叙述の走行と停止 「地下鉄の通路で」小論

 ヌーヴォー・ロマンの旗手として悪名高いアラン・ロブ=グリエの手になる理論集『新しい小説のために』にはその巻末にささやかながら「スナップ・ショット」と題された掌編集がさながら実作見本のように付されており、その内の一編「地下鉄の通路で」は「一、エスカレーター」「二、地下道」「三、自動扉のうしろで」の三題構成となっている。内容はと言えば三題合わせても九頁しかないにせよほぼ対人・対物描写に尽きており、また同著者による代表作『嫉妬』と同様その「描写」を担う筈である視点人物(「私」、「彼」等……)がただの一度も書きこまれることがないという「自分は《一般大衆》のために書いているのだと確信していた」(「理論はなんの役に立つか」)というには無理があると言わざるを得ない代物である。
「一、エスカレーター」において出来事と言ってよいのは文字通り上りの「エスカレーター」によって「じっと動かずにいる一団の人物」が階から階へと「昇りつづけてゆく」だけだし、「二、地下道」においてはやはり文字通りとある「地下道」において「等間隔をおいてつぎつぎにならんでいる、全部同一の広告ポスター」の前を「急ぎ足の人びとが、顔もそむけずに通過」するだけ、「三、自動扉のうしろで」に至っては「人びとの群れは、駅のプラットホームにはいるのを妨げる、二枚の閉められた扉のためにせき止められている」という最初の一文で事足りてしまう。一見、ただこれだけのことである。
「一見」と断ったのはただそれだけである三つの光景を叙述するのに用いられた言葉の中にその三つをあたかも繋ぎとめようとするかのような類似があからさまに目につくからだ。
 まず「一」において「斜めの運動」として示される「エスカレーター」は「二」における「広告の文面」が位置する「上向きの斜線」や「三」における「階段」に色濃く残っているし、「エスカレーター」における「一団の先頭に立っ」た男の「頭蓋」における「皮膚にはりついた赤毛の頭髪のまばらで密度のうすい束」は「ポスター」に描かれた「巨大な顔」における「曲線を描く長いまつ毛」や「扉」の上に位置する「半円形の円天井」と共に「」のイメージを連ねているだろう。
 また、「先頭の男」に関しては「手に四つ折りにした新聞をかかえ」、「グレーの三つ揃いを着」た「彼」(「一」)が「地下道」に「立ち止まってい」る「あまりぱっとしない色合いのグレーの服を着」、「四つにたたんだ新聞をつかんでい」る「彼」(「三」)と(固有名詞等で明示はされないものの)同一人物であることは間違いないし、「彼」らは二人共、「新聞の上に顔を傾け」るか、もしくはその「顔」が「まるでもっとよく見ようとするみたいに前にかがみこんでい」のであるし、ついでに言えば「先頭の男」における「頭皮」も「ポスター」における「巨大な顔」もまた同じ「ばら色」である。
 この連関は一体何なのか? 早急に答えを出す前にひとまず眺めておきたいのはそれぞれの光景における「運動」である。「一」において、当然ながら目につくのはその「上昇運動」である。「五つ」の、「グレーの三つ揃いを着た男」、「ひとりの女性とひとりの子供」、更には「くすんだ色の三つ揃いの背広を着たふたりの男」が「もちあがってゆく」。
 ひとまずはその「運動」が目につく。とは言え、この「運動」に見出されるのはもうひとつ別の「運動」なのである。この「五つ」のうち叙述において最初に示されるのは「ベルトの上におかれたふたつの手」のうち「上のほう」の「男」である。その次に示されるのは「男の正確に真うしろに位置してい」る「女性」と、「彼女の左の子供」である。そして最後に示されるのが「赤い服装の女性のうしろ、二段下」、あるいは「誰もいない三段を間において」「子供のうしろ」にいる「ふたりの男」である。この「五つ」を描写するのに四十四行が費やされている。つまりこの「上昇運動」において四十四行かけて叙述は逆に「下降」しているのである。この「下降」が「三」において「降りてくる階段」を準備しているのである。
「二」においてやはりまず目につくのは「急ぎ足の人びとのまばらな群れ」であるのだが実のところ、「運動」するのは「ポスター」の方である。「一」と異なり、没個性的な「人びと」の代わりに詳細な描写の対象となったこの「ポスター」は殆ど唐突に「水平運動」を行うのだ。

