スクリーンからの自由

 

息苦しさはどこからやってくるのか。全く息苦しさなど感じることなく生きている人も大勢いることだろう。息苦しさを感じるのは、自分に甘えているからだと思うかもしれない。確かに、息苦しさを感じているのは「私」である。では、この「私」はどのように作られているのだろうか。社会的に存在している「私」と私が感じている「私」との間のギャップが大きければ大きいほど、「私」は、より強い息苦しさを感じるようになる。社会的に要求される行動が、あるいは制約が大きいほど、「私」の行動は制限される。私が思ったように行動することができない。社会化される、あるいは、大人になる、とはそう言うことであり、ギャップが大きくなればなるほど、あるいは、社会的な安定度が高まるほど、「私」の解放されたいと言う欲求は大きくなっていく。時に、この社会的な安定は、他者を排除することによって成立する場合がある。クィア理論やポストコロニアル理論は、そのような表面的な社会の安定に疑義を挟もうとする試みの一部であるといえよう。けれども、クィア理論やポストコロニアル理論に頼らずとも、社会的な安定が表面的にしか成立していないことを示すことができる。

今日において、表面的な安定をもたらしているのは、再魔術化によって、社会的な安定装置として機能しているスクリーンである。再魔術化 –reenchantment- という言葉を最初に用いたのは、まだ辞書にインターネットという言葉のなかった1980年代においてアメリカの社会批評家のモリス・バーマンであ理、最近では、落合陽一は、『魔法の世紀』(2015)の中で、映像の世紀から魔法の世紀への移行について述べている。

かつてウェーバーは魔術化から解放されたのが近代だと述べた。落合陽一もモリス・バーマンの再魔術化論を受けて、ユビキタス社会の到来とともに本格的に再魔術化社会が到来していると述べている。落合陽一が述べているような再魔術化社会の到来が端的に表れているのはスクリーンである。

iPhoneやiPadなどの高機能端末のスクリーンに映し出される映像がどのように目の前に映し出されているのかほとんどの人は知らない。正確にいえば、知らなくてもいいように設計されている。技術に対する盲目的な信仰とも言えるこの姿勢は、再魔術化を引き起こしている。この魔術は、マックスウェーバーが指摘していた宗教に伴う魔術とは異なり、あらゆる“実証的な”データを根拠に基づいた現代的な魔術である。

そして、ユビキタス社会という言葉に象徴されるように、iPhoneやiPadなどのタブレット端末の普及に伴って、端末さえあればいつでもどこでも誰にでも見られるようになった。さらに、これらの端末は、SNSを始めとする20世紀にはなかったコミュニケーション手段を提供するようになった。我々のコミュニケーション手段はますますスクリーンに依存したものになるであろう。

いつでもどこでも見られる現在のスクリーンとは異なって、20世紀後半のメディアの中心にあった映画やテレビなどにおけるスクリーンは、テレビの前にいなければ見られないし、映画館に行かなければ見ることができなかった。20世紀後半におけるスクリーンは場所と密接に結びついていた。さらに、映画館に行くと我々が向かい合うスクリーンは、特定の誰かに向けられたものではなく、スクリーンによって隔てられた(仮想的な)異なる世界で生じている物語を映し出す道具であった。映像の世紀におけるスクリーンは、物語を映し出す。

再魔術化によって生じた現代的なスクリーンは、物語と現実とを分け隔てるのである。物語は我々のいる世界の外部に位置していて、現実は我々のいる世界に属している。映像の世紀におけるスクリーンは、世界と外部とを隔てる境界であった。スクリーンが映し出す物語の中に仮想的に没入していくことは可能だったのかもしれない。アーノルドシュワルツネッガーが主演した映画『ラストアクションヒーロー』(1993)のように、映画の世界に憧れた少年がスクリーンの中に入り、映画の世界に“参加”する、というモチーフは、スクリーンで隔てられた外部へと没入したいという欲求を表しているといえよう。

けれども、今日におけるスクリーンは我々に世界を提示することを欲する。目に映っているものではなく、スクリーンに映し出されるものの方が、“より現実的”だと言えるようになってしまうのだろう。スクリーンが洗練されればされるほど、スクリーンは外部と世界とを隔てる境界ではなく、モジュール化された異なる領域を結びつけるメディアとなる。

モジュール化されるのは、これまでに現実と呼ばれていた世界だけではない。スクリーンを通して、かつてフィクションと呼ばれていたものは現実の中の一つのモジュールであると言えるのであろう。80年代中頃に登場したファミリーコンピューターを始めとする家庭用ゲーム機がテレビ画面に映し出す映像は、あくまでバーチャルな我々の世界とは異なる世界に過ぎなかった。現実とフィクションの境はスクリーンを隔てて明確に分けられていたと言って良いだろう。

一方、今日においては、オンラインゲームで顔を知らない誰かと共同して仮想世界の中のモンスターを倒すとき、モンスターを倒すという行為は仮想的な行為としてではなく、現実的な行為として機能する。渋谷まで買い物をしに行くように、オンラインゲームを通じてモンスターを倒しに行くのである。また、インターネットを経由したチャットで顔の見えない誰かと会話をするとき、その誰かがどんな人物を演じようとも、仮にその会話にフィクションの要素があったとしても、現実の一部なのである。

再魔術化された世界において、外部とはスクリーンに映らないものであるといえよう。スクリーンに映らないものが外部である。現実/フィクションという区別ではなく、スクリーンに映る/映らないという区別が、再魔術化された世界において要になる。なぜなら、現代的なスクリーンは外部を取り込むことによって、スクリーンを拡大させ続けるからである。言い換えれば、スクリーンの拡大は、外部を、つまり他者を否定することによって成立している。

