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10年後の『ハーモニー』 ―意志と責任の未来学―

医療はなにを欲望するか?

 システムとしての医療は、いったいなにを欲望としているのか? これは「目の前の患者さん」に対するテレビドラマ的に純朴な欲望の話ではなく、お金や名誉、権力に対する欲望の話でもない。つまりは医療者個人の欲望の話ではなくて、システムとしての医療がどのようなものを欲望して駆動しているかということである。

 

一、

 今から10年も前、この欲望を端的に表現しようとした作品が脚光を浴びた。伊藤計劃の絶筆『ハーモニー』(2008)である。そこには高度に発達した医療技術と、身体のモニタリングシステムとが合体し、老い以外にいかなる不健康とも縁がなくなったユートピア/ディストピアが描かれている。

私の父さんとその友だちが生み出した分子の群れは、この世界から病気というものの大半を消し去ってしまった。WatchMeと呼ばれる恒常的体内監視システムは、分子レベルで絶えず血中のRNA転写エラーレベルや免疫的一貫性の監視を行い、そこから外れるものがあれば即座に排除する。メディケア群と呼ばれる一家に一台の薬品工場が、血中の蛋白から病原性物質の駆逐に必要な物質を即座に合成し、ターゲットとなるエリアにピンポイントで送りこむのだ。

伊藤計劃『ハーモニー』

 舞台は今からそう遠くない未来、世界中に核弾頭が落とされるという<大災禍>に見舞われたあと、放射線被爆により激増した悪性腫瘍と突然変異したウィルスの猛威に対抗するために、帝国主義は資本主義から「生命主義」へとそのソフトウェアを変えた。人々の身体は「公共的身体」―社会的に守られ、有効に活用されるべき公的資源―として理解されるようになった。資源としての身体は、体内にインストールされるWatch Meという名のプログラムによって、常に身体の外側にある中枢から監視される。「健康」を逸脱すればそれが中枢にフィードバックされ、再び「健康」にもどるためのタブレットが即座に合成され与えられる。

 このシステムのピットフォールは、個人の意志によって生ずる病態―酒、煙草、ドラッグ、その他身体に危害を加えるあらゆる放蕩、あるいは自殺、あるいは暴動・殺人―をコントロールしきれないことである。先の<大災禍>が人災であったことまで踏まえると、時に大量殺人まで企てる個人の意識とは、生命主義においては生命を脅かすリスク因子であるとも言える。この欠陥を克服するために、WatchMeの開発者はいざというときに個人の意識をも管理してしまうためのバックドアを仕込んでいた。

 WHO(もちろん、世界保健機構の略である)の監査官である主人公は、これを悪用して全人類の意識の画一化をもくろむ影の勢力と対決することになるのだが、結局これを食い止めるすべはなく、エピローグでは「意識」というものを失ってしまった時代の人類の様子が描かれている。

 

 病を駆逐し、健康を脅かすあらゆるリスクを排除するという、この医療の究極的な欲望を実現するために、人類は個体の意志を失わなければならなかった。極めて精緻な考証と豊かな想像力によって描かれた本作だが、かくも救いのない形で終わらざるを得なかったことについて、伊藤自身は次のように語っている。

『ハーモニー』に関しては、ある種のハッピーエンドであるとは思うんですけど、はたして本当にそれでよかったのか、っていう思いもあります。そのほかに言葉が見つからなかったのか。さっきの言葉でいうと、「その先の言葉」を探していたんですけど、やはり今回は見つかりませんでした、っていうある種の敗北宣言みたいなものでもあるわけで。[i]

 ごく現実的に、『ハーモニー』を医療の未来を想像するための礎として用いるならば、その限界として指摘すべき点は二つある。一つは、意志の介在する病態をどう管理するかという問題について、その解決策を意志の剥奪という形でしか提出できなかったこと。もう一つは、医療の欲望は、ここで想定されているよりも今日もう少しだけ先まできている、ということである。

 伊藤は本作を執筆中、すでに白血病に侵されており、上記のインタビューの3か月後に逝去した。残念ながら伊藤本人によって紡がれることはなかった「その先の言葉」を、10年後のいま、ここで紡ぎなおしてみよう。それは伊藤が見ていたよりも10年ぶん間近に迫っているポストヒューマン時代の、医療と生命の在り方について、より現実的に考える試みとなるはずである。

