『この世界の片隅に』が傑作であることを痛感するあまり批判のために解離性同一性障害を来さなければならなかった28歳男性の実験的『片隅』批判

 

※、

以上のように本作については、「賞賛以外の批評」がほとんど存在しない。(中略)確かに本作は圧倒的に素晴らしい。その存在自体を奇跡と呼んで差し支えない。しかしそれでも、これほどまでにまともな批判が不足している状況は健全とは言えない。それは批評の敗北である。

斎藤環が『この世界の片隅に』について語った言葉から

♡1-1、

 みなさんは、広島にある平和記念資料館を、訪れたことがありますでしょうか?

 原爆爆心地のジオラマ、被爆者の焼けただれたモンペや、原爆投下のときから止まったままの腕時計、そして、これまでの広島市長が各国のえらい人にあてて書いた、核実験に抗議するおびただしい手紙たち、そもそも、その資料館を訪れるわたしたちが今まさに、爆心地に立っているということ…。資料館を訪れたわたしたちは、ほんとうのモノたちや場所がもつ圧倒的なエネルギーにさらされ、原爆のもたらした悲惨さについて考えさせられます。

 『この世界の片隅に』も、そういう映画だと思います。美しかった広島の街並み、美しかったすずちゃんやすみちゃんの身体、困難ながらも工夫によって保たれていた衣食住、つまり、美しかった日常…そういうものを丁寧に描いておいて、それを一息に壊してしまうようなこの映画をみたわたしたちは、映画館を出るやいなや、思わずそこに変らずあるモノたちの美しさについて考えさせられ、それを奪う戦争の所業について考えさせられてしまうのです。

 

♠2-1、

 などと言うときの、この「考えさせられる」という表現は実に言い得て妙である。何かに、誰かに「考えさせられ」ているとき、まさに「考え」ることを強いられているのにもかかわらず、人は自分の頭で、自分の言葉で「考え」てはいない。考え「させられ」ている、というのが必要十分に正確な表現である。それは思考吹入にも似た体験だが、起こっているのはいわゆる思考吹入とは真逆のことで、思考が吹入しているにもかかわらず、それを自分の頭で考えたものと思い込んでしまうのが興味深い。

 優れた表現は受け手の思考を活性化するが、あまりに優れた表現は受け手の思考を止める。この差異はとりもなおさず、受け手がみずから思考するための余白が残されているかどうか、という点に依存する。かつてショウペンハウエルが読書について鳴らした警鐘は、その後登場したあらゆる表現形態についても妥当な指摘である。

 

※、

 読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、仮借することなく他人の思想が我々の頭脳に流れ込んでくる。ところが少しの隙も無いほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。というのも、他人の思想はそのどれをとってみても、それぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて、おのおのが自然に合流して真の思索や知識、見識や確信に伴うはずの全体的組織をつくるにいたらず、むしろ創世記のバビロンを想わしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれを詰め込みすぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れるからである。

ショウペンハウエル『読書について』

 

※、

 平和記念資料館を訪れた世界の政治家たちのコメント。

 

この残虐な行為が、決してまた起こりませんように

フィデル・カストロ 2003年3月3日

この美しい都市の悲劇を決して忘れぬよう、この悲劇が二度と起こらぬよう、皆で努力しよう。

ベティ・ウィリアムズ 1996年8月28日

深く感動しました。このようなことは二度とおきてはならない!

