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「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力――時空間認識の批評に向けて

はじめに 「オルタナティブ」はないのか?

「Is there no alternative?」

そんな言葉を副題に書き付けた『資本主義リアリズム』の著者であるイギリスの批評家、マーク・フィッシャーは2017年自死した。

このテーゼは元イギリス首相のマーガレット・サッチャーの言葉「There is no alternative」に掛かっている。もとは「市場に代替する仕組みは存在しない」として規制緩和を推し進めた際に使用された言葉だが、フィッシャーは「オルタナティブ」なカルチャーは市場を離れて成立するか? と問いかけているのだ。
「資本主義リアリズム」とは単に「新自由主義」のことを指すのではない。それは「資本主義リアリズム」のほんの一部であり、「トランプ大統領」の誕生も、Brexitという出来事も、資本主義経済を背景に人々が起こす行動・その結果として生じる現象はすべて「資本主義リアリズム」の枠内にあるとされる。フィッシャーが力点を置くのは資本主義というシステムそれ自体の功罪ではなく、資本主義を背景とした単一の「リアル」にすべての構想力が回収されてしまうという「現実主義」の問題なのである。

「オルタナティヴ」や「インディペンデント」なるものは、メインストリーム文化の外部にある何かを指すのではない。それらはむしろ、メインストリームに従属したスタイルというばかりか、その中で最も支配的なスタイルにすらなっているわけだ。*1

この膠着状態(デッドロック)を最も体現する人物と名指されたカート・コバーンが自死を遂げたのは、1994年のことである。2000年代とは、彼の死を象徴としてポピュラー音楽における精神としての「オルタナティブ」が終焉を迎えた時代として記憶される。

ファッションや音楽の世界では「流行は20年周期で繰り返す」ということが言われる。20年前に10代や20代としてカルチャーを消費した世代が、30代・40代となってカルチャーの送り手側に立つことでそうした構造が生じるのだと*2。まさしく資本主義的・マーケティング的なこの説に従えば、2020年代は2000年代の反復ということになる。2000年代は「ゼロ年代」と呼ばれ、新たな文化史がそこから編成されようとした。それは何よりも当時普及し始めたばかりのPCやインターネットが、新しい形の表現やその流通の場の出現を予感させたことによる。いわばロックに代わる新たな「オルタナティブ」精神の拠り所として情報技術が見出されたわけだが、その後20年をかけてPC(スマートフォン)やインターネットは完全にインフラ化し、もはやそれらを扱うこと自体に「オルタナティブ」な役割が期待されることはない。
しかしこれは「資本主義リアリズム」とはまた違った種類の問題のように思われる。そもそもテクノロジーとは社会的・経済的な要請に従いつつその歩みを進めるものだからだ。問題は「現実」に対する「オルタナティブ」としての情報技術が称揚された一方で、「情報」技術自体のポテンシャル……人間の知性や認識のあり方に深く関わるテクノロジーとしての可能性は、十分に汲み尽くされなかったことにあるのではないか。

「2020」年代は「20」という2桁の数字が繰り返すという意味で、オルタナティブな千年紀の系列(1010年、2020年、3030年……)に属している。「資本主義リアリズム」の原理にしたがえば「ゼロ年代」という千年紀の開始点へと回帰する2020年代は、同時にオルタナティブな千年紀への乗り換え点にも位置しているのだ。
この20年の間に「資本主義リアリズム」のループから抜け出すための「ズレ」が漸次的に増大していったのだとすれば、開始点である「ゼロ年代」にすでにその契機は潜在していたと考えられる。我々はいま一度「ゼロ年代」へと遡り、「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力とでも言うべきその契機を活性化させていくことにしよう。

 

第一章 「セカイ」はどこにあるのか

1.

「ゼロ年代」は人間の生活がコンピュータ・テクノロジーに大きく依存していることの顕在化により幕を開けた。西暦の繰り上がりに対応できないプログラムが大量に誤作動を起こし、甚大な社会的影響を与えるとされた「2000年問題」。前後してWindows 95, 98が発売され、一般家庭へPCが普及し始めていたこともあり、この「問題」は実態よりも大きなものとして取り上げられたのである。
こうした「情報社会」の到来をいち早く捉えて新たな主体のあり方について考察した著作が、東浩紀の『動物化するポストモダン』である。2001年に刊行された同書によれば、ポストモダンの新たな主体(オタク)とはディスプレイに映し出された表象そのものではなく、その背後にある「データベース」をも二重写しに見ているのだという。コンピュータ・ディスプレイを介した主体と客体のこの新たな関係性を、同書では「超平面性」「過視性」といった用語で表していた。

