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アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―

はじめに

 みなさん、健康になりたいですか?
 なりたい! と元気よく答えたあなた、はっきりしていていいですね。
 健康になんてなりたくない、と答えたへそ曲がりのあなた、あなたはきっといつの日か、苦痛にもだえながら救急車で病院に運ばれたとき、心から健康でありたいと願うことになります。そのあとでまたお会いしましょう。

 さて、なんと答えていいかわからなかったあなた。うまく答えられなかったあなた。
 この文章は、あなたのために書かれています。うまく答えられないのは当然です。だって、健康っていったいなんなんでしょう。本当はまず、それを考えることから始めねばなりません。

 何千年ものあいだ、人間はそれについて考えつづけてきました。もっともらしい答えもたくさん出ています。しかしそれは社会と思想と技術によって、時々刻々と変わっていくのです。我々の時代には、我々のための健康が必要です。それは「なる」ものでしょうか。「ある」ものでしょうか。それとも「つくる」もの、「手に入れる」ものでしょうか。もしかしたら「させられる」もの、かもしれません。

 私は内科医です。生活習慣病領域を専門としています。私の仕事のほとんどは、人々が病気を予防し、健康に長生きするにはどうすればいいかを考えることです。しかしだからこそ、健康とはなにかを考えるには、私は病院の外へ出て、批評という世界に足を踏み入れなければなりませんでした。新しい考え方を時代の最先端でつかまえるのは、いつも科学ではなく芸術と思想だからです。

 

 もう10年も前のことになりますが、『ハーモニー』という健康についてのSF小説が話題になりました。21世紀後半、科学と福祉がかつてないほど肥大化した社会の話です。身体の恒常的モニタリングシステム「WatchMe」、迅速な投薬システム「メディケア」、そして未来の疾病をも予防するために生活パターンを提案する「ライフデザイナー」、この三位一体によって、老い以外のいかなる不健康とも縁がなくなった医療のユートピアの話です。もちろん酒や煙草、その他あらゆる放蕩は倫理に反するものとされ、摂取すれば「社会評価点」を失います。

 しかし、この高度なシステムをもってしても、社会性を無視して放蕩に走る人々を止めることはできません。そこで小説のラストでは、人間みんなが健康に生きるために、つまり余計なものを食べたり飲んだり、自殺したり争ったりしないように、人間が意識を並列化されてロボットのようになってしまう様子が描かれていました。

 たとえばこういう芸術作品を批評する、というやり方によってしか、我々は我々の時代の健康について考えることはできないのではないか、という気がします。芸術は、批評に先行して我々に問いをなげかけます。そして批評は、テクノロジーに先手を打ってそれに応えねばなりません。

 『ハーモニー』からさらに遡ること約20年、遺伝子の優劣で社会的地位が決まってしまう近未来を描いた『ガタカ』というSF映画もありました。90年代、まさに人類にとって可能な技術になりつつあった遺伝子操作やクローニング[i]。その衝撃をどのように受け止めるべきか考えながら撮られたのであろう『ガタカ』は、名作として繰り返し批評され、そうするうちに我々は、少しずつ新しい技術に対するモノの見方を作り上げてきたのではなかったか、と思います。人間の発達には遺伝素因よりも、環境因子のほうが強く関与する、遺伝が人生のすべてを決めるわけではない——遺伝、という点だけに注目してみれば『ガタカ』はそういう話でした。そして今日我々は、いつのまにか、そのことをすでによく「知って」います。

 『ハーモニー』についてはどうでしょうか。『ハーモニー』が問うたことは、2020年代にはもう自明の話になっているでしょうか。そうなるかどうかは、10年代の我々にかかっているように思われます。そしてごく個人的な意見ですが、我々は2017年になってようやく、『ハーモニー』を批評するための道具を手に入れたのではないか、という気がするのです。

 

 『ハーモニー』に登場するような身体のモニタリング技術は、日々進歩し実現されています。そのひとつの到達点が、日本では2017年に発売された持続型血糖モニタリングデバイス「Free style Libre」、通称「リブレ」というものです(詳しくは後ほど)。人はかつて想像することすらできなかった身体の揺らぎを「ごはんを食べたら10分後から血糖値が緩やかに上昇し、30分でピークを越えて降下に転じた」という具合に、24時間絶え間なく、連続的に監視できるようになりました。一部のユーザーはまるでゲームのように、これを食べたらこのくらい血糖値が上がる、このくらい歩くと血糖値がいくら下がる、と試行錯誤し、自分の身体の恒常性を理解するようにさえなっています。

 こうした技術の登場は、我々がWatchMeの実現にむかってすでに歩き始めていることを意味しているし、逆に言えばようやくWatchMeのある世界がどういうものか、すこしずつ想像できるようになってきたということでもあります。

 他方、我々が健康になるためには、意識を奪われなくてはならないのだろうか、というのも重要な問題です。むやみに美味しいものを食べすぎたり、お酒を飲みすぎたり、煙草を吸ったりすることは「不健康」な行為だと考えられています。そういう行為がどのようにして生まれるのか、そしてそれを防ぐためには、本当に意識そのものを奪わなくてはいけないのだろうか、そもそもどうして防がなくてはならないのだろうか、ということを、我々はきちんと考えなければならない。

 『ハーモニー』の作者は、人間の意識が奪われるラストについて、インタビューでこう答えています。

ある種のハッピーエンドであるとは思うんですけど、はたして本当にそれでよかったのか、っていう思いもあります。そのほかに言葉が見つからなかったのか。さっきの言葉でいうと、「その先の言葉」を探していたんですけど、やはり今回は見つかりませんでした、っていうある種の敗北宣言みたいなものでもあるわけで。[ii]

 それから10年後、10年代の我々は、はたして「その先の言葉」をもっているのでしょうか。

 

 さて10年代、この問題について考えるための道具を携えて颯爽と現れ、一躍時の人となった哲学者がいます。『暇と退屈の倫理学』(2011)、『中動態の世界』(2017)といった著書で知られる、國分功一郎です。意外なことかもしれませんが、私の見立てが正しければ國分は「食べる」ことについて考え続けている哲学者であり、一方で「健康」については訝しがってもいる哲学者です。健康を考えるうえで「食べる」ことの問題は避けて通れません。我々はなぜ「食べる」のか、どのように「食べる」のか。そしてそこに、意識はどのようにかかわるのか。そういうことを、我々は國分の登場によってはじめて考えられるようになった、といっても過言ではないように思います。

 『ハーモニー』、「free style Libre」、そして國分功一郎。このやや突拍子もない三者の接続が医療と健康の見方をひらき、そして三者それぞれへの理解をも深めていくように思われます。これが、この文章の行き先です。

 

ユートピアとしての『ハーモニー』

 『ハーモニー』(2008)はSF作家、伊藤計劃の、結果としては最後に書かれた長編にあたります。

伊藤は本作を書いていた頃、すでに末期まで進行した肺癌を患っていました。病床で化学療法と放射線療法をくりかえしながら、時に朦朧とした頭で書きつづけたといいます。同時期のブログ記事には、人が生きることと死ぬことについての当事者的な考察が、頻繁に顔をのぞかせます。当時の伊藤が感じていた「健康」の価値は、いまだ健康な読み手には計り知れないように思われます。

 『ハーモニー』は、人々がかつてないほど「健康」に価値を感じるようになった世界の話です。2019年(我々にとっては来年のことです)に起こった世界戦争と、未知のウィルスによるバイオハザード、通称「大災禍」を経験した世代の人たちは、気を抜けばいつ人類が「癌やウィルスに制圧される」[iii]かわからない、という恐怖を抱いて生きています。こうした背景から発達したのは、構成員の健康保全を唯一最大の責務とする「生命主義」的統治機構、「生府」でした。

