小説の〈他由〉度について--幽霊の、幽霊による、幽霊のための

 

 見慣れているためにそう思うのかもしれないが、地図上の日本列島は本当に美しい形をしている。理想的なふくらみをもった半島、アクセントのように点在する岬、複雑に入り組んだ、あるいは伸びやかな海岸線、その一々が美しく、またその複合体として美しい。だが、日本地図を眺めていて、ふと眩暈におそわれることがある。島国である日本は、海によって陸の形状を定められている。しかし、その海は、実際には常時揺れ動いている。潮の満ち干や、波によって。つまり、日本列島の形状は、常にゆらゆらと定まっていない。どの瞬間においても、どの地点においても。無論これは日本列島に限ったことではない。地球上のすべての陸地がそうだ。そう思って地球儀に目をやれば、すべての海岸線がチラチラと揺らぎはじめ、私は再び(多分あなたも)眩暈におそわれることになる。

 この眩暈をとめるためには、地図上に描かれる固定された海と陸の境界線を信頼し、それによって浮かび上がる世界の形をいま一度受け入れるほかない。私たちは眩暈を引き起こさないために、日々さまざまなところで、このように自ら境界線を定め世界を確立させながら生きている。このような行為を、自らの意思に由る〈自由〉の世界の確立と呼ぼう。一方、世界の形が自分たちの意思の及ばない海の揺らぎによって定められている(つまりは定まらない)との認識をもつことは、私たちの構築する〈自由〉の世界を脅かし、眩暈を誘発する。このようにふとした瞬間に束の間訪れる揺らめく世界を、ここでは、自らの意思に由らず他に由るという意味で〈他由〉の世界と呼ぶことにしよう。

 ひとつの小説を書く/読むことは--小説に限らず映画も演劇も音楽もすべてそうだが--、ひとつの〈自由〉の世界を構築することである。小説であれば、専ら言葉によってひとつの世界を形づくっていく。それは書く者にとっても、読む者にとってもそうだ。小説を書く者は、自らの言葉によって〈自由〉の世界を構築するのであるし、小説を読む者は、書かれた言葉を媒介にして、読む者の〈自由〉の世界を構築するのである。だが、言葉によって構築される〈自由〉の世界は、ペンで日本地図を描くほどにはその輪郭が確定的ではない。たとえば、湯本香樹実の『岸辺の旅』は、そのような輪郭の不確かさを思い知らされる小説である。

 

 

 小説『岸辺の旅』は、ある日突然姿を消した夫の優介が幽霊になって、3年振りに私(瑞希)のもとへ戻ってくるところからストーリーが始まる。優介の話によれば、彼は3年前に飛び込み自殺をし、死んでから瑞希のもとへ戻るまでの3年間、誰にも死者とは気づかれず、いろいろな場所で働きながら旅をしていたのだという。そうやって長い旅をする死者は少なくないそうだ。そうして優介が旅した場所を、今度は瑞希と一緒に巡っていく、幽霊と人間の旅物語である。

「幽霊」を如何に描出するかというのは、ある意味で小説の真髄である。三島由紀夫の『小説読本』の言を借りれば、小説には「幽霊を現実化するところの根源的な力が備わっていなければならない」からだ。小説というのは、物理的には存在しない世界を言葉で立ち上げる行為であり、そしてそれは現実を震撼させるほどの強度をもっていなければならず、三島はそのことを「幽霊の現実化」と呼んでいるのだが、死者の霊としての「幽霊」は、物理的には存在しないもののひとつの究極形であるからして、その世界をどう立ち上げるのかということは、小説にとっての一大事である。

 以下では、小説における「幽霊」の現れ方の特質について、小説『岸辺の旅』と黒沢清監督によって映画化された『岸辺の旅』を比較することにより、探っていきたい。

 映画『岸辺の旅』においては、幽霊の優介役も人間の役者(浅野忠信)が演じるため、特に冒頭部分では、優介が幽霊であることを印象づける演出が頻繁に入る。まず、優介が登場するシーンでは、暗闇にぼうっと浮かび上がるように現れる。そして、いつの間にか現れた優介が、室内なのに靴を履いたままであることから、彼が玄関から入って来たのではないことを示す。さらに、忽然と姿を消したり現したりという演出を繰り返すことで、優介が幽霊であるということを観る者に印象づけていく。また、映画では優介以外にも四人の幽霊が登場するのだが、いずれの人物も画面から突如いなくなるという消え方をするので、それによって彼らが幽霊であることが明白になる。

 以上のように映画においては、一見人間と区別のつかない人物が幽霊であることを視覚的に示す際、それはとりわけ現れ方と消え方によってアピールされる。これは『岸辺の旅』に限ったことではなく、幽霊の登場する映画すべてに共通する点である(アナログかデジタルかによって可能な演出方法は異なるものの)。人間のように動きながら現れたり消えたりするのではなく、画面上に突如現れたり消えたりすることで、私たちはそれが幽霊であると認識することができるのだ。

