小説の子、科学の子 ―ポスト科学と『ポロポロ』論―

 

序、

 1909年、森鴎外は『追儺』のなかで、戯曲でも抒情詩でもないものとして産み落とされたあらゆる言語芸術が投げ込まれる「小説」というごみ箱的な概念が、その雑多さににもかかわらず「かういふものをかういふ風に書くべきである」という短期的な流行に囚われれているのを揶揄して、「小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ」と反論した。

 その出生の怪しさ、その正当な血筋との断絶性から、マルト・ロベールは小説を「私生児」と呼び、蓮實重彦は「死児」と呼んだ。もし、言語芸術のごみ箱に産み捨てられた子供が―仮に生きていたとして―いつか大きくなったら、そのときいったい何を語るのか、産み捨てた当の作者にとっては知る由もないだろうが、正当な血筋によって「正しい」語り方を教えられることのなかった私生児は、ときどき誰も聞いたことのない言葉を話しだし、既存の物語構造を揺るがすようなことがある。

 

一、

 たとえば田中小実昌の『ポロポロ』がそうだった。

 1944年、田中小実昌は軍隊から召集をうけて、初年兵達の1人として中国へと運ばれた。中国戦線では戦闘がなかったことは有名だが、行軍はあった。行った先に何があるのか、そこへ行くことが役に立つのか立たないのか、そもそもそれがどのような系統で下った命令なのか、わかるようでわからないまま、下痢と栄養失調と不衛生のために骸骨のようになりながら、田中は行軍を続けた。戦闘はないが、1人また1人と兵は死んでいった。やがて中国で終戦の知らせを受け、無事に帰国した田中は周囲に中国でのことを語るようになるのだが、そうして語られた戦争体験は、アメーバ赤痢、粗末な食事、死んだ人といった精細なディティールの間にどうしても開いてしまう記憶の空白を空想と推測で埋めたて、しまいには他人から聞いた話すら見てきたように語る、いわば物語のようなものになっていた。

 1979年、終戦から実に30年もたった後で出版された『ポロポロ』は、しかし、そんな物語化への反省によって描かれる。

ぼくは、あちこちで、あの少年兵のことをはなすようになってたのだ。八月十五日の夜、分哨では、まだ終戦をしらず……といった調子で、撃った初年兵もぼく、胸の物入れに小枝の箸をさして撃たれた初年兵もぼく自身であるかのような思い入れで、ぼくはしゃべってた。
(中略)
だが、こんな物語は、北川にはしゃべれない。あのとき、北川がぼくに話してくれたのとは内容がちがうというのではない。内容の問題ではない。いや、それを内容にしてしまったというのが、僕のウソだった。あのとき、北川がぼくにはなした、そのことがすべてなのに、ぼくは、その内容を物語にした。

 この反省のもと、『ポロポロ』の語りは終始物語にならないように進められる。たとえば、行軍の途中で突然ひっくりかえり、塩をふいて動かなくなった、池田という男について述懐するこの場面。

池田のことは、塩をふいた池田の顔を見ただけで、どうなったかはしらない。あとになって、池田は死んだというはなしをきいた。無責任なおしゃべりだろうが、池田が死んだことはまちがいあるまい。

 池田の精細な描写につづいてなされる死についてのこの言及は、その事実について自分はあくまでも知らないのだという、病的な実直さで行われる。物語なら「池田は死んだ」と言ってしまえば済むし、歴史的資料としては「池田の生死は不明」で済むところを、「どうなったかはしらない」と保留しつつ「まちがいあるまい」と断言する。何かを語っているようでも何も語っていないようでもあるこの語りは、過去を語る態度としてはエッセイやノンフィクションの類とは明らかに異なり、かといって歴史小説とも言いがたく、そのどれでもないがゆえに『ポロポロ』は、鴎外の時代よりも文学のジャンルがはるかに細かく分けられ命名されている今日においても、特別な名前をもたない「小説」の子としてしか分類できない。しかし、類縁するどのジャンルの言説よりも、はるかに生々しく中国戦線を、戦争を読み手に伝えるこの小説の説得力はどういうことか。

