失くなった右手、動かない足--「見つけられる」すずの物語

 

『この世界の片隅に』と時期を同じくして大ヒットしたアニメ映画に『君の名は。』がある。『君の名は。』は、魂の入れ替わりによって知り合い恋に落ちた主人公の男女 瀧と三葉が、三年という時を越えて出会い、隕石の落下により死んだはずの三葉を生き延びさせることに成功して、結果、過去改変後の新しい世界で大人になった二人が出会いを果たすという物語である。『君の名は。』におけるこのような奇跡は、お互いの強い想いと行動によって引き起こされるもので、それが観る者にカタルシスをもたらすのだが、一方、この強く願い行動すれば災害すらもなかったことにできるという空疎なストーリー設定が、多くの批判を浴びる的ともなった。
 これとは対照的に『この世界の片隅に』では、戦争による災禍がふりかかる現実の中での日常生活が淡々と描かれる。『君の名は。』のような奇跡は起こらず、多くの失われたものは失われたまま、しかし、その中に溢れる主人公のすずを中心とする人々の笑顔と悲しみと逞しさが描かれる。『この世界の片隅に』は、安易な反戦映画にもならず、愛のすばらしさを讃えるヒューマンドラマにもならず、日常を生きる人々の存在の深みをそのままに映し出す。これこそが、本作の絶賛される理由であるだろう。
 確かにそれはその通りだ。しかし、どのようなすばらしい作品にせよ、ある作品が全面的な肯定/賞賛しか受けないというのは健全な事態ではない。ではなぜ、そのような不健全な事態が起こるのか。それは、その作品の背後に何か批判を排除するようなカラクリが潜んでいるからではないのか。もしそうであるならば、それは一体どういうことなのか。

 如何様にも答えられる、極めてズルい問いというものがある。だが、ほじくり返す余地のある問いだからこそ、それが何か新たな問いを生み出すということもある。さて、そう信じて問うてみよう。すずは主体的な人間であるか、否か。
 すずは、小姑の径子に言われるように「周りの言いなりに知らん家へヨメに来て言いなりに働」くという受け身の人生を歩んでいる。しかし、その中では主体的に考え行動しているため(幼馴染の水原晢に言い寄られてもきっぱりと断るなど)、主体性のない人物として描かれているわけではない。とは言え、ある一点において、すずはやはり徹底的に受け身であるように思う。それは、すずと夫の周作が家から離れた場所で出会うとき、すずは常に「見つけられる」存在であるということだ。つまり、すずが周作を見つけることはなく、必ず周作がすずを見つけるのである。先ず以て、すずをお嫁に欲しいと彼女の居場所を見つけ出したのは周作であるし、周作がすずの家を初めて訪ねた際、帰りに道に迷い、山中にいたすずに声をかけるのも、お花見の最中に家族と離れて木の上にいたすずを見つけるのも(このシーンは映画にはなく、原作の漫画にのみある)、終戦後の広島で、道端にしゃがみ込むすずを見つけるのも、すべて周作である。周作がすずを見つけ、すずは周作に見つけられる。全篇を通して一つだけすずの方から声をかける場面があるが、それは、電話で呼び出され周作の職場まで赴いたすずが、白粉を顔に塗りたくっていたために、周作がすずが来たことに気づかなかったというギャグシーンである。これを除いて、すずは徹底的に周作に「見つけられる」受け身の存在である。これは一体どういうことなのか。

