トロープの器―換喩的〈他者〉と隠喩的〈他者〉

1、
記憶は忘却だ。
まさか原爆で亡くなった人たちは自分たちの「死」が「平和の大切さを説くための教材」になるとは露ほども思わなかったろう。彼らは、原爆の悲惨さを伝えるために死んだわけでは決してない。私たちは忘却に抗い過去を記憶することを善いことだと思う習慣がある。私たちは記憶を媒介にしてコンテクストの連なりに過去を位置づけ、意味を与えようとする。そして、現在とは全く無関係に存在したはずの過去=他者の実在性を抹消するのだ。

もう十年ほど前のことになるが、私の母校に併設されている国際平和ミュージアムの展示を見て回っていると、そうした感慨が胸を突いた。私たちは広島に「世界初の被曝都市」の名を与えることで「平和の大切さ」を実感し、あるいは核戦争の危機に警鐘を鳴らす出来事として記憶し「ヒロシマ」を平和のための生贄に捧げる。言うなれば、歴史的現実は単なる年表でも年代記でもなく、特権的な出来事が因果系列に沿って展開された物語であり、そこには常に現在からの「解釈のまなざし」が入り込むのである。

アリストテレス(B.C.384~322)は『詩学』のなかで歴史と悲劇=物語を区別した。曰く、歴史とは相互に関係を持たない偶然の出来事の集合であり、悲劇とは完結した一つの行為によって必然的に組み立てられる因果関係の系列である(例えばオイディプスの治めるテーバイの地が荒廃したのは、父を殺し母と寝た彼の行為が引き起こした必然である)。だから、たまたま偶然にポコポコと起こっている無関係な出来事を必然の位相に置換する「偶然の必然化」によって歴史は悲劇=物語に転じる。ここで、歴史は「年代記」的に理解されており、一見して知られる歴史の背後に立ち戻り、実はその現象を意味づけているテロス(最終目的)を反省的に解釈するまなざしは存在していない。

反省的な解釈のまなざしを歴史的事実に投射し「偶然」の内部で実は働いている「必然」を取り出した、言い換えれば「歴史の物語化」を推し進めたのはヘーゲル(1770~1831)である。歴史は世界史を支配している理性の法則に従って発展し、特殊な個が実は目指している普遍的な自由の理念を自覚し実現する「世界史的個人」(歴史哲学講義(上)p58)の物語であり、そうだとするならば、歴史を動かす必然的な法則の洞察は、歴史の歯車を早回しする潤滑油となりうる。地球規模で人類を解放する革命が起こせるのであり、そのためには、生産的諸関係に規定された階級闘争の弁証法として歴史を理解する必要がある・・・・・・。

「歴史の終わり」が宣告され物語の打ち切りが決まるまで、近代の啓蒙的理性はまさに「蒙を啓くひかり」を灯し、現象の背後に働く力学の洞察に勤しんできた。同時に僕たちは、歴史の物語化が発明された時点から、つまりは近代的な意味での「歴史」という概念が発明された時点から、「実在する過去」=「リアルなもの」は常にすでに「解釈された過去」=「フィクショナルなもの」に汚染されているのではないか? という懐疑を抱え込まずにはいられなくなった。最初に戻れば、記憶は常にすでに忘却なのではないか? という懐疑を、である。

それでは、僕たちは忘却された過去を思い出すことは出来るだろうか? 「解釈するまなざし」に意味づけられることなく、私たちの現在へと統合されることなく、解釈を拒絶するリアルな〈他者〉を思い出すことは出来るだろうか?

