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信頼をアウトソーシングする時代の想像力

 

1. 「流行」が消えた時代の〈流行〉--「異色肌ギャル」の出現

 全身の肌を緑や青、紫や赤に染め、蛍光色の髪の毛に、サイケデリックな色柄の服を身にまとう女性集団がいる。彼女たちの名を「異色肌ギャル」という。
 「異色肌」というのは元々、アニメやゲームに登場する人間とは明らかに異なった肌の色をもつキャラクターの通称である。その「異色肌」とギャルファッションを組み合わせたのが「異色肌ギャル」である。
 「異色肌ギャル」は2017年6月、グラビアモデルのmiyako [写真1] の呼びかけによって、俄かに登場した。miyakoの呼びかけに応じたモデルやグラビアアイドル、マンガ家などさまざまな「異色肌ギャル」が歌舞伎町に集結し、撮影会が行なわれた [写真2]。それ以前から、「異色肌」のコスプレはコスプレイヤーやモデルの間でぽつぽつと現れ始めてはいたが、「異色肌ギャル」という集団が登場したのは、この撮影会がきっかけである。撮影会はツイッター上で話題となり、国内外から「kawaii!」との評価を受け、彼女たちは一躍時の人となった。9月頭には表参道に花魁姿で現れ、再び話題をさらい、9月末には「六本木アートナイト2017」のメインプログラム、蜷川実花プロデュースの舞台に出演するまでになった。今後、テレビ朝日「お願い!ランキング」(10月4日)への出演も決まっている。また、今年のハロウィーンでは「異色肌ギャル」の仮装が絶対に流行ると言われ、インターネット上ではメイク方法を紹介する記事などが多数あげられている。
 突如として東京に現れた「異色肌ギャル」--彼女たちは如何にして生まれ、如何にして広まりつつあるのか。

[写真1] miyako         [写真2] 異色肌ギャル

 「異色肌ギャル」を広めた仕掛け人のmiyakoによれば、「異色肌ギャルは、懐古ガングロギャルでちょっと原宿系! マーベルやDCコミックスをリスペクトし、マンガの影響もかなり受けてい」[1]る。miyako自身は、ゲームや漫画、アニメ好きな、「普段はただのオタク」だという。「根がオタクなので全然垢抜けなくて、ずっとギャルに憧れて」[2]おり、「昔から原宿系の派手髪の女の子や、昔の渋谷のギャルや、ダンサーさんなど、オシャレなギャルの子たちが大好きだった」[3]という。これらの発言からも分かるように、「異色肌ギャル」は、渋谷のギャル文化[4]、原宿のkawaii文化[5]、コスプレ文化[6]という1990年代後半以降の日本を代表する若者ファッションの融合によって誕生した。
 このように「異色肌ギャル」の登場を、日本の若者ファッション文化の融合というある意味歴史必然的な現象として解釈することも可能だが、1990年代後半から2000年代前半にかけて流行していた3つのファッションが、なぜ今このタイミングで融合し現れることとなったのかという疑問に対しては、すぐに答えることができない。それをmiyakoという一人の女性の趣向の問題に帰すことは、「異色肌ギャル」が多くの人々の共感を得て一大ムーブメントになりつつある今、妥当な解釈ではないだろう。ムーブメントが起こる背景には、やはりこの時代/この社会ならではの理由があるはずだ。
 ところで、現在ファッション界では、「流行」という言葉が消えつつあるという。これは、人々のファッションの参照先が、マスメディアからソーシャルメディアへ移ったことが大きな要因のひとつだと考えられている。皆が同じファッション雑誌やテレビドラマを見て、その真似をすることで流行が生まれていた時代から、個々人がソーシャルメディアを通じて、お気に入りの芸能人や普通の人々が投稿した写真を参考にコーディネートを考える時代へと移ったのだ。[7]人々が参考にするものがバラバラなので、流行も生まれない。「戦後のストリートファッション史上では初めての『新しいファッションが登場しない』というむしろ新しい状況となっている」[8]と言われる所以である。
 さて、「異色肌ギャル」の〈流行〉という現象は、「流行」という言葉が消えつつある時代に相応しい〈流行〉の様相を呈している。どういうことか。
 社会学者のジンメルは、流行の根本には「同一化願望」と「差別化願望」があると言った[9]。他人を真似ることで周囲と「同一化」したいという思いと、周囲の人々から自分を「差別化」させたいという思いの二つの相反する願望を、「流行」は同時に満たしてくれる。たとえばガングロの流行に乗ることで、他のガングロギャルたちに「同一化」することができ、同時にガングロギャルではない人たちとの「差別化」を図ることができる。ガングロギャルたちは、肌を焼き、唇や瞼を白く塗り、髪を脱色するという「同一」のスタイルを共有していた。「同一」のスタイルを共有することで、同時に他の人々との「差別化」を図った。しかし、「異色肌ギャル」たちはどうであろう。彼女たちには、肌の色も、髪の色も、服装も、何ひとつ共通する点がない。青や緑、紫や赤など、それぞれに肌の色は異なり(戦隊もののように5色で1チームを形成するわけでもなく、単にバラバラで)、髪の色も髪型も同様にバラバラ、服の色にも服装にも統一感はない。つまり、「同一化」しない〈流行〉なのだ。さらに、彼女たちは日常的に肌や髪を緑やピンクに染めているわけではないので、普段はごく普通に周囲に溶け込んでいる。つまり、「差別化」もしない〈流行〉なのだ。「異色肌ギャル」は、旧来の意味での「流行」ではない。「流行」という言葉が意味するところを完全に逆転させた現象である。
 では、なぜ「異色肌ギャル」たちは内部で「同一化」せず、外部に対して「差別化」しないのか。この問いに答えるためには、いくらかの迂回を必要とする。まずは一旦ファッションの話題から離れ、この時代/この社会の基底をなす思想のメカニズムについて分析する必要があるだろう。

