「だれ?」 ―『名付けえぬもの』より

 

Ⅰ だれだ?

サミュエル・ベケットは『名付けえぬもの』をこんな風に書き出している。

はて、どこだ? はて、いつだ? はて、だれだ? そんなことは聞きっこなしだ。おれ、と言えばいい。考えっこなし。・・・おれはしゃべっているらしいが、これはおれじゃない、おれのことをしゃべっているらしいが、これはおれのことじゃない。手はじめにまずこんな概論からはいろうか。どうするんだ。どうするつもりなんだ、どうすればいいんだ、こんな状態でどうやって話を進めるんだ?・・・とにかくおれはしゃべらないわけにはいかないんだ。絶対に黙らないぞ。絶対に。
(サミュエル・ベケット『名付けえぬもの』安藤元雄訳,白水社,1953,p5)

いささか面食らう始まり方である。とにかく、「おれ」はずっとこの調子で語り続ける。彼は「おれ」についての問いかけを続けながら、「おれ」の姿勢がどうなっているかを確かめ、マフードについて語り、ワームについて語り、しかし彼らは「おれ」ではないと言い、何かを確信してはすぐさま「まちがいだった」と否定してみせる。一貫して彼にはどうも「声」が聞こえてくるのだが、同時にその声は自分の声ではなく、しかし自分の声である。終始「おれ」は困惑し、錯綜し、曖昧であり、沈黙を望みながらも言葉を停止させることを拒否し、「続けよう」といって語り続ける。

こうして異他的な声が無方向に運動していく『名付けえぬもの』こそ、『小説から遠く離れて』の蓮實重彦とともに、いかなる起源も持たない「完璧な捨て子」の自由を駆動させていく装置なのだ、といえるだろうか?

確かにベケットの『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』からなる小説三部作は「書くこと」そのものを主題化し、言葉はお互いを打ち消しあい、折り重なることで、要約がほとんど無意味であるような”小説”の時間そのものを起動させているように見える。しかし、この装置は、一体何をエネルギーにして動いているのだろうか? 白水社の翻訳書で263ページにわたって延々と「おれはだれだ?」と問い続ける本作の文体には底知れぬ異様さがみなぎっている。「おれ」はなぜ自分自身が「だれなのか」を最後まで理解することが出来ないのか? あるいは決して理解できないとしても、なぜ「おれ」は語り続けるのか?

この「謎」の構造に可能な限り接近し、装置に流れ出すエネルギーの源を探ってみること。それは、不自由さの閉域から「自由」が獲得される瞬間を、人称空間内部には決して現れることのない無法なる「誰」の姿を、指し示すことになるだろう。

 

Ⅱ 「おれ」は語り手である

「おれ」とは一体だれなのか?

この問いに解答するために、ここでは、バルトの物語分析を参照していくことにする。なぜなら、フランス構造主義の物語分析が導入した「語り手」の概念が、「おれ」の正体に一つの光を当てるからだ。

フランス構造主義の物語分析は、ロシア・フォルマリズムとソシュール言語学の成果を吸収しながら発展し、1966年に刊行された「コミュニカシオン」誌八号の巻頭を飾ったロラン・バルト「物語の構造分析序説」をもって、本格化する。この分析手法はジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(1972)でもってほぼ定式化していったのだが、ここではバルトが「作者」と「語り手」をどのように整理したかを簡単に概括してみたい。

われわれの観点から見れば、語り手と登場人物は、本質的に《紙の存在》である。ある物語の(生身の)作者は、その物語の語り手といかなる点でも混同しえない。・・・(物語のなかで)語っている者は、(実人生において)書いている者ではなく、書いている者は、存在する者ではないのだ。[太字は傍点]
(ロラン・バルト「物語の構造分析序説」花輪光訳,『物語の構造分析』(みすず書房,1979),p38-39)

