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ゆるりまいに見る日本の美意識

 2016年、NHKから異色のドラマが放送された。『わたしのウチには、なんにもない。』と題されたそれの見出しは「整理整頓コメディー」である。人気ブログから火がつき、あれよあれよと書籍化、ドラマ化とヒットしたエッセイ『なんにもない』シリーズを紹介しよう。

 あまりにも汚すぎて友人を招けない家で生まれ育ったゆるりまいは、自宅の汚さがコンプレックスだったが、ある時から無性に物を捨てたくなった。

 

「この家をキレイにできるのは私だけ…」と、散らかった部屋でひとり決意。

物を少なくすればするほど、私の心と体はどんどん軽くなっていく気がした。私は物の少ない暮らしにハマってしまった。そして毎日のように捨てるものを探した。(★1)

 

 自分を「物を捨てたい病」を発症した「捨て変態」だと自虐的に表現しながら物を捨てていたら、いつしかゆるりの住まいは、禅の世界観と合致する、極限まで無駄を削ぎ落とした様子になっていた。

一、「もったいない」の裏側

 昨今、元々は美術の用語だった「ミニマリズム」がファッション感覚のライフスタイルに敷衍して流行し、それを目指す指南書が様々に発行されている。しかしミニマリストの第一人者ゆるりは、そういったマニュアルに出会わないまま、ほぼ全て独自に考案した方法で現在に至ると著書で述べている。その様子は単純な「綺麗好き」ではなく、ある種の病的な雰囲気すら纏っているのだが、これが多くの人々に支持されたという現象から、社会全体に多かれ少なかれ「整理整頓のできなさ」へのコンプレックスやトラウマが潜んでいると読み取れるのだ。それは「もったいない」という日本語にだけある言葉との関係抜きに語れない。

 元来は仏教用語であった日本語「もったいない」は、環境問題と連動した「MOTTAINAI運動」として世界に広まり株を上げたほどに、日本独自の思想や考えなのだが、しかし現在の日本の狭い住宅事情と相まって、処分することへの罪悪感にとらわれ、良くない意味で影響される状態がしばしば起こる。そこで一世を風靡するようになったのが、一見「もったいない」の真逆を行くミニマリズムだ。この考え方のベースは「三つ」ある。それはヨーガの断行、捨行、離行で、これを現代人向けにまとめて応用し「断捨離」(★2)と三文字に縮めたものが、今ではそこかしこで見受けられる。様々なタイプのミニマリストがいるが、彼らの思想や手法をまとめるとほぼこの断捨離に要約できる。そして、当初は断捨離ブログとして始まった『なんにもない』シリーズのゆるりは、あまりに汚すぎてトラウマになっているかつての自宅の様子を「汚部屋」(おべや)や「汚屋敷」(おやしき)または「汚家」(おうち)などと表現して「愛すること」ができなかったと綴る。同時に、当時のゆるりは、飼い猫を除けば祖母、母、ゆるりの三人暮らしで、祖母と母が極端に片付けられない/たくない性分であったことも併せて著書で綴られる。この時、不要な物を捨て、機能不全を起こしている住まいを片付けたいと考えたゆるりは、家庭という密室の中では少数派だったため、その行為は「物を捨てたい病」を発症した「捨て変態」なのだ、つまり「異常」だという認識に至っていた。

 しかし逆なのだ。整理整頓を徹底した『なんにもない』シリーズがヒットした、つまり大多数から賞賛されたということから振り返れば「もったいない」と言いつつ「汚部屋」や「汚屋敷」を構成していた祖母や母の方が、それがよくないことかどうかは別として少数派だったのだ。例えば強迫性ホーディングなどの病気や精神異常をきたした者の住まいが、しばしば「ゴミ屋敷」やそれに類する存在として嘲笑や非難の的にされることからも、三人だけの密室でなければ、必ずしもゆるりが「異常者」ではなかった。同時に現在のゆるりの行動や部屋の様子は「汚部屋」や「汚屋敷」のトラウマと表裏一体であるから、それを支持したり賞賛したりする大勢の日本人の中の、行きすぎた「もったいない」に支配されて片付けができない状態へ陥りやすいコンプレックスを炙り出す。美しい日本語「もったいない」の反動で、日本人は捨てられない不便を抱えているのだ。