 

二、

 『ハーモニー』以降、実際に現実のものとなったテクノロジーから、地続きに未来を想像しようとしたのはイブ・ヘロルドの『ビヨンドヒューマン』(2016)だ。冒頭で登場するのは、テクノロジーの力で臓器の機能を拡張し、もはや容易には死ねなくなった未来の人類に関するフィクションである。若くして心臓を患った男は、生きるために仕方なく人工心臓―もはや生体の心臓よりもずっと長持ちする―を埋め込み、年老いて目が見えなくなれば眼球に視機能獲得のためのデバイス―生体の眼球よりもよほど遠くまで見える―を移植し、はては体内のあらゆる細胞を修復するナノボットを注入されて、若返り、永遠に修復を繰り返しながら250歳まで生きながらえてしまった。さて、この身体をどうやって終わらせようか、自ら命を絶つしかないのか、と男は途方に暮れる。

 ヘロルドの想像力は、『ハーモニー』のように意志の問題までは踏み込んでいないが、その分、医療の欲望をより直接的にとらえている部分もある。端的に言えば、これは人類の進化の話である。あくまで自然の一部として挙動する身体の限界を、テクノロジーの進歩=人間の進化によっていずれは克服することができるのだ、という近代科学的な楽観がそこにはある。WatchMeにおいては、これが個体の話から種としての人類の話に飛躍しているが、同じく近代的な欲望を反映した進化の話だといってよいだろう。

 ヘロルドのユートピアの先にはいくつかの問題がある。明らかなのは、生活習慣病や放蕩、ドラッグ、自殺といった、個人の意志(の弱さ)が健康を、ひいては社会を脅かすケースについて、テクノロジーはこれを克服できるか、という点だ。いくら強靭な身体を手に入れても、個体がそれを台無しにするような振る舞い―たとえば、250歳になった男が自殺を考えたように―をするようでは、資源としての身体を十分に管理したことにはならず、したがって種としての人類が健康リスクを完全に排除したことにはならない。この問題に挑んだのが『ハーモニー』で、「おそらくできるが、本当にそれでよいのか、それしかないのか」というのがその解答だった。

 2017年の我々は、もう一つ別の論点を持っている。すなわち、病に相対する個人の在り方において、意志などというものが本質的な問題となるのか、という点である。

 

三、

 國分功一郎の『中動態の世界』(2017)は、能動態でも受動態でもない、意志のありなしというパースペクティブから外れた動詞の態:「中動態」について論じ注目をあびた。あらゆる行為にはその端緒となる意志が存在する、という西洋哲学の成立過程で、「自然の勢い」によって行為がなされるかのようなこの動詞の態は自然と失われていった。國分はその変遷をあきらかにしながら、行為者、つまり責任の所在を確定するために事後的に想定される「意志」と、行為の前段階であらゆる外的要因に修飾され行われる「選択」の違いについて言及する。それは、「自発的・自律的に何かを始める能力ではなくて、理性が肯定し、欲求が追及する、そうした何ごとかを選択する能力に他ならない」。

 直接的にはアルコールやドラッグへの依存症において名指しされる「意志」の困難な問題を標的としたこの議論は、臨床的には生活習慣病治療における節制の問題をも難なく射程におさめている。それは薬物依存よりずっとマイルドだが、なぜ「正しい行動を選択する」ことができないのか、という共通した構造をもつ問題である。

 『ハーモニー』の生命主義が「正しい行動」―酒を飲まない、煙草を吸わない、自殺しない、etc―を強いる根拠となっているのは「公共的身体」、すなわち、身体は公共の資源であり、それを適切に管理すべきである、という思想である。SF的に誇張されているからこそ極端にみえるこの思想だが、今日でも日本やイギリスのように、国が管理する公共資源としての医療システムをもつ地域においては、そう遠くない価値基準があるように思われる。個人の逸脱行動は彼が病に至ることによって、システムに経済的な損失を与える。したがって、公共経済を維持するためには、どうすれば個人が「正しい行動」を選択し、身体が適切に管理されるかについて考えなくてはならない。

