました。

オタク系文化においては、2013年に59万人の来場者数を数えた同人誌即売会・コミックマーケットに象徴されるように、「データベースに登録された萌え要素」を組み合わせることで、自分の好みに合わせて自由にキャラクターや物語を生成/消費する傾向が顕著になっていったのです。そして、データベース消費においては、オリジナルの一次創作もコピーされた二次創作も、「データベースに登録された萌え要素の組み合わせ」という意味では「オリジナル→コピー」の階層関係を持たない、水平的で等価に並び立つ複数のヴァージョンと理解されます。

オリジナルとコピーの区別が失効した記号は「シミュラークル」と呼ばれ、作品の「リアル」を判定する基準は、現実(自然主義)でも、虚構(物語消費)でもなく、萌え要素のデータベースに置かれることになります。データベース全体との関係性からシミュラークルの価値が決まり、逆に、シミュラークル(二次創作)が増えれば増えるほど、データベース(原作を構成する情報群)の価値も高まる、というわけです。

こうした議論は、「リアル/バーチャル」の区別が失効することの構造的な理由を教えてくれるでしょう。つまり、大きな物語が退潮したポストモダン社会では、オリジナルとコピーがデータベースの水準で等価になりシミュラークル化するように、リアルとバーチャルもデータベースの水準で等価になりリアリティ化すると。

もう少し説明を加えましょう。そもそも「キャラ萌え」とは、データベースに登録され類型化されていくにせよ、それが萌えるか否かの基準は、特に何の理由もないけれど「良い」というフェティッシュで感覚的な基準です。ここではデータベースとの整合性とともに、感覚的な「リアリティ」がシミュラークルのクオリティを測る物差しであり、こうした「リアリティ」を効率よく取り出して来ることの出来る情報の束が「データベース」だと再解釈することが出来るのです。

したがって、「リアル/バーチャルをリアリティに一元化する」演劇的想像力は、ポストモダン社会における現実認識の本質的な特徴を示していると言えます。

演劇の時代

ところで、東は、データベースの水準に裏打ちされたシミュラークルの全面化がオタク系文化の消費形態を特徴づけていると結論付けたあとに、社会的=人間的なコミュニケーションを媒介にせず、各人がそれぞれ自分の好みに合わせたデータベース消費に自閉する時代を「動物の時代」と名づけました。

これはもちろん、オタク系文化に固有の事態ではなく、ポストモダン社会の本質を反映したものと理解されます。並行して、社会学者の大澤真幸は『不可能性の時代』のなかで、次のような時代区分を提示しています。

  1. 1945年の敗戦後、天皇の戦争責任を許したアメリカを新しい価値規範とする「理想の時代」
  2. 1972年の連合赤軍事件に象徴される「理想の時代」の終焉と、その反省から、アイロニカルに理想を相対化する「虚構」を新しい価値規範とする「虚構の時代」
  3. オタク的=虚構的な想像力のもとで「ハルマゲドン(世界の終わり)」を実現しようとした1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件が象徴する「虚構の時代」の終焉と、これ以上なく直接的に感じられる〈不可能な他者〉を価値規範とする「不可能性の時代」

東の議論も大澤の議論も大変示唆に富むものですが、結局のところ、00年代に前景化した「不可能性の時代」とも「動物の時代」とも呼称される1995年以後の時代とは、虚構を基準に相対化され空洞化した〈現実〉=データベースを、言い換えれば統合失調症的に薄い膜を一枚隔てた虚構としか感じられない〈現実〉を、〈私〉の身体的な感受性を過剰に行使することで直接的な〈リアリティ〉から回復させようとする時代であり、これを率直に「演劇の時代」と呼ぶことが出来るのではないでしょうか。そして「演劇の時代」の到来は、文学的想像力と演劇的想像力が100年ぶりに取って代わった転回を意味するものだと、筆者は考えます。

もし、それが正しければ、理想の時代は安保闘争に象徴される誰もが集団(劇団)として社会に参加したがる時代であり、虚構の時代はディズニーランドに象徴される誰もが観客として虚構に参加したがる時代であり、演劇の時代は誰もが俳優として虚構に参加したがる時代だ、とも言えるでしょう。この「演劇の時代」において、「舞台」の外部は存在しません。少し強く言うと、私たちは一億総俳優であり、そうであることでしか〈現実〉をリアルに感じる術がないがゆえに、そうであることを欲望もするし、そうであることを余儀なくされる。

