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「母殺し」の時代における連帯--あるいは、新しい「きびだんご」の可能性について

 

 

1. 桃太郎

きびだんご きびだんご しっとりもちもちきびだんご
あなたもおひとついかがです? 誰でもいいから受け取って
一緒に行こうよ鬼が島 あなたの助けが必要です
2コンマイクに叫んでみても だーれも来てくれない
仲間になったのペットだけ 犬とサルとキジ
昔は一緒に遊んだ友達どっかにいきました
キンタはタフガイ かぐやはつれない うらしまナイスガイ
どいつもこいつもリア充ばっかり 正直いけ好かない 

団子をもらって命を投げ出す物好きなんていない
ペットと一緒に鬼退治とか絶対正気じゃない
犬とサルは仲たがい キジは戦力外
何でもするから鬼が島だけは勘弁してください

 ここには「桃太郎」という言葉はひとつも出てこないが、これが民話「桃太郎」のパロディーであることは、日本人には一目瞭然である。
 桃太郎を知らない日本人はいない。これは私自身の感覚としても、まあそうだろうなと思うし、1980年以降度々行われているアンケート調査の結果を見ても、実際にそうである[1]。1887年から1945年の敗戦まで、民話「桃太郎」は小学校の国語の教科書に必ず載っていた。1945年以降は教科書には載っていないが、1945年から現在までの桃太郎の出版物は、絵本・漫画・童謡・詩歌・戯曲・脚本あわせて300を優に超えている。このことからも、桃太郎が如何に日本人の骨の髄まで浸透した存在であるかが分かる。
 しかし、桃太郎が日本人の精神に深く浸透しているからこそ、桃太郎のストーリーが時代ごとに大きく改変されてきたということを、多くの日本人は知らないかもしれない。すべての日本人の内に存在する桃太郎だからこそ、その人物像は、その時代その時代の日本人の精神や価値観を映し出すのである。あるいは少し見方を変えれば、桃太郎は、その時代その時代で、都合のいいように利用されてきたと言えるかもしれない。

 日本児童文学者の鳥越信によれば[2]、明治時代の桃太郎は、天皇制を基軸とし富国強兵を掲げる日本のナショナリズムの精神を色濃く映し出していた。例えば巌谷小波の『桃太郎』では、皇国のために、天皇の名において桃太郎が鬼を征伐するという設定になっている。
 大正時代に入ると、民主主義の風潮が高まる中で、子どもの個性や創造性を解放しようという新しい教育観が芽生え始める。1918年に発刊された月刊児童雑誌『赤い鳥』が掲げた童心主義に顕著なように、この時期の作家や詩人たちは、子どもの言葉で子どもの心を表現するようになった。北原白秋や三木露風、西条八十らが桃太郎の童謡をつくり、浜田広介や北川千代といった児童文学作家が桃太郎の童話を発表している。
 大正時代の終わり頃になると、代わってプロレタリア児童文学が興り、資本家階級の桃太郎と労働者階級の桃太郎、二種類の桃太郎が登場する。桃太郎を資本家階級として描くものには、例えば坂梨光雄の「その後の桃太郎」がある。鬼退治に貢献したにも拘わらず宝の分け前にあずかれなかった犬やサルやキジたちが、桃太郎に対してストライキを起こすという話である。一方、桃太郎を労働者階級として描くものには、例えば本庄陸男の「鬼征伐の桃太郎」がある。小作人の桃太郎が、仲間の猿吉・犬次郎・雉助らとともに、「鬼が島」と呼ばれる屋敷に住む地主を倒しに行く物語である。
 その後日本は、1931年の満州事変を皮切りに、軍国主義の時代へと突入する。1933年に改訂された「小学国語読本」(いわゆる「サクラ読本」)に載っていた「モモタラウ」には、日本の侵略戦争を正当化する論理が随所に見受けられる。桃太郎に征伐される鬼は、人を苦しめたり物を盗ったりする悪者で、命乞いをする鬼を許してあげた桃太郎は、寛容な善人として描かれる。そして、鬼は命を助けてもらったお礼に宝を自ら桃太郎に差し出す。桃太郎の鬼退治を正当な戦いとして擁護し、宝の獲得についても、略奪ではなく自発的に差し出されたものを受け取っただけのこととして、肯定するのである。
 戦争に加担した桃太郎は、敗戦後、今度はただの桃太郎として生まれ変わる。奈街三郎の「ただの桃太郎」(1950年)において、桃太郎が「日本一」の旗印を捨てたことは、象徴的である。以降桃太郎は、民衆の願う幸せを体現する存在として描かれていく。家族の愛情と期待を受けて、立派に成長した桃太郎は、村人たちに危害を加える鬼を退治し、村に平安をもたらす。そして財産を得、妻をめとり、権力を手にするのである。
 そして2000年頃からは、また別の桃太郎が現れはじめる。問題児としての桃太郎である。例えば、野村たかあきの『やんちゃももたろう』(2003年)は、甘やかされて育った桃太郎が、我儘で村の人たちを困らせ、犬丸・猿吉・きじろうの三人によって、鬼が島へと追放されるという話になっている。
 このように桃太郎は、時代の移り変わりとともに異なる人格とストーリーを与えられてきた。逆に言えば、桃太郎を見れば、その時代の精神が分かるということである。
 では、現在の桃太郎はどうであろう。冒頭に引用したのは、音楽ユニット「水曜日のカンパネラ」が2014年にリリースした楽曲「桃太郎」の歌詞の一節である。桃太郎は、鬼が島へ一緒に行こうと周囲に呼びかけるが、ペット以外に来てくれる者はいない。昔の遊び友達キンタ・かぐや・うらしまも、それぞれに充実した生活を送っている様子で、来てくれない。桃太郎は、リア充の彼らが気に食わない。そもそもなぜ桃太郎が鬼が島へ行くことになったのかと言えば、毎日家にひきもってゲームばかりしていたために、おじいさんとおばあさんの怒りをかい、「鬼が島にでも行きなさい」と家を追い出されたからである。

僕おうちに篭もってゲーム PCエンジン byハドソン
毎日遊べる夏休み イージーモードのエブリディ
高橋名人 バンゲリングベイ 天外魔境Ⅱ
ファミコン1日1時間 でもPCエンジン3時間
メガドライブ ネオジオ ゲームボーイアドバンス 勉強・宿題そっちのけ
じーちゃん ばーちゃん もうかんかん 団子を投げつけ言いました
毎日ごろごろしてるような子は 鬼が島にでも行きなさーい! 

祖父母の怒りを買い 家を追い出された太郎少年
渡されたのは岡山県名物「きびだんご」ただそれだけ
ぬるい人生を歩んできた彼に 鬼は退治できるのか
太郎少年の運命やいかに!

