彩度対比

 小野不由美のホラー小説『残穢』(2012年)は、作者自身が20年前に書いた本の回想から始まる。

 

 この文庫では、作品の最後に「あとがき」を付けることが義務付けられていた。作者自らが読者に対して語りかけ、できるだけ親近感を得るべく営業をせよ、という試練の場だったが、私はそこで読者に対し、怖い話を知っていたら教えて欲しいと呼びかけていた。(★1)

 

 その「あとがき」はかつて実在したもので、読んだことのある者も多い。このように『残穢』は物語が常にドキュメンタリー・タッチで展開されているため、どこまで事実でどこからフィクションなのか、読者には決してわからないようになっている。そしてこの本について語るために、とある別の作品を提示する。桜井識子の『ひっそりとスピリチュアルしています』(2014年。以下『ひそスピ』)だ。これは勿論、普通に考えれば小野不由美の『残穢』とは縁もゆかりもない。しかし内容を比較していくと、これらの間にはある共通点が見つかり、そこから小説とそれ以外の性質の違いを強く確認することが可能になるのである。

 この書籍について、まずは概要を述べる。著者の桜井は、霊媒の祖母、審神者の祖父によって神仏の言葉に触れながら生まれ育ったという来歴を持つ介護職の女性で、訓練により高級霊である神仏の姿や声を見聞きできるようになった。そんな彼女の体験を綴ったブログがヒットし、現時点で10冊ほどの書籍になって出版されている。内容のほとんどはアニミズム的な意味での神仏と交流する紀行文である。同時に桜井は「神仏から、真実だけを書いて伝えるように強く注意されている」と但し書きながらこれらを執筆していると言うが、おそらく霊能者ではない多くの読者にはその真偽が判定できない。まずこの点で構造が『残穢』と同様である。そして『ひそスピ』は、彼女の著作の中では珍しく、かつて自分が実体験した怪談が半分を占めている。幽霊話の多さも共通点だ。そして何より『残穢』と『ひそスピ』を含む桜井の著作はどちらも、日本古来の民俗学的概念を基盤にした世界観から成り立っており、両者に登場する実話怪談(あるいは作り話)には類似が多い。特に、霊魂の実在やその性質についてだ。その中で、最も注目すべきは『残穢』に書かれた次の出来事である。

 20年前に小野が読者に呼びかけて集めた実話怪談を辿っていくと、ある賃貸住宅では入居者が頻繁に入れ替わり、その家の床下に幽霊がいるという情報にたどり着く。その幽霊の正体は、大正時代に発行された公的な報告書と照らし合わせるなどの調査によって、吉兼友三郎(仮名)という人物だと判明する。以下は『残穢』からの引用である。

 

 「私宅監置、って知ってますか」
 私は意外な言葉に、ぽかんとした。
 精神病患者を自宅に監置する、あれだろうか。———いわゆる「座敷牢」だ。明治期から終戦直後まで、制度として存在したことは知っている。精神病患者に対し、地方自治体の許可を受けた責任者が、定められた監置室(これが俗にいう座敷牢だ)に監禁する。〔中略〕結果、一九五〇年に「精神衛生法」が作られるまで私宅監置が状態的に行われていた。(★2)

 

 友三郎は明治38年(1905年)、15歳で発病し座敷牢に監禁された。しかし汲み取り式トイレからここを抜け出し、屋敷の「床下ヲ徘徊スルヲ好ム」と記録されている。そして近年、幽霊となった友三郎が、同じ地域にある住宅の床下を徘徊していることが確認されたのだった。

 一方『ひそスピ』に、ある住宅で、家に監禁か軟禁された障碍者の幽霊に遭遇した実話が収録されている。以下は『ひそスピ』からの引用である。

 