バルトが本論で一貫して主張するのは、「物語は現実の再現ではない」という一事に尽きるだろう。もちろん、あたかも「語られた」のではなく「写実された」かのように現実を描く三人称客観描写の技法が批判されているのである。「物語のなかで《起こること》は、指向対象(現実)の観点から見れば、文字どおり、無である」(前掲書p53)。物語は、この社会のどこかで実際に起こっている出来事でも、逆に現実に生きた作者の人生や個性的な人格を再現(あるいは反映)したものでも、ない。それは「語り手」の「いま・ここ」で語る語り方によって生まれる独自の虚構世界なのであり、その虚構世界の語りから逆に生み出されるのが「語り手」という現実には存在しない「紙の上の存在」なのだ。

『名付けえぬもの』の「おれ」が、こうした意味での「語り手」概念を共有しているのは明らかである。「彼をむしろマフードと呼んでやることにしよう」(『名』p43)とマフード(途中で名前が変わってなぜかワームになるが)の物語を語りだす「おれ」は、一切の人生を持たず、この世界のどこにも存在しない「いま・ここ」で物語とともに語りだす語り手であり、その物語から逆に生み出される存在こそ「おれ」である。だから「おれ」は、ここがどこであるのかも、いまがいつであるのかも、そして自分自身が誰であるのかも特定することができないのだ。「おれ」は紙の上に存在させられながらも、決して現実そのものに降り立つことは出来ない、「紙の上の語り手」なのである。

 

Ⅲ 「おれ」は語り手ではない

しかし、それは本当だろうか?

バルトの物語分析では「行為者の機能」と「人称の機能」は区別されている。行為者は例えば「依頼・冒険・格闘・帰還」のように「物語を進行させる役割」へ登場人物を還元するのに対して、人称の働きは、語り手が登場人物を通して語っているのか(人称法)、それとも登場人物を介さずに語っているのか(無人称法)、といった語り手のパースペクティブ(視座)の所在を示す機能として理解される。とはいっても、渡部直己の言葉を借りれば、人称法には「三人称多元」「一人称一元」「一人称多元」といったさらなる区別が立てられだろうし、無人称法には「三人称一元(神の視点)」が振り分けられるのではあるが、しかし、そうした振り分けが成されてしまうのは、バルトが「人称法」と「無人称法」の機能を誤解していたからではないか。だから、その区分はバルトを裏切って不完全なものになっているのではないか。

筆者はバルトと決別して、人称法を次のように再定義しておきたい。人称法は「そこから世界がひらけている視野」を存在させる話法であり、無人称法は「そこから世界がひらけている視野」を抹消する話法である、と。

こうした意味で人称法/無人称法を再定義するならば、「三人称一元」(例えば横光利一『蝿』のような)も、登場人物を「そこから世界が開けている視野」として存在させているがゆえに人称法に区分される。だからこう言える。人称法を用いる限り、語り手は語り手として物語世界内部に登場することは出来ない。そこで彼は常にいつも登場人物の一人にならざるをえない。

具体的に見てみよう。「おれ」は自分がだれであるかを捜すのだが、「おれ」の正体にたどりつくこと叶わず、その原因を「あの連中がしゃべっている」ことに求めようとする一節。

あれはどこだ、おれがいつもいた場所は、ほかの連中はどこだ、その連中がしゃべっているんだ、おれに向かってしゃべる、おれのことをしゃべる、おれには聞こえる、おれは唖だ・・・
(『名』p200-201)

かなり激しい。が、どんなに激した口調であっても、この一節に目を通しただけでは、「おれ」が「語り手」であるのか「登場人物」であるのか、判断することは出来ない。なぜなら、「おれ」という人称の働きが、語り手を「そこから視野が開けている」登場人物に変化させてしまうからである。語り手は決してテクスト上に現れることは出来ず、したがって「おれ」は語り手ではない。

 

Ⅳ 「おれ」は「おれではない」

しかし、それは本当だろうか?