フレデリック・ウィレム・デクラーク 1997年7月28日

二度とあってはならない

ヘルムート・シュミット 1995年11月1日

Message for Peaceより(拙訳)

 

♡1-2、

 もちろん、映画をみたあとで漫画もよみました。

 漫画『この世界の片隅に』の魅力は、ていねいな調査と考証をもとにした、細部、というより、情報、にあると思います。数ページに一度はコマの外に注釈があって、時にはコマの中にもにぎやかに説明が並んでいます。ページをめくる手をとめてその説明を読みこむたび、たった70年前の生活についてなにもしらないことに驚かされながらも、その当時の生活について思いを巡らすことができます。その最たる例は、くすのき公のごはんをおしえてもらったすずが、自宅でそれを試すところでしょう。

 一方、映画ではそのシーンが、流れるように一つの動作として描写されます。件のごはんのシーンでは、「甘藷を切りて蒸す」「すぎなは軽くゆで、水に晒して刻む」「小麦粉を甘藷とすぎなにつき混ぜて、平たく丸める」という説明書きも、すずさんの所作と一緒に歌のようになって流れていきます。そうやって流れていくうちに、いつの間にか料理ができています。まるで、facebookをスクロールしているとときどきながれてくる、あの美しいレシピ動画たちをみているときのようです。

 

♠2-2、

 クックパッドを読めば、知識がなくても料理ができる。では、TastemadeやKurasiruの動画を見ながら料理が作れるか、というと、意外とそうでもない。動画形式で時間を区切って提示される情報は、料理慣れした者には必要十分だが、慣れていない者にとっては必要な情報が欠けているし、決まった時間で流れるように提示される情報は、しばしば受け手の処理できる範疇を越えた過剰負荷となり吸収されない。

 文字情報であれば容易に提示できる、たんぽぽは「苦い」、はこべは「甘い」というような「意味」の部分は、料理そのものの流れにおいては枝葉である。動画は一本の線形の情報形態であるからして、そういう枝葉を切り落として提示せざるを得ない。一方、料理のコツというのはむしろその枝葉にあったりする。

 しかし、それでいいのである。クックパッドが実際に料理を作る者のためのインデックスであるのに対して、TastemadeやKurasiruの動画はそれ自体がinstagramという視覚優位のメディアにおいて消費されること自体を目的とした、コンテンツにすぎないからである。歌うように、流れるように甘藷の団子を作るすずを見ているわたしたちの目線は、自らも料理する生活者のそれではなく、料理を何かパフォーマンスのように距離をとって眺める目線である。

 映画『この世界の片隅に』の中では、生活動作が意味を排して、動作そのものとして繰り返し描写される(ように、初見の段階でその意味を知らない者には見える)。たとえば、映画の中では北條家の人々が一升瓶の中を棒でつく動作が繰り返し描かれるが、その動作の意味を知らぬ者にとって、それは「繰り返される日常」という意味のみをもって理解されうる。漫画ではこの動作は「米…配給されるのは玄米です。栄養価は高くても、吸収が悪く、炊いても増えないので、各家庭で搗いて精米したりしていました」という注釈とともにさりげなく提示されるのみである。それは当時の食文化を伝えるディティールとして、たねつけばなは「辛い」、はこべは「甘い」といった図鑑的な情報とあくまでも等価に並列されている。

 ところが映画では、漫画でも一升瓶が登場した楠公のシーンのほか、序盤に径子のワンピースと帽子を取り出すシーンで母が、憲兵が北條家に来た後で皆が大笑いする中ですずが、玄米を搗いている。これは明らかに、意図を持った反復である。

 

※、

マンガはわれわれの認知特性に最適化したメディアでもある。われわれはそこに情報や物語を単に読み取るばかりではない。コマの中に顔が書かれていれば、われわれはそれを決して無視できない。顔を見るということはそこに感情を読み取ることにほかならず、感情を認知すればわれわれは否応なしに「意味」へと誘導される。かくしてコマを追ううちに、われわれはほとんど強制的に、意味と物語の最中に拉致されてしまうことになる。

日本のアニメは、こうしたマンガのコード表現をほぼ忠実に継承したメディアであるがゆえに、以上の特性はアニメにも該当する。つまりマンガもアニメも、徹頭徹尾、意味と物語にまみれたメディアなのである。

斎藤環「すべては「すずさんの存在」に奉仕する」『美術手帳 vol.69 No.1049』

 