 私たち家族が入居する前に、その家に引っ越してきた家族は何組かいたそうですが、みんな短期間で出ていったのだそうです。白い着物を着た幽霊が出る、という理由でです。〔中略〕
 で、その幽霊は誰なのか?
 オジサンによると、その家には昔、両親と娘が住んでいたそうです。娘には障害があったので、父親はそれを恥ずかしがって、外には出るなと言っていたらしいのです。
 ある日、気づくと娘は妊娠していて、父親は激怒しました。家の恥だから外には絶対出るなと今まで以上に厳しくしましたが、娘はよく理解できませんから、大きなお腹で外に出ようとしました。
 そこで父親は怒り狂い、娘のお腹を何回も思いっきり蹴ったそうです。娘のお腹の子はダメになり、それが元で娘も亡くなった、ということでした。(★3)

 

 監禁、軟禁については「そういう時代だった」とだけ説明されているが、このエピソードから「座敷牢」を想起するのはたやすい。加えて『残穢』の物語を追っていくと、元は健常者だった友三郎は、ある強力な「穢れ」に接触したことで精神病者になったという過去が明らかになってゆくのだが、これについても『ひそスピ』の中にリンクする発言がある。

 

 面白半分に心霊スポットなんかに行ってはいけないのです。どんな霊が憑いてくるかわかりません。すぐに離れてくれる霊や、除霊で離れるような霊なら、憑かれたとしてもまだいい方です。中には、普通の僧侶や霊能者では祓えないような強力なものもいます。そういうのに憑かれたら、徐々に精神をやられてしまって、病院に入れられてしまう場合もあります。(精神の病気の方が全て憑依されていると言っているのではありません)。(★4)

 

 このように、強い悪霊に接触することで状態が感染するといった設定が、『残穢』と『ひそスピ』で共通している特記事項だ。

 強力な霊と接触したため「精神をやられ」て、のちに自身も幽霊となったこの人物、友三郎が実在するかどうかを読者は知ることができないが、彼が生前に精神障碍者であったという要素は偶然ではない。そもそも、特に精神障碍を筆頭とする様々な障碍は、全てがそうではないが超自然的な現象と不可分なのである。歴史を紐解けば、ほぼ全ての人類社会にシャーマニズムは存在しており、その上で心理学、精神医学や人類学、民俗学が発達したのだ。よって超自然的な存在に憑依されるといった現象は、解離性障害、転換性障害、統合失調症などの病気や障碍の罹患なのだと人々の認識が変わった。

 しかし呼称がどう変わっても、そもそもの現象が同じものである以上、唯物論と心霊研究、または心理学と超心理学などは裏表である。そして現代でも当然、かつて超自然的な現象とされていた存在は、精神障碍者などに改名された形で依然と在り続ける。言い換えれば、科学万能のこの時代に、幽霊やアニミズム的な意味での神仏、そして「穢れ」といった「見えるはずのないもの」とアクセスしよう/させようとするなら、最も近いルートが精神障碍者を通過する方法なのである。

 つまり小野は障碍者を、清浄な社会と強烈な穢れの中間地点として扱い、怪異の呼び水として物語の中に配置しているのだ。フーコーも『狂気の歴史』の中で、乞食、狂人、犯罪者を同様に閉じ込めていたことから彼らへの混同がなされ、後に現れたフロイトにもこの偏見を払拭することができず、現代に残っていることを指摘している。そのように狂気(精神障害)と、犯罪を筆頭とした恐ろしいこと、不吉なこと、日本風に言えば禍事や「穢れ」は、人々の心の中で馴染みやすい。こういった社会に潜む偏見をも、小野は恐怖心を呼び起こす手段として自覚的に利用している。

 それでは類似の多い、しかも「ここに書かれているのは全て事実」と主張している『ひそスピ』では、障碍者をどう扱っているのだろうか? 前述のように桜井は一旦、精神障碍者について「そういうのに憑かれたら、徐々に精神をやられてしまって、病院に入れられてしまう場合もあります」と断じている。これでは病院にいる精神障碍者の誇りを傷つけるようであるが、問題の発言のあと、桜井は自分の身近にいる他の障碍者を紹介し始める。

 