こうした変化は物語の受容の仕方にも影響を与えた。当時を代表する物語の類型である「セカイ系」は、「主人公とヒロインの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』といった大きな問題に直結させる」ことが特徴とされる*3。目の前の表象とその背後に広がる無限のデータベース、その間に橋をかけるものとしてのGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)が視覚的に等置されていたことで、オタクたちは少ない指先の動きで「何か巨大なもの」に直接アクセスできているという感覚を持った。そうしたある種の「全能感」は、上述のような「セカイ系」的想像力との親和性が高いものだったといえる。

しかしそれはあくまで「見る」というモデルの枠内における変化であったことに注意せねばならない。実際には表象・データベース・GUIの間には階層構造があり、特にデータベースとGUIの関係においては、GUIの提供する限りにおいてのみデータ(情報)を取得することができるという制限が存在する。
「パーソナル・コンピュータの父」と呼ばれるコンピュータ科学者、アラン・ケイの「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンはGUIの理論的起源とされるが、本来そこで強調されていたのは「イメージ」や「シンボル」といった視覚に関連する概念ではなく「操作」、つまり能動的な行為のほうであった。ケイはコンピュータが持つ「メタメディア」性――様々なメディアの用途を抽象化し、シミュレートする特性――が、人間の能動性を引き出すと考えていた。彼が構想し、のちのマッキントッシュ開発にもインスピレーションを与えたというパーソナル・コンピュータ「ダイナブック」のビジョンには、自らプログラミングを行い、そこに収められたゲームのルールを変えてしまう子供たちの姿が描かれている*4。ケイによればコンピュータとは単なる道具ではない。コンピュータを扱うことでその「物事を抽象化しシミュレートする」特性が、使用者の側にも能力としてフィードバックされるということが重要なのである。ゲームシナリオライターの元長柾木が提唱する独特の「セカイ系」観は、ケイのこうしたコンピュータ観と重なっている。

個人あるいは私的領域における人間の意志あるいは認識、そういったものが、社会なんていうショボい構築物に囚われることなく、世界という普遍構造に働きかけて変革するようなお話、といったところでしょうか。で、世界に働きかけるだけでなく、できれば個人に戻ってきて自己の変革を迫られるような。*5

上記のような「セカイ系」観を「自己と世界を革命する物語」と要約してみせる元長は、最近でも自身のTwitter上で「セカイ系(cosmic realism)とは、登場人物(おもに主人公)が世界の観念的秩序(セカイ、cosmos)への介入可能性をもつ物語ジャンルのこと」という定義を行っている*6。ここで前提とされているのは、人間は大文字の「世界」それ自体にはアクセスできないが、それを支えている「セカイ=観念的秩序」にアクセスすることによって、間接的に働きかけることはできるという認識である。

整理しよう。元長的な意味における「セカイ」とは、コンピュータ(ソフトウェア)を構成する最小単位である「コード」に対応する。「コード」の持つ抽象性に直接触れることでコンピュータのポテンシャル(メタメディア性)を引き出そうとするハッカー的想像力は、「パーソナル・コンピュータの父」とも呼ばれるアラン・ケイが目指した人間とコンピュータの理想の関係性でもあった。
しかし実際にはコンピュータが「コード」によって成り立っているということをなるべく意識せずとも使用できる方向性に、人間とコンピュータの関係性は発展していった。それはやはり「コード」を書き換えることによってもたらされる「思考の拡張」よりも、ネットワークテクノロジーによる「コミュニケーションの拡張」のほうが社会的・経済的合理性の観点からは適っていると考えられたことによる。こうしたインターネットという技術を中心とした発展の方向性は、2010年代において「実空間」と「身体」を巻き込んだ形でより進んでいくことになる。

 

2.