 

2. 「ポスト真実」と「ビットコイン」に通底するメカニズム

2-1. ポスト真実の時代--私たちは「信じたい真実を信じている」のか

 現代の世相を反映する言葉として、ここ1〜2年頻繁に耳にするようになったものに“Post-truth(ポスト真実)”がある[10]。オックスフォード英語辞典によると、“Post-truth(ポスト真実)”とは「世論の形成にあたり、客観的事実よりも感情や個人的信条への訴えの方が影響力をもつような状況を示す/にかかわる」(筆者訳)語であると定義されている。とりわけインターネット上に出回る情報について、その真偽のほどは然程重視されず、不確かな情報、時にはあからさまな虚偽情報であっても、感情や信条にフィットするものであれば受け入れられ共有されていくという現況を言い表した語だ。2016年、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票やトランプが当選したアメリカ大統領選挙に際して、虚偽情報を多数流した離脱派もトランプも、それにもかかわらず支持されるという現象が起こったことから、この言葉が頻繁に使われるようになった[11]。嘘がまかり通り、正しさというものが人々の心に訴える力をもたない時代である。日本でも同様、近年政治をめぐる言説を中心に、「ポスト真実」という形容が頻繁になされている。
 日本文化研究者の日比嘉高は、「ポスト真実」の社会を構成する要素として、「ソーシャルメディアの影響」「事実の軽視」「感情の優越」「分断の感覚」の四つを挙げる[12]。本書では、これらの四要素は並列に扱われているが、「ポスト真実」という現象の発端にあるのは「ソーシャルメディアの影響」である。それが「事実の軽視」「感情の優越」「分断の感覚」という三つの相互に関連した大衆の動向を生み出したと言う方が正確であろう。今では一般的なツールとなったFacebookやTwitterなどの「ソーシャルメディア」を介して、人々がニュースや他人の投稿した記事をシェアしたり「いいね」という反応を付けたりすることで、情報の拡散力が急速に増した。インターネット上には常時無限級数的な量の情報が行き交う。社会学者の西田亮介が言うように、「七・八〇年代に隆盛した伝統的なメディアリテラシーが要求する『情報の精査』を問うことが、今の時代、こんなにも情報量が増えてくると、とても実践できなくなってきている」[13]のだ。このことがまず、「事実を軽視」する風潮をもたらした。そして、利用者は多すぎる情報を制御するため、各自情報の「フィルタリング」を行うようになる。フィルタリングを行う際には、もはや情報の真偽を精査している余裕はないので、自分がよいと思う著名人や友人・知人など感覚や信条が近い者が発信する情報を取り込むようカスタマイズされる。情報の取捨選択が感覚や信条によってなされるのだ。これが「感情の優越」と呼ばれる側面である。各々が自分の感情にフィットした情報にのみ囲まれる。こうして人々は、それぞれに快適な「島宇宙」を形成し、感覚や信条が異なり取り込む情報も違う他の島宇宙の住人とは対話をすることが難しくなっていく。これが「分断の感覚」である。
 つまり、インターネットとりわけ「ソーシャルメディア」の普及による情報過剰社会の中で、情報の精査が不可能であるために「事実が軽視」されるようになって、情報量を制御するために「感情」による情報のフィルタリングが行われ、結果「分断」が起こる--これが「ポスト真実」の社会の様相である。このような社会で人々は、「自分自身の流儀と信条にしたがってそれぞれの信じたい真実を信じるようになっていく」[14]--これが「ポスト真実」と言われる所以である。
 「ポスト真実」に対するこのような理解は、一般的で瑕疵のないものだと思われるだろうが、しかし、本当にそうだろうか。この解釈は、「ポスト真実」と呼ばれる社会の本質を的確に捉えているだろうか。というのも、私たちが「それぞれの信じたい真実を信じる」というのが適切な表現であるとするならば、人々は依然として何かしらの〈真実〉を欲しているということになるからだ。「信じたい」という言葉にそれが表れる。たとえそれが、客観的あるいは科学的/統計的に正しい事実でなかったとしても、その人にとっては〈真実〉と思えるものを欲して(そもそも正しい事実などというものが存在するのかどうかが疑わしいとすれば、「真実」というのはいつの時代も多かれ少なかれそのようなものだとも言える)、それを得るべく行動し、それを手に入れているということになる。しかし、「ソーシャルメディアの普及→情報過剰→情報精査の不可能性→事実の軽視→感情による情報のフィルタリング→分断→〈真実〉の形成」という一連の連鎖反応の中で、果たして私たちが〈真実〉を欲している瞬間があるだろうか。私たちは単に過剰な情報量に耐えられないから、その苦痛/不快感を軽減し快適に生活するために情報をフィルタリングするだけである。その際に、感情や信条に照らし合わせて情報を選りすぐるというよりは、身近な著名人・友人・知人たちの発信する情報をただ機械的に取り込むだけである(結果的に感覚や信条の近い者たちの発信する情報を取り込むことになる)。フィルタリングのコストは最小限にして、苦痛を減らし快を増大させる、いわば功利主義的な動機で行動しているにすぎない。その結果として得られる情報から、自動的に〈真実〉が形成されるのだ。あくまでも欲しているのは苦痛の軽減と快の増大であって、〈真実〉ではない。だとすれば、ポスト真実の時代に人々は「それぞれの信じたい真実を信じる」という表現は、次のように書き改められるべきだろう--ポスト真実の時代に人々は「それぞれの自動的に形成された真実を信じる」というように。
 「信じたい真実を信じる」ことと「自動的に形成された真実を信じる」こととの差異は、思いの外大きい。前者では欲するものと得るものが同一である--〈真実〉を欲し〈真実〉を得る--のに対し、後者では異なる--〈快〉を欲し〈真実〉を得る。実のところ前者は、マスメディア時代の延長線上にある思考/行為だ。後者こそが、ソーシャルメディア時代に特有の思考/行為である。このことの意味は、現在進行形で経済のメカニズムを根底から変えつつあるビットコインの仕組みを参照することで、より明らかになる。