2、
知っての通り、映画『この世界の片隅に』は、こうの史代が2008年に発表したマンガを原作に、片渕須直が監督したアニメーション映画である。「この世界のあちこちの私へ」からはじまる原作は、1933(昭和8)年から1946(昭和21)年の終戦末期に生きた一人の女性「すず」の生を描き出した。広島市内の江波に育ち、東洋一の軍港をかまえる呉の北条家へと嫁いだすずは、戦時で物資が不足するなか生活の切り盛りに奮闘する。が、生来のぼーっとした性格のためか間の抜けた失敗も度々。夫をなくし娘の晴海とともに北条家へ出入りしていた義姉の桂子には「すずさん/あんた広島へ帰ったら?」と意地悪を言われてしまうのだが、ベタに受け取って喜び勇んで初めての里帰り。「あせったあ、呉へお嫁に行った夢見とったわ!!」(『この世界の片隅に 上』p97)とどこか実感のわかない北条家での生活を思わず口にしてしまう。

日本人の潜在意識にもはや刷り込まれたと言っても良い『はだしのゲン』や『火垂るの墓』に比べて切羽詰まった非日常的な色合いは薄く、ぼんやりしたすずが夢見るカッコつきの「現実」のように描かれる日常は、戦況が悪化の一途を辿り空襲が常態化してからもブレることなく続いていく。

このカッコつきの「現実」、夢見られた現実という距離感は、原爆の悪夢によって特権的な物語を内包せざるをえなくなった「ヒロシマ」と「呉」が持つ地理的な距離感とも類比的である。

夫の周作は呉鎮守府軍法会議の文官であり、義父の円太郎は呉工廠の支部である広支廠で航空機部に勤めるところからもわかるように、呉は軍需産業によって栄えた町であり、なおかつ「広島」から20キロと近すぎず遠すぎない、原爆被害の当事者とはいかないが非当事者でもないという距離感のズレを持ち、そもそも軍港の街という表象それ自体が、戦争と生活の距離感に具体的な肉付けを与えている。

また、鬼(ばけもん)や座敷わらしといった物の怪のたぐいがさしたる違和感もなく自然と登場し(まるで「ポケモンGO」的なAR―拡張現実―のように)、原作では鈴原の代わりにすずが海を「絵に描く」行為とマンガを書く作者のメタ行為の様相的なズレが重ねられている(全編に渡ってスクリーントーンが用いられないのは、そういう理由だろう)。

そしてこうした心理的・想像的・地理的・空間的・様相的な「ズレ」と「ズレの重ね合わせ」は何よりもタイトルにおいて象徴的に示されていることに慧眼な読者ならば気づくはずだ。ツイッター等でも散見されるのだが、しばしば『この世界の片隅に』は『この世界の片隅「で」』と誤って表記される。これは微事ではなく本作の根幹に関わる悪質な間違いと言わざるをえない。非常に大雑把ではあるが、助詞「で」は能動性を特徴とする統辞であり、助詞「に」は受動性を特徴とする統辞であると切り分けてみると良い。もしも本作が『この世界の片隅「で」』生きるすずの小さな生を描く物語であったとするならば、『この世界の中心で、愛を叫ぶ』ことと本質的な違いがなくなる。助詞「で」は、そこが中心であろうが片隅であろうが、能動的な主体を示すことで「そこ」を中心化する作用(統辞性)を持つからだ。

そして、助詞「で」の中心化作用は「偶然の必然化」を本質とするヘーゲル的「歴史の物語化」を導く。そもそもアリストテレスのはじめから、「人間の統一的な行為」をモデルにした因果系列を切り出してくることで成立した物語は、人間には制御不能な畏怖すべき偶然の世界から主体的な「この世界の中心」を画定させる「で」の物語だった。そこに主体が見いだされると、その主体の行為の結果は必然化する。であるならば、この世界の片隅「で」行われる「すず」の主体的行為は必然的な宛先を持たざるをえず、現在へと融合される(はずの)行為の意味は「解釈のまなざし」を逃れ得ない。結果的に、すずの生はまるで私たちの平和を実現させるための礎であったことになるのであり、僕たちは解釈された「すず」を記憶することで、実在する「すず」を忘却するのである。

3、
それでは、『この世界の片隅に』おいて、果たしてリアルな〈他者〉を思い出すことは可能なのだろうか?

