映画「この世界の片隅に」を観て~君はそれでいいのか?

戦争時代を背景にして描いた映画の中でこれほど身につまされる思いで観たものはない。こんなことは絶対にあってはならないと思いながら映画館を出た時、華やかなスタイルで銀座を歩く人々の姿がむしろ映画のように見えた。「この世界の片隅に」を観た直後の私にとってはやや愚かしくさえ思える銀座の平和に、やはりほっと安堵した。そして、その日までこの映画を観なかった状態で街を歩いていた自分を恥じた。辺りを歩いている人を捕まえて「『この世界の片隅に』を観ましたか。観ていないなら、観てください」と言って回りたいような気持にすらなった。作品と呼ばれるものに対し、どちらかと言えば冷静に向き合う私にしてみると、これは異常な反応だった。だから、やはりいい芸術作品なのだろう。美術は心を静寂にさせるけれど、芸術は心を揺さぶるのだ。
画家岡本太郎は「芸術の価値転換」というエッセイの中で以下のように述べている。

今日の芸術は
 うまくあってはならない。
 きれいであってはならない。
 ここちよくあってはならない。
 と、私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。
(中略)
 そこには、なんとなくおびやかされるような、不安な気分さえあります。
(中略)
 うんうん、と言って、息もつけないような、心をふるいたたせ、心身に武者ぶるいみたいなものを感じらせる前進的な充実感なのです。だから、いずれにしても、たんにここちよいとか、「ああ、いいわね」とかいうような、無責任な感動ではないのです。

全く同意できる。芸術とは、人を安心させるものではないだろう。従って、「この世界の片隅に」は恐ろしく芸術的な作品なのだ。
映画鑑賞後の道すがら、なぜか私は、あれは戦争映画だったのか? と問い直し始めた。目の前にある現代の一応平和であるとみなされている光景の、真逆にある戦争の悲惨を描いたものなのだろうか、と。それはすぐに否、となった。
その時、映画に描かれたもっとも悲しい姿は「意志の置き去り」であると思った。主人公のすずが自分の意志ではなく、家族制度や村社会の中で受動的に生きている姿である。そういった状況は戦争だけが引き起こすものではない。「意志の置き去り」は「初動意志の損傷」と共に直ちにやってくる。立ち上がろうとするような本能的意志は生まれたての赤ん坊にも存在しているのだが、それはいつか別の意志へと変容したり、損傷を受けたりする。肉体や精神の方は十全に生きていても、心の意志だけは単独で知らぬ間に死ぬこともあるのではないか。誰にも気付かれないで、そっと、初動意志の部分だけ死ぬ。徐々に、蝕まれる ように死ぬ。
さて、映画の中ですずの意志はいつ置き去りにされたのか。戦争で村に爆弾が落ちた時だろうか。それとも、小姑から預かっていた幼い晴美を死なせてしまった時だろうか。絵を描くための右手を失った時? そうやって遡って考えてみると、映画のごく初めの方で、もうすでに置き去りにされているのだと思うに至った。すず自身の感情の発露とは関係なく、労働力として嫁に出された時である。
人を好きになるというのは本能的な意志にも近い。愛ではなく好きであるという時には特にそうだろう。あの人ではなく、この人が好きだ、という明確な線引きが含まれた能動である。意志とはそのように、そうではなくこうだ、という否定を含む。意志は肯定ではない。望まない状態に対して否定し、望む状態-本人にとってあるべき姿へと向かわせるのが意志なのである。
それなのに、すずは映画の始め辺りで、労働力として嫁に行かなければいけないのだ。本人もそれがどういうことなのかよくわからないうちに、である。ここで意志の置き去りはスタートした。
実際には、嫁ぎ先ですずは不幸ではない。むしろ最初は幸福だったと言えるだろう。義父母からも助かるよと言われ、夫からは愛され、頭を撫でられる! しかし、このように、行った先で頭を撫でられる度に、意志は剥がれ落ちるように消えていった。なぜならば、この結婚は運命や宿命だったのかもしれないが、本人の意志の発露によって遂げられたものではなかったからだ。
このようなことはかつて、あるいは、今でもどこかの地域では当たり前のこととして受け入れられているのかもしれない。もちろん、意志の力を最大限に待ち、自然に花開くように生きることの結果が必ずしも「幸福」とは言えないから、社会が限定する安定と繁栄を目指す生き方のために個人の初動の意志が切り取られてしまうことは必ずしも悪であるとは言い切れない。だが、私は映画を観終わった興奮状態の中ではこう思った。
―主人公のすずは映画の初めの頃にすでに死んでいる。だからあれは、ほとんど彼女の余生を描いた映画だ。だからこそ、彼女は何が起きても激しい怒りを露わにしないで生きていたではないか。あれは、ひとりの女性の余生を描いたのだ。家族たちに意志を殺され、夢遊病者のように生きた女性の悲しい姿なのだ―
とすると、この映画の美しさはどうだ。意志の置き去りを物悲しくも美しいものに描いてあるあの生活風景は。本当なら、初動の意志を死なせること、それは小さくてもひとつの暴力なのだ。それなのにどうだろう、何か善なるものに見える色調は。あってはならない、そのように描いてはいけない、肯定的に伝えてはいけない、戦争という大きな出来事の責任にしてはいけない、それはやっちゃいけない、と、地下鉄の中で泣きそうになりながら私は家に帰り、実のところ、この映画についてはもう忘れようと思った。つまり、部分的に何かを批判するというよりは、一旦、全否定してしまったのだった。
北野武映画監督が、暴力は暴力として、観る者に痛みを与えるほどのリアリティで描かなければいけないと言われていたことを思い出し、そうだな、あんな風に、美化して描いてはいけない、そう信じる人がいるじゃないか、こう生きるべきだと思ってしまう人がいるじゃないか、と考えたのである。あれはひとりの女性の初動の意志を否定した暴力を描いた映画なのだから、というように。
しかし、こうして何かの偶然によって、もう忘れたかった、あの全否定した映画の「批判」を書かなければいけなくなった時、あの「この世界の片隅に」という映画は、私の中でまだ完結していなかったのだと気付いた。まだ揺さぶるのだ。本音を言えと、君の意志を見せよ、と。まさか、全否定ですと言う人もいないだろうが、そう書くしかない。だけど、もう一度批判を書くために細部を確認しようと観るのは恐ろしい。あの映画は私の中で、そんな気軽に何度も観ていいものではない。
このリアルな私の反応は、あの映画がリアルだったからだ。美化して描いたのではなく、「美化している視線」をそのまま写し取ったのだろう。だから傑作なのだ。意志を置き去りにして生きることを美化するなんて、こんな風に美化されて、軽んじられていいんですかと芸術は私に問うのである。いい芸術は必ず、批判という形の感情の吐露を誘発する。言わずに黙っていた私という本音の輩を呼び出してまで、それを吐かせる。待っていたのだろう。あの映画は私に向かって、お前それでいいのかと言っているように見えた。私は馬鹿にされたような気分にすらなったのだ。感服した。暴力的なまでに激しい芸術だ。
なので、この批判の機会を与えられた今となっては、あの映画に対して批判することは何もない。原作に比べてどうのこうのという論評もあり得るだろうけれど、私の中で映画は映画だ。時空を動かして私の怒りまで言わせた映画は噂通り最高傑作であろう。