 

2-2. ビットコインが可能にしたこと--「信頼」のアウトソーシング

 ビットコインは、2008年に発表された一本の論文から生まれた。Satoshi Nakamotoなる人物による“Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System”というタイトルの論文である。執筆者Satoshi Nakamotoの正体は未だ明かされていない。が、サイファーパンク(プライバシー保護とセキュリティー確保のための暗号技術の開発・活用を進める活動家)の系譜に連なる人物もしくは集団であると考えられている。ビットコインは暗号通貨の一種であり、インターネット上で暗号技術を用いることで、第三者(たとえば銀行)の仲介を経ることなく当事者同士で直接にやり取りができるのが特徴だ。論文発表の翌年の2009年に、運用が開始された。当初は、暗号化による足の付かない取引手段として違法薬物取引の闇サイトで利用されるなど、ビットコインの悪用が取り沙汰されたりもしたが、現在では、日本でも2016年に改正資金決済法が成立し、「仮想通貨」という名称で市民権を得るまでになった。
 現行の通貨とビットコインの大きな違いのひとつは、現行の通貨では、ある貨幣がそれまでにいつ誰の手を渡ってきたのかということは一切分からないのに対し、ビットコインでは、それまでに行われた取引すべての記録そのものが貨幣として定義される点にある。履歴=貨幣なのだ。さらにその履歴を、参加者全員が共有する。これが、ビットコインの基盤技術であるブロックチェーンが「分散型台帳」と訳される理由である。
 ビットコインは、中央のコンピューターに子端末がつながるサーバー型のシステムではなく、端末同士が直接水平につながるPeer-to-Peerのネットワークシステムをとる。そのため、中央銀行のような中央機関を必要としない。現行の通貨システムでは、中央銀行が中央集権的な管理体制を敷くことで、貨幣の偽造や二重送金を防ぎ、システム全体が回るようになっているが、もし何らかの理由で中央のコンピューターがダウンしてしまえば、システム全体が機能停止に陥るという弱点を抱えている。そのような大惨事を起こさないために莫大なコストをかけてシステムを維持しているのが、現行の通貨システムである。それに対し、ビットコインのPeer-to-Peerシステムでは、すべての端末が同じ情報を共有しつながっているので、たとえ一部のコンピューターがダウンしても、それによってシステムが停止することはない。低コストでシステムを維持できる体制がつくられている。
 しかし、ビットコインは単なるデジタル情報であるため、コピーが簡単にできてしまう上、偽造や二重送金などの不正を監視する中央機関がないとなれば、どうすればよいか。そこで考え出されたのが、ビットコイン特有の監視システムである。
 ビットコインは稀少財である金(きん)をモデルに設計されており、埋蔵量の上限(2100万BTC)があらかじめ決められている。金と同じように、ビットコインも採掘されてはじめて流通する。ビットコインの採掘(マイニング)を行う人たちは「マイナー」と呼ばれ、彼らが不正行為の監視役も同時に担う仕組みになっているのだ。マイナーたちは、ビットコインを使って行われた取引を一定時間単位で集計し、その結果をブロックに記録する。ブロックへの記帳の際には、偽造や二重送金などの不正がないかどうかをチェックするための膨大な演算処理(Proof-of-Work; PoW)が必要となる。その演算処理を一番に終えた者が、報酬として、システムに埋蔵されているビットコインを新規に獲得することができる[15]。これがビットコインのマイニング作業なのである。