生命至上主義(英:)Lifism。(中略)二十世紀に登場した福祉社会を原型とする。より具体的な局面においては、成人に対する十分にネットワークされた恒常的健康監視システムへの組み込み、安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取および生活パターンに関する提供、その三点を基本セットとするライフスタイルを、人間の尊厳にとって最低限の条件と見なす考え方。[iv]

 これらの思想が実装されたのが、冒頭でも紹介した「WatchMe」「メディケア」「ライフデザイナー」の三位一体というわけです。そしてこれらの結果、どのくらい健康を保っているか、という評価が「社会評価点」という形でフィードバックされるのも重要なポイントです。Aさんは86点、☆4つ、Bさんは36点、☆2つ、という具合に、その「健康」ぶりをレーティングしたものがシステムからフィードバックされ、常に拡張現実で表示されることにより、各人が競って「健康」を保つようになります。

 遠い未来の話のようですが、我々のよく知る言葉でいえば、WatchMeとはつまり「診断」のことであり、メディケアは「治療」であり、ライフデザイナーは「予防」にあたります。さすがに社会評価点が赤の他人に公開されることは我々の社会ではありませんが、たとえば会社の健康診断に引っかかって病院を受診させられているBさんを憐みの眼で見てしまう、というのはこれとほとんど同じことです。

 これらのシステムによって、あらゆる病は未然に防がれ、身体の恒常性は極めて幅の狭いゆらぎの中で保たれる…というこのコンセプトは、基本的に今日の医療のそれとなんら変わらず、精度と速度が格段に上がっただけの話です。つまり『ハーモニー』の世界は、今日の医療にとってユートピアでしかないという事実を、まずはご理解いただきたいと思います。

 

 余談になりますが、2017年の日本糖尿病学会で30あったシンポジウムのうち1つだけ、情報技術を扱ったものがありました。情報技術の臨床応用はすでにさまざまな文脈で論じられていますが、そこでは生活習慣病診療の問題を解決する例として、スマートフォンの普及によって患者行動の把握が容易になった、という話題がありました。スマートフォンで食事の写真をとればアプリで推定カロリーが表示され、ウェアラブル端末を使えばどれくらい運動していたかがわかる時代です。治療者はそのデータを見ながら、ひとりひとりのユーザーがどのように療養を工夫できるかを、より生活に寄りそった形でアドバイスすることができます。

 患者の治療行動や身体の変化に治療者がアクセスできることは、皮肉でもなんでもなく、よりよい治療関係の礎となります。従来は対話によるしかなかったその関係構築は、すでにテクノロジーによって高解像度化されつつあります。そしておそらく、「WatchMe」はその極限にあります。

 とはいえこうやってプライベートを切り取って差し出すかのようなテクノロジーに、管理社会の影を見出す向きもありましょう。そして『ハーモニー』の前景化されたテーマは、ひとつにはこの問題でした。生命主義とはつまり、管理社会と医学の理想のマリアージュだというわけです。しかし考えてみれば、健康維持をほとんど外注に出し、食べるものすら決められて自らが不健康になること許されない『ハーモニー』の市民の姿は、すでに今日我々が毎日体重計に乗り、食事の写真を撮り、テレビやインターネットの情報を頼りにせっせと健康管理に勤しむ姿とも、ほとんど重なり合うように思われます。

 さて、このような権力のありかたを転覆させようとたくらんだのが、すべての黒幕として『ハーモニー』に登場するテロリスト、御冷ミァハ(みひえ みあは)でした。

 若き日のミァハは、生体を監視しつづける「WatchMe」が「人間の体を言葉に還元してしまう」「ありとあらゆる身体的状態を医学の言葉にして、生府の慈愛に満ちた評議員に明け渡してしまう」[v]と嫌悪します。のちにアニメ映画化されたときには、よりわかりやすく「数値化されてしまう」というセリフも加わっていました。いずれも自分の身体が、第三者の尺度によって要素へと分解され、解釈されることが我慢ならない、という反感です。そしてそのように身体を解釈されつづけていることは、「世界に自分を人質として晒している」[vi]ことに他ならないとも言うのです。

 ミァハはまた、「権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部」[vii]とも言います。あのミシェル・フーコーが「生権力」「バイオポリティクス」などと呼んだ問題です。古来より暴力と死をちらつかせて民を治めていた権力は、フランス革命と市民社会の成立以降、リソースとしての市民を健康に生かし、その労働力を最大化することに注力するようになっています。市民の身体はもはや社会資源として、市民が自由にできる領域を離れ、権力に管理されるようになります。

 『ハーモニー』ではこのアイデアを、よりあからさまに「公共的身体」などと呼んでいます。こう呼んでしまうと極端なアイデアのようですが、市民の身体がだれのものか、という問題自体はすでに我々の世界でも切実なものとなっています。90年代~00年代、臓器移植が社会に実装されたころの議論はまさにそうでした。「脳死」した身体では脳機能が停止し回復の見込みはないけれども、臓器は瑞々しく保たれている、その臓器は社会のために提供すべきではないのか…という議論は、当時はグロテスクに思われたものです。

 

 『ハーモニー』は、ひとまずはこうした問題系の収束点として書かれており、若き日のミァハはこれらがその極限において実装された社会のありかたに文句を言っているわけです。自分の身体の主権は自分が握っている、という信念のもと、彼女は生命主義社会へのテロと称して、何度も自殺を試みたりしています。

 ただし、これらは2018年の我々にとってある程度「終わった」議論でもあります。1997年に成立した臓器移植法は2009年に最終改定されたきり、2018年現在までかわらず運用されています。西洋科学による身体の対象化や、生権力の問題などはさらに古く、今日までにくりかえし指摘されてもきた問題です。だからこそ、若き日のミァハの自殺未遂はどこか青い、子供じみた反抗にも映ります。

 しかしミァハは、最後の自殺の失敗をへて思想的に転回します。『ハーモニー』の真価はここからです。既知の問題系からなる世界設計の精巧さも作品の大きな魅力ですが、読者はむしろ、それをいかに壊すかというこのテロリストの思想にこそ注目せねばなりません。

 生命主義社会の完成系は、誰ひとり勝手な行動をしないように人間を管理してしまうことだ、と権力者たちは考えました。彼等は「大災禍」のような混乱の再来に備えて、WatchMeのバックドアを利用し、いざというときに市民の意志を統率制御するための技術「ハーモニー・プログラム」を仕込んでいました。意志を制御されてしまった市民は、自らに固有の意識を失い、ロボットのように並列化されて、迷うことなく「健康」な生活を送るようになる、というコンセプトです。しかしそれでは人間としてあんまりなので、これはあくまでも「備え」にすぎず、実際に行使されることは想定されていませんでした。

 しかし奇妙なことに、身体の主権を取り戻そうとしていたはずのミァハが最後にたどりついた答えもまた「人間の意志を制御し、意識を奪う」というものでした。転回したミァハは「ハーモニー・プログラム」の存在を知り、これを起動させるべきだと考えます。ミァハは人類が久しく経験していなかった暴動をあおり、権力者たちをふたたび恐怖に陥れることによって「ハーモニー・プログラム」の実行ボタンを押させることに成功します。はたして人類は意識を失い、完璧に「健康」な生活を手に入れるのです。

 ミァハの目的が、人類みなが「健康」になることであればともかく、身体の主権を取り戻すことにあったのだとしたら、意志を制御され固有の意識を失うことはその目的と明らかに逆行します。これはいったい、どういうことでしょうか。