 ここで描出されている桃太郎は、現在の問題児の典型的な姿である。家にひきこもりゲームばかりし、親[3]に怒られ家を追い出されるも、まわりにいるのはリア充ばかりで、ペット以外誰も相手にしてくれない。結局、鬼が島だけは勘弁してほしいと親に泣きつくのである。ひきこもりの軟弱桃太郎である。

 このように、桃太郎はこれまでに様々に異なるストーリーと役割を与えられてきた。けれども、これまでの桃太郎には、ひとつ共通する点があった。それは、「親孝行」の物語であるということだ。(我儘で鬼が島に追放された『やんちゃももたろう』も、結末は「親孝行」のストーリーである。)それに対し、水曜日のカンパネラの「桃太郎」は、「親孝行」とは真逆の物語を提示する。このことは、楽曲「桃太郎」のミュージックビデオを見ることで、より明らかになる。ミュージックビデオのアニメ映像は、歌詞からははっきりと捉えることのできなかった、しかし歌詞の背後に確実に潜んでいたと言える、「親孝行」とは真逆の主題を詳らかにしてくれる。その主題とは一体何か。
 映像を見て、(注意深く見ている人なら恐らく誰もが)あれ、と思うのは、おじいさんとおばあさんが、鬼と一緒に踊っている場面である。民話「桃太郎」における鬼というのは、いや、桃太郎に限らず鬼という存在は、家族や共同体の外部にいる敵のはずである。その鬼と、おじいさん・おばあさんが一緒に踊っているとは、どういうことだろうか。
 その謎は、おばあさんの頭に注目して映像を見ていくことで解ける。おばあさんは、髪の毛をおだんごにしている。はじめのうち、そのおだんごは赤い布で覆われている。しばらくすると赤い布が外され、髪の毛のおだんごが露わになるが、その形がどうも不自然に尖っている。そして、最後の方で太郎少年の額に桃が激突し、太郎少年が桃太郎へ変身を遂げると、それ以降のおばあさんの頭には、おだんごの代わりに角が生えている。はじめ角の生えたおばあさんの後ろ姿が映し出され、最後のシーンでは、鬼と並んで角の生えたおばあさんが正面から大写しになっている。
 このことから分かるのは、鬼というのは、おじいさん・おばあさん(両親)のことだったということだ。おじいさんには角が生えておらず、おばあさんにのみ生えていることから、鬼とは、とりわけおばあさん(母親)のことだと言える。母親が鬼であるならば、鬼退治は「母殺し」を意味することになろう。つまり、このミュージックビデオの映像から浮かび上がってくる「親孝行」と真逆の主題とは、象徴的「母殺し」であると言うことができる。歌詞から読み取れる桃太郎の自立を促すようなストーリーを裏書にするように、ミュージックビデオの映像では、象徴的「母殺し」の主題が描き込まれている。
 伝統的に「親孝行」の物語であった民話「桃太郎」に対し、水曜日のカンパネラは、「母殺し」の物語という新たな桃太郎像を打ち出した。さらに付け加えておくべきは、水曜日のカンパネラの「桃太郎」では、桃太郎の「母殺し」に重ねて、女性ボーカルのコムアイの「母殺し」が試みられているのではないか、という仮説である。このように述べる根拠のひとつは、ミュージックビデオの中で、箱詰めされたきびだんごの箱の蓋に、コムアイの写真とともに、「私を鬼ヶ島に連れてって」というメッセージが貼られていることであるが、これについては後ほどもうひとつの根拠とともに詳述するので、ここでは仮説を提示するに留めておく。
 ともあれ、桃太郎が時代の精神を反映する存在であるならば、私たちはここに「母殺し」という時代の精神を読み取ることができるのではないか、ということである。この読みの妥当性を、これから検討していきたいと思う。そのためにまずは、「母殺し」とはどういうことかについて、考えねばならない。

 

2. 母殺しという難題

 ギリシア悲劇の『オイディプス王』やドストエフスキーの諸作品をはじめ、息子による「父殺し」というのは、古今東西の物語の中に繰り返し現れる普遍的なテーマである。これに対し、娘による「母殺し」は、近代化とともに徐々に表に現れはじめたテーマである。女性に対する社会的な抑圧構造の低下とともに、女性の自我が目覚め、そのぶつかり合いが顕在化してきたと言われている[4]
 息子による「父殺し」が、誰にとっても避けて通れないほどに一般的な象徴的行為であり、それゆえに繰り返し物語られてきたのに対し、物語における娘による「母殺し」は、悉くそれに失敗している。一見「母殺し」に成功しているように見える物語でも、実はその不可能性を描いているという場合が少なくない。例えば、「母–娘関係」を描いた傑作短編漫画、萩尾望都の「イグアナの娘」(1992年)は、そのよい例である。
 「イグアナの娘」では、自分の娘がイグアナに見えてしまい愛することができない母と、母から「ブス」だの「グズ」だのと言われ続け、客観的には美人で優等生であるにもかかわらず、劣等感を抱えて生きる娘との関係が描かれている。娘は結婚し家を出て、しばらくして母の訃報を受けるが、彼女に悲しみの感情は湧いてこない。しかし、母の死に顔を見て、ショックを受ける。母の顔がイグアナに見えたのだ。この時はじめて娘は、母が自分を愛することができなかったことの苦しみを理解し、涙を流すことができた。
 このストーリーは、一見「和解」という形で娘が「母殺し」を成し遂げたように読むことができる。だが、実はそうではない。娘は、死んだ母の枕辺で、自分の本当の母はイグアナであり、あるとき魔法使いに頼んで、人間の姿に化けて母のところへ生まれ落ちてきたのだという、自分の出生の秘密を知る夢を見る。この夢のおかげで、娘は、自分がイグアナだと言われ、母に愛されなかったことに納得がいき、母を赦すことができたのだが、これで「母殺し」が達成できたのかと言えば、そうではない。娘は、母から言われた「イグアナ」という言葉の呪縛から全く抜け出せていない。実の母がイグアナだと思い込むほどに、母の言葉に囚われた世界を生きているのだ。
 また、「母–娘関係」を扱った小説を数多く書いてきた角田光代の短編小説「ふたり暮らし」(2006年)も、「イグアナの娘」とは異なる形で、一見「母殺し」に成功しているように見えながら、実は失敗している物語として読むことができる。娘の手紙や日記から、交際関係や進路まで、何から何まで監視し支配しようとする母と、その母のもとで、正反対の行動に出た姉妹の話である。支配欲の強い母に対し、妹は、徹底抗戦に出る。母に猛反発し、二十歳で家を出て、「私はおかあさんみたいにはならない」を口癖とし、母を反面教師に放任主義の家庭を築く。一方の姉は、意識的に母と一体化する道を選ぶ。部屋を漁られるのは隠すからで、ならば隠さなければよいという道理で、母に対して一切の隠し事をしない。日記も手紙もテストもアドレス帳も、買ったものも交際関係も何もかも、母に見せ、報告する。買った下着までも、着けて見せる。結婚話は母の反対で破断になり、ずっと母とふたりで暮らしている。でも、それはあくまで「自分で選んだ」道なのだと言う。姉は、率先して母と一体化した人生を歩み、その状態でなお、母が亡くなっても「さみしいという気持ちが入りこむ余地はない」と思えた時、完全勝利が訪れるのだと思っている。
 小説「ふたり暮らし」では、妹は「反発」により、姉は意識的な「一体化」により、それぞれ「母殺し」を試みているものの、やはりどちらも失敗している。妹は、姉の指摘する通り、すべての点において母の逆をいくという形で、結局のところ母に縛られている。姉は、いくら意識的だとは言え、母との同化/一体化を希求する点で、やはり母に縛られている。母が亡くなった時、たとえそこにさみしいという感情が湧き起こらなかったとしても、姉の人生を母が規定した(それも徹底的に!)という事実は、消え去らない。
 このように、「和解」「反発」「一体化」--様々な形で試みられた物語の中の「母殺し」は、悉く失敗している。それにしても、なぜこれほどに「母殺し」は難しいのだろうか。