 このようにビットコインのシステムでは、貨幣の発行および不正の監視を絶対的第三者に強制的にやらせるではなく、報酬というインセンティブを与えることで、自動的に貨幣が新規発行され、また自発的に監視システムが発動するような仕組みになっている。
 現行の通貨システムとビットコインのシステムの違いを図式的に示せば、次のようになるだろう。現行の通貨システムでは、貨幣の発行や不正の監視を欲する人々が、その役割を担う中央集権的な中央銀行を設立し、それを信用することで、貨幣の発行や不正の監視という目的を達成している【図1】。一方、ビットコインのシステムでは、人々が報酬を欲するがゆえにPoWを行い、それによって自動的に貨幣の発行や不正の監視を実現させている【図2】。つまり前者では、欲するものと得るものが一致しているのに対し、後者では、得るもの(貨幣の発行や不正の監視)を欲することなく得ているのだ。

【図1】現行の通貨システム

【図2】ビットコインのシステム

 ビットコインのシステムにおいて、中央銀行のような権威を「信用」することなく、なぜ自動的に得られたもの(貨幣の発行や不正の監視)を「信頼」[16]できるのかと言えば、それをもたらす暗号技術に対する信頼と、その暗号の解読作業であるPoWを平等で匿名的な大衆(コンピューター)が競争原理の下に行っているということに対する信頼があるからである。Satoshi Nakamotoは既出の論文の中で、「trustではなく暗号解読の証明に基づく電子支払いシステム」(筆者訳)[17]が必要だと述べているが、Nakamotoのいう「trust」とは、ここでいう「信用」のことで、ビットコインは「暗号解読の証明」の「信頼」の上に成立する。本来大変な手間とコストのかかる、目に見える固有の人格を「信用」するという行為を排除し、人々が自動的に「信頼」を手に入れられるシステムをビットコインはつくり上げたのだ。報酬を欲する人々が「信頼」を「アウトソーシング」することで成立するシステムである。

 さて、このような現行の通貨システムとビットコインのシステムの図式を、先ほどの「ポスト真実」の議論に適用してみよう。ポスト真実の時代に人々は、「それぞれの信じたい真実を信じる」のではなく、「それぞれの自動的に形成された真実を信じる」のであった。「信じたい真実を信じる」という行為は、〈真実〉を欲し〈真実〉を得る、つまり欲するものと得るものが同一である。これは、マスメディアが真実を提供していた時代の延長上にある発想だ。マスメディアの時代には、真実を欲する人々が、その提供を担うマスメディアを擁立し、その情報を信用することで、真実を得ていた【図3】。これに対し、「自動的に形成された真実を信じる」という行為は、欲するものと得るものが異なる。ソーシャルメディアの時代には、人々は過剰な量の情報に晒されることの苦痛から逃れるため、情報をフィルタリングする。その結果として得られる情報から、〈真実〉が自動的に形成される。人々は〈快〉を欲するがゆえにフィルタリングを行い、その結果として自動的に〈真実〉を得るのだ【図4】。