スクリーン上に存在するものは、スクリーンの上に映し出されているという限りにおいて平等である。自分の子供が運動会で活躍する姿を収めた動画とゲームの中で繰り広げられるモンスターとの戦いは、スクリーンの上で提示されるイベントとして併記されるのである。個性はモジュール化され、より大きなシステムの中に組み込まれていく。Youtubeなどのプラットフォームは、モジュール化された個性を取り込んでいく。そして、youtubeじたいは、インターネットというさらに巨大なシステムの中に置かれている。今はまだモジュール化されていないものもいつしかモジュール化され、その巨大なシステムの中に組み込まれて行く。

現代的な映画館へ足を運ぶとわかるように、映画の中と同じような体験を提供しようとしている。映画の中の仮想的な振動に合わせて椅子が動き、水しぶきさえおこる。『ラストアクションヒーロー』のように、映画はスクリーンの向こう側のものではなく、youtubeのなかの動画のように一つのイベントとして取り扱われつつあるのである。『ラストアクションヒーロー』が提示したような境界としてのスクリーンは消えつつあるのだ。

映画によって提示された物語が、現代的なスクリーンに侵食されて行くのは、実際の目と耳を使っているからである。この意味で、観念的な目と耳を使い続けている小説は、再魔術化の影響力から遠く離れた位置にあると言えるだろう。

観念的な目と耳を使っている作品の例として、『ノルウェイの森』の以下の文章を見てみよう。

 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い出すことができる。……記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。…おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持ちを向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。…しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。…そう、僕の記憶は直子の立っていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた場所から遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけが、まるで映画の中の象徴的なシーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かんでくる。

村上春樹のこのような記述は、極めて映像的であるといえよう。けれども、同時にスクリーン的ではない。村上春樹は、自身の作品を映画的だとしながらも、映画化の話が来ないようにしている、と述べている。明里はこの点を述べている。映像的でありながらスクリーン的ではない場面は、この冒頭の文章の直後にやってくる。

  実際に目にしたわけではない井戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼きつけられているのだ。僕はその井戸の様子を細かく描写することだってできる。井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。

回想をしているかのように始まる草原の話から、井戸の話へと移り変わっていく冒頭の場面において、語り手である「僕」は、実際に目にしたわけではないと言いながら、直後の場面で見たことのないはずの井戸を細かく描写することができると述べている。そして、「僕」によって描写された井戸は草原に位置している。あたかもこの井戸は、その直前の回想の中で語られている草原の中に位置しているかのような語り口である。けれども、回想と思しき場面で語られる草原と井戸があるという草原が同じ草原である必要は全くない。スクリーンの中で、互いに異なる場所にある草原を続けて移すのと同じようなものである。しかし、同じようなものであって同じではない。全く関連のない二つの草原は僕の中では地続きのように続いているのである。この二つの草原の間の移動は物理的な移動ではないのである。

『ノルウェイの森』が観念的な目と耳を用いている場面は他にもある。その例の一つがセックス描写である。佐藤泉は、『ノルウェイの森』が提示した新しさの一つとして、セックス描写を上げている(佐藤 2008)。なぜ、セックス描写が新しいのか。この点について、以下のように述べている。

  「彼女」のアケスケなしゃべりによって場面を再現するやり方である。…現代化された活字読者は目よりもむしろ耳がよく、彼らはマンガの吹き出しのように、物語を受容する。

佐藤もまた「マンガの吹き出しのように」と『ノルウェイの森』が映像的手法を用いていることを示唆している。実際にセックスを行う直前の場面を見てみよう。

  「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下 の男の子にパンツ脱がされることになるとは思いもしなかったわね」

「じゃあ自分で脱ぎますか?」

「いいわよ、脱がせて。でも、私しわだらけだからがっかりしな いでよ」

「僕、レイコさんのしわ好きですよ」

「泣けるわね」

会話している二人をアップすることは可能だろう。けれども、アップすることと近づくことは等しくはない。行為と二人の声が重なり合う。地の文で説明するのではなく、二人の会話を用いることで、我々の存在に気がつかない二人があたかもむき出しのまま親密な行為に及ぼうとする様をみようとするのと同一なのである。

つまり、目と耳が観念的に近づくことによって、この場面は物語へと近づく。けれども、我々はこの場面を、正確に言えば、耳によって再現されたこの場面を実際に見ることはできない。映像的でありながら、スクリーンが映し出すことのできない場面だと言えるだろう。

我々はこの場面を観念的に“見る”ことができるのかもしれない。けれども、実際に見ることはできない。我々の場所、つまり、我々の世界から遠ざかれば遠ざかるほど、物語の純度は高まって行く。スクリーン的でありながらにして、スクリーンに映されることはない。

再魔術化は、他者を否定することで現代的なスクリーンを拡大させ、自己を肥大化させ続ける。今日における社会的な安定は、ユビキタスというまことしやかな言葉によって支えられた脅迫的な民主主義によって成り立っているのではないだろうか。外部、すなわち、他者を否定することによって成立しているスクリーンは、拡大していく自己の息苦しさを与えているのではないだろうか。息苦しさから解放される手段の一つであったはずのスクリーンは、より大きな息苦しさを生む装置へと変貌を遂げて行ったのである。

物語は、他者への道筋であり、従って、スクリーンからの自由なのである。

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