♡1-3、

 「フス」だとか、「録事」だとか、「敵性音楽」だとか、意味を知らなければ聞いたそばから忘れていくようなキーワードたちを、映画では会話の端にだしておいてそのままなので、わたしたちは一度映画をみただけではその情報過多に圧倒されてしまうのですが、しかし映像というのは時間の経過とともに勝手に進んでいくわけですから、なんとなくわかるところだけつないでわかったような気持ちになることもできます。原作のほうは、知らないことを知らないまま読み進めていくことを許してくれません。なんだろう、と思うときは必ず、いやそう思ってすらいないときでも、コマの外には注釈が並んでいます。この点では、原作のほうは説明過剰で、映画のほうは言葉足らずといえるかもしれません。

 しかし、逆に考えることもできます。

 映画の中でくりかえし天井をなぞる右手は、まるで焼き鳥の串のようにして作品全体を貫き、モチーフとしての右手をやりすぎるくらいに協調しています。こういう大事なモチーフは、漫画とちがってちゃんと一度見ただけで誰もがわかるように説明されています。わたしたちは、すずの右手について考えることをやめられなくなってしまいます。くりかえし玄米を搗き、くりかえしお粥さんや汁物をつくる北條家の人々をみているうち、わたしたちは日常について考えることをやめられなくなってしまいます。だから、わたしたちは一度映画を見ただけでも、すずさんの右手の意味を、北條家の日常の意味を理解することができ、ここで描かれているのはそれらが失われる物語なのだということを、きちんと理解することができます。こういうわかりやすさ、親切さは、漫画の方にはありません。

 

♠2-3、

 つまり、映画『この世界の片隅に』が行ったのは、漫画において等価に提示されていた「意味」の、重みづけと選定である。そうすることによって、受け手の感情の流れに水を差さずに、線形に感情を誘導し、一つの物語を共有していくことを可能にしている。

 読書体験そのものを時間軸上でとらえたとき、欄外の注釈は没入的な読書からの逸脱に他ならない。プロットを離れ、純粋な歴史的事実に思いを馳せるとき、確かに我々は自分の言葉で「考え」ている。

 こうのは漫画のなかで、焼夷弾で呉が火の海になった次のページにも、玉音放送にすずが慟哭した次のページにも、右手を喪ったすずが右手とともに過ごした半生を振り返る次のページにも、欄外の注釈を入れた。映画では時間をかけて描かれた最初の空襲のシーンも、漫画では飛行機がすずの上に現れてから義父が目を覚ますまでたったの3ページしかかかっておらず、その次のページには新学期を迎えた晴美の服をそろえるための衣料切符に関する事細かな資料が1ページかけて書かれている。戦闘機の来襲と、衣料切符の点数は、読書体験において等価である。

 この注釈は、演出された読み手の感情の流れをわざわざ断絶する。感情が断絶することによって、読み手はふと我に返り、時にそのページに指を挟んで本を閉じ、注釈で得た知識をもとに、そこに書かれていたこと、そこで起こっていたことについて、思いを馳せる。これは逆説的に、漫画『この世界の片隅に』が、読む者が戦争とその時代について自ら考えないことを許さない、ということであり、注釈は思考するための余白である、ということである。

 右手だけが登場するコマも序盤から数多く登場するけれども、それらはあくまで他の要素と同じコマの大きさで、等価に描かれる。読書体験としてはむしろ、右手を眺めている時間よりも北條家の間取りとか、焼夷弾の仕組みとか、衣料切符のような資料を眺めている時間の方が長いはずである。枝葉の情報は作品に多層性を与えることによって、作品が「右手を喪う物語」「日常を奪われる物語」として固定され、そこで読み手の思考が止まってしまうことを阻害しているように思われる。