この時代の感性を綺麗に示している事例として、新しいデモの形式で注目を浴びた「自由と民主主義のための学生緊急行動(略称:SEALDs)」の活動を分析してみます。

「演劇の時代」の申し子・SEALDs

SEALDsは、90年代生まれの10代〜20代の大学生を中心的なメンバーとし、2013年から15年にかけて特定秘密保護法成立に対する抗議デモ(SASPL名義)・集団的自衛権の行使容認の閣議決定への抗議デモ(SASPL名義)、安全保障関連法案の採決に反対するデモ(SEALDs名義)といった一連の政治活動で注目を浴びました。その活動の方法は、極めて「演劇の時代」に対応する形式をとっています。

SEALDsの活動の特徴を高橋源一郎×SEALDs『民主主義ってなんだ?』(2015年)を参考に3点あげます。

  1. 個人の言葉で喋る
  2. HIPHOP的なラップ調のコールを使う
  3. 「民主主義ってなんだ?」に「これだ!」を返すコール&レスポンス。

(1)は「理想の時代」に属する安保闘争が、反対派の中でも立場の違いを明確にし、組織的な意志でもって抗議活動を行ったのと対称的に、一人ひとりが「私の声」で主張するスピーチを理想とする、ということで、(2)は持ち寄ったスピーチをサンプリングして韻を踏むリズムを作るといったもの。(3)はそのまま、ですね。

「演劇の時代」は、虚構を基準に相対化された〈現実〉を基盤にします。言い換えれば、データベースに集積された情報の束に対する、個別バラバラなリアリティだけが〈現実〉の基準となる。ですので、一つの「理想」に意味づけられた組織的行動は生じにくくなります。代わりに「何が正しいか」(文学)よりも「何が体感的か」(演劇)が行動の規範となり、身体性を色濃く帯びた「私の声」=リアリティを持つことが、抗議活動に参加しているか否かを分ける分割線となるのです。

また、ラップ調のコール&レスポンス(「あ・べ・は・や・め・ろ」といった)は、集められたスピーチのデータベースから「リアリティ」を基準にサンプリングされた体感的な言葉であると理解できます。そして、「民主主義ってなんだ?」に「これだ!」を何度も繰り返すことで、何らかの論証的な「理由」に支えられて初めて「これだ」を言うのではない、「これだ!」と言い続ける直接的な感覚から遡行的に「民主主義」を理解しようとする、文学的想像力においてはありえない回路が開かれている、というわけです。

SEALDsは、SNS等を通じて賛同・批判・バッシングが入り混じったレスポンスをすべて受け止める「器」のように機能していましたが、SEALDsの活動内容と主張が客観的に正しいかどうか、本当か嘘か、はもはや「リアル」の基準たりえませんから、もちろんどっちでもかまわないのです(「ポスト真実」というキャッチフレーズが言わんとしているのはそういうことでしょう)。〈現実〉の基準はいまや「リアリティ」の直接性なわけですから、自分がなぜだか偶然、何の理由もなしに「感じた」ものが〈現実〉ですし、人間にとって最も根底的な「リアリティ」の共通/感覚(コモン/センス)を有していれさえすれば、主義主張の内容=コミュニケーションの水準を媒介しなくても、自分と同じように「感じている」であろう人たちを「同一の集団」と理解するように〈現実〉はイメージされるのです。

つまり、SEALDsとは「演劇化するセカイ」の想像力に規定された時代の政治的な現れだったわけです。

そうした状況のもとでは、個々人が権威的なイデオロギーを介さずにつながることが可能になったとも言える一方、感情の暴発を招きやすい環境になったとも言えます。なにしろ、東の用語を用いれば、演劇の時代の主体性は「動物」的なわけですから、なぜだか気に食わないとか、ある一言に猛烈にカチンと来たとか、そういう感情的な気分を即座に出力しても良いんだという価値規範が支配的になるからです。

さらに2010年代のインフラ的なコミュニケーション・ツールとなったTwitterにおける、140字文字以内の「短文」というアーキテクチャ上の制約が、人びとの理由なき「さえずり=感情」とリツイート機能を通じた感情の増幅を可視化することを可能にしました。しばしば「炎上」のメタファーで語られる感情の暴発の無意味な反復は、演劇的想像力に支配された時代において、延々と繰り返されることでしょう。

以上で、00年代から10年代半ばにかけて「演劇化するセカイ」の想像力が深化していった結果、どのように社会的現象へ反映されるのか? についての分析を終えたいと思います。次節以降では、カルチャーの側面において、「演劇化するセカイ」の問題を乗り越える想像力が、どのように胚胎しているのか? を、初音ミクの分析を中心に見てみたいと思います。

