Where are you? Oh,Where is Bianca?

美少女ゲームとしての『ビアンカ・オーバースタディ』

 筒井康隆によって書かれた“メタライトノベル”としての『ビアンカ・オーバースタディ』(1)は、次のような書き出し文ではじまる。

 

 

見られている。/でも、気がつかないふりをしていよう。/気がつかないふりをしていると思われてもかまわない。/いつも見られているから平気なんだと思わせておけばいい。/実際、もう慣れっこになってしまっているし、慣れっこにされてしまっているのだ。男の子たちの視線に。みんながわたしを見る、その何かを恋い願うような視線、慕い寄るような視線、粘りつき、からみついてくるような視線に。/わたしは知っている。わたしがこの高校でいちばん美しい、いちばん綺麗な女の子だということを。(2)

 

 『ビアンカ・オーバースタディ』は、全五章によって構成されているが、そのうちの四章が、この書き始めになっている。簡潔にあらすじを述べよう。本作は、主人公のビアンカ北町が、同級生の未来人・ノブらとともに、巨大カマキリに占領された未来を救うため、人間の精子と蛙の卵を受精させ、人面蛙をつくり、タイムマシンで未来に行き、人面蛙と巨大カマキリを戦わせる、といったものだ。
この作品は、章を経るごとに登場人物が増えていく。各章ごとにみていくと、第一章ではビアンカと、ビアンカを恋い慕う後輩・塩崎哲也。第二章では、それにくわえてヤンキーっぽい美少女・沼田耀子。第三章で、未来人・千原信忠(通称:ノブ)、第四章でビアンカの妹・ロッサ北町、といった具合に。