 

 この目的のために、古典的な療養指導は、「甘いものを食べてはいけない」という単純な禁止の形をとる。もうすこし進んだ療養指導は、「このような理屈で、甘いものをこのように食べるとこうなってしまう」という説明のもと、個人の意志がそれに従って行動選択することを期待する。前者は受動的な権力の行使のされかたであり、後者は逆に能動的な意志の発露である。

 『ハーモニー』の生命主義がやっているのは、端的に酒やたばこを一切摂取してはいけない、という受動態的、規律訓練的な禁止である。したがって、そこからこぼれ出る逸脱者を完璧に管理するためには、個体の意志そのものにアプローチする必要があった。しかし、『中動態の世界』以降の我々がこれを振り返ると、ひょっとしたら、『ハーモニー』の解答が標的としていたポイント自体が、そもそも少なからぬズレを孕んでいるのではないか、という風にも見えてくる。我々が管理するべき対象は、本当に「意志」とか「意識」とかいう、人間の根幹にかかわる部分なのか? そのもう少し手前の、環境論的に個人の行動を決定する因子を、我々は治療標的とすることができるのではないか?

 

 

アートとしての病、批評としての医療

 『中動態の世界』から始まる、WatchMeの新しい治療標的を探る旅は、我々がすでに慣れ親しんだ近代科学的な発想の延長にはない。この未知なる旅のはじめに、まったく別の視点から病と医療を捉えなおしてみよう。たとえば、アート、あるいは、批評、というのはどうか。

 

一、

 現代美術家オラファー・エリアソンは、ニューヨークの中心を流れるイースト川に巨大な滝を作ったことで知られる。それまでのニューヨーク市民にとって、イースト川は沐浴をする場所でも生活用水をくみ取る場所でもなく、自分とは無関係な、ただ街を構成する景色の一つにすぎなかった。エリアソンのポンプによって高さ36メートルまで組み上げられ、またイースト川へと放流されるイースト川の河水は、大きなしぶきをあげ、生々しい河川のにおいを放ち、時に通行する者の頬を濡らしさえしたかもしれない。その日ニューヨーク市民は、イースト川がたしかに水の流れる河川であることを思い出した。

 現代音楽家カールハインツ・シュトックハウゼンは、世界を震撼させた9.11同時多発テロを「アートの最大の作品」と評し、各方面の顰蹙を買ったことで知られる。アメリカ国民が生きる安全な日常の下には、彼らがイスラム圏との間で長い時間をかけて蓄積してきた歪みが眠っていた。その「本当は見たくないもの」のレイヤーを、それがたしかに存在することを、これ以上ないほど効果的にさらけだして見せつけたテロリストの所業は、善悪はさておきエリアソン的に言えば紛れもなく優れたアートであった。

 以上をふまえて端的にいえば、病とは本来アートである。

熱が出たりすると 気づくんだ 僕には体があるって事
鼻が詰まったりすると 解るんだ 今まで呼吸をしていた事

BUMP OF CHICKEN『supernova』

 ポジティブに身体性を意識させる鼻風邪が小さなアートなら、病における最大のアートとは死の予感をもって身体性をその限界とともに自覚せしめるようなものかもしれない。病Xの名を宣告されたとき、ほんとうは薄々気が付いていながら見るまいとしていた身体の有限性が、当人の身体感覚に統合されるかたちで初めて宿る。ただし、それらはいつもわかりやすい文脈において現れるとは限らない。アートとしての病は、したがって、科学的に克服される対象としてではなく、ときに当事者や第三者による解釈を必要とする抽象的な対象として、我々の前に現れる。つまり、アートとしての病に対しては、科学としての医療よりも、むしろ批評としての医療が有効に機能することがある。

 