 ※念のため、一言添えておきますと、これは制度論ではなく時代精神の議論ですので、「演劇の時代」に人は俳優として参加したがるがゆえに参加民主主義が強調されるとは言えますが、それでは参加民主主義が良いのか議会制民主主義がいいのかとか、立憲主義の危機にどう対応するのか、といった話ではありませんし、SEALDsの活動を単純に否定するものではありません。

初音ミクとAKB48

初音ミクは、クリプトン・フューチャー・メディアが2007年8月31日にリリースした音声合成エンジン「VOCALOID」を用いるDTM(デスクトップミュージック)用のソフトウェアです。その特徴は、あたかも人が歌っているかのような楽曲を、ユーザーが自由に制作出来る点にあるのですが、ソフトウェアのパッケージには「初音ミク」と呼ばれるキャラクターのイラストが描かれていました。初音ミク以前にもMEIKOやKAITOといった「VOCALOID」シリーズはすでにリリースされていたのですが、初音ミクほどのスマッシュヒットは飛ばしませんでした。その要因は大きく三つあると考えられます。

  1. 「初音ミク」はオタク系カルチャーから発展した「萌え絵」的な要素を色濃く反映したものでありつつ、年齢・身長・体重といった最低限のデータだけが付与されるなど、その物語的な背景が極端に排除されており、それが逆にユーザー・オーディエンスが自由に物語を盛り込むことの出来る「器」として機能した点。
  2. 2008年にオープンした動画にコメントをつけることの出来る「ニコニコ動画」という動画視聴サービスが、濱野智史がN次創作と呼ぶ、オリジンなき協働と派生の無限連鎖を準備していた点。
  3. ニコニコ動画が疑似同期的にオーディエンスのシンクロ感を再現した点。

(1)はキャラクターの問題、(2)はデータベースの問題、(3)はコミュニケーションの問題です。演劇の比喩を用いれば、役・劇団・観客に対応します。筆者の考えでは、初音ミク・ニコニコ動画・インターネットの偶然の出会いこそ、「演劇の時代」の精神を背景に、バーチャル/リアルを「リアリティ(現実感)」へと一元化する演劇的想像力を可視化したメディアテクノロジーの先駆的事例であり、また「演劇の時代」の文化的な特徴を最もよく示した象徴的事例でもあるように思います。

(1)と(2)も重要な論点ではありますが、ここで取り上げたいのは(3)コミュニケーションの問題系です。これは、00年代サブカル批評のトップランナーでもある宇野常寛が「社会に出ても生きる意味を与えられない」から自己承認だけ求めて「引きこもる」セカイ系の想像力でも、小泉政権化のネオリベ的構造改革を背景に「引きこもっていると殺される」からバトルロワイヤルして生き残る「サヴァイブ系=決断主義」の想像力でもない、第三の道として『ゼロ年代の想像力』で問題にしたものです。

簡潔にまとめると、それは脚本家・宮藤官九郎のテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』(2000)や『木更津キャッツアイ』(2002)といった作品に代表される想像力です。ポイントは、「終わりなき日常」の消費しかない虚無感から目を背けて、自分好みの美少女と戯れるような自閉的なツールとしてデータベースを使うのではなくて、みんなと共有できるサブカル的データベースを活用して、「いま・ここ」の日常を豊かにするツールとして使おうよ、という点です。宇野のこの視点は、ここではないどこかを捏造するVR(仮想現実)に対して、いまここを多重化するAR(拡張現実)の可能性を唱え、アイドルグループ「AKB48」に間主観的なコミュニケーション(社会)を回復させるアーキテクチャを見る『リトル・ピープルの時代』(2011)まで一貫しています。

しかし、端的に言って、データベースを活用するという発想そのものの内に、自分一人の欲求に自足するオタク的な自閉性よりもたちの悪い、根拠なき「リアリティ」を集団化しながら感情を増幅させていく「感情の暴発」の危険性が胚胎しているでしょう。例えば、2013年にAKB48のメンバー・峯岸みなみの「お泊りデート」が週刊文春にスクープされてから、峯岸が「本当に申し訳ございません」と丸坊主にして謝罪するという事件がありました。