 

「食べる」で読み解く國分功一郎

 さて、ここに『ハーモニー』より少し遅れて、御冷ミァハと同じ道を歩んでいた人がいます。國分功一郎です。

 私の見立てが正しければ、國分はミァハとおなじ問題系を扱い、おなじように壁に行き当たって転回をした思想家です。ただし、その行き着いた先はミァハとは違っていました。

 2011年に出版された『暇と退屈の倫理学』(以下『暇倫』)は、國分いわく「よく噛んで食べる」「味わって食べる」ことについて書かれた本です。定住以降の人類は、遊牧のように新しい刺激を受けつづけることができないがゆえに、宿命的な問題として「退屈」を抱えています。この問題を解決するためには、必要十分を超えた余剰の営みをもつこと、そしてあらゆる営みにおいて「きちんとモノを享受し、楽しむ」ことが必要だ、というのが『暇倫』のたどり着く結論です。よく噛んで、ゆっくり味わって、食べていることの享楽を感じながら食べることで、我々は退屈を免れることができるというわけです。

 しかしそれから6年後、2017年に出版された『中動態の世界』(以下『中動態』)では、いかに「味わって食べる」かという方法の追求よりもむしろ、どのようにして「食べる」に至るのか、という行為生成の過程に焦点が当たっています。

 あらゆる行為にはその端緒となる意志が存在する、というのが、従来の西洋哲学的な理解です。ここには自ら意志をもって能動的に「する」か、意志をもった他者から受動的に「される」かしかありません。しかし、この意志というアイデアの成立過程で能動態/受動態の影に抑圧されてきた「中動態」を掘り起こすとき、我々は結果として自ら行為していながらも、その過程に様々な要因が外在するようにも感じている自分自身を発見します。意志とは、その結果として選びとられた行為の責任を帰属させるために、事後的に想定されるにすぎないというのです。

 我々がなにかを「食べる」とき、あるいはなにをどのように「食べる」かを選ぶとき、それが自分の強い意志においてのみ選択され為されたのだ、とはとてもいいがたい局面があります。そう、たとえば仕事が終わった夜遅い帰り道、我々の「腹減った」という内的な衝動は、まだ煌々と灯りのついているラーメン屋という外的な刺激と結びついて、初めて「ラーメン食べようか」という具体的な行為の形をとります。のみならず、そのとき我々の脳裏を「健康」の文字がよぎれば「うーん、やっぱりとなりの定食屋にしようか」とあっさり変わってしまうことだってあります。

 中動態の世界で「食べる」を分解すると、実はこんなにも複雑です。したがって、私が結果としてラーメンを食べたとしても、それは私が初めからラーメンを食べるという強固な意志をもっていたことを必ずしも意味しません。「食べる」ことは個体に内的する衝動(なにを食べたいか)だけではなく、外にある様々なモノや環境の制約(なにを食べられるか)、価値基準(なにを食べるべきか)によっても織り上げられる、極めて複雑なプロセスの結果なのです。

 國分自身がそう言ったわけではありませんが、こうして「食べる」という例えで並べてみると國分の転回がよくわかります。『暇倫』が「味わって食べる」ことについての本だとしたら、『中動態』は「食べるものを選ぶ」ことについての本だと言ってよいでしょう。そしてこの例えにおいて大胆に要約すれば、國分がスピノザを紐解きながらたどり着いた処方箋とは、「食べる」まえに「ちょっとまてよ、俺はほんとうにラーメンなんて食べたいのか? たまたまラーメン屋のまえを通ったから食べたいような気がしただけじゃないのか? 俺はラーメンを食べさせられているんじゃないのか?」という具合に立ち止まってよく考えてみる、というものでした。

 哲学者の大澤真幸は國分との対談のなかで、このような中動的な行為生成の主体を楕円に例えています[viii]。楕円のふたつの中心のうち、ひとつは私、そしてもうひとつの中心は、他者というわけではないが私とも言い切れないいわば「他者以前の他者」だと大澤は言います。そして、たとえば我々が「書く」とき、「書こうとしている」だけでも「書かされている」だけでもだめで、「書かされてる感と書こうとしている感が見事にブレンドされたときに最高のものになる」ということが確かに起こっています。主体は二人に分裂し、そして二人の相互作用によって行為するというわけです。「これを食べたい」私と「これを食べるべき」もう一人の私、「食べる」私と「食べさせられている」もう一人の私。二人の「私」は同じ楕円の内にあり、これをすりあわせるようにして、我々は「食べるものを選ぶ」のです。

 

「食べる」こととその禁止

 しかし國分はは、なぜこのように問いの矛先を変えなければならなかったのでしょうか。『暇倫』の続きをやるのであれば、我々がいかに味わうか、ということについて、さらに考えを深めてもよかったのではないでしょうか。

 この転回のよく知られたひとつの理由として、薬物・アルコールの依存症というテーマとの出会いがあります。当事者研究で有名となった小児科医の熊谷晋一郎や発達障害患者の綾屋紗月、依存症患者をサポートする施設「ダルク」の人々との出会いです。意志や責任を問い直す『中動態』の出発点には、意志の弱さと理解されがちな依存症の問題があります。我々はまさに『ハーモニー』の生命主義社会においてもっとも嫌悪されるところの嗜癖行動が『中動態』の主題でもあった、というところに、まずは両者の明らかな接点を見出すこができます。

 依存症とは、やめなければいけないのに薬物・アルコールの摂取をやめられないことを指します。話を簡単にするためにまたしても「食べる」の例を出すならば、これは生活習慣病・肥満の患者が、それ以上食べる必要がない(とされている)のに食べることをやめられない、という問題に相当します。平たくいえば「ついつい食べちゃう」というこの問題を扱うためには当然、我々がいかにして「食べる」に至るのかを考えなければなりません。「お前が食べすぎたんだろ!」と責任を問いつめることよりも、「どうして食べてしまうんでしょう」と考えることの方が、治療においてはずっと大切なのです。

 そして実際のところ、この問題は常に「味わって食べる」問題より先行して存在しています。

 

 國分がこの事実に気がついていたことを、克明に記録している論考があります。

 『ユリイカ』の2011年9月号、B級グルメ特集に『インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード』という短い論考が掲載されています。『暇倫』の初版が2011年10月なので、『暇倫』がだいたい書きあがるころか、書きあがった後で書かれた文章ということになります。

 巷ではよくファストフード/スローフードという対比が用いられます。しかしこのファスト/スローという対立軸は、食の本質をとらえていないと國分は指摘します。ファスト/スローとは実は食べるのに所要する時間のことで、つまりは結果に過ぎない、それではそもそも食べる時間の違いを生む差異とはなにかというと、それは食べ物に含まれる情報量である、というのです。

 「質の悪いハンバーガーはケチャップと牛脂の味しかしない」のに対し、「味わうに値する」ハンバーグは絶妙な比率の合い挽き肉、甘みを引き出されたタマネギ、そして肉汁を保持するためのつなぎ、その香り、盛り付け、等々によって複雑に構成され、膨大な情報量を持っています。当然、前者はすばやく食べることができ、後者はじっくり味わわないと食べられません[ix]。この情報量の多寡をもって、インフォプア/インフォリッチという対立軸を立てるの本質的なのだ…というのが本稿の論旨なのですが、ここでは「味わうに値する」というフレーズに注目したいと思います。