それならば、なぜ私たちは、『名付けえぬもの』の「おれ」を「登場人物」の審級とはレベルを異にする「語り手」の水準で理解することが出来るのか? もちろん、ベケット一流の技法が使われているからだ。それこそ『名付けえぬもの』の通奏低音を奏でる「否定の身振り」の技法である。先ほどの例文をその少し前から再掲する。

ほかの連中はどこだ、しゃべっているのはだれだ、しゃべっているのはおれじゃない、おれはどこにいる、あれはどこだ、おれがいつもいた場所は、ほかの連中はどこだ、その連中がしゃべっているんだ、おれに向かってしゃべる、おれのことをしゃべる、おれには聞こえる、おれは唖だ・・・
(『名』p200-201)

太字が、追加した部分である。

ここで語り手は「しゃべっているのはおれじゃない」と、いままさに語られている(読者から見れば叙述されている)発話行為そのものを否定する。より精緻に言えば、「登場人物として発話するおれ」から「語り手のおれ」を切断しようとする。その否定の身振りの切断点においてのみ、人称法の内部では現れることが決して出来ない「語り手」は、発話行為の外にいる「無」として予感され、出現するのである。

いわば「おれ」は、「わたし―あなた―彼/彼女」のだれにとっても「そこから世界がひらける視野」を保証する人称空間そのものを切断することで、「おれ」と名指すことでは消えてしまう「不在の語り手」を初めて出現させるのである。

「不在の語り手」によっては「おれではない」もの、だれの主観にも帰属しない「非-人間」であるものだけが語られるだろう。「三人称多元/一元」の区別は失効し、「無人称的な三人称世界」とも言うべき語りの起源なき起源として現れる。この地点において、我々は決別したはずのロラン・バルトともう一度再会を果たすことになる。バルトが言う「作者の死」によって起動する「多元的なエクリチュール」の「交流空間」とは、究極的には並び立つ複数の登場人物(視野)を存在させないこと、つまりは筆者が定義するところの人称法によっては語られず、無人称法によってのみ存在させることの出来る世界なのだ。

語るのは言語活動であって作者ではない。書くということは、それに先立つ非人称性・・・を通して、《自我》ではなく、ただ言語活動だけが働きかけを《遂行する》地点に達することである。
(「物語の構造分析序説」p81-82)

だから『名付けえぬもの』は「語り手」を露出させ、人称空間の内部では見えなくなってしまうもう一つの語りの起源を開示する小説として読むことが出来る。「おれとは誰か?」という問いに、この語り手はこう答えるだろう。「おれは言葉のなかにいる、言葉でできている、他人の言葉で・・・言葉言葉、これらの言葉全部がおれだ、こうした見慣れないもの全部がおれだ」(『名』p202)。語り手が問うてきた「おれ」とは「言語活動」そのものだったのである。

 

Ⅴ 「おれ」は「おれ」だ?

しかし、それは本当だろうか?

確かにベケットには言葉そのものによって多元的なイメージの「交流空間」を開く一面がある。それはダダイスト流に奔放なイメージで叙述された最初期の詩篇『ホロスコープ』にもすでに見出だせるだろうし、ベケットがライプニッツのモナドロジーを生きる拠り所、「倫理的指標」にしていたことからも、傍証できる(森尚也「絵画と詩とモナドロジー」,『ベケット見る八つの方法―批評のボーダレス』p185)。

だとしても、『名付けえぬもの』の語り手は、あまりにも終始「おれ」にこだわりすぎてはいないか? 現に、「言葉全部がおれだ」といった直後には、「いや、まったくほかのものだ、おれはまったく別のもの、押し黙っているもの・・・それは結局おれから出たのさ、おれは捜す、おれは捜しているんだそうな、それがはたしてなんでありうるかを、そう聞こえる、それもおれから出たのさ」(p202,p204)とまた「おれ」に回帰するのだ、この語り手は。起源なき言語活動に抗って現れようとする「おれ」、かといって人称空間の内部には現れることの出来ない「おれ」、これは一体誰なのか?