二、

 20世紀のおわり、病Xに最もふさわしかったのはエイズだったかもしれない。

 エイズはドラッグや性的放蕩に対して生物学的に与えられた罰であった、と書いたのは村上龍で、彼はまさしくエイズのリスクと隣り合わせの文化を生きていた同時代人であった。1980年代にHuman Immunodeficiency Virus:HIVが発見され、それがAcquired immune deficiency syndrome:AIDSの病原体であること、しかも性交渉と血液を介してしか感染しないことが次々とわかるにつれ、エイズは背景にある種の物語をもつ病となった。それは社会からの逸脱の象徴であり、一方で悲劇的な死を演出する病でもあった。1996年のミュージカル『レント』は現代のボヘミアンーアーティスト、同性愛者、ヘロイン中毒ーを描いた作品だが、主要人物の半分をHIV感染者が占め、ドラアグクイーンのエイズによる死という悲劇を中心にすえながら、それぞれの愛について、人生についてのストーリーが語られる。2000年代に入ってHAART療法が確立され、エイズ患者にも健常者と変わらない生命予後がほとんど約束された今日、エイズの持つアート性は過去のものとなりつつありそうなものだが、『レント』はいまだに再演を繰り返し、強い人気を誇っている。

 少し前にさかのぼると、1980年はWHOが天然痘の撲滅を宣言した年だった。あるいは2010年代、WHOが躍起になっているのはポリオ撲滅の最後の大詰めのプロジェクトである。もちろんHIVとの戦いも、基礎研究の最先端では依然として困難なホットトピックだ。どうやら科学としての医療は、病原体というわかりやすい対象がいると、それを克服せんとする欲望を強く掻き立てられるようである。

 

 ウィルスを特定し、それを撲滅することと、その周辺に物語を立ち上がらせること。病をめぐる人類の二つの真逆の営みを、かつて真木悠介が提案した「脱色の精神」と「彩色の精神」という名前で呼び変えてもいいだろう。

フロイトは夢を、この変哲もない現実の日常性の延長として分析し、解明して見せる。ところが『更級日記』では逆に、この日常の現実が夢の延長として語られる。フロイトは現実によって夢を解釈し、『更級日記』は夢によって現実を解釈する。
この二つの対照的な精神態度を、ここではかりに、<彩色の精神>と<脱色の精神>という風に名づけたい。

真木悠介「交響するコミューン」『気流の鳴る音』

 ここで参照されているのは『更級日記』に登場する迷い猫の話で、ある日作者の姉の夢枕に立った猫が実は自分は侍従の大納言どのの息女で、などと言ったのをなんとなく真に受けて、作者は「あなたは大納言どのの姫君なのね」などと猫に話しかけるようになり、そうしているうちにだんだん猫と心が通じているような気がしてくる、という話である。人類はフロイト以降、夢についてはこれと真逆のことを推し進めてきた。これは夢についてだけではなく、近代科学の常である。

世界の諸事物の帯電する固有の意味の一つ一つは剥奪され解体されて、相互に交換可能な価値として抽象化され軽量化される。

個々の行為や関係のうちに内在する意味への感覚の喪失として特色づけられるこれらの家庭は、日常的な実践への埋没によって虚無から逃れられるのでないならば、生のたしかさの外的な支えとしての、なんらかの<人生の目的>を必要とする。

 真木が指摘しているのは、我々の人生に登場するもの・ことがそれ固有の意味を失い、普遍的ない実の中に還元されていくことによる「生きづらさ」のようなものである。ここから議論は、その「生きづらさ」と表裏一体に登場した神、天皇、富・権力・名声、等々の価値基準の問題に移っていくのだが、それはともかく、近代科学によって病が「脱色」されたことによる「生きづらさ」もまた、確かに我々が感じているであろうことについて、ここで指摘しなくてはならない。病は今日いかにして「彩色」されうるか、という想像力は、「脱色」の果てにディストピアに至った『ハーモニー』の「その先の言葉」を紡ぐのにふさわしいもののように思われる。

 

三、

 病がアートにおいていかに解釈され、「彩色」されてきたかを詳述した文献がある。スーザン・ソンタグの『隠喩としての病』(1977)だ。

 彼女は体内の中で増殖し、徐々に体と心をむしばみ、やがて死へと至る悲劇的な病として、結核と悪性腫瘍(癌)について取り上げている。たとえば悪性腫瘍と心筋梗塞のような病気が違うのは、その周辺になにか感覚的な意味が立ち上がるかどうか、というところにある。

