一人でも二人でもない夜 ―平成の『馬』論―

一、

 三というのは、不安定な平衡を保つことのできる最小の単位である。一ではもちろんのこと、二や四でそのようなことは成り立たない。

 たしか保坂和志だったと思うのだが、「話というのは二人だと嚙み合うが、三人になると必ず噛み合わなくなる」という趣旨の指摘をした作家がいた。「二人で酒を飲めば具体的な話が進むが、三人で酒を飲めば突拍子もないところへ話が広がり面白い、だから私は専門分野の違う三人組で定期的に集まって飲むことにしている」というようなことも書いていた。人間同士が織りなす力学における、三という数の特性をよく表す例である。

 平田オリザは『演劇入門』の中で「情報量に差がなければ、情報の交換は行われない」という風に書いている[i]。これは地の文がない演劇において、説明的にならずに状況の説明をするにはどうすればよいかというレッスンで、つまり状況を知っている者と知らない者とを並べれば会話の中で自然と状況が説明されるはずだという話なのだが、この指摘は裏を返せば「情報量に差があれば、情報の交換が行われうる」ということで、情報の非対称性が一種の位置エネルギーのごときものであることを示唆している。

 話が嚙み合わないということは、つまりその系(システム)は永遠に力学的エネルギーを枯渇しえないということである。先の保坂(おそらく)の話にある三人の系は、情報の交換によってエネルギーを消費しつつ、それが的確に噛み合わないことによって新たなエネルギーを産生する、永久機関のように優れた系の一例だ。

 逆に、話をしない/できないことによって高い位置エネルギーを保持する系もあって、谷崎潤一郎の『鍵』のような間男を利用した三角関係はその一つである。夫の性的趣向や間男と妻の交渉は、それが日記を通じて部分的に明かされることによって、三人の系に高い位置エネルギーをもたらす。しかし、妻と夫が表立ってそれについて語りあうことはできないから、情報の非対称は永遠に埋まらず、そのエネルギーは保存されたままだ。これは、せき止められた川のように不安定な平衡を楽しむことができる系の例である。夫婦二人だけの閉鎖系では、このようなことは起こらない。よく話す妻と夫の情報量はすぐに平衡に達してしまうし、妻と夫がただ話しあわないだけなら、それは話すことがないか、話すこと自体を必要としていないということである。

 一方、三であるがゆえにどこにもいけないのは東村アキコ『東京タラレバ娘』の例である。「女子会」(注:ここではアラサー女性三人が集まって酒を飲みながら進歩のない話を繰り広げることを指す)が定期的に継続するのは、それが動的であることによって平衡を保つ系だからだろう。頻繁に行われる「女子会」はすぐに位置エネルギーを失い、安定した静的な平衡に達してしまうようにも見えるが、実際にはもっとうまくできている。その系に不安定さを与える位置エネルギーを、系の外部の男性とのイベント(純愛、浮気、不倫…)から抽出しつづけることができるからだ。これはいわば、石炭を採掘しながら走り続ける機関車のような系である。残念ながら石炭がなくなると走れないので、彼女たちは石炭の供給がなくなるまえにこの系を解散するか、あるいは別のエネルギー源を開拓しなければならない。

 「女子会」を二人でやってもいいが、あまり盛り上がらない気がする。一方これが四人以上になると、少人数のより安定的な系にわかれてしまうから、ひとつの「女子会」としては存続しない。例外的に存続しうるのは一人のリーダーを冠し階層構造をなした場合だが、この場合は厳密には「女子会」ではなく「〇〇会」の様相を呈する(注:〇〇にはリーダーの名前を入れる)。「〇〇会」が安定するのは情報の価値基準が〇〇にならって整列されるからであって、平衡は保ててもそこに不安定さはない。

 

二、

 男が朝家を出ると、そこに建築資材が積まれている。何をするのかと妻のトキ子に問うと、あなたの住む部屋を立てるのだという。わけがわからないまま男は精神病院に隔離され、帰ってきたときにはすでに家の隣に2階建ての部屋が立っていた。ところが男が住むのは実はその二階のほうで、なんと一階に住むのは「馬」であった。美しく逞しい競走馬ににじり寄る妻の姿に、男はオスとして、ヒトとして激しく嫉妬する…。