 「母殺し」の難しさに関して、精神科医の斎藤環は、「父–息子関係」「父–娘関係」「母–息子関係」「母–娘関係」の四種類の親子関係のうち、「母–娘関係」だけが際立って特異であることを指摘している[5]。何をもって特異と言うのか。それは、「母–娘関係」の非常な複雑さをもってである。「母–娘関係」以外の三つの関係は、色々と厄介な問題が起こるとは言え、根本的には単純な構造で結びついている。
 「父–息子関係」は、支配と服従の関係である。父は息子を支配し、息子は父に服従する。直に息子は父の支配に抵抗を示すようになり、やがてそれに打ち勝つとき、息子は「父殺し」を果たし自立する。
 「父–娘関係」は、支配–服従ではなく、極端な愛着か徹底した嫌悪の関係に傾いていくことが多いが、この場合でも、娘による「父殺し」は比較的簡単に成され得る。父を憎むことによって父との濃密な関係を保っていた娘が、感謝や赦しの言葉を父に贈り、和解という形で濃密な関係を終わらせる。
 「母–息子関係」は、息子が母に自分の子どもを生ませるという不穏な可能性を持っているがゆえ、父–息子のような支配–服従関係にはならない。代わりに、表面的に母が息子に服従するという共依存の関係に陥りやすい。息子は、母が自分に服従しているという状況に依存し、母は、息子の依存の引き受け手という役割に依存している。
 上に述べた三つの親子関係は、いずれも現実に様々な問題を抱えている人が大勢いるとは言え、関係の構造としては比較的単純なものである。それに比べ「母–娘関係」は、構造そのものが非常に複雑で錯綜している。
 まず、「母–娘関係」のベースには、支配–被支配関係がある。それは、娘が、母が自分を生んだ母であるかどうかを本当には知ることはできず、信じることしかできないことによる。母は、この子が自分のお腹から生まれた子であるということを確たる事実として知っているが、子にとっては、確実な証拠などどこにもない。それゆえ、娘は母の「私があなたを生んだ」という言葉を信じるしかない。この意味で、「母–娘関係」が成立する根底には、娘が母の言葉を無条件に信じるほかないという支配–被支配の構造が存在する。(このことは、母–息子にとっても同様だが、先述したように、息子は母に自分の子どもを生ませるという可能性を持っているため、彼らは母–娘のような支配–被支配の関係には陥らない。)
 しかし、ここで母–娘の支配–被支配関係は、父–息子のような単純な権力闘争を引き起こすわけではない。母–娘は、同性同士、感情面での共感が深いレベルで起こりやすく、母–娘の支配–被支配関係は、「共感と思いやりによる支配」という形をとる。「あなたのためを思って」という心理で、母が娘を支配していくのである。無条件の信用という支配関係の上に、温情による支配を重ねることで、母の存在は娘の心骨にまで浸透する。
 それゆえ、娘が「母殺し」を試みれば、それは自傷行為になってしまうのである。だから娘による「母殺し」は難しい。不可能であるのかもしれない。「母殺し」ができないとなれば、母–娘の関係は永遠に続くことになる。それが分かっているから、母–娘は決して正面からは対立せず、そもそも支配–被支配の自覚すらないということも起こる。

 様々な物語がその不可能性を明示しているように、また精神医学的にもその不可能性の絡繰りが弁明されているように、「母殺し」というのは、やはり不可能なものなのだろうか。しかし、人間の想像力は常に現実の一歩先をゆく。これまで不可能だと思われていたことが、いつの間にか可能になり、やがて常識になる。人類はずっとそれを繰り返してきた。あるひとつの現象が、時代の移り変わりとともに、進歩とか退行とか、正常とか異常とか、様々に言われる。けれど、本来人間の想像力/創造力には、進んでいるも遅れているも、正しいも正しくないもないのだ。常に、時代がそれを決めている。だから、今は不可能に思えることも、何十年後かには常識になっているかもしれず、何十年後かの常識の萌芽は、異常な想像力として今の時代に現れているかもしれない。
 そう、いま「母殺し」というテーマを巡って、異常な想像力が現れ始めている。それも、幾人かのアーティストや小説家たちが、奇妙な連携を図っているのだ。

 

3. 母殺しの連鎖--「桃太郎」と『東京プリズン』

 先に私は、水曜日のカンパネラの楽曲「桃太郎」において、鬼退治が「母殺し」を意味することを述べた。そしてまた、桃太郎の「母殺し」に重ねて、ボーカルのコムアイの「母殺し」が試みられているのではないかという仮説を提示した。その根拠のひとつは、ミュージックビデオの中で、箱詰めされたきびだんごの箱の蓋に、コムアイの写真とともに、「私を鬼ヶ島に連れてって」というメッセージが貼られていることである。コムアイも鬼ヶ島に行って、鬼退治すなわち母殺しをしたいというメッセージだと受け取ることができる。
 さて、水曜日のカンパネラの「桃太郎」にコムアイの「母殺し」の試みを読み取る、もうひとつの、そして最大の理由は、解体された「鹿」の存在である。「桃太郎」のミュージックビデオには、踊る鬼の背後で、解体された三匹の鹿が吊るされている様子が、何度も映し出される。鹿の解体は、コムアイの特技である。彼女はそれを師匠について本格的に習得しており、2013年に渋谷WWWで行われたイベント『りんご飴音楽祭』では、ライブパフォーマンスとして、ステージ上で鹿の解体ショーを披露したほどである。この解体された「鹿」が、コムアイの「母殺し」の象徴だと言えるのは何故か。ここに、あるひとつの奇妙な符合を導入して、そのことを考えてみたい。