2007年(日本国内では2008年)にiPhoneが発売されたのを皮切りに、2010年代はスマートフォンの時代となった。ここで最も重要な変化は情報技術とのインターフェースであるディスプレイが「持ち運ぶ」ものになったという点である。デスクトップPCの時代には視野と一体化していた画面のフレームは、スマートフォン時代においてはそれを持つ自らの手と(すなわち、自らの身体が属する実空間と)重ね合わせられて認識されることになる。「インターネット・リアリティ」をテーマに創作活動を続けてきたメディアアーティストの谷口暁彦は、こうした変化について以下のように語る。

〔…〕コンピューターの身体性という点で考えると、昔インターネットをしていたころはブラウン管の巨大なディスプレイで、ダイヤルアップというイニシエーションを通じて別世界に入っていくというような身体性でした。〔…〕それが今では、常時接続された小さなデバイスがポケットに入っていて、寝転びながらインターネットができる。別世界だったものが、日常と地続きで、ポケットに入っているという関係性に変わり、身体との関係性が直接的になりました。これはパソコンの前で椅子に座ってインターネットをしていた時代とは全く違います。*7

これに続けて「作品をつくる際にもこれまではプログラミングが必要など高いハードルがありましたが、自撮りしてSNSに流すというだけでも作品になるという、ある種、チープな表現でも有効性を持つようになってきました」と谷口は言う。彼はその状況について価値判断をすることは避けているが、そもそもこうした「チープな表現」ははたして「作品」と呼ぶに足るのだろうか。元長の言葉を援用すれば、作品(物語)とは受容者との間に「セカイ=観念的秩序」の領域を持つのであり、その読解を通じて何らかの「変革」が受容者の側にもたらされるものであるはずである。
ここで思い出されるのは、「セカイ系コンテンツ批評の新たな逆襲」とのキャッチコピーが付された村上裕一のデビュー作、『ゴーストの条件』(2011年)である。同書は講談社と東浩紀が共同主催する「東浩紀のゼロアカ道場」の最終成果作であり、かのキャッチコピーも東浩紀の手によるものだ。村上は「セカイ系コンテンツ批評」の内実について、同書刊行後に行われた対談の中で以下のように述べている。

〔…〕東さんから「セカイ系コンテンツ批評の新たな逆襲」という推薦文を頂いたんですが、これは、ゼロ年代の思想を『思想地図』界隈が担っていた時に、コンテンツ派とアーキテクチャ派という分け方をしていたことがありまして、そのうちのコンテンツ派の流れに則っているというくらいの意味でしょう。*8

つまり単なる同時代的な批評につけられた呼称であった「ゼロ年代批評」から、さらに内容による区分を施すために選ばれたのが、「セカイ系コンテンツ批評」という呼称だったのである。それは「作品」に対して「アーキテクチャ」のような「外在的」要因を読み込まず、徹底的に「内在的」に向き合う(村上の上掲インタビュー内の言葉で言えば、「作品の深奥から語る」)スタンスを指す。これは批評史的には、70~80年代に影響を持った二人の批評家、柄谷行人と蓮實重彥のうち、マルクス主義に着想を得るなどした柄谷の路線に対して、広義のテマティスムの実践者である蓮實の路線を継承するということになるだろう。蓮實によれば「作品」とは自明な対象ではなく、あまねく記号、テクスト、表象――そういった断片的で離散的な部分によって成り立つ「文学」なり「映画」なりの総体に我々が対峙することで初めて抽出される、仮初の輪郭である。その抽出の過程こそを、蓮實は「批評体験」と言う。

〔…〕読んでしまったもの、見てしまったものが文学なり映画なりに対していだくこの接近不可能の意識、縮めることのできない距離の実感こそが、まさしく「批評体験」の持つ宿命的な暗さの色どりとなっているものである。*9

蓮實‐村上的な「批評」において言葉は、自明な対象としての「作品」という単位をいったん宙吊りにし、それに対する「接近不可能の意識」の只中において紡ぎ出されるものである。これは元長的なハッカー思想とも対応している。いわば「私」と「世界(作品/物語)」の間にある「コード=セカイ」を見つけ出し、それを解読するような行為が「批評」と考えられるのである。

 

3.