【図3】マスメディア-真実の時代

【図4】ソーシャルメディア-ポスト真実の時代

 ここでも先ほどと同様、マスメディアのような権威を「信用」することなく、なぜ自動的に得られた〈真実〉を「信頼」できるのかと言えば、それをもたらす「フィルタリング」に対する信頼があるからである。検索エンジンやショッピングサイトであれば、アルゴリズムに則ったデータ解析に基づく情報のフィルタリングは、完全に自動で行われている。我々はそのコンピューターシステムを「信頼」している。あるいは、TwitterなどのSNSでは情報のフィルタリングを手動で行う必要があるが、その際も情報発信者の一人ひとりを吟味し「信用」するのではなく、身近な著名人や友人・知人を半ば機械的にフォローし、彼らを匿名的な総体として「信頼」する。リツイートや「いいね」という反応の多い情報が可視化されて分かるので、そこに匿名的な大衆が支持・共有している情報だという「信頼」が生まれるのだ。これもまた、ビットコインと同様、大変な手間とコストのかかる固有の人格を「信用」するという行為を排除し、自動的に「信頼」を手に入れるシステムである。快適さを欲する人々がフィルタリングという「信頼のアウトソーシング」を行うことで、自動的に〈真実〉を得ることができる。
 ところで、ビットコインの経済システムやポスト真実の時代の情報システムに共通する「信頼のアウトソーシング」を成り立たせているのは、コンピューターとその背後にいる「匿名的な大衆」である。私たちの社会は、「匿名的な大衆」に「信頼」を「アウトソーシング」することで回っているということだ。人々が苦痛を嫌い、快楽を欲し、報酬を目当てに行動すれば、それが自動的に「匿名的な大衆」によるシステムを機能させ、その結果もたらされるものに対しては、一切の手間とコストをかけずに「信頼」することができる。
 冒頭に挙げた「異色肌ギャル」は、そういう時代のそういう社会から生まれた想像力なのだ。このことの意味を明らかにするために、もうひとつ別のファッションの話を挟もう。「匿名性」を象徴するフードウェアについてである。フードウェアが今、どのように着られているのか。フードをかぶるという行為が何を体現しているのか。そこでは逆説的に、「匿名性」の象徴であるフードをかぶるという行為が、「匿名的な大衆」の一員から抜け出すことを意味している。それは一体どういうことなのか。

 

3. 信頼をアウトソーシングする時代の想像力

3-1. 酸欠少女はなぜフードをかぶるのか

 2015年8月にメジャーデビューを果たし、アニメ「乱歩奇譚 Game of Laplace」のエンディングテーマ「ミカヅキ」や、アニメ「僕だけがいない街」のエンディングテーマ「それは小さな光のような」、RADWIMPSの野田洋次郎から楽曲提供を受けた「フラレガイガール」、アニメ/ドラマ「クズの本懐」のエンディングテーマ「平行線」、モード学園のCMソング「十億年」などの楽曲で知られる、2.5次元パラレルシンガーソングライター“酸欠少女”さユり。彼女の肩書きと名前は、一見して意味が分からない。とりあえずシンガーソングライターらしいということは分かるが、それ以外の部分は謎である。「2.5次元パラレル」とは何か、「酸欠少女」とは何か、「さユり」はなぜひらがなとカタカナの混合なのか。
 彼女の公式プロフィールによれば、「2.5次元パラレル」とは、彼女の活動領域が2次元と3次元の両方にまたがるということを意味する。彼女は、2次元と3次元の狭間=2.5次元を漂うアーティストという位置づけである。そして、彼女は2次元と3次元で名前を使い分けている。「さユり」は3次元のアーティスト名であり、2次元のキャラクターとしては3種類の名前が存在する。一つは、さユりの後悔の念が生んだ永遠の14歳「さゆり」。もう一つは、死神や天使としての「サユリ」。加えて、「さゆり」が意思を示した際それを成す者として現れる、さユりの本能キャラとしての「サゆり」が存在する。
 「酸欠少女」とは何か。プロフィールによれば、それは「人と違う感性・価値観に、優越感と同じくらいのコンプレックスを抱く“酸欠世代”の象徴」[18]という意味である。つまり、さユりは、この社会に馴染めず息苦しさを感じている若者たちの代弁者たるアーティストなのだ。
 そんな“酸欠少女”のトレードマークは「フード」だ【写真3】。なぜ彼女はフードをかぶるのだろうか。