 疑うのは自らの物語だけではない。田中はいつしか社会的な通説となった物語をも、自身のあいまいな記憶をもって照らしなおす。たとえば軍隊の命令体系に関するこの言及。

軍隊はなんでも命令だから、というのも物語だ。ぼくは命令というものをうけたことは、一度もない。命令がくだった、というはなしはきいたことがある。れいの敗戦の放送のあと、総攻撃の命令がくだった、といううわさもあった。(中略)命令をうけたことのあるほかの兵隊ならともかく、そんなぼくが、軍隊はなんでも命令だから、などとは言えない。言えないのに、言うのは、やはり物語だ。

 所謂戦争ものにあるような―典型的には『フルメタル・ジャケット』のような―繰り返し語られてきた「軍隊の厳格な命令体系」は、すでに読み手との間で共有されている物語であり、これを骨格とした小説は書き手にとっても読み手にとっても苦労が少ない。しかし、田中はそれをしない。曖昧なはずの記憶を彩って描けばそれは物語になるし、記憶と記憶の間をあとから線で結べばやはり物語になる。もちろん借りてきた物語で自らの記憶を彩ることも、物語化に他ならない。物語化された記憶は鮮やかで明瞭だが、ほんとうに起こった過去の出来事とは必ずしも一致しない。この営みはしかし、人間の記憶の蓄積において恒常的なものであるし、したがって人間の歴史認識もまた、この営みから逃れることはできない。言ってみれば『ポロポロ』は、そうやってすでに物語として固形化してしまった30年前の記憶を、あえて解きほぐすような反重力的な試みである。そのプロセス自体を率直に表出していることが、『ポロポロ』にふしぎな説得力を与えているように思われる。

 2004年に出版された文庫版の解説では、田中克彦がこの姿勢を評して「最近は学問までがますますつじつまあわせのウソで固められて力を失っている。物語にしてはならないものまでが物語に仕立てあげられてしまうからである」などと書いている。それから12年後、2016年に幕を開けたのはポスト科学、ポストトゥルースの時代であった。由緒正しい科学の子までが物語として産み落とされる時代にあって、私生児たる小説の自由を論ぜよということならば、その対照におかれるのはその他の言語芸術ではなく、科学的言説でなくてはならないように思われる。

 

二、

 『追儺』を書いた森鴎外は、文人であると同時に科学者であった。しかし、科学者としての鴎外の一生は、決して羨ましいようなものではない。

 1884年、軍医としてドイツへ留学する森鴎外に与えられた使命は、ドイツの衛生学を学び、ドイツ陸軍の衛生制度を日本に持ち帰ることだった。ペッテンコーファー、コッホといった名だたる医学者に師事した鴎外は、まだ新しかった疫学の手法を知り、いずれ自らの手で疫学研究を行うことを望む。しかし、帰国した鴎外に日本が求めたのは彼自身の研究ではなく、欧米の最先端の知見を日本語に翻訳することだった。

 1885年、のちに日本疫学の祖と呼ばれる高木兼寛は、当時感染症と考えられていた脚気という病が、実は栄養欠乏に起因するのではないかという仮説を疫学的手法によって実証した。鴎外はといえば、ドイツ医学でも主流であった脚気感染症説を支持する立場をとるしかなかった。世界が高木の説を正しいと信ずるようになったのはそれから約30年後、ビタミンB1が実際に発見されて以降のことである。結果として、鴎外は1904年の日露戦争で約3万人の病死者を出し、脚気論争の敗北者という実に不名誉なかたちで、医学史に永遠にその名を残すこととなる。

 鴎外が科学者として抱いたであろう満たされなさには、今もって同情を禁じ得ない。「小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ」のくだりは抒情詩と戯曲を対照として書かれたものだが、翻って医学、あるいは科学を含むあらゆる非芸術的言説を対照においたとき、そこにはなにか哀愁のようなものが漂う。科学との間に儲けることを許されなかった鴎外の子供は、小説という形で、ひそかに、私生児として産み落とされたのかもしれない。

 