 その子は近所の誰からも優しくされています。
 あちこちのお店や郵便局、コンビニなどでも見かけますが、みんなニコニコとその子と会話をしています。その子がいい意味で、人に対して警戒心がないからだと思います。
 純粋なのです。自分が話しかけて迷惑じゃないかとか、自分のことを障害者として差別していないかとか、そういう人の腹を探るようなことは考えていないのだと思います。その純粋な裏のない人なつっこさを、人間は“無意識に感知”出来るのだと思います。欧米では知的障害がある人のことを天使と言いますが、それも頷けます。(★5)

 

 「天使」というワードを出して障碍者を持ち上げるのは一見とても好意的なようだが、しかし「穢れ」ているのも、「天使」のようであるのも、「普通ではない」という点において同じだ。『残穢』で小野が障碍者の特殊性や異常性を強調して描写していたのと『ひそスピ』で桜井が綴る内容は、ここでも同期しているのである。

 だがその先、物語の終わりに近いところで初めて、実話怪談のシンクロは解除される。『残穢』では物語の最終盤、友三郎が接触してしまった強烈な「穢れ」の震源地を、小野自身と思しき主人公「私」がつきとめる。そこを訪ねた先で「私」は、震源地の関係者を哀れみ、そして立ち枯れた草を風が揺らし、その音の描写で物語は終幕するのだ。

 「私」はただ、哀れんだ。ほんとうにそれだけで、あとは頁を捲っても少々の後日談があるのみでこの単行本はおしまいとなる。諸悪の根源、強烈な穢れの原因はこれからもそこに在り続け、そして伝染病のように、もしくは放射性物質のように汚染をばら撒き続けると示され、今その『残穢』の単行本を読んでいる読者まで、まさに今それを読んだことで「穢れ」に汚染される、というメッセージを受け取らされてしまう。

 ところが『ひそスピ』は以下のように続く。

 

 障害を持って生まれてきた人は、そうではない人に比べて、生きるのが困難です。でも、この方たちは、障害を持った肉体で人生を過ごしてみよう、という高度な課題にチャレンジしている霊格の高い人たちです。〔中略〕
 世の中には、障害者を見下したり、差別する人間もいます。そういう人たちから悪意のある念を飛ばされたりしても影響がないようなシステムになっています。悪意ある念を飛ばされることは生まれる前から想定内なわけです。だからこそ、ブロックする守りが大勢いるのです。
 公共の場で、障害のある我が子は悪念をいっぱい浴びて不憫だ、かわいそう、と心を痛めなくても、その子を愛する尊い守りが大勢でちゃんと守っていますから、大丈夫です、心配いりませんよ、というのが私の意見です。(★6)

 

 つまり、半分は実話怪談の本書を読んで不安になった読者を、安心させようという方向に舵を切っている。続いて最終盤には、人々を守る「見えない存在」について言及し、幽霊に憑かれない方法を述べてから、あとがきの直前は「あちらの世界に帰った死後のことは、神が面倒を見てくださいますので、心配はしなくても大丈夫です。」との言葉で書籍が締めくくられるといった具合だ。いくら、おそらく霊能者ではない多くの読者に真偽の判定ができずとも、仮に読者が全てをフィクションだと捉えていても、真実を伝えようとする霊能者である以上、その社会的責任を取ろうという形になっている。同時に『ひそスピ』の限界はここにある。扱う事象が同じようであっても、少しでも不安に陥った者がいるならフォローしようと努めるのだ。『残穢』では読後に残る不安感こそが傑作たる所以であるのに対し、『ひそスピ』はこのように、あくまでも神仏からの恵みを届けるツールであろうとする。だからこそラストに処方箋を記して想像力に歯止めをかける。『残穢』がラストスパートで想像力の暴走を促すのとは、こうして対照的なのである。


 

  • 1:小野不由美『残穢』(新潮文庫)p,9
  • 2:小野不由美『残穢』(新潮文庫)p,266〜267
  • 3:桜井識子『ひっそりとスピリチュアルしています』(ハート出版)p,139〜140
  • 4:桜井識子『ひっそりとスピリチュアルしています』(ハート出版)p,91
  • 5:桜井識子『ひっそりとスピリチュアルしています』(ハート出版)p,153〜154
  • 6:桜井識子『ひっそりとスピリチュアルしています』(ハート出版)P,157

文字数:5019

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