冷静に考えれば、「恋愛禁止」のルールなんてフェイクだし、一人の女性の恋愛を拘束するなんてナンセンスなことにすぐ気づくはずですが、「演劇の時代」の想像力は特定のデータベースを背景にした「リアリティ」しか〈現実〉の基準がありませんから、データベース消費の島宇宙の外が結局は見えなくなってしまう、そのルールがバーチャル=虚構なのかリアル=実在なのかが見えなくなってしまう。演劇のなかで「役」を演じていると思っていたら、これだ! これだ! と言い続ける直接的な感覚に没入してしまい、距離感をとれなくなってしまうという俳優特有の(同時に観客特有の)困難を、宇野は見落としているのです。

しかし、宇野の提起するコミュニケーションの問題は、「演劇化するセカイ」でのリアリティだけを頼りにした感情的なコミュニケーション(殺し合い)や、「私」と「あなた」の輪郭がぼやけてしまうような感情的共同性(つながりのためのつながり)に嫌気が差した時に、では、リアリティ=感情同化の外にある〈現実〉にいかにしてアクセス可能なのか? を問うものです。その処方箋としての「いま・ここ」を多重化する戦略については筆者も共感を覚えます。

「演劇の時代」において、データベース消費に没入してしまうことなく、データベースの外でコミュニケーションを可能にする文化的想像力とは何か? それが、初音ミクの展開に示されていると思います。

「演劇の時代」には2次元も3次元も等価になりますから、初音ミクもAKB48も、シアトリカルなアイドルという意味では変わらないように見えますし、本質的には変わらないでしょう。しかし、宇野常寛と00年代を並走した濱野智史の名著『アーキテクチャの生態系』で議論される「メディア・コミュニケーションの時間」の分析は、ニコニコ動画に初音ミクが登場した初期のころに散見された、根拠なきリアリティの過剰な消費によってのみ存在する〈現在〉に何とか抗い実存的な〈初音ミク〉を存在させようとする楽曲群に、ある光を当てるものでした。

初音ミクの消失

ここで注目したいのは、VOCALOIDプロデューサー(※VOCALOIDを使って初音ミクをプロデュースるように楽曲を発表する作り手をプロデューサーと呼びます)として活躍するcosMo(暴走P)です。ニコニコ大百科から引用します。

歌唱に向かないジャンルでVOCALOIDを用いることを得意とする個性派なPである。・・・・・・BPM200を越える楽曲が多く、テンポも非常に速く「歌ってみた」ではなく「喋ってみた」となっているのも 納得できるぐらいの速さである。
(ニコニコ大百科「cosMo(暴走P)」〈http://dic.nicovideo.jp/a/cosmo%28暴走p%29〉)

暴走Pを(ニコニコ動画内で)一躍有名にした「初音ミクの消失」は、歌うことは出来るが喋ることが出来ない初音ミクに「オリ曲を喋ってもらった」という、若干、ネタ的なタイトルで投稿されました。しかし、この「喋ってもらう」という初音ミクとの関わり方には、反省的に「初音ミク」の限界を扱う「初音ミクの存在論」とも言うべき批評的な態度がすでに胚胎しています。「圧縮された別れの歌」と呼ばれる「初音ミクの消失」は、「終わり」の先取りから初音ミクに仮想的な「死」を与え、「バーチャル」(役)と「リアル」(俳優)の区別が消失した臨界点で、リアリティのみを根拠にデータベース消費から自律した「カラダ」を存在させようとします。これは、極めて演劇的な戦略と想像力です。しかし、また「初音ミク」は次のように歌います。

人格すら歌に頼り/不安定な基盤の元/帰る 動画(トコ)は既に廃墟/皆に忘れ去られた時/心らしきものが消えて/暴走の果てに見える/終わる世界/「VOCALOID」
「初音ミクの消失」,cosMo(暴走P),2008

つまり、彼女は、彼女にまなざしを与える(消費する)ニコニコ動画のユーザーが彼女を忘れてしまったときには、なかったことになる存在だ、ということです。これは、データベース消費とキャラクターの関係を綺麗に反映しています。「リアリティ」のみを根拠にした〈現実〉は、データベースを実際に起動させる「誰か」がいなければ、存在することのない〈現実〉です。感情の器となるキャラクターは、それに萌える誰かによって存在させられているのであって、データベース消費から自律したキャラクターの存在は、字義通りありえない。ゆえに、データベースの外で初音ミクと出会う可能性は存在しないのです。