 2012年、赤坂真理の『東京プリズン』が単行本として刊行された。これまでに幾度となく繰り返しやってきた「終わらない戦後」論ブーム--その只中で『東京プリズン』は取り上げられ、主にその文脈において読まれた。『東京プリズン』の大きなストーリーラインのひとつが、アメリカの高校に留学したマリがディベートで「天皇の戦争責任」について弁明することであるからして、その文脈で取り上げられたことは至極真っ当なことなのだが、しかし、そればかりがクローズアップされたことで、『東京プリズン』のもうひとつの重要な(もしかしたら「天皇の戦争責任」について以上に主要な)テーマが、置き去りにされてしまった。そのテーマとは「母–娘関係」、もっと言えば、娘による「母殺し」の試みである。
 高校生のマリは、何故自分がアメリカの高校に留学させられたのかが分からず、悩んでいた。留学先のアメリカからかけた電話で、母が若い頃東京裁判の通訳をやっていたという話を祖母から聞き、そのことと自分が留学させられたことには、何か関係があるように思ったが、結局その真相を解き明かすことはできなかった。あれから30年経った今でも、それは痼りとして残っており、マリはその痼りを呑み込んで生きてきた。ところがある日、現在のマリと高校生のマリとが、電話でつながる。彼女たちの時空を超えた対話が始まり、現在のマリは、高校生のマリを通じて「天皇の戦争責任」についてのディベートをやり直すと同時に、「母–娘関係」を清算していくのである。
 さて、この『東京プリズン』では、「鹿」がキーパーソンならぬキーアニマルとして登場する。冒頭の場面でマリは、アメリカの高校の先輩たちとハンティングに出かけ、撃ち殺したヘラジカの肉を持ち帰って食べる。以降ヘラジカは、マリに天の声(それは神の声とも、大君の声とも、内なる声とも言える)を伝え、マリが行くべき場所へ導く案内役として、度々登場する。例えば、現在のマリが、震災で破壊された町の中を彷徨い、そこに自分が生まれ育った家を見つけると、ヘラジカが現れ、マリを寝室へと導く。そこでマリは、母が若い頃に着ていた洋服に着替え、鏡の中に映る若い頃の母に似た自分と会話を交わす。そして次の瞬間、マリは若い頃の母となって、母の恋人のアメリカ人と出会う。
 このようにヘラジカは、現在のマリと高校生のマリに、それぞれ必要な声を伝え、必要な場所に導く役割を果たす。そのヘラジカが、最後の場面で「大君」となり、さらに変化して、マリの「母」となる。

 ヘラジカは、木々の間を抜けると人の姿になった。白い古代の衣装を着けて、光り輝いていた。
「大君!」
 私は思わず叫んでいた。
[……]
「大君、教えてください、あなたとは、誰なのですか? 動物なのですか、人なのですか、精霊なのですか、聖獣ですか、それとも神なのですか。これは、あなたが創った世界なのですか?」
「神が宇宙を創造したのではなく、神が自分を表現したのが宇宙である。だから、神でないものなどこの宇宙には存在しない。あなたも神なのだ、わが子よ」
 そのとき、光とも人形ともつかない大君が変化して、私の母親の姿になった。(文庫版p.508-509

 そして、その母がマリに言う。

「私を殺しなさい、私を殺せば、物語は終わる。あなたは私の終わらない問いを引き受けただけだから。なぜ私はこんなにも見捨てられた気持ちがするかという。重いものを背負わせてしまった。あなたにしか頼めないことだった。どうしても『外』に行ってもらわなきゃならなかった。ごめんなさい。私を裁きなさい。そして生きていきなさい。私は悔いすぎている。いっそ死にたい。私はあなたに殺されたい」(文庫版p.511

 そう言って母はマリに「鋭利な刃物」を手渡す。そして再び、母は大君となり、さらにヘラジカとなって、マリに言う。

私をさばきなさい。さばいて森の木に吊るしなさい。(文庫版p.512

 しかし、結局マリは、ヘラジカに刃物を突き付けることはしなかった。逆にヘラジカを庇い、突如現れた民衆から突き付けられた刃物を自らの身体で受け止める。刃物はマリの首を切り、さらにヘラジカの、大君の、マリの母の頸動脈を切って、あたたかい血潮を噴き出させる。

 『東京プリズン』においてマリは、結局「母殺し」を成し遂げ得なかった。マリは、(象徴的な意味において)母と一緒に殺される方を選んだ。これが「無駄死」あるいは「贄」ということかもしれないと思いながら、死を選んだ。「母殺し」はやはり失敗したと言ってよいだろう。しかし、『東京プリズン』は「母殺し」に失敗してはいるものの、その方法を--和解でも反発でも一体化でもない新しい方法を--提示した点で、従来の母殺しの不可能性を証明する物語とは一線を画している。その方法とは何か。それは「母=鹿をさばいて食べる」ことである。
 鹿をさばいて食べる--これは正に、コムアイがやったことだ。2013年のライブでコムアイは鹿の解体ショーをやり、観客に鹿肉を振る舞った。2014年にリリースした楽曲「桃太郎」では、桃太郎の鬼退治=「母殺し」というストーリーを打ち出し、そのミュージックビデオで、コムアイの「母殺し」を重ねて描いた。2012年に出版された『東京プリズン』を踏まえてこの映像を見れば、背景として描かれていた解体された「鹿」が強烈なメッセージ性を帯び、桃太郎の、そしてコムアイの「母殺し」という主題が、より一層強く浮かび上がってくるのだ。
 ところで、そもそもなぜ「食べること」が「母殺し」になるのだろうか。『東京プリズン』には、それに答えるためのヒントが描き込まれている。

 

4. 母殺しの方法としての、食べる行為

 『東京プリズン』の冒頭、マリがハンティングで仕留めた鹿の肉を食べる場面で、肉を口にすることを躊躇うマリに、ヘラジカの声が届く。

--食べなさい、それは私の肉である。
狩場でヘラジカから来た声と同じだった。
〝あなたの肉だから、食べたくない〟
--食べなさい、それが私の肉であるから。
〝あなたの肉だから!〟(文庫版p.59

 結局マリは拒みつつも食べる。そして、ヘラジカが言う--「食べる者と食べられる者は、ひとつであるから」と。そう、食べる者と食べられる者とはひとつになる。「食べること」に拘り続けた作家ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読み解きながらジル・ドゥルーズが言ったところによれば、「食べること、食べられることは、[……] 深層での物体の混在、物体の能動と受動、物体相互の共存様式のタイプである。」[6]
 しかし、ひとつになった食べる者と食べられる者は、そのまま一つの個体の中でひとつになったまま存在し続けるわけではない。なぜなら、食べたものは排泄されるからである。『東京プリズン』では、次のように表現される。