癌患者がほどなく癌の再発で死ぬこともあるというなら、冠状動脈血栓の患者だって、数年のうちに同じ病気の再発で死ぬこともある。しかし、心臓病の患者に病気のことを隠そうと思う者はいない。心臓発作には恥ずべきところなどないのである。癌患者に嘘をつくのは、この病気が死刑宣告である(あるいは、そうみなされる)からではなく、そこに何かおぞましいものが―不吉なもの、感覚的におぞましく、吐き気のするようなものが感じられるからだ。心臓病は機械としての身体の弱さ、故障、挫折を意味するのみで、恥ずべきところはない。

スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』

 悪性腫瘍と心筋梗塞が、それぞれ医学的にどのように理解されているか―すなわち、「脱色」されてきたか―ということとはあまり無関係に、そこには「彩色」されアートととして成立することが可能なのか、という視座がある。ソンタグによれば、過去の文学作品において、癌はなにかその人がかかえる罪の発露のようなものとして描かれてきたという。一方で、心臓病はその人自身の持つなにかによって訪れるものではなく、いわば降ってわいた災難だ。だから、その人を「彩色」するには当たらない。いうまでもなく、医学的にはたとえば糖尿病が悪性腫瘍のリスクを上昇させ、同様に心筋梗塞のリスクを上昇させるし、いずれの病も遺伝的な修飾を受ける。どちらも個体としての放蕩と、流れている血筋とが織りなす病であるにもかかわらず、それがどのように批評されるか、という点において両者は大きく異なっている。

 結核についても、文学史上には実に豊富なイメージの蓄積がある。総じていえば、それは「感受性の強い芸術家の病気」ということである。その人の繊細さと熱情を象徴するかのように現れるその病は、あまたの文学作品において繰り返し劇的な死を演出してきた。その営みは、結核が「脱色」され排除可能な病気となってからもあまり変わることがないし、我々日本人にとってもなじみの深いものである。「ほぼ二世紀にもわたって反駁する余地のない経験と医学的知識とが蓄積されてきたにもかかわらず、この結核の神話は、倒錯的とも思える多くの願望を正当化し、それを文化的に敬虔なものとしてしまうことによって、生き延びてしまう」。

 このような「彩色」は医学的にはナンセンスであるが、しかし、不条理を受け止め「生きづらさ」を解消するための安全装置として、少なからぬ役割を担っているだろう。敬虔なキリスト教徒があらゆる災厄を神の思し召しとして受け止めるように、病には原因の提示ではなく意味の付与が必要である。

 

現代医学における呪術の効用

 残念ながらというべきか、医学の進歩による疾病構造の変化によって、病はアートとしての機能を失いつつあるのかもしれない。エイズが死ぬ病でなくなったところを終着点とする感染症の時代の次にあるのは、生活習慣病の時代である。

 

一、

 結核やエイズを含む感染症は、病原体という対象に襲われ、蝕まれるという受動態的な感覚を持つことのできる病である。癌もまた、悪性新生物という呼称が示唆するとおり、体内で駆逐すべき対象が増殖するという、これも受動態の病である。ところが、こうした病が医学によって管理可能なものとなったとき、新しく立ち上がったのは予防医療の概念であった。

 我々は糖尿病と告知されても、あるいは糖尿病を患う他者を見ても、そこからいかなる物語も読み取ることができない。そこにあるのはただ、不摂生のレッテルである。受動態的であることが病のアート性を担保していたのだとすれば、明らかに能動態的な意味合いを含む生活習慣病の時代にあっても変わらず病をアートとして成り立たせるために、なんらかの形でそこに受動態を見出す必要がある。しかし、我々はそこに対象化できる仮想敵がいないことに気づく。しいてうなら、不摂生を働く個人の意志がそれである。

 

 生活習慣病や依存症は、人類がここまで積み上げてきた「彩色の精神」の射程外、すなわち近代的な想像力が隠喩として読み替え、アートとして批評することのできた範疇の外にある。『ハーモニー』とはまさに、この「彩色」不可能性の限界において書かれた作品である。我々はもはや、意志を仮想敵にしなければ管理できない病と闘っている。

 しかし、ほんとうにそうだろうか?