 登場人物が増えていくということは、章を経るにつれて(つまり読み進めるにつれて)、作中の時間が「未来」へと進んでいるということだ。だが、上記に引用した書き出し文が、四章にわたって繰り返されていることにより、私たちはある錯覚に駆られてしまう。それは、この作品が、あたかも「ループ」しているように感じられるということだ。つまり、結尾にあたる第五章で、ビアンカたちは巨大カマキリの大群から、未来を救うことに「成功」するわけだが、それまでに様々な失敗-すなわち、巨大カマキリから未来を救えなかった世界の存在というものを、容易に想像することが可能だということである(実際、第四章では、人面蛙が逃げ出してしまい、学校中が大混乱に陥ってしまう。そのため、ビアンカたちは過去へとタイムマシンで戻るのだが、そのときビアンカは「だけどさあ、いったん起ったあの大騒ぎ、あの続きの未来はどうなるのよ。今はあの大騒ぎから見たら過去だよね。だから今という過去に続く未来は大騒ぎのない世界。でももうひとつ、確実に存在した筈の、あの大騒ぎが起ったあとの未来というのが、やっぱりあるんじゃないかしら」とノブに問うている)。
 本稿は、別にSF考察しようというものではない。したがって、タイムマシンによる未来改変や、過去改変、あるいは「ループ」について論じるということはしない。しかし、「文章が繰り返される」という点には、着目したい。それは、ある表現媒体と接続可能であると思われるからだ。それは「美少女ゲーム(ビジュアルノベル)」と呼ばれるものである。
 美少女ゲームは、性的な表現を含むPCゲームの総称であるが、そのなかでも「ビジュアルノベル」と呼ばれるタイプのゲームは、文章を読み進めていくなかで、選択肢があらわれ、選んだ選択肢によって、物語が変化していく。これは、多くの場合、選択肢が登場して、選んだルートによって物語が変化していくまで、同じ文章を読者(プレイヤー)は「読む」ことになる。つまり、同じ世界観の物語が、ある地点から別々の結末へむかって分岐していくようなタイプ(マルチエンディング)の「小説(ノベル)」なのだが、これはいわゆる「ループ」的構造と相性が良いために、ループを題材にした傑作が数々生み出されているジャンルでもある。こういった作品群のなかから、仮に『ビアンカ・オーバースタディ』と接続するのであれば、『腐り姫』(3)を挙げることができるだろう。『腐り姫』は、選択肢を選ぶことによって、物語が変化していく通常のビジュアルノベルとはやや異なり、一回のプレイで終わりまで進めることができる。そして、タイトル画面に戻ったあと、もう一度「はじめから」を選ぶと、同じ物語が、今度は文章をやや変えて展開されていく。つまり、読者(プレイヤー)にとっての「一回読んだ」という経験が、二回目には「物語が変化した」と読者(プレイヤー)に認識させる構造になっているのである。
 冒頭で述べたように、筒井によれば「ビアンカ・オーバースタディ』は“メタライトノベル”だという。それは、たとえば谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(4)などが下地としてあるからなわけだが、「ライトノベル」というよりは、むしろ「美少女ゲーム(ビジュアルノベル)」的だというのが、筆者の見解である。ライトノベルが、通常の小説と区別される大きな理由のひとつとして、アニメ・マンガ調のイラストが表紙や挿絵に使われている点が挙げられるわけだが、『ビアンカ・オーバースタディ』のイラストを担当したいとうのいぢが、元々美少女ゲーム出身のイラストレーターであることは、見過ごすべき点ではないだろう(いとうはまた、『涼宮ハルヒの憂鬱』のイラストも担当している)。しかしだからこそ、「見られている。/でも、気がつかないふりをしていよう」という章冒頭の繰り返し部分は、こだわる必要があるように思われる。なぜか。
 本作の最後のほうで、ビアンカの妹・ロッサが、未来人のコリキとタケに誘拐されるというものがある。ロッサを助けにやってきたビアンカたちが見たものは、ベッドに寝かせられたロッサを「おかず」に、オナニーに耽るコリキの姿であった。未来人のひとりである統治は、コリキの行為を弁明するかのように「おれたち、生身の女の子を直接抱くのが、嫌いなんです。怖いし、女の子たいてい、不細工だし」と述べる。それを聞いたビアンカと耀子ら女性陣は呆れたようにいう。「そういう男って、あたしたちの時代にもいるよね」「ほんとの女の子を敬遠して、アニメやラノベの女の子に萌えたりしてさ」。
 現実の女性を二次元の美少女キャラクターに現(うつつ)を抜かしている―。そうした「オタク」の姿は、まるでコリキのようであり、筒井はそのようなオタクを、ビアンカや耀子の口を通して「説教」しているようにも思われるシーンだ。しかしこれは、「見られている。/でも、気がつかないふりをしていよう」というビアンカの言がなければ、強度をもたない。
 ササキバラ・ゴウは『<美少女>の現代史』(5)のなかで、美少女ゲームに触れつつ、オタクの姿を「箱男」的なもの、すなわち「見られずに見る」存在だと指摘している。それは、「視線としての私」として美少女キャラクターを「一方的に見る」からこそ成り立つものである。だが、はたして本当に、私たちは美少女キャラクターを「一方的に見て」いるのだろうか。ビアンカのように、キャラクターの側が「気づかないふり」をしているだけだとしたら、どうだろうか。ビアンカを「見ている」のは、作中では廊下や階段でたむろしている男子生徒たちだが、しかし、「読者」もまた、「書かれたもの(エクリチュール)」を通して、ビアンカを「見て」いるのではないのか。『ビアンカ・オーバースタディ』の「もくじ」には、いとうによって描かれたビアンカのイラストがある。読者が本を開いたとき、「一番はじめに」出会うビアンカだ。彼女は「こちら」側を向いている。彼女の眼差しは「何を」映しているのだろうか。私たちの姿ではないのか―?