 この巨大な顔の、髪の毛は巻き毛のあるブロンドで、目は非常にながいまつ毛で縁どられ、唇は赤く、歯は真白だが、顔は斜め半身を向いていて、いそがしそうに、つぎからつぎとその前を通りすぎる通行人のほうを見て微笑しており、一方、左手の彼女の横には、四十五度に傾斜したミネラル・ウォーターの壜が一本、呑み口を半開きになった唇のほうへ向けている。
(中略)
そして口の数がどんどんふえ、壜の数も、曲線を描く長いまつ毛にかこまれた、手のひらほども大きい目の数もどんどんふえていく。

「白陶器のタイルでおおわれたなにもないスペースを間におい」たこの「ポスター」における「通過」が「一」における「白い陶器製長方形の小型タイルで一様におおわれたその壁」における「通過」によって予定されたことは疑いようがないが、それ以上に、この「水平運動」がそもそものこの掌編における表題に示された「機械的進行」(=「地下鉄」)、そして更に「三」において「半円形のこの開口部」に現れた「断片」の比喩となっているのだ。
 その「断片」――「車両」の一部がかろうじて示された「三」において際立つのはしかしもはや「通過」ではなく「停止」の趣きである。前述の通り「人びとの群れ」は「扉のためにせき止められている」し、「車両」はそもそも「ホームに沿ってとまっている」のだし、「そのドアの前では乗客たちが、車両の中へはいれるようになるのを待って足踏みしている」のである。
 とは言えこの「停止」もまた不意に示されたのではなく、あらかじめ予定されていたと言ってよい。何しろ「一」において「一団の人物」は「あわただしく動いている真最中、急いでいる真最中を突如停止してしまっ」たのだから。だから、この「一団の人物」は「エスカレーター」から降りるまで「めいめいの姿勢も不動のまま、また各自の位置もそのまま、なおも昇りつづけてゆく」わけだが、一方、車両に入れずにいる乗客たちにおける「靴とズボンの下部」は次のように描写されている。

(前略)ときどきそのうちのひとつが持ちあげられ、すぐに地面におろされるが、せいぜい一センチほど前へ出るくらいで、あるいは全然前へ出ていないこともあり、さらにはすこし後退していることさえある。その付近、前やうしろの靴も、それにつづいて、おなじような運動を行うが、結果はやはり、おなじようにはかばかしくない。

 この描写によって思い出されるのは……というかつまり、「乗客たち」が一歩踏み出せずにいるのは「車両」ではなく「エスカレーター」における最初の一段目なのである(彼らはまるで老人さながらその「機械装置」を前にして立ち往生しているのである)。であるからにはそのわずかな「停止」の後彼ら「乗客たち」は再び「斜めの運動の規則正しさでもちあがってゆく」こととなる。
 以上のように眺めると一見ただ三つの光景が描写されている(というか、それだからこそ)だけである叙述が明確に連関していることがわかる。三つの叙述が(「かりそめの休止」を「三」で与えられるにせよ)まるでウロボロスのように環状に繋げられているのである。
 ここで触れておかねばならないのは「一」、「二」、「三」それぞれにおける空間の形状である。「一」において「エスカレーター」は上り一方通行であるにしろ、明確に「環」が意識されている(「一」の冒頭で「乗り場の床面を、いまはなれたかはなれないかぐらい」だった「一団」が「上昇」した後、その「最後の男」が「振りむ」いてみると、「ずっと下のほうに」同じく「乗り場の床面を、いまはなれたかはなれないかぐらい」の「一団」を認めることができる)し、一方「二」では「地下道」はいわばその「環」を断ち切った一本道である(「その地下道の両端はいずれも、鈍角をなしてはいるものの、最終的な出口をすっかりかくしている曲り角で区切られており」)し、「三」において流れは「せき止めれている」。
 この叙述全体が言わば言葉によって連結されられた三両の「車体」とするならば、そのそれぞれの「環」、「一本道」、そして行き止まりは即ち線路の形状を示していると言ってよいだろう。「環」は「環状線」であり「一本道」は山と山に挟まれた、その両端がトンネルによって「すっかりかく」されてしまっている単線、行き止まりは車庫あるいは終点である。
「地下鉄の通路で」は言わば叙述がそれ自身を走り抜け、あるいは停止し、また走行する、そんな小説なのである。

文字数:3638

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