リアリティの二側面

この課題に、暴走Pは、「初音ミクの激唱」で次のように応答しました。

「何処へ向かっても『自我の消失』—結末—が変わらないなら /ココロなんて要らなかった」と 思っていたけど 間違いだった/ボクの名前を呼ぶ声聞こえる /それがボクの ココロ 持つ意味になる/永久(とわ)を得るがために 現在(いま)に背き裏切るくらいなら /歴史の波飲まれるまで 現在(いま)を守り抜くと誓う /『語り継がれる創造神(カミサマ)』なんかには ならなくてもいいのさ!/キミは笑い ボクも笑い 観衆(ヒト)が笑う それが 全て! /肯定の言葉は 現在(いま)を統(すべる) 翼 となる! /新しい結末(こたえ)込め<最高速の喜びの歌(うた)>紡ごう
「初音ミクの激唱」,cosMo(暴走P),2010

確かに初音ミクはデータベース消費から生成されるシミュラークル/リアリティの中にしか存在できないのかもしれない。だがしかし、〈現在〉のリアリティそのものにおいては存在しうる。しかし、それでは結局、データベース消費からの自律は果たせていないのではないか? という疑問がわきます。現に、暴走Pは「リアル初音ミクの消失」では、〈現在〉がデータベース消費の局面でどんどん書き換えられていくさまを、描いています。

現代(イマ)に生まれた悦びを/かみしめて生きてゆこうじゃないか/前の“愉しみ”が すぐに今の“愉しみ”に/上書きをされるのが現世(うつしよ)の規則(レギュレーション)/キミが消えたとして 世界は顔色変えずに/新しい換えの誰か 空白を埋める
「リアル初音ミクの消失」,cosMo(暴走P),2015

ここから〈リアリティ〉に内在する矛盾した性質を見て取ることが出来るでしょう。第一に〈リアリティ〉はデータベースに依存し、その消費の中でしか生成されない。第二に〈リアリティ〉は、それが体験される現在という瞬間においては、データベースに依存することなく存在できる。

ここで、濱野智史の議論を参照することが有用です。濱野は、ニコニコ動画が、客観的にはユーザー同士が動画視聴もコメント投稿もバラバラな時間に行っているのにもかかわらず(非同期的)、主観的には動画を視聴している時間のあいだリアルタイムでコメントが再生される(同期的)という「疑似同期」的なメディアなのだと分析しました。本稿の文脈で言えば、ニコニコ動画は「リアル」の基準において非同期的だが、「リアリティ」の基準において同期的、となります。

これを、ユーザーとキャラクター(初音ミク)が〈リアリティ〉において同期する議論として読み直してみると、ニコニコ動画のアーキテクチュアルな特性は、リアリティを〈現実〉の基準にする「演劇の時代」においては、複数のバラバラなレイヤーが偶然にも同期する「同期的リアリティ」が〈現実〉を存在させることを示唆するでしょう。と同時に、データベースに依存する〈リアリティ〉とは、こうした偶然になぜかシンクロし同期してしまう「世界」の制御不能性を隠蔽するものとして働いていると仮説立てることが出来ます。

つまり、本来は偶然に起こることであり、制御し得ない形の〈同期的リアリティ〉に客観的な(固定した)形を与えるものが、データベースなのです。こうした、リアリティを客観的な、非同期的な情報の束に還元するデータベースを解体させる可能性はあるでしょうか?

一人歩き始めること

2017年に暴走Pは、とても久しぶりに初音ミクの楽曲を制作しました。「いままでも、このときも、これからも――」と題された曲は、憑き物が落ちたように、穏やかな表情を見せました。

キミはとても強くなった/ほんの少し素直になった/誰よりも傍で見てきたからわかるよ/ねえ どんな険しい旅路でも/最果(はて)が未だ遠くても/これからも隣で キミと同じ未来を見させてよ/キミはだいぶ 優しくなった/この世界を 許すようになった/誰よりもキミ自身がわかってると思うよ/ねえ ありきたりな言葉でも/キミとわたし強く在れるよ/これからも隣でありふれた幸せを綴ってよ
『いままでも、このときも、これからも――』,cosMo(暴走P),2017

ある種、陳腐にも見える本作は、しかし、暴走Pの初音ミクとの10年間の格闘を思い起こせば、大変示唆的です。10年間、暴走Pの行く末を見てきた筆者にとっては、「ありきたりな言葉」であっても、「隣」で長い時間を書けて付き合うプロセスにおいて、それまでの記憶のレイヤーを重ね合わせることも込みでの〈同期〉するリアリティを感知しうるからです。