 

冗談を真に受けて書かれた『ビアンカ・オーバーステップ』

 ところで、『ビアンカ・オーバースタディ』には、続編が存在する。それは筒城灯士郎によって書かれた『ビアンカ・オーバーステップ』(6)という作品である。
 この作品は、筒井の「『ビアンカ・オーバーステップ』というタイトルのアイディアがあるから、誰か続編を書いてくれまいか」という、『ビアンカ・オーバースタディ』のあとがきを受けて、書かれたものであるという。つまり、筒井の冗談を真に受けてしまった「読者」がいたのだ。それが筒城であり、本作が事実上のデビュー作である。
 『ビアンカ・オーバーステップ』の展開を説明するのは、非常に難しい。したがって、本筋だけを確認しておこう。本筋としては、公園に天体観測に出かけたビアンカが、突如としてその姿を消してしまい、そのビアンカを探して(つまり消えた謎を追って)妹のロッサがタイムマシンに乗って未来に行く、というものである。ここからは、こちらの作品をみていこう。
 まず、読んでいて最初に気づくことは、本作が筒井康隆の様々な作品のオマージュに満ちている、ということである。たとえば、タイプスリップというモチーフは『時をかける少女』(7)だし、可能世界や神といったモチーフは『モナドの領域』(8)を思わせる。もうひとつ、指摘するべき点は「固有名詞」の多さである。若干数、列挙していこう。ポケモン、三菱重工、コカ・コーラ、ファミコン、任天堂、まんが日本昔話、攻殻機動隊、ブラック・ジャックなどなどがある。
 ここでひとつ問いを立ててみよう。つまり、私たちは、「何も知らない」状態で、小説を書くことができるのだろうか、と。
 たとえば、私たちは「猫」というものがどんなものかを知っている。文章のなかに、「猫」と書かれていれば、私たちは猫を想像することができる。しかし、私たちが「猫」という動物を知らなかったとしたら、どうだろうか。四足歩行で、尻尾があって、耳があって……そういった特徴を並び立ててみたところで、それを「猫」であると描写しきることは難しい。たしかに小説は、たびたび「映像化不可能」だといわれることがあるように、どんなに非現実的なものでも描くことができる。そういった意味では、小説という表現技法は「なんでも描く」ことができるものである。しかし、それは、「現実」に依拠したものを超えることは、できないのではないだろうか。たとえば、『ビアンカ・オーバーステップ』の以下の箇所。未来の世界で、ロッサが食事をするシーンである。

 

 

わたしは続けて中華まんをぱくり。-なんなんだこれは!? 肉汁がとてつもない。小籠包のようだ。しかしその肉汁は食べかけの断面から溢れ出たりはしてなくて、わたしの口の中だけで発生している。嚙めば噛むほどに具材からその体積を無視したかのような量の肉汁が溢れだす―のにもかかわらず、嚙みごたえは抜群にある。いったい豚肉をどう調理すればこうなるのだろう? この時代ではテクノロジーとか、そういうレベルでの調理が行われているのだろうか。美味しー。(9)

 

 私たちは、中華まんや小籠包を知っている。なので、この文を読んだだけで、ロッサが食べているものが、どんなものかを容易に想像することができる。しかし、実はこの料理、虫を使った料理なのである。ロッサの食べた中華まんの餡は、クロスズメバチの幼虫をすり潰したものであるという。こうしたとたんに、分からなくなる。「小籠包」なら、食べたことがあるので、味がわかるが、クロスズメバチは食べたことがないので、味がわからない。クロスズメバチの味が、小籠包と同じ味であるということは、立証不可能であるからだ(仮に、今現在どちらも食べてみて、違う味がしたとしても、未来の世界では、同じ味にする方法が確立されているかもしれない)。つまり、小説を書いたとき、作者がそこで描写したことを、読者が正確に読んでくれることを期待するためには、固有名詞が指示しているものを読者が理解していることが前提になる。また、作者の思い描いているイメージと、読者が読んだときに思い浮かべるイメージとが、同じ風景として一致するとはかぎらない。つまり、作者は描写したものを、読者の想像力に任せるほかないのである(また、たとえばそれは読者Aと読者B、といったように、それぞれの読者によって、同じ文を読んでいるにもかかわらず、違う風景が描かれうるであろうことも指摘しておく必要があるだろう)。さて、次に起こりうるのは、作者と読者の「知識」の齟齬だ。たとえば、以下の文。

 

 

わたしはまじめなトーンで訊いた。/「<ウブメ効果>って、どういう仕組みなの?」/これさえわかれば、べつにわたしがわざわざ未来へ行って、たしかめる必要もないのだ。/ノブは答えた。/「禁則事項です」/いらっ。/ノブ! それは<バニースーツの似合う萌えキャラ>だけが言っていい台詞よ!」/わたしは怒って叫んだ。(10)