その補助線として、ロマン・ヤコブソンが伝統的レトリックの分野から引き継ぎ定義した隠喩と換喩のトロープ(転義的比喩)を参照してみよう。ヤコブソンは換喩(メトニミー)を隣接性に基づくトロープとして、隠喩(メタファー)を類似性に基づくトロープとして定義したのだが、ある意味では単に表現を豊かにするために用いられる修辞技法を世界認識のパターンとして拡大解釈したとも言える。前回の保坂論でも引いたのだが、樋口桂子の『イソップのレトリック』で提示された次の定義を参照しておこう。

換喩は、抽象的なことがらや事件もまた、もともとは現実的な、手にとることのできるものごとの総体であることを思い起こさせる。・・・・・・換喩はすぐれて知覚的な転義法である。換喩は現実物(もの)によって言葉を置き換えて行く。こうして、ものを言葉と化す。
(樋口桂子『イソップのレトリック メタファーからメトニミーへ』,勁草書房,1995,p34・p58)

換喩は知覚的に特徴ある細部から対象を喩えることで、触知的な了解を生み出す。例えば、簡単なところでは「やかんが沸いた」のように、沸いたお湯を隣接する「鍋」で喩えることで、知覚的に了解可能にする。また、いわゆる「萌え要素」も換喩である。キャラという抽象が「猫耳・めがね・しっぽ」等の知覚的な特徴ある細部に喩えられるからである。また西尾維新や清涼院流水の小説に出てくるような名が体を表すなような人物名も換喩である。換喩は概してわかりにくく曖昧なのだが、それに対して、隠喩は明確である。例えば「彼女は薔薇だ」であったり、「人間は狼だ」であったりと、彼女=薔薇、人間=狼という類似の等号で結ばれ、その二項を統合する「美しさ」や「獰猛さ」といった本質を直感的に示すトロープである。

さて、ここでゴジラを隠喩的な他者、すずを換喩的な他者として振り分けたいと思う。どういうことか。

「ゴジラ」は原爆に集約された敗戦のトラウマの象徴として、繰り返し回帰してくる怪獣である。「ゴジラ」は日本が抑圧した固有のトラウマであり、それが唯一的なものであるからこそ、戦後の日本の歴史的な起源を指し示し、現在を照らし出す鑑となる。つまり、ゴジラとは原爆・敗戦・不安と類似の等号で結ばれ、戦後の本質を直感的に示す隠喩のトロープであり、したがって隠喩的な他者なのである。

それでは、すずはどうだろうか? 本作は非日常を非日常らしく、つまりは隠喩的には描き出していない。むしろ、僕たちが過ごすのと変わらない日常的な「いま」の具体性に基づいて触知的に描き出されている。原作では考現学的に当時の生活用品や料理が物語の時間とは別に具体的に示され、また、例えばすずが遊郭で出会ったリンにはっかやわらび餅を言葉ではなく知覚的な絵として示し、さらにアニメ版では舞台となる風景の徹底的なロケハンの考証作業によって得られた具体的な背景描写・何度も取り直されたリアルな空襲の音が目指されたのは示唆的である。『この世界の片隅に』が換喩の原理に即して作られているということだからだ。

隠喩が、ある時代の本質を一挙に示すのであれば、換喩は、ある時代を触知的なまさぐりのなかで示す。すずが、一見したところ周りの空気に流され(だから戦争反対を叫ばず)、もし戦争に勝っていたら万歳三唱しただろうという無知のなかにあるように、換喩は常に全体を捉え損なう。細部の感触は対象の本質を一挙に与えてはくれないからだ。だから、換喩的な時間においては、反省的な解釈のまなざしが働かない。因果系列において「必然」の連鎖を見る人間的な主体の行為―結果の連なりとしての「物語化された歴史」は拒否されることになる。