 映像というのは線形に提示される情報であるからして、線形に感情を誘導することが容易である。そして、映画『片隅』もそれをやっている。受け手がそれを拒んで自分の頭で考えるためには、映画の世界から一度離れなければならない。これが、この映画について自分の言葉で語ろうとする者が、複数回の視聴を余儀なくされる理由であり、映画館を出てから泣く、という感想が多い理由でもある。ただし、そうやって余白に各々が自分の頭で考えてくれればよいのだが、考え「させられ」るところにとどまる者であってもこの映画体験を終えることはでき、映画を賞賛する感想を拡散することもできる。映画『片隅』は、「わかりやす」すぎるのである。

 

※、

しん-じゃ【信者】

1 ある宗教に対し信仰をもつ者。また、その宗教集団の成員。信徒。
2 ある人物に傾倒して、その言説・思想などを熱心に信奉する人。

ドグマ【dogma】

1 各宗教・宗派独自の教理・教義。
2 独断。教条。「ドグマに陥る」

デジタル大辞泉

 

♡1-4、

 そして、映画『この世界の片隅に』が素晴らしいのはもう一つ、音でしょう。

 のんさんの声、爆撃機の音などはよく触れられるところですが、リアリティーという点で言えばそもそも秀逸なのは、火を炊くかまど、湯気のもれるお釜といった、生活音のサウンドスケープでしょう。しかし、漫画から映画に生まれ変わった『片隅』で新たに付け加えられているのは、それだけではありません。

 たとえば、付け加えられたセリフ。

「戦争しよっても蝉は鳴く。ちょうちょも飛ぶ。6月の空襲さわぎのときはもう、すぐ目の前にやってくるか思うた戦争じゃけど、今はどこでどうしとるんじゃろう?」

映画『この世界の片隅に』 0:50:58

 漫画にはなかったこのセリフは、すずさんの素朴な声で発せられると、そのあとのお砂糖さわぎのコミカルさと相まって、昭和20年6月にあってもなおそこに日常があったことを感じさせてくれます。

「なんでもつこうて暮らし続けるのが、うちらの戦いですけえ。」

同 1:47:35

 呉の北條家に残ることを周作に伝えたすずが、伝単を揉んで便所紙にしながら口にするそのセリフ。これもまた漫画にはないセリフですが、銃後で生きた人々が必死に日常を守ってきたことを感じさせます。

 あるいは、付け加えられた音楽。初めての空襲に身を伏せながら、義父が歌う軍歌。下関に向かう径子一行のそばを通り過ぎる、行進する子供たちの歌。見舞いに行った先で流れる敵性音楽。右手と晴美を失ったすずの回想の後ろに流れる嫌な音楽。

 こうしたセリフと音の表現は、おなじく嫌な音楽につづいて「六月には晴美さんとつないだ右手」からはじまり部屋の中に反響する、すずの走馬燈のような回顧のセリフに結実し、さらに敗戦の慟哭に至るまで、わたしたちの感情をとどまることなく揺さぶり続けます。もちろん、そこに戦闘機と爆撃の嫌な音、嫌な感情をむきだしにしたすずの声が絡んでいることはいうまでもありません。そして、だからこそ、その音が静まった敗戦の日以降を、私たちはエピローグのように安らかな気持ちで見ることができるのです。

 

※、

さて、運動のリアリティーを補完するのは「音」である。人間は環境情報の8割以上を視覚から得ているとされるが、リアリティーを担保する比重は、むしろ聴覚よりであるとされている。精神医学的には、幻視よりも幻聴の方がはるかに不安と恐怖を喚起する、という臨床的事実もある。

斎藤環 前掲書

 

♠2-4、

 映画『片隅』は、聴覚的情報を得たことによって、受け手に一様に不安と恐怖を喚起し、その思考を幻聴のように支配する力をさらに強くした。実はこの点は、漫画『片隅』がやっていることとは対照的である。

 ただでさえ音を持たない漫画の中で、こうのはしばしばセリフさえも書かずに数ページの描写を絵のみで進めてしまう。配給がなくなり貴重品となった北條家の砂糖に蟻が群がって、それを守ろうと思案したすずと晴美が水瓶の中に砂糖を落としてしまうコミカルなシーンは映画でも漫画でも印象的だが、映画ではその全編がすずと晴美のセリフによって説明しつくされ、あろうことかその冒頭には上述のようなモノローグすら付与されている。