 

 

 「バニースーツの似合う萌えキャラ」とは、『涼宮ハルヒの憂鬱』に登場する朝比奈みくるというキャラクターのことである。このみくるというキャラクターは「未来人」であり、未来について訊かれると、「禁則事項です」といってはぐらかすという設定がなされている。そして、「禁則事項です」とみくるを真似て言っているノブもまた、「未来人」である。つまり、このシーンは『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでいなければ、何のことだか読者にはまったく伝わらないシーンなのであり、そのため読者が『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んで知っていることが、前提として期待されている。つまり、『ビアンカ・オーバーステップ』は、ある程度の前提知識の共有が、作者と読者のあいだにあることを求められている作品であるといえる。そして、それを繋いでいるのが、ほかでもないロッサなのである。どういうことか。
 三原龍太郎は『ハルヒ in USA』(11)のなかで、社会学者スチュワート・ホールの「コード化(生産)」と「脱コード化(消費)」という議論を下敷きにしつつ、「換コード化主体」という概念を提示している。「換コード化主体」とは、「世界観・キャラクター・設定」という諸概念を基礎とした、コミュニケーションをとる主体のことである。
 ここで、ロッサを「換コード化主体」の媒介装置であるということができるだろう。つまり、作者という「コード(生産者)」と「脱コード(消費者)」のあいだに、ロッサという「換コード化主体」が介在しているのであり、彼女をとおして作者と読者が同じ世界観(設定)を共有していることが、期待されている。すなわち、私たち(読者)の世界における「ピカチュウ」と作中(ロッサ)の世界における「ピカチュウ」は同じ姿形をしている、ということは疑いようのない事実なのである。いいかえれば、作中で指示されている固有名詞と、現実世界における固有名詞に、違いがあっては困るということだ。しかし、ここに「歴史」というものが絡んでくると、とたんにやっかいなことになる。

 

 

わたしはスカートのポケットから白紙の本を取り出す。/開く。/万年筆を持つ。そして、うーんと唸って、悩んだ。/ものすごく悩んだ。/……昭和っていったいどう描写すればいいのだろう ?/わからない。/というかそもそも、わたしは平成生まれだし、昭和のことなんてぜんぜんわからない。ついでに言うと、わたしは平成生まれだし、昭和のことなんてぜんぜんわからない。ついでに言うと、歴史はいちばんの苦手課目だ。/「うーむ」/物語を描写して文章にする、ということは、その物事についてかなり詳しく知っていないと、まったくできそうにない。/―あぁ、どうしよう! 書ける気がしないぞ!/文章を書くことが、こんなにも難しかったなんて!(12)

 

 

 ロッサが、白紙の本に「昭和」に関係する単語を並びたてて書き込むと、昭和にタイムスリップすることができる、というシーンだが、平成生まれであるロッサは、昭和という時代を知らない。そのため、ロッサの作り出した昭和は、「マリリンモンローがメンコを叩きつけて、シブがき隊が寿司を握る」「ゴジラが巨大ホッピングに乗り、ウルトラマンがフラフープをする」という奇妙奇天烈な世界として生成されていく。
 筆者はさきに、ロッサは作者と読者をつなぐ「換コード化主体」であると述べた。だが、作者はその「コード」を、自分の知っている時代に縛られる。たとえば、この場合、作者は「昭和」を実際に生きていないがために、それは「知識」から引っ張り出してくるほかにない(だからこそ、「昭和」は大阪万博、鉄腕アトム、ゴジラ、ガメラetcといった「固有名詞」に還元させられる)。あたかも英語の“history(歴史)”が、“story(物語)”と語源を同一にすることを、証明するかのように、作者は書物という「書かれたもの」のなかから、過去を呼び起こしてきて、物語を生成する。だから、「作者」と「ロッサ」は次のように奇妙に交じりあう。

 

 