 この「味わうに値する」か否かという価値基準は、そう意図されたかどうかは別として「味わって食べる」という『暇倫』の処方箋の限界を自ずから示していることになります。もし「食べる」のが質の悪い「ハンバーガー」なら、時間をかけてよく噛んで味わったってなんの意味もないじゃないか、というわけです。当然、次に考えるべきはどうやって「味わうに値する」ハンバーグにたどり着くのかということ、つまりきちんと「食べるものを選ぶ」ことをおいて他にありません。この意味で『暇倫』から『中動態』への転回には必然性があります。

 

 しかしもうひとつ、のちの転回を示唆していたのが2012年に書かれた『生存の外部——嗜好品と豊かさ』という論考です。

同じく『暇倫』の問題系を引き継ぐかたちで書かれたこの論考は、ハンバーグからもう一歩進んで、まさしく「味わう」ことのみに存在意義のある「嗜好品」という存在に注目します。「生存に関係ない、生存の外部にある、純粋に楽しむためだけのモノ」である煙草やアルコールの摂取について考えることは、退屈の問題を扱ううえで革命的な意義がある、というのです。そのうえで國分は、次のように批判します。

もちろん「健康」を一概に否定するつもりはない。別に誰もがタバコを吸ったり、酒を飲んだりする必要もない。しかしここには、楽しむということに対する、社会からのぼんやりとした禁止が現れているような気がしてならない。[x]

 我々はここで、國分の姿を若き日のミァハと重ね合わせずにはいられません。二人の思想家が立ち向かおうとした相手は、ほとんど同じ姿をしています。得体のしれない「健康」なるものにぼんやりと禁止されて、嗜癖行動を差し控えること。食べたいものを「食べる」のをやめること。そのとき「食べる」主体として名指される患者/市民、そして、その主体の意志を標的化する、医学と政治によって織りなされる権力…。國分もまた、意志へと向かう道中で「健康」について考えていたのです。

 しかし、「健康」と意志について考えた末に行き着く先が「ハーモニー・プログラム」と『中動態』ではずいぶん違います。前者は意志が存在することを前提とし、標的化し、そのうえで無効化する試みです。後者は意志というアイデア自体を相対化し、それにより自由に近づく試みです。二人の道はどこで分かれているのでしょうか。そしてそもそも、二人が問題視したこの「健康」とは、いったいなんなのでしょうか。

 

身体に「アクセス」する

「健康」、この古くて新しい問題をあつかう手始めに、今日の最先端のテクノロジーについてお話したいと思います。

 2017年、我々の世界でもウェアラブルから「WatchMe」へと至るテクノロジーの道筋がひとつの結節点を迎えました。冒頭で話題にした持続型血糖モニタリングデバイス「Free style Libre」、通称「リブレ」の登場です。仰々しい名前ですが、ようするに血糖値を測るための機械です。しかしその仕組みは従来のものとは大きく異なっており、それゆえに歴史的な意味を持っています。

 少しだけ、医学の話にお付き合いください。糖尿病においてもっとも重要な治療指標は「血糖値」、つまり血液中のグルコース濃度です。食べたものが分解され、糖として吸収され、血流にのったものが血糖です。このプロセスが、血糖値が上がるということです。この糖はインスリンというホルモンの作用によって細胞内に取り込まれ、エネルギーとして利用されます。この時、血糖値は下がるというわけです。

 血糖値が高いこと、とりわけ急激な上昇低下を繰り返すことは、血管にダメージを与える原因となり、将来的な合併症(腎臓や眼、神経、その他血管の通っているあらゆる臓器がダメになること)のリスクとなります。食事、運動、その他さまざまな要因で変動するこの血糖値を、食事療法、運動療法、そして薬によって一定のレンジのうちに保つ、というのが糖尿病治療のコンセプトです。

 さて、これまで血糖値は、血液そのものを解析することによってしか測定できませんでした。ということは、血糖値を知るためには毎回血液を採取しなければなりません。血糖値だけでなく、およそ血液検査ではかるような生体情報にはそういう制約があります。しかし考えてみれば、日頃なにげなくやっている血圧測定や体重測定にだって、似たような制約があるのです。我々は血圧計を使えばいつでも血圧を測ることができるわけですが、ずっと血圧計を巻いて過ごすわけにはいきません。

 ほかならぬ自分の身体のことだったはずなのに、我々はそのたびごとに機械に頼らなければ、その生体情報にアクセスすることができません。不思議です。この問題を、ここでは仮に「身体へのアクセス性」と呼ぶことにしましょう。

 リブレの革新的な点は、この「身体へのアクセス性」を劇的に向上させてしまったことにあります。リブレはスマートフォンよりやや小さいくらいの読み取り機と、マカロンくらいの大きさのセンサーとがセットになったデバイスです。センサーのついたパッチを腕に貼ると、皮下組織のなかでグルコース濃度を感知してくれます。そのパッチに読み取り機をかざせば、リアルタイムで「現在の血糖値:98 mg/dl」という具合に表示してくれるというわけです。

 そしてセンサーは読み取り機をあてていない間も、常に血糖値を記録しつづけます。したがって読み取り機には、最終の血糖測定から現在に至るまでの血糖推移が、曲線グラフで表示されることになります。

 このとき身体にアクセスするためのコストは、ほとんどゼロに近づいています。そしてコストの低減は、アクセス頻度の増加につながります。生体情報は時間軸上の散発的な点から、長さを持った線の情報へと変わります。つまり自分の身体を、高解像度で知覚できるようになるということです。ユーザーは食事をしながら、運動をしながら、くりかえし血糖をはかりその変動をリアルタイムで知覚することができます。慣れてくれば、どのようなものを食べたらどのくらい血糖があがるのか、といった自分の身体に起こる反応を、あらかじめ予測することができるようにもなるのです。

 

00年代、新しい「健康」

 しかし、実際にこのようなテクノロジーの実現を目の当たりにしてみると、我々は不思議な感慨を覚えます。いったいこれまで人類は、自分の身体にすらアクセスすることができないで、どうやって何万年も生きてきたのでしょうか。結論から言えば、人類が従来の意味において健康であるためには、それほど頻回で高解像度のアクセスを必要としなかった、ということになるでしょう。

 古典的な意味での健康とは、端的にいえば「病気ではないこと」でした。健康そのものを「これ」と指し示すことはできない、つまり否定形によってしか言及しえない、という理解です。逆に言えば、自覚的なレベルでは「私は病気でない」と感じられているとき、つまり痛みも、苦しさも感じないときには、身体の内部で何が起こっていようと「私は健康である」と言ってしまうことができただろうと思います(そして少なからぬ患者は今日でも、診察室で同じことを口にします)。つまり身体感覚によるフィードバックが、健康か否かを判断するのに重要な位置を占めていたわけです。

 この健康という概念は、19世紀に生理学者クロード・ベルナールが「恒常性(ホメオスタシス)」の概念を発見したことで「一定の範囲に保たれていること」という理解へと精緻化されました。恒常性とは、さまざまな外部環境、あるいは内部環境の変化に対して、身体が反応して一定のバランスをとろうとする働きのことです。寒いところで体温が下がりそうになればこれを上げるように働き、運動して体温が上がればこれを下げるために汗をかく、という具合です。先の血糖値についても同様で、上がってくればインスリンが分泌され、下がってくれば貯えていた糖が血中に放出されます。こうしてバランスが保たれていることが健康、というわけです。

 このあたりから、自覚された健康と実際の健康とのあいだには明らかな乖離が生じ始めています。つまり、苦痛はないが、一定の範囲に保たれてもいないので健康でもない、という事態が起こりうることになります。自身が健康であるかどうかを知るためには、医療者の診察や機械を使った検査に頼らなければなりません。