命を奪った者と奪われる者とが暴力的にひとつとなり、そこでは私とヘラジカはひとつで、ヘラジカの中に入った私がヘラジカと土に還り、私たちの肉は虫や微生物たちによって少しずつ持ち去られる。私たちはじつに遠くまで運ばれながら、じょじょに私たちであることを失ってゆく。地には幼いヘラジカの角に似た芽が芽吹く。芽も私たちなら土も私たちである。夢が、芽吹く。枝分かれするにつれてやわらかな緑の茎となり、そこから植物が芽吹くのを感じる。体がどんどん枝分かれして風を受ける。風を感じて私たちはそよぐ。黄金の太陽を受け黄金の実をつける。やがて黄金の穀物として地を満たす。そのひとつぶひとつぶが私であり、同時に私でない。私たちはやがて、新しき食として人や獣に食われる。(文庫版p.60-61

 ひとつになった食べる者と食べられる者(私とヘラジカ)は排泄され、土に還り、虫や微生物たちによって方々に持ち運ばれ、その先々で植物の芽を吹かせ、実をつけ、やがて人や獣に食われる。つまりこれは、どういうことか。ひとつになった食べる者と食べられる者(私とヘラジカ)が、遍く広がるということである。遍在化する、ということである。
 つまり、ヘラジカ=母を食べ排泄することは、ヘラジカ=母を遍在化させるということになるのだ。しかし、なぜ「母を遍在化させること」が「母殺し」になるのか。「母の遍在化」=「母殺し」という図式は、単純に肯けるものではないかもしれない。むしろ逆なのではないか、という疑問も呈されるに違いない。これについては、以下で東浩紀の「家族の哲学」[7]を参照しつつ考えてみたい。

 東浩紀は「家族の哲学」において、家族の概念を再構築し、家族を国家や個人や階級に代わる社会の新しい秩序原理の起点とすることを提唱している。その中で、いわゆる家族(夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団)の概念が保持する性質として、次の三点が挙げられている。ひとつは、「自由意志ではそう簡単には入退出ができない」という意味での、家族のもつ「強制性」である。二つ目は、両親から見て、生まれた子どもがこの子だったのは偶然であるという意味での、家族の「偶然性」である。そして三つ目は、家族の輪郭が「性と生殖だけでなく、集住と財産だけでもなく、私的な情愛によっても決まる」という意味での、家族の「拡張性」である。
 さて、「母の遍在」という状況は、果たして家族の「強制性」「偶然性」「拡張性」という性質と相入れるものだろうか。まず、「母の遍在」というのは、自由に入退出できない「強制性」をもった家族とは真逆の状態である。第二に、遍在する母とは、「個」としての母の消滅を意味する。「個」として視ることができず、全体としてしか認識できないならば、遍在する母より生まれるひとつひとつについても、やはり、そのひとつひとつを視ることはできず、全体として捉えることになる。このような「個」の消滅した世界では、自分の子どもがこの子であったことに対する「偶然性」の認識は生じ得ない。本来各「個」に付随しているはずの「偶然性」に支えられた家族という認識は、ここでは無効化されてしまう。そして第三に、「母の遍在」は「究極の拡張」と同義であるから、「拡張性」をもった家族の曖昧な境界線というものを無意味化してしまう。要するに「母の遍在」は、家族の「強制性」「偶然性」「拡張性」のすべてと対立する。
 家族の概念を悉く破壊する「母の遍在化」は、確かに「母殺し」の手段として有効である。子によって食べられ、排泄された「母」が、この地に「遍在」することによって、子は母との関係において「強制性」「偶然性」「拡張性」のすべてを克服し、つまり「母殺し」を成し遂げることになる。
 『東京プリズン』は、「母=鹿をさばいて食べる」ことで「母を遍在化させる」という、新しい「母殺し」の形を提示した。これまで和解や反発、一体化といった「母殺し」の試みが悉く失敗に終わってきた中で、『東京プリズン』は、結局「母殺し」を実行することはなかったものの、明確な手段を示し得たという点で、画期的な作品である。そして、奇しくもその翌年、水曜日のカンパネラのコムアイが「鹿の解体」を実行し、さらにその翌年には、「母殺し」を主題とする「桃太郎」を世に出したのである。
 ところで、この「母殺し」の想像力は、2015年、ある作家によってさらに推し進められることになる。村田沙耶香の『消滅世界』がそれである。

 

5. 母殺しの究極形--『消滅世界』

 村田沙耶香の小説『消滅世界』には、いわゆる家族が消滅した世界が描かれている。『消滅世界』では、「ヒトは科学的な交尾によって繁殖する唯一の動物」とされている。恋愛と夫婦関係は完全に切り離されており、夫婦間で恋愛をすることは近親相姦と言われ、異常なこととされている。妊娠は必ず科学的交尾(人工授精)によってなされ、現在は適齢期の女性が子を生んでいるが、人工子宮の研究が進み、実験都市千葉では男性や高齢の女性も妊娠・出産に成功する。主人公の夫婦は、このような世界に生きる正常な人たちである。二人の間に恋愛感情は一切なく、二人とも他所で恋愛をし(時にそれは人間だったり、キャラクターだったりする)、そのうちに子どもを持ちたいと考えている(もちろん科学的交尾によって)。しかし、この夫婦は最終的に、自分たちの子どもを持つという普通の家庭を築くことを放棄する。それは、「家族」システムではない新しいシステムによって社会を運営する、実験都市千葉に移住したからである。実験都市千葉とは、一体どのような場所なのか。以下は、テレビのニュースによる実験都市千葉についての説明である。

 ご存知のように、実験都市千葉では、「家族」というシステムではなく、心理学・生物学・あらゆる観点から研究されて誕生した新しいシステムで、人々は子供を育て、命を繫いでいます。
 毎年一回、12月24日、コンピューターによって選ばれた住民が一斉に人工授精を受けます。受精する人間はコンピューターで管理され、健康面や過去に産んだ回数などを考慮して選ばれます。人口は増えすぎず、減りもしないように計算され、ちょうどいい人数の子供が生まれるよう完璧にコントロールされます。
 男性は人工子宮を身体につけて受精します。[……]
 人工授精で出産された子供は、そのままセンターに預けられます。子供たちは、15歳になるまで衣食住をセンターで保障され、15歳になって自分も「受精」する年齢になったら、大人とみなされてセンターを出ます。
 その世界では、すべての大人がすべての子供の「おかあさん」となります。すべての子供を大人全部が可愛がり、愛情を注ぎ続けます。
[……] すべての子供が、すべての大人に愛されて育つ、まさに「楽園(エデン)」のようであることから、「楽園(エデン)システム」と名付けられています。(p.116-117