これが小松左京のパロディだと思われたら、どうしよう! こんな出来のわるいもの、すばらしい先行作品があるにもかかわらず、人の目に触れちゃったりしたらたいへんだ! ごめんなさい! バグです! ほんと、マジでこんなことにするつもりなかったんです! 〔中略〕わたしがふつうに昭和を書くと、なぜだかこうなっちゃうんです! ……って、わたしは誰に謝っているんだ!? 読者にか? 批評か? なぜ後悔しているんだ!? ここまでの文字の積み重ねに? -バカ言え。甘えるんじゃない。ここから先のストーリーを思い描けないからって、なにを現実逃避しているのだ! ……かんがえろ、かんがえろ、かんがえろ、かんがえろ―(13)

 

 

 これはロッサの一人称による独白であるかぎりにおいて、「ロッサの言い訳」である。しかし、作品の外部から観測しているものにとっては、「作者の言い訳」のように「読めて」しまう。この「読めてしまう」ということが問題なのであり、すなわちロッサの後ろに「作者」という何か別の存在が控えているのだということが、読者の側に顕在化してくるのである。では、この「作者」とは、いったい何者なのか。
 しかし、そのまえに、いったん迂回する必要があるだろう。なぜなら、『ビアンカ・オーバーステップ』における最大の肝である「ビアンカ消失の謎」に触れていないからだ。
 ビアンカが消えた理由は作中で「ウブメ効果」によるものだとされている。「ウブメ効果」とは、「見えるのに、見えないもの」だとされ、ノブがタイムマシンを人の目から隠すために使っている効果でもある。この「ウブメ効果」の正体を知ることが、ビアンカ捜索の解決策になると考えたロッサは、未来にタイムスリップするわけだが、それは作品内における理由付けであり、こと小説という表現媒体において、登場人物を消すことは、非常に簡単である。その登場人物を「書かなければいい」からだ。いいかえれば、小説内において、登場人物は「エクリチュール(書き言葉)」として書き込まれたものだけが、身体性をもつ。
 ここで、消えたあとのビアンカが、常にロッサの「記憶」として呼び起こされていることに、気づく必要がある。それは、ビアンカが過去にロッサに語った「蘊蓄」として呼び覚まされている。たとえば「補色調和」「幻肢痛」「鏡像認知」などだ。すなわち、ビアンカは常にロッサの頭のなかで再生される「声(フォネー)」として召喚されている。ここで立ち返るべきなのは、『ビアンカ・オーバーステップ』における、次の文だ。

 

 

見られている。/でも、気がつかないふりをしていよう。/気がつかないふりをしていると思われるのは嫌だ。それでも自意識過剰な痛い女だと思われるよりかは遥かにマシだ。/全身に絡みつくような男の子たちの視線に、わたしは怯えて縮こまる。慣れることなどできはしない。/わたしは知っている。わたしがこの中学でいちばん可愛い、いちばん綺麗な女の子だということを。〔中略〕そう。/わたしはわたしの姉のようにはなれない。/ビアンカのようには。/わたしはロッサ北町だ!! ビアンカではなぁあああい!!(14)

 

 