 この解離を決定的にしたのは、ごく最近になって導入された「生活習慣病」の概念ではなかったかと思います。

高血圧症、糖尿病、脂質異常症といった病は、よほど進行するまでそれ自体が苦痛を与えることはありませんが、将来的には心臓病、癌、脳卒中といったさまざまな病の原因となるがゆえに「不健康」です。かつて心臓病、癌、脳卒中は「三大成人病」と呼ばれ、つまりは加齢という不可避のものによって名指されていたわけですが、その素地となる病が生活習慣という制御可能な要素によって呼びなおされたことによって、「食べる」というごく日常的な行為すらも「健康」の問題系に組み入れられてしまいました。

 行政レベルで「生活習慣病」という呼称が正式に採用されたのは1996年のことで[xi]、この文脈で2008年に打ち出された予防的な集団アプローチの方法が、腹囲測定で議論を呼んだあの悪名高き「メタボ検診」です[xii]

 腹囲の測定が医学的に妥当であるかどうかはさておくとして、このパラダイムシフトは「健康」の概念を完全に書き換えました。太っていることはいまや「健康」の枠外にあるのです。血糖値が大きく上がったとしてもその後下がれば、いま・ここの恒常性は一応たもたれていることになるでしょう。つまりは健康です。しかし新しい「健康」においては、そのような血糖上昇が起こること、あるいは起こりうる可能性それ自体が問題視されます。あえて極端な言い方をすれば、血糖値を急激に上げるようなものを「食べる」こと自体が、あるいは過剰に「食べる」ことによって太ること自体が、いまや「健康」ではないということなのです。今日の新しい「健康」は、人類史上もっとも狭小化されたレンジを指しています。

 『ハーモニー』が書かれたのはまさにこの00年代においてであり、國分は10年代にその議論を引き継いでいるのだ、という点を前提として理解する必要があります。彼等が訝しがっている「健康」とはベルナール以来のそれではなく、いま・ここにある身体の内的な恒常性維持から解離したところで、医学・政治・経済により合意形成された、外的な、未来志向的な、社会的な、価値基準なのです。

 そのうえで、この「健康」は医学をまるきり離れて独り歩きする、ということについても言及しておかねばなりません。速水健朗は『フード左翼とフード右翼』(2013)の中で、「マクロビ」「オーガニック」「ホリスティック」といった「健康に良い」とされるが科学的な根拠のないいくつかのアイデアを挙げながら、科学によって脱魔術化してきたはずの食と健康が、最近になって再魔術化しつつあることを指摘しています[xiii]

 しかし、これは当然といえば当然の話です。我々は自らの「健康」に直接的にアクセスする方法をほとんど持たず、医者か占い師にでもその価値判断を委ね、そのアドバイスを信じるほかない、という極めて魔術的な世界に身を置いているからです。患者自身がその妥当性を評価できるのは、ただ身体感覚的なフィードバックによってのみです。薬だろうがマクロビだろうが「なんだか気持ちいい」「効いているような気がする」という感覚さえ与えることができればそれでよい、という魔術的な世界観が、今日の世には確かにあるのです。

 

ゲームのように解離する

 このまったく胡散臭い「健康」は、我々の身体をどのように規定しているでしょうか。もう一度『生存の外部』から、國分の批判を引いてみましょう。

「健康」という名の生存の条件を全ての物事の尺度にする考えが、消費社会のロジックから導き出されたものでない保証がどこにあるだろうか? 酒もタバコも甘いものも絶ってジムのマシーンの上でただひたすら走る行為は、どこかしら、終わることのない記号消費ゲームのメタファーにも見える。[xiv]

 「健康」を作り上げている要素のひとつが「消費社会のロジック」であるという指摘は、速水が指摘する「フード左翼」的な消費行動とも重なります。一方で、禁煙と運動が長期的な恒常性維持に寄与することはたしかでもあり、したがってそれは社会の恒常性維持にも寄与します。この点で「健康」は、医学と政治のロジックによっても支持されている、という補足はせねばなりません。しかし、そんなことよりも興味深いのは、この奇妙な価値基準に基づく行為生成がまるでゲームのようだ、というこの哲学者の直観ではないでしょうか。

 そう、新しい「健康」によって、我々の身体はゲームのように解離しています。

 國分は『暇倫』の増補版に寄せた論考「傷と運命」(これもまた『中動態』への転回の途上に位置する論考です)で、身体の輪郭の問題について触れています。國分は熊谷晋一郎が書いた「世界体験の中で次々に立ち上がる事象のうち、もっとも再現性高く反復される事象系列群こそが、「身体」の輪郭として生起する」[xv]という指摘を引きながら、「自己の身体」のイメージが形成される例として赤ん坊の指しゃぶりを挙げています。この筋肉をこう動かせば、腕が上がり、親指を口に運ぶことができる、という事象が確実に繰り返されることに気がついたとき、一連の事象にかかわる「予測モデル」が獲得されます。この予測モデルによってはじめて、そこに含まれる一連の要素が自己の身体として囲い込まれるのです。

 だとすると、新しい「健康」は常に自己の身体の外にあることになります。

 ラーメンを「食べる」ことによる血糖値と血圧の上昇は、身体感覚としては決してフィードバックされません。生活習慣病とは患者になんの苦痛も、なんの感覚も与えない、いわばバーチャルな病です。このバーチャルな病を患った身体は、明らかに自己の身体から解離していながらも、切り離すこともできないもう一つの身体です。こうして我々は、まさに中動的としか言いようがないやり方で、二つの身体それぞれが持つ行動原理のすり合わせによって「食べる」ことになります。「これを食べたい私」が「これを食べるべき私」を離れて眺めながら「食べる」のです。

 まるで三人称視点のヴィデオゲームのようではないでしょうか。今日我々は、画面の中のキャラクターを操作するようにして、我々自身の「健康」をプレイしているのです。コントローラーのボタンを押すようにして、「健康」のための「記号」を消費しているのです。

 このゲームは性質上、ルールもスコアも明示されない極めて不利なゲームです。深夜に腹が減ってラーメンを「食べる」という行為は、短期的な恒常性維持とはなんら矛盾せず、自己の身体が訴える生理的空腹感を満たすのには合目的的です。しかしあるとき、プレイヤーは深夜のラーメンが病める身体の「健康」のためにはよろしくない可能性がある、ということを知ります。自己の身体にとって、短期的には快楽としてしかフィードバックされない行為であっても、長期的には苦痛として作用する可能性がある、ということを知ります。

 あくまで「可能性」です。しかし、この不確かな攻略情報が与えられるや、「健康」は地雷回避のゲームと化します。痛みを伴わない地雷を踏んだのかどうかは、1か月ごとに訪れる病院でスコアを言い渡されるまでわかりません。スコアを見れば踏んだかどうかはわかるでしょうが、1か月の間のいつどこで地雷を踏んだのかはわかりません。これをシューティングゲームで例えるならば、自機が赤いオブジェクトを撃ち落とせばスコアが上がるのか、青いオブジェクトと接触すればスコアが上がるのか、正確なところが一切わからないままゲームが進むということです。

 なんというクソゲーでしょう! しかしこの稀に見るクソゲーは、我々がそれをプレイすることをやめられない、というただひとつの理由によって、永遠に廃れることはないのです。『ハーモニー』でも、死ぬまで降りられないこのクソゲーをこんな風に揶揄しています。

Q:このゲームはいつまで続くのだろうか。
A:世界中の人間の体脂肪率が男女別にぴったり上下一パーセント枠内で一致するその日まで、継続してプレイしていただく予定になっております。途中で降りる方法は幾つかあり、例えば死ぬとか死ぬとか死ぬなどといった方法が用意されております。