 ヒトと馬との三角関係を描いた小島信夫の『馬』は、「僕はくらがりの石段をのぼってきて何か堅いかたまりに躓き向脛を打ってよろけた」という、カフカ的に唐突な異分子の闖入によって始まる。それからの運びも逐一カフカ的であるがゆえに、『馬』はただ一読すると夫である「僕」の家庭からの疎外という不条理を描いた小説のようにみえてしまうのだが、実はそうではない。注目すべきはむしろ、良妻トキ子が夫婦を再生しようとした努力の軌跡であろう。そしてその軌跡は、冒頭の不安定な平衡、高い位置エネルギーを持った三角関係へと続いている。

 元来、トキ子夫妻の意思決定は夫ではなくトキ子によって行われていた。「トキ子との結婚以来、僕は僕であったことはほんのわずかな時間だ。どこにいても僕はトキ子の亭主で、この頃では正当な僕でさえも、いや正当な僕と思う時こそ、すみずみまでトキ子になっている」という具合である。夫はトキ子に鞭打たれて小走りに走り、「足りないわ」と言われるままに日夜働いて小金を稼ぐ。この段階では、彼らは本質的に二人ではなく一人である。一人だけの系において位置エネルギーの生産と消費は生まれないから、トキ子にとっては面白くない。

 そこで、トキ子はまず夫を隔離する。隔離された夫は、自宅から80m離れた精神病院の窓から、初めてトキ子と、また自分の家庭と対峙することになる。窓から見えるトキ子は、新しい二階立ての屋上で開かれた酒宴で大工の男たちに交じる紅一点。微笑を振りまいて「棟梁」ににじり寄る、という思わせぶりなこともやってのける。夜は夜で、棟梁そっくりの影とトキ子の影が窓にうつったと思ったら、部屋の電気が消える。トキ子の不貞について想像もしていなかった夫は、自分を裏切ったトキ子に怒り、疑いの目を向け、ついにはトキ子を「狂人」とまで呼ぶようになる。

 トキ子と夫は、隔離によって初めて二人になる。それだけではない。三人目の棟梁の存在は、夫とトキ子の間に情報勾配を生じせしめる。ここに『鍵』型の三者平衡の原型ができあがる。ただし、これはまだ完成形ではない。もし夫が棟梁と直接対峙すれば、せき止められた川が瓦解するように、偏っていた情報量が一気に平衡に達する恐れがあるからである。

 トキ子はもう一歩先へ進み、不可能性を系に内在させることを考えた。夫との間に生まれた情報非対称を、絶対に解消することのない構成員とはだれか? 物言わぬ競走馬がその答えである。

 馬が夫婦のもとにやってきてから、夫は次第に、物言わぬはずの馬が妻と意思を通わせているのではないかという思いに駆られるようになる。もちろん、馬が夫自身に話しかけてくることはない。しかし、トキ子には話しかけているような気がする。馬が本当にトキ子としゃべっていたのかどうかは結局明らかではないが、その真偽自体はあまり問題にならない。そこに疑念があれば、それ自体が位置エネルギーとなり夫婦の系を賦活するからだ。その証拠に、ここにきてようやく夫は「トキ子のからだにふれて、唇をトキ子の唇によせる」のである。

 残念ながらこの愚かな夫は、それが良妻トキ子の愛ゆえの計らいであることに気がつかない。後日、一度は系から追い出され四人目になりさがった棟梁がトキ子のもとに舞い戻ったとき、馬は自分の立場が脅かされることに気がついて棟梁を追い払おうとするのだが、夫はてっきりトキ子、馬、棟梁の三人で系が完成されてしまったと思いこみ、いっそ自分はもう一度精神病院に入院してしまおうと家を出る。愚かな夫をひきとめるのはトキ子である。トキ子は位置エネルギーを得てかつてないほど活性化された夫婦の系において、これまで決して表出できなかった夫への愛情を、生まれて初めて告白するのである。

 「私はホントはあなたを愛しているのよ。私のような女がいなければ、あなたはまともになれないの、ねえ分かって?(傍点引用者)」

 

三、

 いったい愛とはなにか? それは当事者二人が解くべき、いわば問題のようなものではないか?