 哲学や科学が「何をどんな風に書いても好い」わけではないという事実は、もう少し後になって発見される。

 1921年に出版されたルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、哲学が語りうる範囲とその限界を定義することによって、これまで語りえないはずのことについて平気で語っていた形而上学に幕を引いた。これを聖書のように崇拝したといわれるウィーン学団は、科学と似非科学の間にも「検証可能性」という一線を引いた。哲学も科学も「語りえないものについては沈黙するしかない」[i]。以来、少しずつかたちを変えながらも、あらゆる非芸術的言説がこの原則に則って記述されてきた。

 ここに一見明快な、小説と科学の二項対立をみることもできるのだが、しかし、この二項は真ん中に空白の領域を孕んでいる。「何をどんな風に書いても好い」と「語りえないものについては沈黙するしかない」のあいだ、その対象の一回性ゆえに再現も反証もなされえない宿命的に検証不可能な領域に沈んでいるもの、語りえないはずのものについて、それでもなにか語らなければならないとき、いったいどちらの岸から出発するのか、という問題がある。

 

 たとえばかつての精神医学がそうだった。人間の精神の営みをあとから検証することには限界があり、精神疾患の発症要因の特定を再現によって行うこともむずかしい。科学が検証可能性という線で区切られはじめたとき、この領域は容易には立ち入りがたい空白地帯となった。

 1886年にジクムント・フロイトが編み出した精神分析は、この空白に踏み込む科学の側からのトリッキーなアプローチであった。これを受けて1924年にアンドレ・ブルトンが提出したシュルレアリスムは、この空白に反対側の言語芸術の側からアプローチする方法であり、彼はこれを言語芸術が自由を獲得するための方法だと主張した。残念ながらこの空白はフロイト自身の予言どおり、その後の脳科学の進歩によって科学の側から埋め立てられていくこととなる。こうして埋め立てられはじめた空白には、いずれ小説が忍び込む隙はなくなっていくかもしれない。

 ただし、ごく一部の言説は、科学がその島を広げた今日においても検証不可能性を背負い続けている。歴史学、あるいは過去に関する言説はどうか。過去の出来事がその一回性を失うにはタイムマシンの発明を待たねばならず、少なくともその兆しは今日まだない。この未踏の空白をおそるおそる冒険することに、小説にしか獲得しえない自由がある。

 

三、

 小説が歴史の空白を歩くには、いくつかの方法がありそうである。

 たとえば山田風太郎の歴史小説は、緻密な時代考証に立脚することによって過去にアプローチした小説なのだが、語りうることを確認できた客観的事実に忠実であるという点からすると、空白へと足を踏み入れた地点はむしろ科学の側に近い。『ポロポロ』がやっていることはその逆で、だれも真偽を検証することのできない一個人の主観的体験を精細に語ることによって、その周辺の時間と空間をおぼろげに立ち上がらせるようなこの試みは、まさしく小説の側から空白へと踏み込んでいった例だろう。たった一つの症例報告からでも、またそれが多くの部分を欠損した報告であっても、その症例が属する全体について言及することができるというのは、科学には与えられていない小説の自由である。

 しかし、逆にこういう風に考えることもできないか。山田の歴史小説はあくまで事実をもとにしながらも、その事実と事実を空想によって加工しつなぎ合わせている点で、その終着点は小説側の岸である。一方『ポロポロ』が結果として編み上げたのは、覚えていないことは覚えていない、これは自分の推測にすぎない、という極めて科学的な自制によって生のまま保たれた、事実の集積である。両者はそれぞれ別の岸から出発し、その空白地帯を通り抜けて、最後にはそれぞれ反対側の岸へとたどり着いたことがわかる。

 この空白を歩いた足取りを見せることが、小説の営みに他ならない。『ポロポロ』は同じところを行ったり来たりしながら、ここを進んでもいいものかと迷いながら、最終的にはどこを歩いているのかわからなくなるような放浪を、そのまま小説としてて提示した。一方で山田のそれは事実と事実の間を一筆書きで周到にわたっていくような明快な冒険の形をとっており、娯楽として成立する小説にはこういうわかりやすさが必要かもしれない。ただし、あらかじめ歩くべき道を知っていたかのようなあまりにも迷いのない足取りを読むときには注意も必要である。それはすでに誰かが歩いた物語の道を、地図を見ながら歩いているだけかもしれない。

