消えた男の話

 上の絵をよく見ると、林檎を見ている視点と、水差しを見ている視点と、テーブルクロスを見ている視点が、それぞれに異なっていることが分かる。ポール・セザンヌの油彩画「静物」(1899)である。セザンヌは、19世紀フランスのポスト印象派の画家として、不動の定点から世界を捉える透視図法の限界を示し、それを乗り越える画法を探求した。上のように一枚の絵を複数の視点から構成する描き方は、その一つである。
 透視図法によって描かれた絵と、この絵の、決定的な違いは何か。それは、複数の視点から一つの世界を構築する主体は、自己が分裂せざるを得ないということである。いや、むしろ逆であろう。主体としての自己が分裂しているからこそ、世界を一つの視点からではなく、複数の視点から構築せざるを得ないのだ。
 分裂する自己。そのことを問いつづけた作家がいる。セザンヌと同時代のフランスを生きた、フランツ・カフカである。彼の短編小説「断食芸人」(1924)は、セザンヌの絵と同様、異なる三つの視点から構築された世界である。

 

1. 均衡点から転落して、消えた男の話

「神の見えざる手」によって導かれる均衡は、不動点ではない。均衡点は常にあちらへこちらへ移ってゆくので、結局私たちは、サーカスのゾウよろしく、常に不安定な球の上で足を動かしつづけなければならない。それが出来ぬ者は、早々に舞台から退場するほかない。そうやって、日々多くの者や物が、この世界から消えてゆく。

 断食芸人は、断食を見世物にし、それを生業とする、町中の人気者であった。町の人々は、日に一度は断食芸人の様子を見に行かないと気が済まないほどで、中には、断食芸人の檻の前に何日も座り込んで見物する者までいた。大がかりな断食興行で、断食芸人はかなりの儲けを得ていたのだが、しかし、ある時を境に、めっきり観客が集まらなくなった。断食芸人がチヤホヤされている間に、世間の興味は徐々に移り行き、いつの間にか断食見物を嫌う風潮が出来上がっていたのだ。気付いたときにはもう手遅れだった。打つ手もなく、パートナーの興行師とも別れ、断食芸人はサーカスに雇われることになった。そこで断食芸人は、惨めな最期を迎える。断食芸人の檻は、サーカス場から見物用の動物小屋へつづく通路の途中に置かれ、ほとんど誰の目にも留まることがなかった。サーカスの親方にも存在を忘れ去られる中、密かな断食の最長記録の果てに命尽きるのである。
 このように「断食芸人」のあらすじを述べれば、移りゆく経済の均衡にうまく対応できなかった男の転落物語だと言うことができる。
 しかし、均衡点から転落することと、断食の果てに死ぬこととの間には、相当な飛躍がある。なぜなら、一度均衡点から転落したとしても、再び均衡点に戻ることは可能であるし、たとえそれが叶わなかったとしても、均衡点からの転落が即ち死を意味するわけではないからだ。いくらでも他の道はあったはずなのに、なぜ死なのか。
 均衡点からの転落と死との間には、また別のストーリーが流れている。そのストーリーを見つけるためには、第二の異なる視点からこの小説を眺めなければならない。

 

2. 0に収束する不均衡点に乗って、消えた男の話

 不均衡。アンバランス。それは、人々を不快にし、不安にさせる。人々はそれを解消したいと願う。しかし、不均衡に転落した者は、必ずしも均衡点に戻れるとは限らない。戻ることが絶対に不可能な領域に落ちてしまうこともある。たとえば、0に収束する点がそうだ。