 時は戦後、トキ子が妻として直面した愛の問題は、まだ日本人にとっても新しいものだっただろう。戦後、旧民法から新民法への移行によって、「家」制度と家父長制は少なくとも形式のうえでは過去のものとなった。家族は制度によって規定される関係から、夫婦愛を主軸とした関係となった[ii]。一方で見合い結婚に代わって恋愛結婚が優位に立つのはそれから実に10年後、1960年代のことである[iii]。トキ子夫妻がおかれているのは、その狭間である。

 かつての「家」における四以上の系は、たとえ構成員がより小さな二や三として分散していても、空間的に集合していなくとも、法によって結ばれ、家父長を頂点とした階層構造を有していたわけで、その強固な安定性は「〇〇会」のそれに近い。『馬』は、そうした安定的な系からあたらしい民法によって二として切り出された「夫婦」が、はじめて直面した愛の問題である。この問題に果敢に挑んだ小島信夫の解は今もなお鮮やかだ。しかし、ごく一般的な夫婦が愛を解くとき、その最適解が『鍵』型の三者平衡なのだとしたら、それはあまりにも悲しいことである。平成の世に生まれた我々は、もう少し気の利いた解を出さねばならない。

 我々が知っていて、小島が知らないものは二つある。一つは子供が夫婦の系にもたらしうるダイナミズム。もう一つは、トキ子が家事を担っていることである。[iv]

 すでに指摘されていることだが、結婚して十数年たつトキ子夫婦には子供がいない。しかし、それと同じくらい、トキ子の家事に関する言及も全くないことにお気づきだろうか。小島は夫の労働の過酷さにしつこく言及する一方で、トキ子が担う無償の労働については想像すらできていないようにも見える。子育てもまた無償の労働だが、この労働はそれを担う者とただ傍観する者の間に日々膨大な情報勾配を生じせしめる。したがって、はじめての子供が生まれたとき、夫婦は二人から三人になることによって、系を賦活しうる爆発的なポテンシャルを内在化する[v]

 ただし、情報の非対称は位置エネルギーの必要条件にすぎない。情報はその存在を認知されて、初めて交換可能な情報として位置エネルギーを得る。日記によって情報の存在を明かすことで、膨大な位置エネルギーを得た『鍵』の夫婦のように。子育てという労働の存在を夫が認知していなければ、子供から生まれる情報は解消される必要のない非対称性を残したまま永遠に宙に浮く。その見えない非対称性の重さから、むしろ赤子を含む三の系は、二と一に断裂するリスクを孕む…。残念ながら、フェミニストによって家事・育児という無償の労働が発見されるのは、トキ子夫妻が結婚してから数十年も後の話である。当時のトキ子の目には―たとえ彼女が妊孕性を保っていたとしても―子供を産むことは必ずしも最適解とは映らなかったに違いない。

 だがもし、平成のいま『馬』を書き直すのであれば、僕ならばトキ子に、馬を子作りのための純粋な触媒として使い捨てさせるだろう。そしてその末尾を、トキ子の懐胎と馬の追放によって締めくくるだろう。あるいはもし、それが叶わないのであれば、せめてまずトキ子を働かせ、夫に家事をさせ、彼等が二人の系にすでに内包している位置エネルギーを、本来の水準まで高めなおすことから始めるだろう。

 

 

[i] 平田オリザ『演劇入門』1998

[ii] エドワード・ショーター『近代家族の形成』 1987

[iii] 上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』 1994

[iv] この批判は、同じく『馬』の批評において、夫婦を安定させる機構としての子供を「妄想装置」と一蹴した村上春樹にも当てはまる(『若い読者のための短編小説案内』1997)。

[v] 出産に伴い夫婦の系にもたらされる情報爆発とその後のダイナミズムについては、川上未映子の『きみは赤ちゃん』2014を参照されたい。

文字数:5033

課題提出者一覧