自害した人々は、このゲームから降りたかったのではないだろうか。[xvi]

 

魔術としてのWatchMe

 このゲームとしての「健康」という見立ては、ミァハが問うた「身体の主権」の問題をより詳細に書き直すことをも可能にします。

 「身体の主権」をたとえば「我々の身体は誰のものか?」という問いに還元するとき、主に問われているのは「身体の所有権」です。身体が私のものである一方、社会のものでもありうる、という可能性が、臓器移植の社会制度化を可能にし、「公共的身体」のアイデアを可能にします。しかし、これは「身体の主権」の一論点にすぎません。たしかにゲームプレイにおいて、キャラクターが別のプレイヤーに操作されない、という排他性は重要かもしれませんが、これはおそらく必要条件でも十分条件でもありません。

 むしろゲームプレイの主導権を握るために重要なのは、キャラクターとしての病める身体がもつステータス、あるいはそれが獲得したスコアといった情報に、プレイヤーがアクセスできるかどうか、という前提条件です。つまり、「身体へのアクセス性」もまた「身体の主権」に含まれる概念なのです。加えて、アクセスできた情報をもとに任意のボタンを押せることはプレイの大前提となりますし、それによってキャラクターがある程度思い通りに動くことも重要です。これを新たに「身体の操作性」と呼ぶことにしましょう。

 アクセス性、操作性、これら2つが揃って初めて、我々は身体の主権を取り戻すことになります。そしてこれらが完璧に確保されているとき、予測モデルは高い確度をもって成立します。解離した病める身体は自らの身体のうちにきちんと囲い込まれ、ぼやけていた身体の輪郭はふたたび明瞭な線を結びます。そう、身体の主権を取り戻すこととは、二つの身体を再統合することにほかなりません。

 

 ここまでくればもうお分かりのことと思いますが、リブレのような恒常性監視デバイスがもたらすアクセス性改善の本質的な価値は、このゲーム的に解離した身体を再統合し、再魔術化した「健康」を脱魔術化しうることにあります。

 身体へのアクセスを封じられた盲目のプレイヤーは、医者であれ占い婆であれネットの攻略掲示板であれ、なんらかの道案内を必要とします。しかし身体へのアクセス性が完全なかたちで確保されたとき、医者が統計学的に得られたエビデンスをもとに、あるいは占い師が神託をもとに提供する一般論的な「予測モデル」は究極的には意味を失い、病院あるいは占い小屋といった場所の特権性は解体されることになります。自分がなにを食べると血糖値が上がるかは、占い師に聞くよりも自分で試した方が早くて確実だからです。

 かくして「食べる」と「健康」をひとつの予測モデルのうちに囲い込んだプレイヤーにとって、もはや「健康」は魔術でもゲームでもなく、自己の身体に起こる事象の一部にすぎません。こうしてキャラクターの身体は、はじめてプレイヤーの身体と重なり合います。これが「身体の主権」を回復することでなくていったいなんでしょうか。

 ところが、リブレの究極系であるはずの「WatchMe」は、市民にとってそのようには機能していませんでした。市民の身体へのアクセス性とその操作性を、生府がすべて押さえていたからです。

 WatchMeをインストールした市民に、実際の血糖値の上がりや身体の変化それ自体が詳細に知らされることはありません。代わりに与えられるのは、「社会評価点」という極めて漠然とした、魔術的というほかないフィードバックにすぎません。ここでWatchMeは、権力との結託によって絶対的な正当性を担保された、いわば特権的な占い師として信仰の対象となります。そしてまた、彼等は事実上押すべきボタンを選ぶことすらできません。「メディケア」から吐き出された薬を飲まなければ、あるいは「ライフプランナー」の助言を無視して好きなものを食べていれば、すぐさまそれを戒めるアラートが飛んでくるからです。

 つまり、御冷ミァハの誤りはここにあります。真にまずいのは、WatchMeによって常時監視され数値化されることでも、それによって資源として健康に管理されていることそれ自体でもなく、生体情報から服薬・生活管理の最適解を導き出すまでのプロセスがブラックボックス化されていること、およびそれを実行することがほとんど決定事項となっていることにこそあります。ここではテクノロジーの進歩が「健康」の脱魔術化には寄与せず、むしろ高度に魔術化された社会を作り上げるために利用されています。もはやこれは、占いと祈祷が病を治すと信じさせられていたころの社会と変わりません。

 ミァハは敵の姿を見誤っていたように思われます。ミァハが相手にしていたのは、本質的には未来的なテクノロジーのおばけではなく、古代的な格好をした呪術の王権だったということです。そして我々もまた、いまや『ハーモニー』に対する見方を180度転回せざるをえません。『ハーモニー』とは医療のありうる未来についての小説ではなく、脱魔術化以前の医療、つまり医療の過去についての小説だったのです。

 

 WatchMeの機能それ自体は、むしろ逆手にとって利用できるはずの要素であり、そうすることが不可能なゲームを可能にする唯一の道だったように思われます。ミァハは「ハーモニー・プログラム」実行のためのテロの過程で、一部市民のWatchMeをハックしその意志を乗っ取っています。市民のあいだで死への欲動が高まるよう調整し、集団自死騒ぎを起こしておいて、パニックに陥る市民に向けて「皆さんはすでにわたしたちの人質なのです」と犯行声明を出す彼女の手つきは、生体情報を掌握することで市民を人質化した生府の手つきと瓜二つにも見えます。

 しかしここまでの議論を踏まえれば、生命主義社会にとって真に革命的なテロとは、WatchMeになりかわり新たな権力となること、ではありません。むしろハックしたWatchMeの機能を解放し、権力が独占していたその情報の恩恵を、市民の手に取り戻すことだったはずです。かくして身体の主権を回復した市民は、各自ほどほどのところで「健康」をプレイするようになる…めでたし、めでたし。

 

「健康」のオートプレイ

 …しかし、本当にそうでしょうか?

 残念ながらそうではありません。奇しくもリブレの登場によって、その方法だけではうまくいかないことが証明されてしまいました。簡単なことです。アクセス性と操作性が確保されていることは、自ら身体を操作することの必要条件ではありますが、十分条件ではないからです。

 ひと昔は「お任せ医療」といって、医者が飲めといった薬を飲み、医者が受けろと言った手術を受けることが患者行動のすべてでした。しかし90年代以降、医者が握っている患者の生体情報は本人に提供すべき、という考え方が浸透し、今日ではこちらが主流となっています[xvii]。所謂「パターナリズム(医師による父性主義)」から「インフォームドチョイス(患者が知ったうえで選ぶ)」へ、というこの意志決定スタイルの変化は、しかし、少なからず患者を困惑させてもきました。平たく言えば「先生、私素人ですし、そんなこと言われたって決められません」という困惑です。

 こうした困惑は、リブレのような究極的なアクセス性においてもっとも露骨に顕在化します。診察室を離れてからも自らの身体にアクセスできる患者は、自らの「意志」と「責任」において、独りで治療的に振舞うことを要求されるからです。実はリブレによってゲームをうまくプレイするのは、ごく一部のユーザーにすぎません。その他のユーザーはリブレに「健康」からの逸脱を指摘されることを恐れるあまり、おちおち「食べる」こともできなくなってしまうか、逆にその逸脱にまったく注意を払わず生活し、病を放置するかのどちらかです。