 実験都市千葉は、まず、「性差」が消滅した世界である。女性だけでなく男性も子どもを生み、この街では男性も女性も関係なく、大人全員が「おかあさん」と呼ばれる。またここは、「私情」が消滅した世界である。子どもは全員センターで暮らし、大人は皆一人暮らしをしている。ここでは「自分の子ども」という認識が存在しない。すべての子どもは、すべての大人の子どもである。そしてまた、ここは「個」が消滅した世界でもある。大人は全員平等に「おかあさん」であり、子どもも全員平等に「子供ちゃん」である。ここで生まれた子どもたちには、名前も戸籍もない。見分けがつかないほどに皆そっくりである。人口はコンピューターでコントロールされ、子どもも大人も常にマスとしてしか捉えられない。亡くなれば、今までに亡くなった人たちの人骨の白い砂漠の中へ、自分の骨も混ぜられるのだ。
 ここに描かれているのは、都市全体がひとつの家族と言えるような、大きな家族の姿である。そこでは、個別の母子関係というものは成立せず、都市全体に母子が「遍在」している。母子が「遍在」する社会は、先に見たように「家族」の概念が完全に消滅した世界である。「強制性」も「偶然性」も「拡張性」もなく、性別も私情も個人もない世界。
 「家族」の概念が消滅し、はじめから「母が遍在する」世界では、そもそも「母殺し」の必要性が生じない。はじめから、「母殺し」を乗り越えたところに世界が築かれている。「母の遍在化」という「母殺し」の想像力は、『消滅世界』において、「母殺し」の不可能性を覆すのみならず、その先の世界へと到達してしまった。
 『消滅世界』における家族の消滅のさせ方の新しさは、例えばジョージ・オーウェルの『一九八四年』(1949年)と対比させてみると分かりやすいだろう。『一九八四年』で描かれるビッグ・ブラザー率いる党が支配する全体主義社会でも、家族の機能は破壊されている。人々が互いに思考犯罪を犯していないかを監視し告発し合うシステムが、家族の内まで浸透し、子どもが実の両親を「思考犯」として警察に突き出すような社会だ。親は、自分の子どもによる監視に怯えながら日々の生活を送っている。しかし、ここに見られる家族像は決して新しいものではない。家族とは従来通り血縁を中心とした集団であり、その「強制性」「偶然性」「拡張性」という性質はすべて保持されている。やがてやってくる未来では、「生殖行為は配給カードが更新されるのと同じで、年一回行われる形式的な手続き」になり、「子どもたちは生まれたとたんに、めんどりから卵が取り上げられるように、母親から引き離される」ような世界になることが予言されてはいるが、『一九八四年』はまだそのような社会ではない。ディストピア小説は、その時代その時代の想像力を極限にまで推し進めた世界を描くものであるからして、『消滅世界』を生み出した現代は、『一九八四年』では未だ現実味を帯びて描くことのできなかった世界の様相を、具象できるような社会になったのだということができるだろう。

 『消滅世界』は現代の想像力の究極形でり、その舞台は、現代社会のパラレルワールドに設定されている。にもかかわらず、不思議なのは、インターネットが全く登場しないということである。敢えて避けたのではないかと思うほど、不自然なくらいに、全く言及されない。そしてそれは多分、敢えてなのだろう。村田は『消滅世界』において、形骸化した家族の様相を描きたかったのに違いない。社会の基盤を形成する家族の本質が抜き取られ、空洞化した、叩けばスコーン! と音がしそうな世界を。
 現代社会の特徴を「××抜きの××」と表現したのは、大澤真幸である[8]。世の中には、本質が抜き取られた「××抜きの××」が溢れている。アルコール抜きのビール、愛抜きの愛、犠牲者抜きの戦争、そして、信仰抜きの信仰。現代の西欧文明は、多文化主義を標榜している。多文化主義社会とは、唯一絶対の信仰というものが、字義通りの純粋な意味では許されない世の中である。信仰とは本来そういうものではないということは、皆薄々分かっていながらも、形ばかりの信仰心をかろうじて保っている。そして、信仰に対する根源的な欲求には蓋をしてきた。しかし、西欧世界の形骸化した信仰は、その外部に、極度に純度の高い信仰を生み出した。それがイスラム原理主義の正体なのだと、大澤は説明する。
 西欧世界の「信仰抜きの信仰」がイスラム原理主義を生んだように、骨抜きにされた本質部分がその世界の外側で、純度の高い形で噴出するのだとすれば、本質が抜き取られた「家族抜きの家族」もきっと、どこかに「原理主義的家族」とでも呼ぶべきものを生み出すだろう。それはどこへ現れるのか。おそらくインターネットの世界だ。だからこそ、村田は『消滅世界』においてインターネットへの言及を避けた。『消滅世界』は、インターネットという現代においてはむしろ本質が噴出するリアルなバーチャル世界を排した、一つの完結した世界として描かれる必要があった。その胡散臭さを匂わせるために、敢えて。それによって『消滅世界』の「家族抜きの家族」は、その外部(インターネットの世界)に「原理主義的家族」を噴出させるほどの強度をもち得るのだ。
 「家族なき家族」に排除された本質部分は、インターネットの世界に現れる。そこで一つの純粋な「原理主義的家族」を形成する。では、その家族とは、一体どのようなものなのだろう。

 

6. 原理主義的家族の様相--『これはペンです』

 円城塔の小説『これはペンです』(2011年)は、姪が、文字上でしかやり取りをしたことがない、文章の自動生成の研究者であるらしい正体不明の叔父について書き記す方法を探す過程を書き記した手記である。姪にとって、叔父は文字である。文字通り。姪にとって文字としてしか存在しない叔父を、どのように書き記すことができるのか。しかもその叔父は、文章の自動生成を研究している。叔父から姪宛てに送られてくる文面は、果たして本当に叔父が書いたものかどうか、分からない。機械が書いている可能性もある。そもそも、叔父が本当に存在しているのかも定かではない。文字上の叔父の背後に存在するリアルな人物が、血縁の叔父なのか、あるいは叔父を名乗る誰かなのか、結局のところよく分からない。姪は手記の最後で、文字上の叔父の正体は血縁の叔父を中心とする24人の研究者集団だということを突き止めているが、それが正しいという保証はない。叔父の研究に協力する24人の中の一人だと白状する姪の指導教授も、長いこと叔父には会っていない。その指導教授が協力しているつもりの相手は、叔父ではなく、文章を自動生成する機械かもしれないし、そもそもその教授や文字上の叔父が、姪が突き止めた叔父の正体をその通りだと認めたのも、嘘かもしれない。結局、リアルな人間関係は結ばれないまま、文字としてのみ現れる叔父をどのように記述できるのか、たとえ叔父が文字だけの存在であっても、それを記述の束に還元することはできない中で、姪は思考している。
 さて、この小説における姪と叔父の関係は、リアルな人間関係ではない。あくまで文字上の、思考のやり取りに徹した文字同士の関係である。