【写真3】酸欠少女さユり

 フードウェアそのものは、別段新しいファッションアイテムではない。たとえば、1990年代のヒップホップ・ファッションでは、オーバーサイズのパーカーが定番アイテムの一つだった。当時のギャングスタ・ラッパーたちの、ベルトを着用せずに履く極太のパンツやダボっとしたトップスやアウターは、服役囚のスタイルを踏襲していたという説もあるように、それらは「悪さ」の象徴として機能していた。
 しかし、“酸欠少女”さユりの着用するフードウェアは、もちろん「悪さ」の象徴として機能しているわけではない。これは、極めて2010年代的なファッションだ。2010年代的なファッションとしての「フード」が何を意味するのか。それを明らかにするために、まずは2010年代に立ち上げられたいくつかのウェアレーベルを参照したい。
 2010年にデザイナーの長見佳祐によって立ち上げられた「HATRA」は、フードウェアを中心に展開するユニセックスウェアレーベルである。長見は「部屋の居心地を持ち歩きたい」[19]という理念のもと、「居心地の良い服」[20]の形を追求しつづけている【写真4】。 あるいは2011年に鈴木淳哉と佐久間麗子によって立ち上げられた「chloma」もまた、デザインにフードを多用するファッションレーベルである。ゲームやアニメの世界を活かしたデザインで、「モニターの中の世界とリアルの世界を境なく歩く現代人のための環境と衣服」[21]を提案する。コレクションでは、「test_subject」や「anti-virus」など「身を守る」ことをテーマに展開されたものが多い【写真5】。

【写真4】HATRA

【写真5】chloma

 このように見てみると、HATRAやchlomaに代表される2010年代ファッションにおける「フード」とは、「身を守る」ための「部屋」を象徴するアイテムとして機能していることが分かる。そうであるとして、では、彼女らは「フード」をかぶることによって、一体何から自身の何を守ろうとしているのだろうか。

 ところで、「フード」は漫画やアニメでもよく見られるファッションアイテムである。『闇金ウシジマくん』のウシジマや『軍鶏』の成嶋亮など、アウトローな世界を描く格闘漫画には、フードをかぶる人物がよく登場する。しかし、ここで参照したいのは、それとは異なるタイプであるにもかかわらず、フードをかぶる者たちだ。たとえば、漫画『カゲロウデイズ』の主人公たちがそうだ。
 『カゲロウデイズ』の主人公たちは、目にまつわる特殊能力をもつ者たちである。彼らは普通の人とは異なる能力をもつがゆえに、まわりから気味悪がられ、社会の中で生きづらさを感じている。しかし、その特殊な目の能力も「きっと誰かを助けるための力なんだ」とポジティブに捉え、彼らは「メカクシ団」という秘密組織を結成する。普段は正体がバレないように過ごしているが、いざという時には目の力を使って悪と戦うのだ。
 その「メカクシ団」の面々は、「フード」付きのパーカーを着ている。「フード」は、特殊能力という強烈な「個性」を隠蔽するためのものである。彼らは「フード」をかぶることで目を隠し、匿名的な一般人として振る舞う。しかし、たとえ「フード」をかぶって目を隠し、匿名的な存在として道を歩いていても、特殊能力をもった者たちは偶然にも出会い、次々と「メカクシ団」のもとへと結集する。
 ここで「フード」をかぶるという行為は、どのような意味をもつのだろうか。特殊能力をもった彼らは、いくら「フード」で隠しても隠しきれない特別な力でつながることができる。ならば、特殊能力という「個性」を隠蔽するつもりでかぶった「フード」は、むしろ隠すべき特別さをもっていることの証として機能してしまっているのではないか。「衣服というのは、言葉でいえば『私には秘密があります』というせりふにあたる」[22]というのは尤もである。「フード」で隠せば、そこに秘密があるということを暗に伝えているのだ。

 「フード」をかぶるという行為が、「個性」を排した匿名的な個人であるようにみせかけて、その実特別さをもっていることのアピールにもなるのであれば、先述した「人と違う感性・価値観に、優越感と同じくらいのコンプレックスを抱く」“酸欠少女”が「フード」をかぶることにも納得がいく。彼女は社会の中で上手くやっていくために「人と違う感性・価値観」つまり「個性」を隠蔽しようと「フード」をかぶる。しかしそれは、彼女が隠さなければならないほど突出した「個性」をもっていることの証でもある。隠しても隠しきれない特別な「個性」によって、彼女はきっと誰かとつながることができる。彼女の歌には、そのような自信(この言葉が強すぎるのであれば、希望と言い換えてもよい)が見出せるのだ。
 2017年5月に発売されたさユりの1stアルバム『ミカヅキの航海』に収録され、スマホゲーム「消滅都市」のコラボソングにもなっている「アノニマス」という楽曲に、次のような歌詞がある。