 聴覚的な演出によって、『片隅』はもはや「戦時の生活がだらだら続く様子を描く(漫画『片隅』のあとがきより)」という当初の意図から逸脱し、明らかに敗戦を一つのカタルシスとし、その後をエピローグとする感情の流れを完成させている(この点は、漫画において敗戦後にさらにだらだら続いていた生活を大幅にカットしていることからも指摘できる)。日常を丁寧に描いた点を評価されやすい『片隅』は、映画化されいくつかのセリフを付与されることによって、その「日常」性をあまりにも強調され、それを破壊したものとしての「戦争」を描く映画、という立ち位置に立つことになってしまった。

 こうのはあとがきで、わざわざ「この作品は解釈の一つにすぎません」という限定をつけている。しかし、圧倒的な聴覚的リアリティと意味の編集によって演出された映画『片隅』は図らずも、「日常」を壊した「戦争」という物語が一つの真実であるかのような印象を、思考を止めた者に植えつける力を持っている。世界の片隅について描いていたこの作品は、映画において一つの大きな物語と、世界の全体を描くものになってしまった。少なくとも、そういうあらすじ化を容易にしてしまった。

 

♡1-5、

 さいごに、映画になったときに改変されたセリフ、「選択」と「現実」について指摘しておきたいと思います。

過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな
すずさん あんたを選んだのはわしにとって多分最良の現実じゃ

こうの史代『この世界の片隅に 中』 p34

過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めて終わった夢と変わりやせんな
すずさん あんたを選んだのは多分わしにとって最良の選択じゃ

映画『この世界の片隅に』 1:00:40

  漫画『片隅』で描かれていることが、あらゆる可能世界と並列に扱われるべき「現実の一つ」だったとするならば、映画『片隅』が描きたかったのは、はっきりとした意図をもって「選択」された、「たった一つの現実」だったのかもしれません。世界はこれ以外にありえないのだ、という周作の思いが伝わってくるようです。

 

※、

 CinemaScapeに寄せられた、映画『この世界の片隅に』(★4.5)レビューの抜粋。

この段々畑を始め、呉や広島の街の様子、すずの家の様子、監督がものすごくこだわって描写したのがこれらの風景だったと聞く。でもむしろそこにこだわるのは当然だったのだろう。なぜならこの作品の本当の主人公は「当たり前の毎日」であるからだ。

おーい粗茶

柔らかく淡々とした描画と演出のなかで、ヒロインは日々を重ねそこに喜びや楽しみを見つけ、暮らしを続けてゆく。

水那岐

戦争という大きな運命に翻弄されても、みんな正直に前を向いて生きている。

pinkmoon

戦争の中を必死に生きてきた人がいる。戦争があって辛く苦しく絶望しても笑顔を持つことが必要なのだ。

deenity

悲しみとともに怒りもあれば、破局に向かう中で生きていかなければならない人々のたくましさ、図太さもあれば、日々の暮らしの中の生きる喜び、楽しさ、そういってよければ幸せ、ささやかな希望もある。

シーチキン

物語は執拗に「日常」に回帰し生活に立ち返ることで、生きることの幸福を描き続ける。

ぽんしゅう

現代に生きる我々からは、彼らの素朴なありのままの日常があまりに美しく、むしろ幻影のように見える。

セント

真昼間の畑での日常はあっけないほど瞬時に非日常に蹂躙される。

けにろん

喪失”もこの映画のキーワードでしょう。人々、街、自身の身体。

ペペロンチーノ

すずが利き腕を失う物語。(中略)利き腕の喪失は即ち美術の喪失だ。

寒山

この世界の片隅に|CinemaScape ―映画批評空間― より

文字数:8296

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