 「見られている。/でも、気がつかないふりをしていよう」という文は、本稿の冒頭でも触れたように、「ビアンカ」というキャラクターを特徴づける重要な箇所だ。しかし、それゆえに『ビアンカ・オーバーステップ』では、「わたし」という一人称の語り部が「ビアンカ」ではなく「ロッサ」なのだということの宣言として、このように差異化されて使われている。だが、この文の「奇妙さ」に私たちは気がつくべきだったのだ。なぜか。それは、そもそもとして、「見られている」というのはビアンカの内的モノローグとしての独語なのであり、ふつう第三者には認識できないものである。にもかかわらず、そのビアンカの内的モノローグを下地にして、「わたしはロッサ」であり「ビアンカではない」とロッサは宣言しているのである。
 ここで、八木沢敬『「不思議の国のアリス」の分析哲学』(15)のなかでの以下のような議論を下敷きにしつつ、この件について述べていこう。
 ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(16)のなかで、主人公のアリスが、自分自身が誰か別の人間に変わってしまったのではないかと、疑うシーンがある。そこで、アリスは友人のエイダではないことはたしかだと思いつつ、次のようにいう。「だって、エイダの髪はながーいくるくる巻きになっているけれど、わたしの髪は全然くるくる巻きじゃないもの。メイブルでもない。だって、わたしはいろんなことを知っているけれど、メイブルはほんとうに何も知らない。それに彼女は彼女で、わたしはわたし―うわー、こんがらがってきたー……」。
 アリスは、自分が「エイダではない」ことの理由に、自分の髪が「くるくる巻きではない」ことを挙げている。しかし、もし今日アリスがエイダの家に行ったとして、その家にいる女の子の髪がくるくる巻きでなかったとしたら、どうだろうか。アリスにとっての「今日のわたし」が、エイダになっているのだと仮定したとき、エイダの家にいる女の子は、エイダではない「別の誰か」なわけだが、その女の子の髪の毛が「くるくる巻き」だからといって、エイダであるとは言い切ることができない。同様に、アリスは、自分がメイブルではない理由としてメイブルが無知である点を挙げているが、しかしそれは、逆にメイブルがアリスと同等の知識を持っていたとするならば、その女の子は外見上メイブルにみえても、それはメイブルのようにみえるアリスなのであり、メイブルではないと主張することができてしまう。
 同じことが、ビアンカとロッサでもいうことができる。ロッサは、自分が「ビアンカではない」ということを主張するがために、「男の子たちの視線に慣れない」ことを持ち出しているわけだが、それを「ビアンカは男の子たちの視線に慣れている」という対称性として提示されているがゆえに、もし仮に「男の子たちの視線」に慣れてしまっているのなら、それはロッサではなくてビアンカなのではないかという疑いをもつことができてしまう。では、外見ではどうだろうか。ビアンカとロッサは外見上、瓜二つである。なるほど、たしかにロッサはビアンカと違って、頭の両側で髪を渦巻き状にくくっている。だが、ビアンカが、髪の両側を渦巻き状にくくったとしたら。それはロッサのようにみえるビアンカなのではないか、ということがいえてしまう(ビアンカは高校生であり、ロッサは中学生である、という学年の違いで、反論することができるかもしれない。しかし、ビアンカが中学生のふりをすることは可能であり、ロッサが高校生のふりをすることも、同様に可能である。つまり、中学生であるから彼女はロッサなのだと言い切ることは、やはりできない)。
 そう、私たちが真に気がつくべきは『ビアンカ・オーバーステップ』終章におけるビアンカの「見られている。/でも、気がつかないふりをしていよう」から続く次の一文なのだ。「でももう困ったり、顔を赤くしたりすることはない。わたしは平気になってしまったのだ。そんな男の子たちの視線も、もういやらしいとさえ思わなくなってしまった」。これはビアンカについて語っているはずだ。なのに、「平気になってしまった」とは、どういうことなのか。男の子たちの視線を、「いやらしい」と感じていたのは、ロッサのほうではなかったのか―。
 ここまできて、ある仮定が成り立つ。つまり、この作品はビアンカが、ロッサを主人公にして書いた小説なのではないか、と。すなわち、ロッサにとっての「わたし」とはビアンカにとっての「わたし」なのであり、「わたし」を主語にしてこの小説を読んでいる「読者」には、なるほど「ロッサ」はみえているが、「ビアンカ」はみえていない。それこそが、「ビアンカ消失の謎」ではなかったのか、と。
 さて、ようやく「作者」がみえてきた。しかし、これを「ビアンカである」と論じるのには、いささか性急にすぎる。なぜなら、ビアンカもまた、架空の存在であり、虚構の存在が「書いたもの」だというのには、あまりにも突飛すぎるからだ。
 ここでは、むしろロラン・バルト的な「作者の死」が目されていると考えたほうがよい。バルトが「言語学的には、作者とは、単に書いているものであって、決してそれ以上のものではなく、またまったく同様に、わたしとは、わたしと言う者にほかならない」と述べているように、「わたし」と語っているのはロッサであり、ロッサは「作者」ではない。しかし、さきにみたように、ロッサの「わたし」とビアンカの「わたし」は、厳密な境をもたない。だから、作品を「作者」という存在から解放するために、ビアンカが「作者」の側に移行しているのだ。
 それもそのはず、筒城が『ビアンカ・オーバーステップ』を書くには、『ビアンカ・オーバースタディ』の「作者」である筒井から、その座を奪い取らなければならなかった。ことほどさように、「作者」は「作品」のなかから遠ざけられる。そこに現前するのは、エクリチュールとして書き留められた、ビアンカの「声(フォネー)」である。作者はたんに、ビアンカの「声(フォネー)」を書き留める存在にすぎない。だから、ビアンカは書く必要がない。
 物語の最後、ロッサはビアンカを見つける方法として、「読者に読んでもらう」ことを見出す。その作品が読まれ、エクリチュールが駆動し、登場人物たちが息吹くためには、「読者」によってその世界が認識されなければならない。読者とは、エクリチュールとしてのビアンカを発見できる、唯一の存在である。したがって、ビアンカは「読者」に語りかけてくる。

