小説の不自由について

小説はどの程度自由なのか。

読み手としてはほとんど限りなく自由だろう。ある小説の意図を読み違えようが、途中まで読んでやめてしまおうが自由だ。作家がどれほど苦々しく思っても、読者というのは優遇されている存在なのだ。「小説の技巧」デイヴィッド・ロッジ著の翻訳者である柴田元幸はそのあとがきにて以下のように述べている。

 

あたりまえの話からはじめると、小説というのは何をどう読もうが個人の自由である。小説全般についても、特定の作品についても、「正しい」読み方などというものはない。(中略)一学期のあいだに学生が「伸びる」のを見るのは教師の大きな楽しみだが、「伸びる」といっても、何かアカデミックな方法論を身につけるとか批評的物言いを覚え込むとかいうことではない。むしろ逆に、「作者は何を言わんとしているのか」とか「この話にはどういう教訓があるのか」とか、いままで小説を読むときに問わねばならぬように思っていた問いを忘れて、自分の腹・胸・頭などで感じたことをストレートに言葉にできるようになるー誰か学生が「伸びた」と思うのは、そういう変化を目にしたときだ。

 

読み手としてはこのように自由であり、また読み手としての成長とは自由度を上げることだとさえ言える。しかし間違えてはいけないのは、ここで語られているのは読み手としての自由であり、書き手としての自由ではないことだ。

というわけで、ここでは読み手ではなく、書き手としての自由に限定して考えてみたい。

まずは文章を用いないジャンルと比較してみよう。一番目は音楽と比べてどの程度自由か。

音楽では鳥の声を表すためにバイオリンやフルートを駆使して模倣することがあるが、雀とメジロの声をきっちりと分けて表すことは難しい。小説ならば「二、三羽雀の声が聞こえた」と書けばいい。また音楽で悲しみや喜びといった感情や、愛や死といった概念を表現することも可能だが細部を指定することは難しいだろう。小説という形式ならばどんな状況における感情や概念かまで詳しく書き込むことができる。さらに「ラフマニノフの交響曲第二番の如く」と書いてしまえば喩えとしての音楽を鳴らすこともできる。もちろん前提として読者の音楽に関する知識に委ねることになるが、それはどのジャンルにおいても同じだ。鳥の声を一度も聞いたことがなければバイオリンでそれを再現しようともそうは聞こえないだろう。

二番目は絵画と比べてどの程度自由か。

絵画は一枚で時間の流れを表現することは難しい。絵の中でみずみずしい果物は腐ったりはしない。花は枯れないし、モナリザは怒り出さない。小説ではどちらにもできる。ありえなくても「この果物は永遠に腐らなかった」と書いてもいいし、「日がたつと甘い匂いを徐々に強めていき、やがて実が柔らかく崩れ始めた」と書いてもいい。絵画もアニメーションを使えば時間の経過を表すことが可能だが、匂いについての詳細指定は困難だろう。「それはいったん嗅いでしまうと果物と一体化してしまいそうな匂いだった」などと書いてもいいのは小説の方だ。

三番目は映画や演劇と比べてどの程度自由か。

脳内に個人的な映像を描かせる点において小説の方が自由だ。俳優や画像で提示してしまった場合には描こうとする人物の姿を限定してしまうので、その人のよく知っている誰かをイメージすることはできなくなる。脳内の臨場感とは個人的なものだと考えれば映像的な限定を使わない小説の方に軍配が上がる。限定したい場合にもよく知られている俳優、たとえば「福山雅治のような」と書くこともできる。小説の方には写真や挿絵を入れてはいけないルールもない。

同業者である文を使った詩や随筆、論文などとの比較では小説の方が厳密な定型を持たない点において自由だと言えるし、独白だけではなく三人称で描けることも自由性の根拠に挙げられる。小説とは原則的には虚構の物語を使って表すものではあるが、私小説では虚構でないことも許されるから許容範囲は大きい。

このように延々と比較検討を続けることはできるだろうが、小説がいかに自由かの話題はここまでとし(ここまで比較検討したのは小説とその他のジャンルの技法における自由性であって優越性ではないことを念のため断っておく)、今度は小説の不自由さについて考えてみたい。自由「度」は一体どこまでなのかを模索するために。

書き手として考えた時に、小説を不自由なものにするもの。それは、視点である。それも「作家からの視点」だ。

まずはこれを作中の「登場人物からの視点」と区別しておきたい。

登場人物Aからみた時、AはBが悲しそうに見えた、とか、Aの生活上の信条からするとBはだらしなく思えた、ということがある。Bが本当に悲しかったのか、だらしないのかはここではわからない。Aの視点から見てそう感じられたということだ。これを「登場人物からの視点」という。作家もそう感じているかどうかはこの時点では不明である。