 断食芸人は、常に一方的に見られる存在である。見物客に見られるのみならず、断食芸人が盗み食いしないよう監視する役目の番人からも、昼夜問わず見られている。一方的に見るばかりの見物人や番人と、一方的に見られるばかりの断食芸人。ここには、著しい視線の不均衡がある。
 一方的に見る者というのは、いつだって真に自分勝手な視線を投げつけてくるものである。見る者のつくり上げる断食芸人像と、断食芸人自身の描く自己像とは、当然のことながら食い違う。そしてその乖離の度合いは、徐々に大きくなってゆく。
 たとえば、番人の中には、断食芸人と言えど何か食糧を隠し持っているに違いないと決めつけ、彼らなりの親切心から、盗み食いをしやすいよう敢えてずぼらな監視しかしない者があった。断食芸人が彼らの疑惑を晴らす手立てはない。ここに、見る者のつくり上げる断食芸人像と、断食芸人自身の自己像との乖離が生まれる。
 あるいは、そのような疑惑を抱かぬ見物客たちも、また別の自分勝手な断食芸人像をつくり上げている。断食打ち上げの潮時は40日と定められているが(40日が断食の限界というわけではなく、40日を過ぎると客足が衰えてくるという経営上の理由による)、見物客たちは、断食打ち上げの時点で、断食芸人が極限状態に達していると信じ(興行師がそのように演出しているせいもある)、賞賛の眼差しを向ける。断食芸人の本当は余裕でもっとつづけられるのだという主張を信じてくれる者はない。ここでもまた、見る者のつくり上げる断食芸人像と、断食芸人本人の自己像との乖離が生じている。
 このように徐々に乖離が大きくなるものの、これでもまだ、世間が断食芸人に注目している間はよかった。人々のつくる断食芸人像と断食芸人の自己像とは、対等な対立関係を保つことができた。断食芸人には、人々のもつイメージに対抗するだけのエネルギーと自信があった。
 しかし、断食芸人が全くもって世間から注目されなくなると、状況は一変する。サーカス場の片隅のみすぼらしい小さな檻の中に追いやられ、来る日も来る日も人々の無関心な視線に晒される。ほとんど誰の関心も引き寄せない自分の姿を客観的に認識せざるを得ない状況の中で、自信に満ちた自己像を保ちつづけることは難しい。イメージを押し付けてくる人々との対立によって生み出されていた自己像は、その人々の存在を失うと同時に精気を失い、断食芸人の自己像はみるみるしぼんでゆく。
 著しい視線の不均衡がある世界。一方的に見る者と、一方的に見られる者の世界。そこで一方的な視線に晒され、イメージを押し付けられる者は、世界から自己を徐々に乖離させてゆく。そうして世界から引き離された自己は、どんどん小さくなって、やがて消滅する。
 しかし、世界から自己が乖離することと、世界から乖離した自己が消滅することとの間には、幾分かの飛躍がある。なぜなら、世界から乖離した自己が逆に肥大化することだって、十分にあり得るからだ。それなのに、断食芸人が自己を消滅させる方向へ向かったのは、なぜなのか。
 世界から自己が乖離することと、自己が消滅することとの間には、また別のストーリーが流れている。そのストーリーを見つけるためには、第三の異なる視点からこの小説を眺めなければならない。

 

3. 鏡の中の像とともに、消えた男の話

 断食見物に対する世間の関心が失われ、居場所をなくした断食芸人は、サーカス場の動物小屋の片隅で、動物以下の待遇を受ける。サーカスの休憩時間に、動物小屋を見物しようと押し寄せてくる観客たちは、通路の途中にある断食芸人の檻になど目もくれない。有り体に言って、断食芸人は「動物小屋へ行く道の障害物にすぎない」存在と化している。動物以下の邪魔者、虫けらである。虫けらでありながら、依然として断食はつづけている。人気者の断食芸人から、断食する虫けらへ。
 ところで、この構図は、カフカの小説『変身』にも同様に見られるものである。異常なほどの情熱を燃やして働き、しがない販売職から営業職へと昇進したグレゴールは、ある朝突然虫になってしまう。虫になってからの彼は、家族から疎まれ邪険に扱われる。そして、食べ物に対する興味を失い、以前は大好物だったものも悉く不味く感じられるようになり、徐々に食欲も衰えていって、「こんなものは食べたくないね」「ぼくは食べずにくたばっていくんだ!」という独り言の宣言どおり、最後はガリガリに痩せ細って死んでしまう。
 一方の断食芸人も、サーカス場の片隅の檻の中で死ぬ間際に、ここまで断食に固執しつづける本当の理由を、サーカスの親方に明かしている。それは、「美味いと思う食べ物が見つからなかったから」だと言う。それゆえ断食をし、死に至るまでつづけたのである。
 断食芸人もグレゴールも、人々から動物以下の虫けら同然の扱いを受け、この人間世界で命をつなぐために必要な食べ物を、美味しいと感じることができない。それゆえの断食で、自ら命を消してゆく。断食芸人にとってグレゴールは、まるで鏡の中に映る自己像のようである。(あるいは、その逆かもしれない。)

 グレゴールを鏡の中の断食芸人像と見ることによって、断食芸人は、一つの救いを得るだろう。それは、視線の不均衡に苦しめられた断食芸人が、ついに「視線の均衡」を手に入れるということである。
 著しい視線の不均衡がある世界にいながら、視線の均衡を獲得する唯一の方法——それは鏡の中の像を見ることである。鏡の中の自己像を見る自己は、同時に、鏡の中の自己像に見られる。その視線の交換は、どこまでも均等である。そして、鏡の中の自己像と現実の自己の動きは、完全に同期している。自分が動けば鏡の中の像も動き、鏡の中の像が止まるときは、自分も止まる。鏡の中の像が食べぬのなら、決して自分も食べることはない。そうやって断食芸人は、鏡の中のグレゴールとともに、消えていったのではないか。

文字数:3883

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