 

 

……ねえねえ。わたしよ、わたし、気がついた?/この物語を終わらせるための最後の鍵が―あなたである、わたしなの(もしも言っている意味がわからないなら、まえのページに戻って、ちゃんと考えてちょうだい)。/これを書いているわたしは、すでにすべての旅を終えたわたし。どこかでビアンカに出会っているはずだけど、その価値には気がつかなかったわたし。/最後のバトンをあなたに託すわ。/いまこれを読むあなたに。/あなたが、いまからビアンカを発見するのよ。(17)

 

 

 『ビアンカ・オーバーステップ』は、筒城が『ビアンカ・オーバースタディ』を読んでいなければ、書かれなかったものだ。その意味において、作者とは「読者」のことでもある。「書く」ためには「読まれ」なければならない。筒井の「誰か続編を書いてくれ」という文を「読んだ」から、筒城は「書いた」のだ。そう、ビアンカを発見するということは、「作者としてのわたし」を「読者」が発見するということである。バルトは、「読者の発見は、『作者』の死によってあがなわれる」と述べたが、「作者の誕生」は、「読書」の場において立ち現れる。
 『ビアンカ・オーバーステップ』を読んだ筒井は、次に「誰か『ビアンカ・オーバーバランス』を書いてくれ」と述べている。もうおわかりだろう。『ビアンカ・オーバーバランス』は、読者である「誰か」によって書かれなければならない。ビアンカを「発見」したのは、ほかでもない「読者としてのわたし」なのだから。

 

注釈
(1)筒井康隆『ビアンカ・オーバースタディ』角川文庫、2016年
(2)同、p.8
(3)『腐り姫』ライアーソフト、2002年
(4)谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』角川書店、2003年
(5)ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史 「萌え」とキャラクター』講談社、2004年
(6)筒城灯士郎『ビアンカ・オーバーステップ』上下巻、星海社、2017年
(7)筒井康隆『時をかける少女』角川文庫、2006年
(8)筒井康隆『モナドの領域』新潮社、2015年
(9)筒城、上巻、p.227
(10)同、p.110
(11)三原龍太郎『ハルヒ in USA 日本アニメ国際化の研究』NTT出版、2010年
(12)筒城、下巻、p.58
(13)筒城、下巻、p.79-80
(14)筒城、上巻、p.34-35
(15)八木沢敬『「不思議の国のアリス」の分析哲学』講談社、2016年
(16)ルイス・キャロル、河合洋一郎訳『不思議の国のアリス』角川文庫、2010年
(17)筒城、下巻、p256

参考文献一覧
ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史 「萌え」とキャラクター』講談社、2004年
ジャック・デリダ、林好雄訳『声と現象』ちくま学芸文庫、2005年
三原龍太郎『ハルヒ in USA 日本アニメ国際化の研究』NTT出版、2010年
八木沢敬『「不思議の国のアリス」の分析哲学』講談社、2016年
ロラン・バルト、花輪光訳『物語の構造分析』みすず書房、1979年
※小説作品に関しては省略した。

文字数:12061

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