アノニマス
本当の声で言葉で話がしたいの
アノニマス
誰か聞いているのなら、応答してよ
(中略)
アノニマス
ここに宣戦布告の光を灯すよ
アノニマス
今届いているのなら、応答してよ

 彼女が「匿名」の人々に呼びかけるのは、応答が得られるという自信もしくは希望があるからだ。そうでなければ、人は呼びかけなどしない。
 かつて、「匿名」の人々への呼びかけというのは、有名人もしくは権力者にのみ許される行為だった。しかしTwitterなどのSNSが一般に普及した昨今、誰もが「匿名」の人々へ呼びかけることができ、そこからの応答を期待することもできる。
 “酸欠少女”は、人と異なる「個性」を「フード」をかぶって隠蔽しながらアピールし、「匿名」の人々の中の誰かとつながれることを信じている。本来「匿名性」の象徴であるフードをかぶるという行為が、逆説的に「匿名的な大衆」の一員から抜け出すことを意味しているのだ。欲望に忠実な「匿名的な大衆」の行動が、自動的に社会システムを動かし、その結果得られるものについては、一切の手間とコストをかけずに「信頼」できてしまうという世の中で、フードをかぶる者たちは、「匿名的な大衆」から抜け出し、地道な「信頼」行為を回復させようとしている。
 しかし、酸欠少女のように「フード」をかぶっても隠しきれないほどの「個性」をもつ者はよいが、もたない者はどうすればよいのか。そういう者は、結局のところ「匿名的な大衆」に埋もれたままなのか。いや、そうではない。ここで登場するのが「異色肌ギャル」である。

 

3-2. 「異色肌ギャル」はなぜ「同一化」しないのか

 「異色肌ギャル」とは、互いに肌の色も、髪の色も、服装も異なる、内部で「同一化」しない〈流行〉であった。彼女たちは通常の人間と「異色」であるだけでなく、彼女たち同士の中でも互いに「異色」なのである。また「異色肌ギャル」は、普段はごく普通に周囲に溶け込んでいる、「差別化」しない〈流行〉であった。このように「異色肌ギャル」は、旧来の「流行」という言葉の意味を完全に逆転させた現象であった。では、なぜ「異色肌ギャル」は内部で「同一化」せず、外部に対して「差別化」しないのか。
 まず、外部に対して「差別化」しないのは、いつでも社会の中で「匿名的な大衆」の一員になれるようにである。もはや現代の社会では、「匿名的な大衆」の一員とならなければ、生きていくことはできない。なぜなら、「匿名的な大衆」が社会のシステムを動かしているからだ。それゆえ酸欠少女だって、必死にフードをかぶって「匿名的」な大衆の一員になろうと努力しているのだ(そのことに息苦しさを感じているから「酸欠」状態なのだが)。
 では、内部で「同一化」しないのはなぜなのか。それは、フードをかぶった者たちと同様に、「匿名的な大衆」から抜け出し、地道な「信頼」行為を回復するためである。どういうことか。
 彼女たちは、フードをかぶっても隠しきれないほどの「個性」をもつわけではないので、フードをかぶってしまったら、それこそ本当に「匿名的な大衆」に埋没してしまう。なので、フードはかぶらない。その代わりに、「異色肌」にすることで、「匿名的な大衆」から一時的に決定的に浮き、「匿名的な大衆」から抜け出す契機を掴む。そうして「匿名的な大衆」の一員としてではない個人として他者に相対する機会を得るのだ。そこで地道な「信頼」行為を回復するためには、彼女たちが互いに「異色肌」であることが重要だ。彼女たちは互いに「異色肌」であることで、そこには「異星人」同士の会話が成立する。誰にでも経験のあることだと思うが、覚えたての外国語で、自分とは見た目の大きく異なる外国人との会話が成立したとき、人はこの上ない喜びを感じる。その会話の内容が、たとえ挨拶程度のことだったとしてもだ。そこで会話を交わした外国人のことは「信頼」できる気がしてしまう。もしこれが、自分と見た目の変わらない日本人同士であれば、挨拶程度の会話からそこまでの喜びは生じない。つまり、「異色肌ギャル」は、敢えて互いに見た目を大きく違えることで、外国人ならぬ「異星人」同士の会話の場を立ち上げ、コミュニケーションの原初的喜びを生じさせているのではないか。それは自らの手で「信頼」を築く行為なのである。「異色肌ギャル」の内部で「同一化」しない〈流行〉は、それゆえの現象なのではないか。