 革命によって機能を解放された新しいWatchMeで、自分の身体が時々刻々と変容するさまを直視し、そのたびに生じる膨大な情報をすべてフィードバックされた市民が、しかしそれでも「健康」であらねばならないというゲームそのものからは降りられず、いったい自分が次になにを「食べる」べきなのかすらわからずに途方に暮れる…そんな姿が目に浮かびます。ああ、身体の解離した我々にとって、「食べるものを選ぶ」ことはこんなにも難しいのです。

 今となっては、ミァハが「意志」を標的化した理由もよくわかります。

 ミァハはWHOの捜査官と邂逅する最後のシーンで、自身の原体験を口にします。幼いころ、隣の家の少年が生命主義社会の成員になることに耐えられず、自死を選び、このゲームを降りたこと。自身もそうであったように、その後同じように自死する若者の数は増え続けていること。多くの人が降りることを選ばねばならないようなクソゲーなら、それを書き換えてしまうのがよいと考えたこと。「ハーモニー・プログラム」を起動し市民の意志を統率制御してしまうことは、この理不尽なゲームを誰も降りずにすむよう調整することだということ。

 ゲームの見立てで意訳するならば、つまるところ彼女の目的はこの困難なゲームを「オートプレイ化」することにあったのです。

 前述のように、「ハーモニー・プログラム」によって意志を統率制御された市民は、買い物、食事、娯楽、その他あらゆる活動において「健康」なほうを自明に選び取るようになります。そこに「身体の操作性」はありません。「身体へのアクセス性」については、その必要すらありません。もはやゲームとは言いがたく、その点においては人道的とも言いにくいこのゲームチェンジは、しかし、ただのひとりも脱落者を出すことはありません。言ってみればこれは全編をムービーで構成され、オートプレイで動くキャラクターを眺めるだけのゲームのようなもので、つまりはプレイヤーとキャラクターとに解離した身体を、完全にキャラクターの側に寄せて統合する試みです。ここで身体の再統合という当初の目的は、間違いなく達成されているのです。

 なるほどそうだとすれば、我々はミァハの策を安易に棄却するわけにはいきません。全ての市民があまねく身体を再統合するためには、たしかに「ハーモニー・プログラム」のような方法しかないかもしれません。

 しかし、それでは「ハーモニー・プログラム」すら持たない我々は、この解離した身体を、この困難な「健康」をどのように生きればいいのでしょう。そう、すでに述べたように、そのためのもうひとつの答えを導き出したのが國分功一郎でした。

 

身体の解離を生きる

國分がスピノザを引きながらたどり着いたのは、我々人間のすべての行為は能動態でも受動態でもなく、中動態として生成される、という結論でした。

 そのうえでスピノザ/國分は、結果として生成された「食べる」という行為が「食べたい」私によって十分に説明可能であること、つまりは自分の本質を十分に表現していることを理想としました。國分はこれを、スピノザの表現を借りて「自由」であると言います。そして自由であるための方法として提案するのが、すでに書いたように「ちょっとまてよ、俺はほんとうにラーメンなんて食べたいのか?」とじっくり考えることで、不覚にも「食べさせられている」私、外的刺激によって「強制」されている私に気がつくということでした。

 そうは言いながらも國分は、我々は完全に自由であることはできないとも言っています。『中動態』の最後はこんな風に締めくくられています。

完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。

われわれはそのことになかなか気がつけない。自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。[xviii]

 この結びは、ここまでの議論の前提を覆す意味を持っています。つまり、國分は、プレイヤーとキャラクターを統合することなど、本来的に不可能だと言っているのです。我々はこの解離した身体を、解離したまま生きねばならないのです。しかしそのうえで、國分はやはりゲームの主導権を取り戻すための方法を提案してもいます。つまり人間は、気がつかぬうちにプレイヤーとして行動したり、キャラクターになって行動したりするけれども、その解離に、その往復運動に「なかなか気がつけない」ことのほうが本質的な問題だ、ということです。

 ただし、この処方箋にはひとつ大きな問題があります。

 「食べさせられている私」「これを食べるべき私」を棄却して「食べたい私」を表現することは、自由ではあっても「健康」であるとは限りません。すでに見てきたように、自己の身体が知覚できるのはごく短期的な快楽までであり、一方で「健康」が要求するのは長期的な恒常性の維持であり、両者は必ずしも一致しないからです。したがって、単に「ハーモニー・プログラム」を棄却し『中動態』を採用することは、「健康」への問いの終着点にはなりえません。

 我々は『中動態』から一歩先へ進んで、自由と強制を絶妙にブレンドし、可能な限り「健康」的でありながらその営みの主導権を握ってもいるような、そういう行為生成のありかたを模索しなければならない、ということになります。

 

 もう一度、「食べるものを選ぶ」ことについて考えてみましょう。

 國分は『中動態の世界』を書いたあとで、アスペルガー症候群の当事者である綾屋紗月が書いた、「食べる」ことについての描写に言及しています。[xix]

 綾屋は定型発達の「健常者」と比較し、「食べるものを選ぶ」ことにとても時間がかかります。空腹感ははじめ「ぼーっとする」「胃のあたりがへこむ」「イライラする」というばらばらの身体感覚として出現し、時間をかけてゆっくりと「おなかすいた」という意味へとまとめ上げられます。しかし、そこから「食べたい」という行為への欲求に接続されるまでにはもうしばらくかかります。さらにはその欲求は、実際にレストランで提示された膨大なメニュー、つまり「食べられる」ものと合致しなければいけません。この欲求とメニューのすり合わせが奇跡的に完了したとき、綾屋ははじめて「食べる」ことができます。

 ここで極めて中動的に行われる「食べるものを選ぶ」ことの主導権は、完全に綾屋が握っています。しかし問題は、この複雑なプロセスが完了するまでに気がつくと丸二日経っていたりする、ということです。このやり方は実際問題としてあまりにも不便です。そしてこの不便さは、我々がすでに見てきた、情報過多に陥って「食べる」ことすらままならない市民/患者の姿によく似てもいます。

 さて、この困難に対する綾屋の解決策はシンプルです。空腹か否かということとは全く関係なく、12時になったら鶴亀庵に行ってソバを食べます、という具合に、外部環境によって行為をパターン化してしまうのです。ここで綾屋は、「食べる」ことを「オートプレイ化」しています。そしてこのようなオートプレイのパターンをあらゆる局面において持っておくことで、複雑なプロセスを普段はスキップし、スムーズに生きていくことができるわけです。

 

自由と強制、オートとマニュアル

 しかし考えてみれば「健常者」だって、というか健常者のほうが、そういう風に生きているかもしれません。言うなれば「イライラする」と感じてから「ラーメン食おう!」まで一足飛びです(私だけかもしれませんが…)。自分は本当に腹が減っているのか、自分の身体が欲しているのはラーメンよりスシではないのか、そういえば一昨日もラーメン食べたばかりではないか、そんなに塩分とって血圧は大丈夫か、といった本来あったはずの問いは、ここではすべて省略されているのです。そして重要なのは、一見その対極にある「健康にいいから、毎朝黒酢を飲むことにしているのよ」といったような習慣化もまた、一種の「オートプレイ」だということです。

 中動的であるということは、いわば「オート」ではなく「マニュアル」であるということです。ゲームとしての「健康」は、自分が何を食べるべきかを考えることを要求します。そしてこれを間断なくプレイすることは、どのような内的欲求に突き動かされて、どのような外的要因に刺激されて食べるのか、常に考え続ける、ということを意味します。このマニュアルの状態を保つことは、現実的には不可能です。だから我々は時に行為生成を簡素化し、オートとマニュアルを切り替えながら生きるのです。というか、ほとんどオートで生きている、と言っても過言ではないように思われます。