したがって、cosmo@暴走P futearing初音ミクが究極的に示すのは、瞬間の「同期的リアリティ」とは「持続する時間」の経験によってのみ与えられるということです。裏返せば、私たちには無数のデータベースしか用意されておらず、そこから生成される〈リアリティ=感情同化〉でしか現実をイメージすることができなかったとしても、それを経験するプロセスの時間は異なった時間である、つまり私はあなたと全く異なる「持続する時間」を持ち得るのだ、ということです。

持続する時間のプロセスは、瞬間の消費に還元されない唯一性を持っています。これが、〈私〉と〈あなた〉が異なる〈他者〉であることの意味であり、データベース消費によって「等価」なものへと還元されないための身振りになりうると、筆者は考えます。

ここまで、ネガティブに語られてきた「演劇的想像力」ですが(もちろんその側面は色濃くあるのですが)、ポジティブに語るなら、「物語」の「オリジナル/コピー」の境界線を無効化するデータベース消費は、「リアル/バーチャル」をリアリティのレベルに一元化する演劇的想像力への移行において、コンテンツを鑑賞するという消費スタイルから自由になった、とも言えます。〈私〉は一人歩き始めることで、持続する時間の中で偶然起こる〈同期的リアリティ〉を渡り歩くことによって(誰にも理解されなかったとしても)全くオリジナルのデータベースを持つことが出来るし、そこからしかデータベースの間で〈他者〉と出会う可能性も無いでしょう。

一人で歩き始めること。これが、「演劇化するセカイ」における、新しい想像力の形になるでしょう。そして、本書は一人で歩き始めることの意味を、象徴的にではなく字義通りに理解することが目的として書かれます。次章からは以下に示したアンダーグラウンド演劇から現代演劇へと受け継がれた幾つかの潮流を取り出し、「演劇化するセカイ」を震わせ解体するツールに仕立てあげてみましょう。

①別役実ー平田オリザ―柴幸男ライン
②唐十郎ー野田秀樹ライン
③佐藤信―川口智子ライン
④太田省吾―村川拓也ライン
⑤鈴木忠志ー三浦基ライン
⑥寺山修司ー高山明ライン

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参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書)講談社、2001
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫,2011)早川書房、2008
宇野常寛『リトル・ピープルの時代』幻冬舎、2011
大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)岩波書店、2008
太田省吾『裸形の劇場 太田省吾演劇評論集』而立書房、1980
さやわか『10年代文化論』(星海社新書)星海社、2014
さやわか『キャラの思考法 現代文化論のアップグレード』青土社、2015
高橋源一郎・SEALDs『民主主義ってなんだ?』河出社書房新社、2015
坪内逍遥『小説神髄』(岩波文庫,2010)松林堂、1885-1886
濱野智史『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』(ちくま文庫,2015)筑摩書房、2008
福嶋亮大『厄介な遺産 日本近代文学と演劇的想像力』青土社、2016
渡部直己『日本批評大全』河出書房新社、2017
『ユリイカ 総特集♪初音ミク―ネットに舞い降りた天使』(12月臨時増刊号 第40巻第15号)青土社、2008
参考URL
* テニミュ10周年、祝!累計観客動員数170万人突破、公演&アトラクション@東京ドームシティ〈https://animeanime.jp/article/2014/02/08/17381.html〉
* AiiA2.5 Theater Tokyo 〈http://aiia-theater.com〉
* 2.5次元演劇科〈http://hs.yoani.co.jp/course/voice-actor/25d-musical/〉
* Wikipedia「アニメ・漫画の実写映画化作品一覧」〈https://ja.wikipedia.org/wiki/アニメ・漫画の実写映画化作品一覧〉
* 名越 章浩『くらし☆解説「映画興行収入 増加の背景は?」』〈http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/237555.html〉
* 「モーションキャプチャー」が結ぶ、シン・ゴジラと野村萬斎さんの関係〈https://time-space.kddi.com/ict-keywords/kaisetsu/20170105/〉
* 海外で発見されたプーチンとあずにゃんの落書きアート、異様すぎると話題〈http://www.all-nationz.com/archives/1066865570.html〉
* Wikipedia「コミックマーケット」〈https://ja.wikipedia.org/wiki/コミックマーケット#cite_note-Visitors-2〉
* ニコニコ大百科(仮)「cosMo(暴走P)」〈http://dic.nicovideo.jp/a/cosmo%28暴走p%29〉
※アクセスはすべて2017年9月4日(月)

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