これはきっと、むしろ、すずの本音だ。
すずが映画の中ではじっと耐えて言えなかったセリフを私がここで代弁し、私の中であの映画は完結した。そして全否定から全肯定へとひっくり返った。よくもあれほどリアルに描いてくださった。
こうしてみると、すずの意志は死んではいなかったのだ。すずは生きていたのだ。「この世界の片隅に」とは、この意志を失ったように暮らしていたすずが、たった今生きている場所だろうか。
片隅について、ガストン・バシュラールは「空間の詩学」の中で以下のように述べている。

このまったく肉体的な自己への収縮にはすでに拒絶症のしるしがあるからである。多くの点で、「いきられる」片隅は生を拒絶し、生を抑制し、生をかくす。ここでは片隅は世界の否定にほかならない。片隅においては、ひとは自分にむかってかたりかけない。われわれは片隅の時間をおもいだすときには、沈黙、思考の沈黙をおもいだす。
(中略)
詩人はこれをみなしっているのだ。しかし偶然が模様と夢想との境界に創造したこの世界を自分流に叙述するために、かれはこの世界にすんでみようとする。かれは片隅をみいだし、このひびわれた天井の世界にとどまる。

すず(の意志)は映画の中ではなくこの世界の片隅に居るだろう。そして「すず」は、この映画の中ではなく「この世界の片隅に」いるはずの君だ、君はまだ生きている、生きよう、と、映画は言っているようにも思う。すず(私)は居る。ひびわれた天井の世界に。美化して憐れんでいる視線をも彼女は見下ろしておかしそうに微笑んでいる。世界の片隅とは、詩人たちの住む、むしろその視点から言えば「世界の中心」なのかもしれない。地球は平面ではなく、球体であることを思い出してほしい。そう考えると、この世界に実は、片隅はない。
今後、私の中で映画「この世界の片隅に」に対して何か批判があるとすれば、あれを単なる戦争映画だとか、リアルではない戦争映画だとか、かつての美しい日本の姿が描き込まれている、などという浅い予定調和的な感想だけを言う人に対して、君はそれでいいのか? と問いたくなることくらいである。(了)

参考文献
岡本太郎の宇宙Ⅰ―対極と爆発 岡本太郎著
空間の詩学 ガストン・バシュラール著 岩村行雄訳

文字数:4035

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