 「フード」をかぶる“酸欠少女”も、「異星人」化する「異色肌ギャル」も、「匿名的な大衆」の一員であることが要請される社会の中で如何にそこから抜け出し、「信頼」が自動的に与えられるシステムの中で如何にそこから地道な「信頼」行為を回復させるかという問いに対し、思いもかけない回答を与えてくれる。あるいは逆に、彼女たちを通して私たちは、我々が今の時代に発するべき問いの存在に気づくことができるのかもしれない。

 


[1] BuzzFeed Japan(2017年6月28日)https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/ishokuhada-gal?utm_term=.ylx127B2WD#.dob9N4XN3Q

[2] HUFFPOST(2017年6月28日)http://www.huffingtonpost.jp/2017/06/28/isyokuhada-gal_n_17327856.html

[3] BuzzFeed Japan(2017年6月28日)https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/ishokuhada-gal?utm_term=.ylx127B2WD#.dob9N4XN3Q

[4] 1990年代後半〜2000年代前半に渋谷・池袋を中心に流行したガングロ・ファッション。日焼けサロンで焼いたり濃いファンデーションを塗ったりして肌を黒くし、唇や目の周りをコンシーラーで白く塗り、髪の毛をブロンドやシルバー、オレンジなどに染め、鮮やかな色の服を身にまとう。「異色肌ギャル」の肌や髪、唇や瞼の色を極端に変えるという発想には、「ガングロ」の影響が見受けられる。

[5] 今やきゃりーぱみゅぱみゅの存在によって海外にまで広まったkawaii文化の源流、1990年代後半〜2000年代前半に原宿を中心に流行したデコラ・ファッション。カラフルでチープなアイテムをデコラティブ(装飾的)に身につける(カラフルなヘアピンを前髪に大量につけたり、プラスティック製のブレスレットを大量に重ね付けしたりする)ファッションで、幼女趣味的なのが特徴。Tシャツやフレア・スカート、スニーカー、髪の色まで、とにかくカラフル。全身をカラフルに彩る「異色肌ギャル」は、この点で「デコラ」の影響を受けていると言える。

[6] 今日ではグローバル文化となったコスプレ。日本では1990年代初頭から徐々に現れ始め、2000年代に入って急増した。アニメや漫画、ゲームの人気がコア層だけでなく一般の人々へも広まったことや、デジタルカメラの普及、オンラインメディアの発達などが要因と考えられる。

[7] 藤田結子・成実弘至・辻泉/編『ファッションで社会学する』(有斐閣、2017年)を参照。

[8] 渡辺明日香『東京ファッションクロニクル』(青幻舎、2016年)

[9] Georg Simmel (1904) “Fashion,” International Quarterly 10, p.130-135

[10] “Post-truth”という言葉の初出は1992年、劇作家のスティーヴ・テシックのエッセイにおいてである。その後2004年に、アメリカの作家ラルフ・キーズがThe Post-Truth Eraという著書を上梓しているが、この言葉が一般的に使われるようになったのは、ブレグジットとトランプ当選の起きた2016年以降である。

[11] イギリスのオックスフォード大学出版局の辞書部門が毎年11月に発表するWord of the Yearでは、“Post-truth”が2016年の大賞に選ばれた。

[12] 津田大介・日比嘉高『「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』(祥伝社、2017年)

[13] 西田亮介「〈ポスト真実〉とポピュリズム」『談』(2017年、no.109)

[14] 津田大介・日比嘉高『「ポスト真実」の時代 「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか』(祥伝社、2017年)p.23

[15] マイニングの成功者には、新規ビットコインの報酬のほか、そのブロックの主導権が与えられ、そのブロックで行われる取引の手数料を得ることができる。

[16] ここでは、「信用」は固有の存在に対し与えられるもの、「信頼」は匿名的な存在に与えられるものとして使い分けている。

[17] Satoshi Nakamoto (2008) “Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System,” https://bitcoin.org/bitcoin.pdf

[18] 酸欠少女さユりの公式ホームページ(http://www.sayuri-web.com/#!/profile)より。

[19] https://www.fashionsnap.com/news/2014-11-04/hatra-kotatsu/より。

[20] HATRAの公式ホームページ(http://hatroid.com)より。

[21] chlomaの公式ホームページ(http://www.chloma.com)より。

[22] 鷲田清一『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、1996年)より。

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