わたしにとって、叔父の存在というものは、物理的な存在ではない。そこに立ち、手を振るようなものではなくて、もっともっと抽象的な、そのくせひどくありふれている空気のようなものであり、こう言うのが許されるなら思考のような形をしている。(文庫版p.88-89

 にもかかわらず、いや、だからこそなのだろう、姪と叔父の関係は濃密である。姪は叔父との関係を次のように記している。

ずっと接続され続けるならば、誰かの頭はわたしの手を動かしはじめることが多分できる。叔父がこうしてわたしの手を動かすように。言葉を覚えて、それが確かに伝わっていると疑いを持たなくなるように。自分が操ってはいないものを、自分が操っていると信じ込んでしまうように。本当は操られてしまっているのに、それが見えなくなるように。(文庫版p.51

 生身の人間同士が出会っていないからこそ、思考の接続がダイレクトに起こり、姪は無自覚のうちに叔父の思考によって動かされる。これは、家族のもつ「強制性」が極めて強い形で現れたものではないだろうか。リアルな家族は、血や遺伝子のみならず、思想や価値観の植え付けによって主従関係を構築し、半ば強制的な集団となる。自由にそこから逃れることは困難だが、その「強制性」は意識され得るものである。これに対し、この叔父と姪においては、純粋な文字上の関係であるがゆえに、思想や価値観の植え付けが極端な形でなされ、その「強制性」は意識され得ないほどに強いものとなっている。
 そこまでの強制性をもつ関係であるのに、姪にとって叔父は、正体を特定できる存在ではない。叔父の正体を突き止めようとデータ解析を進める姪に、指導教授が「それで、君の叔父さんは生まれたのかね」と訊ねていることに端的に表れるように、叔父は姪によって生み出される存在なのである。叔父の正体は結局のところ誰にも分からないので、姪は「わたしに納得のいく形で、叔父を書くことができれば良い」と思っている。そして姪は、最終的に叔父の正体を突き止める(突き止めたと思っている)のだが、それはプログラミングのバグによる偶然だったことが分かる。このように、姪と叔父の家族関係は、極端な「偶然性」に支えられている。
 さらに、姪が突き止めた叔父の正体は、24人の研究者集団であったが、これに対し、そのメンバーの一員である姪の指導教授は、正解な人数はもはや分からないのだと言う。インターネット上で世界中の誰とでも即座に繋がれるこの世界では、叔父を形成するネットワークは、どこまでも拡大され得る。まさに姪と叔父の家族関係は、無限の「拡張性」を備えているのだ。
 このように、『これはペンです』で描かれる叔父と姪の関係には、家族の概念が保持する「強制性」「偶然性」「拡張性」が純粋かつ極端な形で現れている。まさにこの小説は、「原理主義的」な家族像を提示していると言えるのではないか。

 家族抜きの家族と、原理主義的な家族。都市全体がひとつの家族であるような世界と、コンピューターネットワーク上に文字のやり取りのみで形成される家族。前者は本質のない形ばかりの家族であり、後者は家族の本質のみが究極形で現れる家族である。家族が形式と本質に引き裂かれるとき、それぞれの極の先端に現れるのは、どちらも家族の概念が崩壊した世界だ。極端に形骸化した家族社会が描かれる『消滅世界』では、「強制性」「偶然性」「拡張性」のすべてが弱められ無効化することによって、家族の概念が失われている。一方、極端に本質的な家族関係が描かれた『これはペンです』では、「強制性」「偶然性」「拡張性」のすべてが強められることによって、やはり家族の概念が失われている。
 このように、我々はいま、家族的連帯というものが消失する両極の世界を容易に想像することができる。東浩紀が一見在り来りにも思える「家族」という概念を今の時代に打ち出してきたのは、だからこそなのだろう。家族が両極へ分裂して容易に消滅しうる時代、それが本当に潰えてしまう前に、「強制性」「偶然性」「拡張性」という性質を適度に担保した家族的連帯というものを再構築しておかなければならない。そのような危機意識のもとでの提言だったのではないだろうか。
 では一体、現代社会のどこに、家族的連帯を再構築する可能性を見出すことができるのか。そのことを最後に考えてみたい。

 

7. 新しい「きびだんご」を獲得した桃太郎は、如何に連帯するか

 桃太郎は、今も昔も、きびだんごを配ることによって仲間を獲得している。きびだんごとは、すなわち貨幣的なものである。きびだんごという貨幣によって結びついた集団は、鬼ヶ島に向かい、そこで鬼退治をする。退治されるべき鬼が何を意味するのかは、時代によって異なっていた。明治時代であれば天皇に背く者であるし、プロレタリアートにとってはブルジョアジーであるし、戦時中であれば敵国である。現代においては、それが「母」なのである。しかし、現代における鬼退治すなわち「母殺し」は、もはや鬼ヶ島という区切られた空間を必要としない。なぜなら、「母殺し」は「母の遍在化」という方法で成し遂げられるからである。
 であるならば、鬼退治をするのに鬼ヶ島という固定の空間を必要としない現代の桃太郎には、それに相応しい連帯の形があるだろう。それは間違いなく、インターネット上に形成される何らかのネットワークである。では、そこで配られる「きびだんご」とは何だろうか。「仮想通貨」であろう。「仮想通貨」という新しい「きびだんご」を腰に付けて、インターネット上に新しい連帯の形を求めるとしたら、そこにはどのような可能性が見出せるだろうか。