 我々は『ハーモニー』が、まさしく文学的な悪性腫瘍の一つである白血病によって死にゆく作家の、病床で書かれた絶筆であることを思い出さねばならない。伊藤の目には、病の向こうにはいつも敵が見えていたに違いない。白血病体験を土壌とした能動態―受動態のパースペクティブが『ハーモニー』を産んだのだとしたならば、我々はそこに能動態=自業自得でも、受動態=降って湧いた災難でもない新たな態を導き入れ、全く違った形でアートとしての病を取り戻し、10年後の『ハーモニー』を描き直さなければならない。

 

二、

 先進国の疾病構造は、癌や感染症といった受動的なものから、生活習慣病という一見能動的な問題へとその中心を変えてしまった。しかし、『中動態の世界』を参照するかぎり、生活習慣病を能動的な病として扱い、その背景の意志を治療標的とするのは単なる誤読である。これを中動態的にとらえなおしたとき、病は再びアートとしての機能を取り戻すように思われる。

 中動態的な病とはたとえばなにか? 意外なことかもしれないが、呪術がまさにそれである。

 文化人類学者の垣明美は、マレーシアにはいまでも二つの医術があることを報告してる。一つはもちろん、近代的な西洋医学だ。そしてもう一つは、ボモと呼ばれるシャーマンが担当する民間医療である。

 マレー人は明確に、これは病院に行くべき病、これはボモのところに行くべき病、という区分を持っている。ボモの管轄する病とは、西洋医学的に「脱色」してしまえば適応障害や身体表現性障害のような環境依存的に生ずる精神疾患なのだが、それを個体に帰属する問題としてのみ扱っても解決しないのは我々もよく知るところである。こうした病を、彼らは呪術をかけられたためだと解釈する。

 呪術による病の発生は、その共同体が抱えている歪みことをあぶりだす。ボモは動物憑きの儀式によってこれを癒し、患者と共同体には再び平穏がもどる、という仕組みなのだが、ここで重要なのは、実際に誰が何のために呪術を行使したのか、という点については最後まで明らかにされなないということである。

マレー人社会でも、競争は常に存在するが、行き過ぎれば人の恨み悲しみは呪術となって反撃してくる。「恨みの呪術」はひとびとの悲しみを視覚化する。誰しも他人の恨みを買ったかもしれない過去がある。呪術攻撃を受けることは誰にでも起こりうるのである。(中略)「恨みの呪術」「愛の呪術」は想像上の呪術である。誰も呪術を仕掛けた現場を目撃していない。誰が「恨みの呪術」を考え出すのか。呪術を仕掛けられた側である。それは哀しみの隠喩であるばかりでなく、病人の側がみずから想像し、治療の過程で共有した隠喩である。

垣明美『癒しと呪いの人類学』

 ここでは病は、人間関係の不和、敵対、その他の歪みの隠喩として扱われる。そもそも、呪術は実際に行使されたのかどうかすら、はっきりしない。しかし事象として発生したときには、共同体のすべての構成員がその背景にある歪みを自覚する。その自覚を共有することが、共同体に治癒を与える。

 垣はこの自浄機能としての病を取り上げながら、「呪いがあるから癒しがある。感情表現や病気を通して呪いの気配に気づかぬ文化に癒しはないのではなかろうか」などと書いたが、ここでのボモの「彩色」的な手つきは、まさしく批評家のそれであり、このことはとりもなおさず、病がアートとしての機能を存分に発揮できているということを意味する。

 これを態によって理解すれば、呪術は紛れもなく中動態的な病である。たしかにそれは、誰かに呪術をかけられるという受動的な契機を持つ。しかし一方で、それが呪術によるものであることを患者が自覚しない限り術術としては成立しないがゆえに、呪術の真のはじまりは常に患者自身の行為―たとえば行き過ぎた競争―にあることになる。

 

三、

 國分は、かつて能動態と対立していたのは受動態ではなく中動態であった、ということを指摘しながら、そ能動態と中動態との差異について「主語が過程の外にあるか内にあるか」であるとした。能動=自業自得でもなく、受動=降って湧いた災難でもない、この病の態は特筆に値するし、病はそのようなありかたにおいて最もアートとしての価値を発揮するのではないか、と一旦仮説することもできるように思われる。