 ところで、すずと言えば当然絵を描く「右手」に視線が集まるのだが、実は「足」の動きの方にこそ特徴がある。物語を牽引する力をもつのは、すずの手ではなく寧ろ足の方だ。
 まずは些細なところから見てみよう。たとえば、天然キャラの彼女が引き起こすドジは、その多くが謎の「足」の動きによってもたらされている。両端にバケツを下げた棒で、並んで歩く近隣の人たちを次々と倒してしまったり、軍艦大和を見ようと乗り出して石崖から落ちたり、地面にしゃがみ込む晴美に気づかず、つまずいて配給の豆腐をあやうく落としそうになったり、ヤミ市で買い物をした帰りに朝日遊郭に迷い込んだり。すずの「足」は、止まるべきときに動き、動くべきときに止まる。そのズレた足の動きが、物語を思わぬ方向に展開させるのだ。
 すずの「足」の動きは、このように物語を小旋回させるだけでなく、ストーリーの要となる場面でも、重要な役割を果たす。それは、すずが空襲にあうシーンである。全部で四度ある。
 一度目は、20年3月に、すずと晴美で畑へ出ていたときである。突然の空襲にあい、一刻も早く物陰へ隠れるべきときに、すずは突っ立ったまま、空にタンタンタンと現れる爆煙をぼーっと眺めている。このシーンは、漫画よりも映画でより強調され、爆煙に合わせて空に絵の具が置かれていく光景は、美しくさえある。ここで、すずの動かすべき「足」は止まっている。もしこのまま突っ立っていたら、二人は爆弾にやられていたかもしれない。しかし、ここで夜勤明けの義父がちょうど戻って来て、二人を物陰へ伏せさせるのだ。すずの止まっていた「足」は義父によって動かされ、二人の命は救われた。ちなみに、ここでもすずは「見つけられる」存在である。
 もう一つ同じようなことが起こるのが、20年7月にあった四度目の空襲のシーンである。ここでもすずの「足」は止まるべきときに動き、動くべきときに止まる。空襲警報が鳴り、防空壕へ隠れようとした矢先、庭に一羽の白鷺が現れる(これはすずの幻覚かもしれないのだが)。すずは、その白鷺が空襲にあう前に山の向こうへ逃してあげなければと、必死に鳥を追って駆ける。このとき、防空壕の中で止まるべきすずの「足」は、逆に外へ駆け出してしまう。そして飛行機が間近に迫り、今度は側溝の中へ伏せるべく駆けなければならないときに、立ち止まってしまう。もしすずがそのままそこで突っ立っていたら、命はなかったかもしれない。しかし、ちょうどそこへ周作が帰って来て、間一髪すずを助けるのだ。すずの止まっていた「足」は、周作によって動かされ、すずは命を救われる。そしてやはりここでも、すずは「見つけられる」存在である。
 さて、このように見てくると、全篇中最も衝撃的な二度目の空襲の場面、時限爆弾の爆発によって晴美の命とすずの右手が失われる場面は、どのように解釈されるだろうか。あのとき、時限爆弾が埋まっていた漏斗坑のそばで、すずは「足」を止めてしまった。そして時限爆弾は爆発し、晴美とすずの右手は吹き飛ばされた。しかし、ここで一つの命と一つの右手が失われたのは、すずがそれに気づくのが遅かったからでも逃げ遅れたからでもない。なぜなら、すずは常に逃げ遅れているからだ。それでも(いや、もしかしたら、それゆえに)助かってきた。それは、すずを「見つけてくれ」、すずの「足」を動かしてくれる人が現れたからだ。しかし、このときはそういう人が現れなかった。それゆえに失われてしまった命であり、右手だった。つまり、すずは「見つけて」もらい「足」を動かしてもらうことによって存在できているのだ。
 では、家に焼夷弾が落ちた三度目の空襲についてはどうだろう。ここでもすずは、一刻も早く防空壕へ逃げ込むべきときに、家の縁側に突っ立ったまま動かない。そしてここでもすずを「見つけてくれる」人は現れないのだが、今度はそれによってすずが負傷するのではなく、火を消し止めて家を守るという重要な役割を果たすことになる。「見つけて」もらって「足」を動かしてもらうことで助かり、「見つけて」もらえず「足」を動かしてもらわないと助からないすずであるはずなのに、なぜこういうことになるのか。その訳は、軍事教練で長いこと家を空けることになった周作にすずが言った「この家を守ってこの家で待っとります/この家に居らんと周作さんを見つけられんかも知れんもん」というセリフに表れている。すずは、家から離れた場所では周作を見つけることができない。すずは常に周作によって「見つけられる」存在であった。もしここで家が焼失してしまったら、すずの方から周作を見つけることはできなくなり、周作がすず「見つけて」くれなかったら、二人は二度と会えなくなってしまう。すずが安心して周作に「見つけられる」存在であるためには、ここではすずの「足」を動かしてくれる人がいなくとも、すずは自ら家の焼失を防ぐべく動かなければならなかった。焼夷弾が落ちてから消火活動に行動を移すまでに(つまり「足」を動かすまでに)かなりの時間がかかったのは、そのような思考のせいだろう。映画ではこの場面は、ただじっとすずが炎を睨んで立っているだけだが、漫画ではその部分に「この家を守りきれるかの」と言う周作の回想シーンが挟まれている。