 一方、小説『岸辺の旅』においては、上に述べたような幽霊の現れ方や消え方に関する描写は一切ない。優介の登場シーンでは、ただ「ふと顔をあげると、配膳台の奥の薄暗がりに夫の優介が立っている」と書かれているだけである。これだけでは、優介が幽霊のように忽然と現れたのか、それとも玄関から入ってきたことに瑞希が気づかなかっただけなのか、判然としない。また、優介が突如消えるという描写は、小説中一度もなされない。では、読者はどうやって優介が幽霊であると分かるのか。

 視覚映像に頼れない小説に登場する「幽霊」は、現れ方や消え方でその存在を示すことはしない。映画のように、半透明で現れたり、パッと消えたりするという手は使えない。小説における「幽霊」は、ただそこに「いる」のだ。ただそこにいる幽霊を、さて、どう幽霊として描出するのか。それが問題である。

 たとえば、幽霊が数多く登場する柳田國男の『遠野物語』(これはいわゆる小説ではないが、三島由紀夫は、先に述べた「幽霊を現実化する」力が備わっている作品として、『遠野物語』こそは「正に小説」だとの評価を下している)を見てみれば、幽霊の描出の仕方にはいくつかのパターンがあることが分かる。ひとつは、すでに死んでいると分かっている、あるいは目の前に死体があるという状況下で、その死者が現れることで幽霊だと分かるパターンである(第22話、99話等)。もうひとつは、幽霊には飲食はできないという前提のもと、出したお茶が畳の間にこぼされていたことから、あれは幽霊だったのだと推測できるような、物的証拠を残すパターンである(第87話、88話等)。

 しかし、小説『岸辺の旅』では、幽霊を描出するいずれの手法も使えないような設定になっている。優介の死体は見つかっておらず、また彼が同僚や不倫相手や友人に自殺をほのめかしたという情報もなく、つまり、彼の生死は定かではないため、優介が突然現れたとしても、それが幽霊であるとの確証がないのである。さらに、優介は見た目も行動も全く普通の人間と変わらない。髭は伸びるし、ご飯も食べるのだ。そうすると、彼が幽霊であることの物理的な証拠を見つけることはもはや不可能である。

 では、優介を前にした瑞希や読者である私たちは、どうして彼が幽霊であると思えるのか。それは、優介が「俺の体は、とうに海の底で蟹に喰われてしまったんだよ」と言い、海に飛び込んだときの様子を「たしかに苦しくなかったんだ。痛いとか、息ができないとか、そういう我慢しなくちゃならない時間というのは、拍子抜けするくらい少なかったよ。でもその瞬間の『しまった』という感じは・・・・・・ほんの一瞬のことなんだが、とても強かった」などと語るからである。私たちは、優介の発言以外に、優介が幽霊であると言える根拠を何ももたない。私たちが彼を幽霊だと思うのは、彼の発言を信じるからである。

 優介の体は蟹に喰われてしまってないのだという突拍子もない発言には、却って真実味があり、それによって私たちは優介が幽霊であることを前提に小説を読み進めることができるのだが、しかし、優介が幽霊ではないかもしれないという可能性は、最後の最後まで拭い去ることはできない。読み進めながら常にもうひとつの可能性として、そのことが意識されてしまうのだ。優介が幽霊であるにしろないにしろ、瑞希が優介の幽霊だという主張を信じて一緒に旅へ出たという事実、そして瑞希が優介との別離を受け入れていくというストーリーには変わりない。だが、ある人物が幽霊であるかないかの決定が、最初から最後まで「自分は幽霊である」という当人の発言を信じるか信じないかにのみかかっているという状況は、次第に読者である私たちの現実世界を揺るがしはじめる。

 幽霊だと言う優介は、本当は幽霊ではないかもしれない。それだけではない。幽霊であるかないかを物理的に見分けることができないのであれば、人間だと思っている瑞希が幽霊だという可能性だってあるのだ。いや、瑞希だけではない。小説内のありとあらゆる人物について、生者/死者の反転可能性が生じ、小説世界全体が揺らぎはじめる。その揺らぎは、小説世界だけにとどまらないかもしれない。読書を少しく中断し、顔をあげて周囲を見回せば、そこに見えている人が幽霊ではなく人間だと信じられる根拠がどこにあるのか、甚だ心許ない気分になるのだ。自分自身についてだって、もはや幽霊でないとは言い切れまい。

 このように、映画においては視覚映像ではっきりと示されていた生者と死者の区別が、言葉のみに頼る小説世界においては、大きく揺らぎはじめるのだ。小説世界の各人物は、生者と死者の両方を同時に生きる。これは偏に、小説『岸辺の物語』が、幽霊の描出を物理的証拠に頼らず、幽霊の発言だけにその根拠を置いたがためである。

 小説は、幽霊を現実化させる。それだけではない。幽霊を人間に、人間を幽霊に、くるくると反転させていく。それは誰の意思によるのでもない。偏に「言葉」の力による。小説を書く/読む者は、もはや自分の意思で世界の輪郭を定めることはできない。小説が言葉によって構築した〈自由〉の世界は、他ならぬ自らの言葉によって〈他由〉の世界を内に呼び込み、ゆらゆらと揺らめきはじめるのだ。小説は、私たちに世界の〈他由〉度を見せつける。小説によって生み出された幽霊は、いまも其処彼処を徘徊している。

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