ここに、解釈=記憶によって忘却される〈他者〉と出会う可能性が示唆されている。換喩的な具体性が重要なのは、隠喩のように対象の本質を直感させない代わりに、感覚的な共振作用を持つからだ。換喩が具体的であるとは「現実を正確に再現している」ということではなく、「猫耳」がフェティッシュな感覚を喚起するように、具体物に凝縮された感覚そのものとして対象を触知的に示すからである。凝縮された感覚は、隠喩のように実は現在を成り立たせている時代の本質的な起源を解釈学的に主張したりはしない。むしろ、それは他者によって見出されるほかない、「世界の片隅に」見つけられるほかない、現在にとっての〈他者〉である。言い換えれば、それは解釈=記憶を媒介しない〈換喩的な他者〉との出会いを準備するのである。

4、
さて、ここまでの論述で、僕は一切批判をしていない。それよりは、ヘーゲル由来の因果的な必然が連鎖する「歴史の物語化」とは別のまなざしを、解釈=記憶が忘却する〈他者〉との出会いをもたらす作品として肯定的な評価を下している。つまり、本作は非常に「批判しがたい」。その理由はまさに以上のような評価が可能だからというのと同時に、斎藤環が言うところの「感情の器」の作用によって、結果的に「批判」そのものが禁じられる構造を持つからである。
斎藤環は「『この世界の片隅に』論」において、次のように言う。

・・・・・・以上のアニメの表現特性がことごとく勝因につながった。アニメはマンガ以上に使用されるコードが重層的である。とりわけ声優の演技や効果音、あるいはサウンドトラックにいたる音声コード・・・・・・ほかにも絵コンテ、作画、考証、背景美術、ストーリーとセリフの編集、運動そして象徴効果に至るまで、本作におけるすべての重層的なコード体系は、ただ一つの目的、すなわち「すずさんを存在させること」へと向けて奉仕すべく調整・構築されている。

『すべては「すずさんの存在」に奉仕する』,「美術手帖2017年2月号」,p115

「以上の」の前段にはまんが・アニメ固有の「顔」というキャラの同一性を担保する特徴が、読者・観客の「感情の器」として機能するがゆえに、意味と物語にまみれた『「他者」の介在を許さない想像的=ナルシシックな表現とみなされがちだった』(前掲書)とある。しかしこうしたネガティブな特性は、「意味」ではなく「存在」へと振り分けられることでポジティブな効果を獲得した、ということだ。どういうことか。

先に示した〈心理的・想像的・地理的・空間的・様相的な「ズレ」と「ズレの重ね合わせ」〉を思い返してほしい。今までの論述で出した結論は、すずが換喩的な他者として解釈=記憶を媒介しない他者である、ということだった。実は、これには続きがある。換喩的であるといっても、「すず」は「ゴジラ」とキャラクターであるという一点において変わらない。しかし、アニメの形式が重層的なコードをレイヤー的に重ね合わせることから「すず」を存在させていくように、『この世界の片隅に』は「すず」によって具体的に触知された「現実」として描かれている。その形式性はマンガのほうが顕著である。「絵」を描くことで現実を消化していくすずにとって「絵」は現実を触知するための方法なのであり、それはそのまま作者が、すずの生きた現実を触知するための方法であり、同時に読者がすずの生きた現実を触知するための方法でもある。つまり触知される「いま」は様相のズレを超えるというよりは重ね合わせることを可能にし、解釈を挟まない、あるいは読者・観客が出会うかもしれないし出会わないかもしれない、誰かは「呉へ嫁いだすずの戸惑い」に共振するかもしれないし、また他の誰かは「空襲の光景」に共振するかもしれない、それはわからないという距離感が常に保たれている。

逆に、もしも距離感の「ズレ」が消滅して、例えばすずが実際に原爆被害者となれば、僕たちはすずの「いま」に自分の「いま」を触知的に重ね合わせることができなくなるだろう。「戦時下」の時間がカッコつきの「現実」、夢見られた現実という距離感で一歩引いた目線から眺められるのも同じ理由である。
つまり、換喩の触知的な「いま」は、多元的に「いま」を重ね合わせることを可能にする。それは「必然」を「偶然」の確率的な総和に差し戻し、一義的な現在からの反省的なまなざしを拒む多義的というよりは多感的なリアルを喚起するのである。