さて、A以外に登場人物Cが同じBを見たら悲しさを装っているように見えた、とか、Cの経験的な勘からするとBは狡猾な人間に思えた、ということが同時に書かれることもある。これは多視点小説。読みやすさを考慮しなければ、このようにひとつの小説の中にいくつ視点があっても構わないし、登場人物の視点がメタ認知的に上位に移動する移視点もあってよいが、出来上がった作品を「これは小説だ」と定義したいなら、作者自身はどの視点に同意しているのか(作家からの視点)が明確であることが求められるのではないか。

物語の意味や意図について作者が語るなという美意識的な論調もあると思うが、それは自分で読み解く楽しみを奪わないでほしいという意味であるだろうし、どう読み解くかは読者の自由だとする思想でもあろう。読者の自由性から考えて権利主張すること自体は間違ってもいないが、それは読者の言い分としての自由であって、作者は自分の書いた物語について「あれはこういう意図である」と解説することもあるし(ユゴーのレ・ミゼラブルなど)、定義上小説として存在させるならば、作者の意図は隠されていたとしても明確でなければならない。そもそも国家を説く大説に対し、小説とは小さな物事を説くものなのだから。

多視点、移視点の物語を組み合わせて大きな物語を形成し小説に仕上げる時や、意図を伝えることが困難な時、小説では「話者」を登場させることがある。たとえば太宰治の「人間失格」には作家自身が書いた「私は」と名乗る話者の形で「はしがき」と「あとがき」があり、物語自体は「自分は」と名乗る主人公の「手記」がその間に挟まれている。手記において自分と名乗る主人公(自分はと名乗る葉ちゃん)は「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間でなくなりました」と言うが、あとがきでの「」とその知人の話の中では、「私たちの知ってゐる葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした。」と語られている。つまり、太宰は単に人間失格と自称する人物の数奇な物語を娯楽程度に紹介しているのではなく、「しかし主人公は周囲からみるとそれは神のようであったのだ。そのギャップについてどう思うか」といった問いの方向性を示しており、そこに太宰の視点を書き込みたかったのだろうと想像できる。

こうしてみると、小説は本来、作者の主張が盛り込まれた説教めいたものでもある。今様に言うとウザいものかもしれない。それほど偉くもないかもしれない作家が、娯楽以上の何かを読者に向けてあだこうだと説くこともあるのだから。見方によっては大きなお世話なのだ。だから読み手は作者の意図を取り違えてもよいし、途中でやめてもよいし、作者の意図を超えて作品の意味を感じ取ってもよいのだろうけれど、事実として作者の主張はある。

前述した通り、小説の自由度は書き手においても技法や作法において拡がる一方だが、小説が小説であるための定義を主張し始めた時には、最終的に何かを説いているという責任を負うだろう。別に善でなくてもよい。人の弱さでもよい。何かを問うたり、説いたりする。それが小説の不自由性なのだ。

村上春樹は「物語の善きサイクル」という文章の中で、以下のように述べている。

 

小説を書くというのは、頭の中で物語を思うがまま、自由に作り上げる作業にほかならない。それは根も葉もない物語かもしれないし、ある場合には荒唐無稽な物語かもしれない。しかし一度作り上げられ、印刷され、作品というかたちを与えられた物語は、しばしば―もしそれが正当な物語であればということだが―自立した生命体として、それ自体の資格でひとりでに動き始める。そして予期してもいないときに、あっと驚くような真実の側面を、作者や読者に垣間見させてくれることになる。まるで一瞬の雷光が、部屋の中の見慣れたはずの事物に、不思議な色とかたちを与えるように。あるいはそこにあるはずのないものを、はっと浮かび上がらせるように。それが物語というものの意味であり、価値であるはずだと僕は考えている。

 

これをもって、物語は自由勝手に書けばいいとだけ読んでしまう人はいないだろう。「もしそれが正当な物語であればということだが」と断ってあるし、物語の価値とは真実の側面を垣間見せることだと指摘している。作者を離れて物語が自立するときにも、作家の視点は内蔵されている。正当な物語とはそのようなものではないか。殊更に話者を用いたり解説で断ったりしない場合でも、作家の視点は自ずと、そして時を経て新しく輝き出る。

また、難解な物語の場合はたったひとつで作家の視点をくみ取ることが困難なこともあり、読み手が真摯に模索することを想定に入れるならば、作品群となるのを待たなければいけないこともある。あの作家ならきっとこう言いたいのだろう、と推測できるほどに認知されて初めて小説となる。

こうして不自由という門を通り抜けて、読み物は小説として生まれる。「これは小説です」と名乗る自由を得ることになるのだ。(了)

 

参考文献

「小説の技巧」デイヴィッド・ロッジ著 柴田元幸・斎藤兆史訳

物語の善きサイクル モンキービジネス2009年秋号 村上春樹文

文字数:4172

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