 翻って2017年、ポストトゥルースの時代にあっては、あらゆる言説が物語化して提供される。それはインターネット上で検索され、共有され、手軽に読まれなければならないという宿命を負い、余計な枝葉を切り落とされ、時には人為的に加工・矯正されたシンプルな形で提出されねばならない。科学とて例外ではない。検索と共有を過剰に意識するあまり、ナンセンスな矯正をうけた科学物語をも繰り返し掲載した結果、ついには休止に追い込まれた医学系キュレーションメディア「Welq」の例は記憶に新しい。「Welq」ほど派手なら人目もひくし、適切な批判を受けることもできようが、批判をまぬがれたまま物語として機能しつづける科学的言説は数多ある。それらはもはや大きな物語とはなりえなくてても、一定のクラスタの内部で共有されることによって、非科学的な政権を成立させ、維持することくらいはできる力を持っている。

 1989年、小説を死児と呼んだ蓮實重彦は、小説が果たすべき本来の役割についてこんな風にも書いている。

小説が物語と無縁のいとなみであるはずはなかろうが、いったん物語の支配に屈したものは、それが長編であれ中編であれ、歴史を解消することで得られる白々とした地平での葛藤の不在を容認することにしか役立ちはしまい。[ii]

(前略)作家という名の「完璧な捨子」にできることは、物語によって均質化された集団的な想像力を解きほぐし、共同体の内外に向けて断片化された記号として再分配にふさわしい装置におのれをなぞらえることをおいてはあるまい。[iii]

 歴史小説は―あるいは物語をするような科学的言説は―本来語りえない空白を物語で埋め立て、それを塗り重ねようとする。空白の地平を自らの足で歩くことは、作者にとっても読者にとっても葛藤を伴う作業だからである。わかりやすく面白い話は、すでに誰かが踏み固めた道の上を歩くような物語でなくてはならない。そうして既存の物語をなぞっただけの言説は、しかし、その物語を反復し強化しながらも、それ自身は実際のところ何を語ることもない。

 人の記憶もまた、本人によってなんども反芻されるうちにわかりやすい物語として定着する。それは空白地帯で同じ道筋をなんども反復し、踏み固め、しまいにはコンクリートで舗装するような作業である。『ポロポロ』はそうやって疑似的に固められてきた道に一点の明かりをともし、そこがほんとうはまだ獣道のままであることを示してみせたのではなかったか。

 

結、

 脚気感染症説という物語に安易に組した鴎外に、はたしてほんとうに自由な小説が書けただろうかと考える。

 科学の不自由に苛まれた鴎外の目には、「何をどんな風に書いても好い」小説には無限の自由があるかのように映ったに違いない。ただし、その自由とは「自由からの逃走」の余地を含んだ自由である。かつてエーリッヒ・フロムが指摘したように、自由を与えられ途方に暮れた市民はやがて自由から逃走し、ナチズムの支配に甘んじた[iv]。本来は自由な捨て子であったはずの小説もまた、その自由の使い方を知らなければ物語の継子となるしかない。小説にだけ許された自由とは、「何をどんな風に書いても好い」ことではなく、「語りえないこと」について「沈黙」も「物語」もしないことである。その自由と裏腹にある責任と孤独を引き受ける覚悟のない限り、小説は語る声を持たぬ死児のままでしかありえない。

 科学すら物語化し娯楽として成立するポストトゥルースの時代にあって、日々上塗りされ強固になっていく物語を科学の側から融解するのは難しい。溶解するための科学もまた、検索と共有の容易さという土俵で戦わねばならず、より魅力的に作られた物語を前にして容易に屈してしまうからからである。物語化し定着した通説を突き崩す反例の症例報告のような、孤独で破壊的な小説がふたたび産み落とされ声を上げることを望む。

 

[i] ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』 1921

[ii] 蓮實重彦『小説から遠くなはれて』 1989

[iii] 同上

[iv] エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』 1965

文字数:6988

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