 

 だとすると、オートプレイのパターンが生成されるプロセスを問うことは極めて重要です。そしてその妥当性を問い、時に解体し修正するという意味では、マニュアルの選択肢が残されていることもやはり重要です。

 一周回ってユートピア的にも見えるミァハの答えは、この点においてこそ批判されるべきなのです。WatchMeとメディケアによるオートプレイは、あらゆる環境の変化に柔軟に対応できるようでいて、そのパラダイムの外部にある新たな驚異にはおそらく対応できません。人類は、調和によって進歩を捨てたのです。仮に『ハーモニー』の結末を非人間的な悲劇と呼ぶのであれば、以後人類はオートプレイの限界を超えられなくなってしまった、というこの一点において悲劇と理解されるべきなのです。

 そしてこの理解によって、我々は國分の結論からもう一歩先に進むことができます。いまや明白なのは、我々の行為生成の過程には自由と強制の対立軸のほかにもうひとつ、マニュアルとオートの対立軸があるということです。行為生成における意志の前提は、この対立軸においてもう一度否定されます。オートプレイで行為する我々が、その都度強固な意志など持っていようはずもないからです。

 「食べるものを選ぶ」という提案の本質は、國分自身がいうように強制を薄め自由を高めることにあるのではなく、オートを解体しマニュアルへと展開することにあります。普段何気なく行っている「食べる」という行為が、どのような内的衝動と外的条件によって生成されたパターンであったのかを、中動態の世界でほどきなおして確認することにあります。再びパターンを構成するときに自由の濃度を高めようと努めることはできますが、それは無限にある選択肢のうちのひとつにすぎません。

 自由と強制との複合によってあるとき生成されたオートプレイのパターンは、それがどのくらい自由であるか、ということとはまったく別の基準においてゲームプレイの行く末を左右します。もしもこのパターンがゲームにおいて適切でなかった場合―そう、たとえば劣悪な環境因子や、でたらめな攻略情報によって不適切に強制されている場合、逆に純粋に自由すぎるあまり「健康」的ではないといった場合には、それをいったん解体し、プレイヤーとしての本質とキャラクターとしての制約をすり合わせながら、新たなパターンを築き上げる必要があります。

 それは自由を捨てることでも、強制を拒むことでもありません。なにを食べたいか、なにを食べられるか、なにを食べるべきかを絶妙にブレンドし、頻用するに足る強度を持つパターンが再構成されたとき、ゲームプレイはあらゆる側面においてうまくいくようになります。

 そしてこの再構成の営みを、私は「治療」と呼んでいます。

 

おわりに —アートとしての病—

 「健康」を目指す「治療」にはさまざまなアプローチがあります。

 オートをマニュアルに解体する、というのは、専門的には認知行動療法と呼ばれるやり方に近いかもしれません。それは従来治療者を必要としましたが、リブレのような形で身体へのアクセス性が確保されると、自ら「食べる」パターンを再構成できる人も出てきます。一方で、オートプレイをオートプレイのまま自然に矯正していくのがゲーミフィケーションだとか、環境調整と呼ばれる手法の考え方です。アプローチとしては、どちらもあるのがいいのでしょう。

 しかしもっとも本質的なのは、時折訪れる、解離した病める身体と自己の身体のイメージが奇跡的に重なりあう瞬間を、見逃さずにとらえることではないか、という気がします。

 オラファー・エリアソンという現代美術家がいます。彼の最近の大きな仕事は、ニューヨークの中心を流れるイースト川に巨大な滝を作るというものでした。それまでニューヨーク市民にとって、イースト川は沐浴をする場所でも生活用水をくみ取る場所でもなく、自分とは無関係な景色のひとつにすぎませんでした。エリアソンのポンプは、イースト川の河水を高さ36メートルまで汲み上げ、またイースト川へと大きなしぶきをあげ放流します。それは生々しい河川のにおいを放ち、時に通行する者の頬を濡らしさえしたことでしょう。

 その日ニューヨーク市民は、イースト川がたしかに水の流れる河川であることを思い出したのです。

 アートは時に、我々が忘れていたこと、抑圧していたものを暴露します。かつて世界を震撼させた9.11同時多発テロを「アートの最大の作品」と呼んで顰蹙を買った人もいましたが、まさにこの意味において、身体にとって病とは最大のアートでもあります。ゲームとしての「健康」は、アートとしての病によってその様相を変えます。解離した自己の身体と病める身体は、優れたアートによってはじめてぴたりと重なり合うのです。

 若き日の御冷ミァハが自殺を試みたのは、ひとつには病を知らない生命主義社会で見失われた身体の輪郭を、痛みによって捉えなおすためでした。もっとありふれた例でいえば、生活習慣病を患いながらもどこか他人事のようだった患者は、苦痛に悶え救急車で運ばれながら、はじめてその病を自己の身体のうちに感じるようになります。そしてひとたびこうして病める身体に触れた者は、そのバーチャルな身体の輪郭をたしかに想像できるようになるのです。

 しかしなにも苦痛を伴わなくたって、我々の身体には日々さまざまな感覚が生じています。それらは知らず知らずのうちに行為形成の一因になっていたり、あるいは見落とされていたりします。この日々生み出され続けている小さいアートによって、我々の二つの身体はいつもわずかばかり触れ合っているのではなかろうか、といつも思います——ただし、そのささやかなアートに、適切な批評の眼差しが向けられている限りにおいては、ですが。

 

 

[i] 『ガタカ』の公開は1997年。一方、ヒトゲノム計画は1990~2003年に行われ、クローン羊ドリーは1996年に誕生し2003年に死んだ。

[ii] 「伊藤計劃インタビュー」『伊藤計劃記録Ⅱ』ハヤカワ文庫、2015、pp303-304

[iii] 伊藤計劃『ハーモニー』ハヤカワ文庫、2010、p159

[iv] 同p58

[v] 同p19

[vi] 同p132

[vii] 同p291

[viii] 特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」|週刊読書人ウェブ(代官山蔦屋書店)

[ix] 國分功一郎「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」『民主主義を直感するために』晶文社、2016、pp84-85

[x] 國分功一郎「生存の外部——嗜好品と豊かさ」『民主主義を直感するために』晶文社、2016、p77

[xi] 厚生労働省|生活習慣に着目した疾病対策の基本的方向性について(意見具申)

[xii] 正式名称を特定健診・特定保健指導といい、40歳〜74歳を対象に2008年4月より施行された。血圧、血糖、脂質といった生活習慣病指標の測定に加え、腹囲の計測が含まれており、その基準値が日本独自に設定されたものであることが議論を呼んだ。

[xiii] 速水健朗『フード左翼とフード右翼』朝日新書、2013

[xiv] 國分功一郎「生存の外部——嗜好品と豊かさ」『民主主義を直感するために』晶文社、2016、 p79

[xv] 熊谷晋一郎「痛みから始める当事者研究」『当事者研究の研究』医学書院、2013、p235

[xvi] 伊藤計劃『ハーモニー』ハヤカワ文庫、2010、p217

[xvii] もともとは世界大戦中の悲惨な人体実験への反省から、被験者の権利の保護と医師の説明責任が強調されるようになってきたことによる。1981年に世界医師会で採択されたリスボン宣言に「個人の自己決定権」が明記された。日本医師会では1990年に「Informed concent:説明と同意」し、これが1997年の医療法改正によって法的に明文化された。最近ではconcentでなはくchoice:選択であるべきだ、とする向きがある。

[xviii] 國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017、pp293-294

[xix] 綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』医学書院、2008

文字数:27085

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