5、
この換喩の触知的なリアルは、「感情の器」の作用なしには立ち上がらない。感情の器とはつまり観客が「そこ」を通じて作品世界を感知する「想像力の媒体」であり、読者・観客の想像力は「器」が何を感じているかを頼りにして(その感知された現実に私の現実を重ね合わせることで)、作品を見るのである。

本作では「必然的な運命性」が前景化してくる場面がある。終盤、不発弾の爆発が晴美と右手を奪い去る瞬間である。この瞬間、それまでカッコつきの「現実」として「夢」のように眺められてきた「現実」から「」が取り外されるのだ。晴美と右手の喪失と引き換えに、すずは、この世界の片隅「で」生きる主体性を獲得する。そして僕たちは、原作においてほぼ全く(地の文的に)明かされることのなかったすずの内面の声が前景化したことに気づくだろう。周作に「手の事を気にしとんか」「空襲が怖いんか」「晴美のことか」という問いかけに内面では「そうです」と答え、声に出しては「「違います」」と答えるシーンに象徴されるように。

これを、すずの自立と見ることも出来るだろう。しかし、それは同時に「感情の器」が要請する触知的な多感性を一元化せずにはいられない力なのだとしたらどうだろうか。換喩的なリアルは、無数の共振可能性へ向けて現実を開く。と同時に、「感情の器」が媒介されることで、無数の共振可能性のすべてが受け入れられてしまうということであり、これは結局のところ、あらゆる偶然を「すず」の存在へ必然化する力として働いている。すずの内面は彼女が「感情の器」であらねばならない、つまりはいくら換喩的に「いま」を多元化し、必然を偶然へと解体したとしても、すずが主人公である限り彼女は「器」として機能せねばならず、「内面」を持たねばならないのだ。

そして、それは斎藤自身の「ただ一つの目的」という言葉に端的に示されている。ヘーゲルが歴史を物語化したのと同じように、「すず」というただ一つの目的は、解釈のまなざしを無限に受け入れる新しい「物語」を捏造する。現在を成立させた過去の「意味」を本質的に直感させる隠喩的な世界認識のより巧妙なヴァージョンアップ、つまりは「この現在」は喪失と引き換えに存在を許された「現在」であり、現在を成立させる「存在」を本質的に直感させる換喩の隠喩化として機能しはじめる。現在を必然化するのである。

それを大変意地悪く言えば、いまも全く収束していない「3.11」が引き起こした原発事故のあとに生きる僕たちに、本作は「その喪失と引き換えにあらゆる存在は存在しても良い」という単純な癒やしを与えるのではないだろうか? それが、本作が「ヒット」した要因を担っているという仮説は十分に成り立つ。そうした現在の〈他者〉を隠蔽するように「存在」の隠喩は働くのである。

これは、アニメ版の方に顕著である。なぜなら、アニメはマンガのようなコマのフレームを持たず、時にヌルヌル動くことがアニメを評価する基準になるように、動く=運動することがアニメがアニメである第一次的な条件だからである。マンガは、その一つ一つの「コマ」への触知的な喚起力の無根拠な連なりによって成立することが出来る。実際、さまざまな注釈等によって、物語化は常に警戒されている。ところが、アニメは運動せざるを得ない。映画と比べてみても顕著なように、アニメはフレームの切断を介入させることが出来ないのだ。前へ前へと進む運動は、それこそ「すず」を目的にして進まざるをえない。一義的な解釈が働かない代わりに、無数の触知が「すず」に一元化され、より正確に言えば、「すず」の喪われた右手に一元化され、「存在」が「現在」を隠蔽し、観客に癒やしを与える「存在の隠喩」が完成するのである。

「すず」は一義的な解釈をはねのけ、同時に「感情の器」として、すべての存在を受け入れる。裏返せば、すべてが受け入れられるからこそ、本作は「批判しがたく」、それどころか「批判」そのものが禁止する力となるのである。

文字数:8110

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