 最初の仮想通貨であるビットコインは、2008年にSatoshi Nakamotoなる人物によって発表された一本の論文[9]から生まれた。執筆者Satoshi Nakamotoの正体は未だ明かされていない。彼は貨幣発行主として巨額の利益を得ているが、その恩恵をほとんど蒙っていないことが分かっている。Satoshi Nakamotoが持っているビットコインは、ほとんど動かされた形跡がないのだ。それが中央集権的な管理体制を敷かないというビットコインの理念に則った上での行動であるのかどうかは、分からない。しかし、現状私たちは、Satoshi Nakamotoが設計した通貨システムから一方的に贈与だけを受けている[10]。インターネット上には今、そのような新しい神話的世界が築かれているのだ。
 ビットコインは、インターネット上で暗号技術を用いることで、第三者(たとえば銀行)の仲介を経ることなく当事者同士で直接にやり取りができるのが特徴である。中央のコンピューターに子端末がつながるサーバー型のシステムではなく、端末同士が直接水平につながるPeer-to-Peerのネットワークシステムをとるため、中央銀行のような中央機関を必要としない。現行の法定通貨では、中央集権的な管理体制を敷くことで、貨幣の偽造や二重送金を防ぎ、システム全体が回るようになっているが、もし何らかの理由で中央のコンピューターがダウンしてしまえば、システム全体が機能停止に陥るという弱点を抱えている。それに対し、ビットコインのPeer-to-Peerシステムでは、すべての端末が同じ情報を共有しつながっているので、たとえ一部のコンピューターがダウンしても、それによってシステムが停止することはない。しかし、ビットコインは単なるデジタル情報であるため、コピーが簡単にできてしまう上、偽造や二重送金などの不正を監視する中央機関がないとなれば、どうすればよいか。そこで考え出されたのが、ビットコイン特有の監視システムである。
 ビットコインは稀少財である金をモデルに設計されており、埋蔵量の上限(2100万BTC)があらかじめ決められている。金と同じように、ビットコインも採掘されてはじめて流通する。ビットコインの採掘(マイニング)を行う人たちは「マイナー」と呼ばれ、彼らが不正行為の監視役も同時に担う仕組みになっている。マイナーたちは、ビットコインを使って行われた取引を一定時間単位で集計し、その結果をブロックに記録する。ブロックへの記帳の際には、偽造や二重送金などの不正がないかどうかをチェックするための膨大な演算処理(Proof-of-Work)が必要となる。その演算処理を一番に終えた者が、報酬として、システムに埋蔵されているビットコインを新規に獲得することができる[11]
 このようにビットコインのシステムでは、貨幣の発行および不正の監視を絶対的第三者に強制的にやらせるではなく、報酬というインセンティブを与えることで、自動的に貨幣が新規発行され、また自発的に監視システムが発動するような仕組みになっている。
 現行の法定通貨とビットコインのシステムの違いは、次のように示すことができるだろう。現行の法定通貨システムでは、貨幣の発行や不正の監視を必要とする人々が、その役割を担う中央集権的な中央銀行を設立し、それを信頼することで、貨幣の発行や不正の監視という目的を達成している。一方、ビットコインのシステムでは、人々が報酬を欲するがゆえにProof-of-Workを行い、それによって自動的に貨幣の発行や不正の監視を実現させている。つまり前者では、欲するものと得るものが一致しているのに対し、後者では、得るものを欲することなく得ているのだ。
 ビットコインのシステムにおいて、中央銀行のような権威の裏付けなく、なぜ自動的に得られたものを信頼できるのかと言えば、それをもたらす暗号技術に対する信頼と、その暗号の解読作業であるProof-of-Workを平等で匿名的な大衆(コンピューター)が競争原理の下に行っているということに対する信頼があるからである。Nakamotoは既出の論文の中で、「信頼ではなく暗号解読の証明に基づく電子支払いシステム」(筆者訳)[12]が必要だと述べているが(ここでいう「信頼」とは無論中央などの第三者に対する「信頼」のことである)、ビットコインは「暗号解読の証明」の「信頼」の上に成立する。ビットコインのシステムは、本来大変な手間とコストのかかる、目に見える固有の人格を信頼するという行為を排除し、人々が自動的に「信頼」を手に入れられるシステムをつくり上げたと言えるだろう。報酬を欲する人々が「信頼」を「アウトソーシング」することで成立するシステムである。
 私たちの社会は、「技術」と「匿名的な大衆」に「信頼」を「アウトソーシング」することで回っている。人々が苦痛を嫌い、快楽を欲し、報酬を目当てに行動すれば、それが自動的にシステムを機能させ、その結果もたらされるものに対しては、一切の手間とコストをかけずに「信頼」することができるのだ。

 このようなビットコインのネットワークシステムは、如何なる点で新しいのか。それは、「強制性」「偶然性」「拡張性」がいずれも適度に担保されたものであることだ。これは既存の法定通貨との比較で考えると分かりやすい。
 法定通貨は極めて「強制性」の強いシステムである。例えば日本に住む者であれば、日本円を使わない生活を送ることは難しい。法定通貨のつくるネットワークは、入退出の自由度が極めて小さい。一方の仮想通貨は、それが決済手段として広く使われるようになればなるほど、その「強制性」は強まっていく。しかし、そのネットワークから抜け出すことは可能であり、現段階では、自由度はかなり高いと言える。
 また仮想通貨の場合、自ら新たなオルトコインを発行し、別の通貨圏をつくることもできる。つまり仮想通貨は、自らの下にいつどんな子どもがどれだけできるのか分からないという「偶然性」に晒されている。一方の法定通貨においては、例えば日本円の下に勝手に新しい通貨を生み出すことはできない。そういう意味で、「偶然性」に全く晒されないネットワークである。
 そして、法定通貨は「拡張性」にも乏しい。日本円の適用範囲を物理的に広げていくことは、ほぼ不可能である。それに対し、仮想通貨には国境がないため、適度な「拡張性」がある。
 このようにビットコインをはじめとする仮想通貨は、「強制性」「偶然性」「拡張性」を適度に有した連帯をインターネット上に形成することに成功している。ここに我々は、新しい家族的連帯の可能性を見ることができるだろう。
 さらには、ビットコインのネットワークには中央権力が存在しないため、その新しい家族的連帯は「母殺し」の必要性を伴わない。しかしまた、そのことと表裏一体の関係にあるのは、ビットコインのシステムが「信頼」をアウトソーシングすることによって成り立っているということである。人々が欲するままに行動すれば自動的に機能するようなシステムの中で、私たちは「信頼抜きの信頼」をベースに、新しい家族的連帯の形を獲得しつつあると言えるだろう。

 

 


[1] 鳥越信『桃太郎の運命』ミネルヴァ書房、2004年。鳥越が行った調査では、「桃太郎」の名前を知らない者はひとりもおらず、桃太郎のストーリーを話すことができる人も、8割を超えているという。

[2] 同上

[3] 歌詞には「祖父母」とあるが、民話「桃太郎」では、年老いた夫婦が桃太郎を授かるという設定が一般的なので、「祖父母」ではなく、「父母」という認識の方が妥当だと考える。

[4] 斎藤環『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』NHK出版、2008年

[5] 同上

[6] ジル・ドゥルーズ著/小泉義之訳『意味の論理学 上』河出書房新社、2007年

[7] 東浩紀「第2部 家族の哲学(序論)」『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン、2017年

[8] 大澤真幸『不可能生の時代』岩波新書、2008年

[9] Satoshi Nakamoto (2008) “Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System,” https://bitcoin.org/bitcoin.pdf

[10] これは、ビットコインが他の仮想通貨と大きく異なる点である。ビットコイン以外の仮想通貨の発行主は、皆人格がはっきりしており、利益を狙ってICO(Initial Coin Offering)を行っている。

[11] マイニングの成功者には、新規ビットコインの報酬のほか、そのブロックの主導権が与えられ、そのブロックで行われる取引の手数料を得ることができる。

[12] [9]に同じ

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