 このように、すずは「見つけられる」ことで「足」を動かし、物語を動かし、存在できている。エンディングに近い場面ですずが周作に、二人で初めて出会った広島の橋の上で「この世界の片隅に/うちを見つけてくれてありがとう」と言うが、このセリフに象徴されるように、『この世界の片隅に』はすずが何かを見つけるのではなく、すずが「見つけられる」物語であると言うことができるだろう。
 ちなみに、この物語ですずを見つけるのは、周作だけではない。この物語の主要登場人物である水原哲と白木リンも、すずを見つける。すずが彼らを見つけるのではなく、すずが彼らに「見つけられる」のだ。海軍に入隊した幼馴染の哲は、すずが井戸水を汲んでいるところへ突然現れ、遊女のリンは、すずが迷子になって遊郭の片隅で途方に暮れてしゃがみこんでいるところへ現れる。
 すずを「見つけて」くれる周作と哲とリンには、共通点がある。それは、幼い時分にすずと出会っているということである。周作とすずは、広島で人さらいのバケモノの籠に入れらたときに出会っているし、哲とすずは同郷の幼馴染だし、リンとすずは、草津にあるすずの祖母の家で会っていることが仄めかされている。祖母の家に忍び込んできた身なりの貧しい子どもに、すずはスイカと着物をあげたことがあったのだが、その子がリンだったのだ。このように、大人になってすずを「見つけて」くれた人たちは皆、実は子どもの頃に出会っている人たちだったということが分かる。
 すずは閉じた世界に動かぬ足をもって立っている。立ち止まり、縁のある人たちが「見つけてくれる」のを待っている。すずの閉じた世界を打開してくれそうな、唯一の可能性をもつ、すずと周作が広島で出会って引き取った戦災孤児でさえも、すずが見つけたのではない。孤児の方が、死んだお母さんと同じく右手のないすずを見つけ、寄ってきたのである。自ら誰かを見つけることなく、ひたすら「見つけられる」ことで、すずの人生は動いていく。

 さて、最後にこのように問うてみよう。なぜすずは「足」を動かさないのか。常に「見つけられる」存在としてそこに止まっているのはなぜなのか。
「動かないこと」は、「動くこと」と表裏の関係にあるのとは少し違う。「動かないこと」は、「『動くことをしない』ということをしている」のだと言うことができる。だとすれば、常に「足」を動かさず「見つけられる」立場にまわるすずは、能動的にそれをしているのだとは言えまいか。能動的に動かず、能動的に「見つけられて」いるのだと。
 すずは能動的に受け身の側にまわっている。なぜか。それは、すずの世界から批判を排除するためではないか。人は能動的に起こされた行動に対しては批判の目を向けやすい。しかし、誰かに何かをされてこうなったという受け身の行為に対しては、批判をしにくいものである。そして、すずが「足」を動かさず、動かされるのを待っているという行為は、一見受け身の行為に思われるのだ。本当はそうではないにもかかわらず。つまり、すずは主体的/能動的に「足」を動かさず「見つけられる」受け身の存在となることで、自身に批判が向けられる可能性を排除している。そのようなすずの存在が、『この世界の片隅に』に批判を向けさせない不健全な構造を生んでいるのではないか。だとすれば、やはり、「足」を動かさない「見つけられる」ばかりのすずに、そのことを以て批判の目が向けられるべきであろう。

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