つまり、ここには二つに引き裂かれたベケットがいる。「人称空間」でコード化されたコミュニケーションの内部では決して現れることの出来ない「わたし」を出現させようとするベケット。そして、わたしを不在化することで、制御し得ない無数の声を出現させようとするベケット。そのベケットの両極端は、『名付けえぬもの』の終盤で一つの極点に達する。

ムニャムニャ、ウウ、ポタリ、シイイ、気も転倒するばかりさ、チク、タク、これはぶつかる音だな、ヤア、コツン、まだあるのか、アアア、ウウウ、これは性交じゃないか、もうたくさんだ、くたびれるよ、ヒ、ヒ、こいつはおかしいや、デモクリトスか、違う、別のやつだ、・・・おれは溺れたのさ、なんべんも、おれじゃなかったっけ、おれは窒息したんだ、からだに火がついたんだ、頭に材木と鉄とがぶつかったんだ、おれじゃなかった、頭なんかなかった、鉄なんかなかった、・・・おれは捜したんだ、おれしかいなかった、いや、おれもいなかった、おれはいたるところ捜し回った、だれかがいるはずだ、この声はだれかのものであるはずだ、・・・おれが声なんだ、おれはそう言った、声がそう言うんだ、・・・声は黙りたがっているんだ、できないのさ、ほんの一瞬黙ってみても、すぐまたはじまってしまうのさ、これはほんとうの沈黙じゃない、声こそがこれはほんとうの沈黙じゃないと言うんだ・・・
(『名』p249-250)

超絶技巧の演奏を聞いているようだが、少なくとも二つのことを指摘できる。第一に、これを「語り手」が語っていたとしても、すぐさまに「語り手という登場人物」が語っているのだと読みうること。第二に、ここでは複数の「おれ」が入れ替わり立ち替わり語っているのだと読みうること。

前者についてはこう言える。「おれじゃなかった」「おれもいなかった」と何度繰り返しても、そもそも「語り手」は(Ⅱ節で確認したように)本の中の架空の人物であり、そういう形で読み手に語っている「語り手という登場人物のおれ」であることから逃れ得ない。

後者については、例えば「声」が「ムニャムニャ」といった、そのまま「音」へ変換されたかと思えば、「おれは溺れたのさ」のあとにすぐさま「おれじゃなかったっけ」と別の声が入り、「溺れた」「からだに火がついた」「材木と鉄とがぶつかった」と同時には体験し得ない体験が並列される(そしてこれは戦争体験や突発的な事故といった複数の指標としても機能する)。例文の後半でも「声」をめぐり相互に矛盾するやり取りが、畳み掛けられる。制御し得ない声たちが「おれ」の不在に成り変わる。

それでは結局のところ、人称空間にも、言語活動にも逆らって現れるはずの「おれ」とは一体誰なのか? もちろん、そんなものは存在しないのである。

 

Ⅵ 失敗

しかし・・・と続けることはもう出来ない。

「人称空間」においては「視野の開け」が帰属する登場人物に回収され、「言語活動」においては「否定の身振り」の切断の一瞬に予感されはするが、すぐさまに無数の声がやってきて「不在のわたし」を埋め尽くす。出口はない。

しかし、それが本当であったとしても、「わたしを出現させる」試みが常に失敗し続けたとしても、語り続けることは出来る。「出現の失敗」を遂行し続けることで、他者が「わたしを出現しようにも、決して出現することは出来ない」とその構造を自分自身に当てはめて反復してみせたとき―モランがモロイを捜索するうちに自分自身がモロイ≒モランとなってしまう反復に暗示されているように―逆説的にそこに「わたし」が存在することを悟るかもしれない。その到来するかどうか全く定かではない絶対的に断絶されたコミュニケーションへの跳躍が、ベケットの言葉を「小説」の自由へと結晶させるのだ、と、筆者には思われる。

ただ、これを「人生は失敗し続けても努力すればいつか報われる」式のちゃちな自己啓発として受け取られては困る。これまで見てきたように「失敗」にも、また技術がいることは明白だからだ。そもそも人生という誰にでも当てはまる物語には「失敗の瞬間」を禁じるまた別の規制が働いているのだから。

「失敗し続ける」技術をいかに会得するかという課題にこそ、「わたしの出現」へ向けた無数の自由が開かれている。

 

参考文献

1 蓮實重彦『小説から遠く離れて』(河出文庫,1994,)
2 渡部直己『小説技術論』(河出書房,2015)

文字数:6772

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