二、「茶の湯」現代版

 さて、日本人の精神性を諸外国と比べた場合、何をこそ特筆すべきかは、岡倉天心の『茶の本』(1961年)に明るい。ここで、日本の美意識を突き詰めたところにある茶道の数奇屋(すきや)は、一切の装飾がない「空き家」(すきや)であると記されている。また、その部屋空間は、一見すると「なんにもない」没趣味なものに見えるが、実は細部に至るまで周到な注意を持って手入れされ、かなりの費用がかかっているともある。お気付きのように、それは現在のゆるりの自宅の様子に酷似しているのだ。例えば、ゆるりは「お手入れが趣味」と言って自宅や所持する物品を、文字どおりマメに磨いている。加えて、ゆるりが選んだフロアライトは十万円以上の価格であるし、ゆるりの愛用するハンカチはスワトウ刺繍で、検索すると価格は一枚で八万円ほどだ。ライトは磨かれて曇りがなく、ハンカチはいつもアイロンが掛けられ、木製の小箱に畳んで収納される。限りなく質素なようで実は手入れが行き届き、価格面でも豪奢である彼女の住まいは、岡倉が挙げた茶室と同質であった。『茶の本』に「茶の湯は禅の儀式の発達したもの」とある通り、いつしか禅の世界観と合致していたゆるりの自宅は、奇しくも数奇屋を現代風に再現しているのである。

 大学に通いながら同時に専門学校にも通って美術を学び、のちにグラフィックデザイナーとして働き始めたゆるりは、知ってか知らずか自宅を究極の美術作品にしていたのだから、単なる「美術業界の人」を超えた常人ならざる美意識の持ち主だ。

三、そして「ガラーン派」へ……

 以上のように、肩書きこそグラフィックデザイナー、エッセイスト、漫画家でも、何やら「変態」的なポリシーを持ちながら我が道を行くゆるりの生き様は、まるで美術家のそれである。むしろ岡倉の語る東洋の理想へ到達しているゆるりの部屋は、分野こそ違えどかなり現代美術らしい。改めて日本文化のミニマリズムに注目しよう。

 禅が日本で発展し、東山文化の頃には簡素な美意識が銀閣寺という象徴を結んだ。日本ではこの時期に一旦、ミニマリズムが完成している。それが千利休によって広まり、江戸時代まで日本人の美意識の基礎として脈々と受け継がれた。ところが明治の頃から情勢が変わり、富国強兵というマキシマリズムが始まる。敗戦によって領土のマキシマリズムに歯止めがかかった後は、高度経済成長やバブルというマキシマム思想が日本中を席巻した。日本の文化や歴史の流れはこういったものである。そして日本人にとって想起しやすい「日本的なもの(伝統)」と言えば江戸時代までを指すのであるから(★3)、侘び、寂びといった美意識の根幹たるミニマリズムは、茶道や華道と並ぶ日本の伝統的な美意識のエッセンスと言える。それを踏まえると、時代的にバブルというマキシマリズムの反省と共にあるミニマリズムを実践するゆるりが、自分を狩野派ならぬ「ガラーン派」と冗談めかしている様子はあながちジョークとは言い切れない。そして「経済大国なのに幸福度は低い」ことが課題である現在の日本人にとって、物量の多少ではない部分に価値を置いた「ガラーン派」の思想やスタイルは新しく、かつ実用的である。

 「侘び」「寂び」の次に「萌え」が来ていると言うが、更に次は「捨て」かもしれない。


★1:『わたしのウチには、なんにもない。』(2013年、エンターブレイン)より抜粋

★2:やましたひでこ著『新・片付け術断捨離』(2012年、マガジンハウス)

★3:東浩紀『動物化するポストモダン』P,42。「日本の文化的な伝統は、明治維新と配線で二度断ち切られている。加えて戦後は、明治維新から敗戦までの記憶は政治的に大きな抑圧を受けている。したがって、八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージにまで戻るのがもっともたやすい。」

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