 『中動態の世界』の冒頭は、薬物・アルコール依存症という常に意志の欠如というレッテルを貼られてしまう病の患者と、國分との対話から始まる。ここで感じた苦しさから始まった本書は、我々は完全に自由でもなく、完全に強制された存在でもない中動態の世界を生きている、という終着点にたどり着く。様々な外的要因によって、スピノザ的に言えば「変性」し続ける存在として、依存症のような病はとらえられなければならない。依存症が中動態的である、というアイデアを我々はごく自然に受け止めることができる。

 同じ理由で、生活習慣病もやはり中動態的なのである。「理性が肯定し、欲求が追及する」結果として行為が引き起こされるのならば、生命維持に必須の糖質と脂質を際限なく摂取することについて、我々がそれを制御する意志などもてるはずもない。火に触れれば熱いから触らない、といった単純な選択においては、合理的な判断と生理的な欲求の合致を常に見る。しかしながら、脂質と糖質を過剰摂取してはいけない、という禁止事項を、欲求が追及することはなく、理性も厳格な知識を持ってしかこれを肯定しえない。

 要するに、生活習慣病は本来、抽象的な事柄としてしか理解できないはずのものなのである。したがって、医療はこれを病として名指しし「脱色」するのみならず、それを身体および環境の恒常性の歪みとして批評し「彩色」することをもって、その治療とすべきなのである。依存症の背景に隠れた環境の歪みを想像するように、あるいは呪術のむこうに共同体の歪みを想像するように。

 

 しかし考えてみれば、ソンタグの時代から、アートとしての病は中動態の形をとっていたのかもしれない。なぜなら、癌も結核もエイズも、常に患者自身の性質を発露するものとして患われたからである。そもそも、病を患う主体は、常に患うという動詞の内部にあるはずである。こうなると、あらゆる病は本来中動態的に存在するはずではないか、という、奇妙な結論に達する。

 おそらく近代科学の「脱色の精神」では、この見方を理解できない。西洋医学的には、病を患うのは患者だが、本質的には患者の身体の恒常性に異常が生じたことが問題であり、その以上を対象化して克服することが欲望されるからである。このことを、意志の存在を支持する西洋哲学の変遷のなかで中動態が抑圧されてきた、とする國分の議論と並置したとき、もしかすると病を能動態と受動態のパースペクティブにおいて理解しようとする視座は、すでに西洋医学の限定を強く受けているのではないか、という疑念に行き当たる。かつてはいたるところにあった中動態的な病のありかたは、近代科学と医療の欲望の陰でずっと抑圧されてきたのでははなったか。

 『ハーモニー』がこの限定された視座のもとで書かれていた可能性については既に述べた。つまり『ハーモニー』の「その先の言葉」を紡がんとする我々は、生活習慣病のみならずあらゆる病において中動態を再起させることによって、WatchMeの呪術の弁証法を試みなければならないということである。

 

権力が病を治癒するか

 

 『ハーモニー』と『中動態の世界』をつなぐキーワードの一つに「権力」がある。

 『ハーモニー』において、それは規律訓練型の権力よりもさらに直接的な、ほとんど暴力に近い形で描かれた。一方、國分はアレントとフーコーの議論を引きながら、権力と暴力の違いを丁寧に紐解いていく。

 問題は、いったいどのような権力なら病を治癒しうるのか、ということである。

 

 

我々はなにに歩かされたのか

 

 権力が必ずしも行為の選択に関与しないとしたら、権力によって病を治めるためにはやはり意識を支配せねばならない。もうすこしほかの必要を考える必要がある。

 ここで我々は、2016年の夏、誰に強制されるわけでもなく暑い屋外を10kmでも20kmでも歩きまわり、結果として健康を手に入れたあの経験を思い出さなければならない。

 

10年後のハーモニー 

 

……

 

 

[i] 文庫版『ハーモニー』の解説より、佐々木敦による伊藤へのインタビューから。

文字数:12273

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