いまや世界は日常的な動作がそのまま情報技術との接点となる「実世界指向インターフェース」に覆われ、コンピュータを使っているということどころか、インターフェースの存在をも意識させない方向へと進んでいる。あらゆる情報との出会いがフラットになり、対象への「接近不可能の意識」を保つことも難しくなった現在において、「批評」の契機たる「コード=セカイ」はどこに、どのようにして見出すことができるだろうか? 谷口暁彦は前掲のインタビューの中で、今日のインターネット環境がもたらした新しい「時間」の感覚について言及している。

〔…〕人や出来事が亡霊として蓄積され、RTやリブログで再び掘り返されるわけで、そこに絶対的な時間はないわけですよね。SNSでフォローしているアカウントの数や性質によっても、それぞれが見ている時間がバラバラで、蓄積されたデータに基づいて、それぞれに逐次時間がつくられているような感覚があります。*10

谷口がここで想定しているのはTwitterやTumblrといったWebサービスだが、これらのサービスが画期的なのは「タイムライン」という概念を発明したことにある。それは「ライン」――絶対的な「流れる時間」のイメージをなぞっていながらも、「RTやリブログ」による偶発的な遭遇により複数の「視点」の存在を顕在化させる。〈僕‐君‐世界〉という直列の構造を持つ「セカイ系」的物語は「パソコンの前で椅子に座ってインターネットをしていた時代」、固定的で一方向的な視覚のモデルが支配的だった時代に対応していたわけだが、こうしたWebサービスが前提とする視点の複数性は、それとはまったく異なる物語=時空間認識の構造を必要とするだろう。清水高志によるとフランスの哲学者ピエール・レヴィはその著書『集合的知性――サイバースペースの人類学へ向けて』*11において、「リアルタイム」という言葉でこうした新しい時空間認識の出現を言い当てている。

一般的にこの語は「即時性」みたいにすごく急いでいるようなイメージがあるかもしれないけれど、〔…〕レヴィが言っているのはむしろ今で言うSNSみたいなイメージで、発信した情報が他の誰かに別の時間に受け取られたり、あるいはそもそも受け取られなかったりといったラグのあるコミュニケーションの方をリアルタイムだと述べている。発信されたものがいつ・どこで生きたコミュニケーションになるかがわからず、時間的にも空間的にも並存しているわけですよね。*12

このビジョンの下では、「現実」の「ヴァーチャル」な様態としてTwitterの「タイムライン」などの情報流通の場が想定されている(ここでいう「ヴァーチャル」とは「潜在的」といった意味で、「リアル」の対義語ではないことに注意されたい)。仮に「情報空間」というものがあるとすれば、こうした「ラグのあるコミュニケーション」を成立させる場として、初めて存在の地位を与えられるのだ。蓮實‐村上が「作品」に対してなしたように、我々が「現実」に対してなすべきはそこに潜んでいるはずの「コード=セカイ」の発見である。それはこうした新しい時空間認識、「リアルタイム」の只中において見出されるだろう。

ではこの20年の間に現れた作品の中に、そうした認識のあり方を体現した作品を見つけることはできるだろうか。

 

第二章 「リアルタイム=イマ」の哲学

1.

以下の論述では「ゼロ年代」以降に現れた音楽作品およびミュージシャンを取り上げる。かつて東浩紀が先導し、「ゼロアカ道場」を経て村上裕一が継承した「セカイ系コンテンツ批評」の潮流においては、GUIがもたらした「新しい視覚」――「過視的」なる視力が問われ、それに応じてアニメやゲームといった視覚優位のコンテンツが批評の対象となっていた。現在において考察の対象となるのは、SNSや位置情報サービスがもたらした「リアルタイム」という新しい時空間認識である。これに応じて、批評対象としても時間と空間の双方にまたがる表現形式である音楽作品が選択されることになる(なおここで言う音楽作品とは、ライブやミュージックビデオなども含むメディア複合的なものであることに留意されたい)。

また批評対象として音楽作品を選択することには加えて、「ゼロ年代」の批評的言説における音楽、とりわけ「ポップス」についての作品論的な言説が少ないことに対するカウンター的な意味合いもある。空前のCDバブルを経験した90年代が終わり、2000年代~2010年代初頭にかけての音楽業界は「冬の時代」とされてきた。さやわか『AKB商法とは何だったのか』(のち『僕たちとアイドルの時代』に改題)、柴那典『ヒットの崩壊』など、従来型のパッケージビジネスが機能しなくなった状況を踏まえた上で新しい「ポップス」の基準を示そうとした著作は2010年代に入っていくつかある。しかしこれらの著作において中心的に論じられているのはビジネス面でのゲームチェンジ、あるいはリスナーの消費行動の変化(状況論)であり、個別の作品論を通じて同時代的な思想を抽出するような試みは少ない。「セカイ系コンテンツ批評」の対象として音楽作品は、手つかずのまま残されているのだ。

そこでまず我々はその音楽性が十分に「ポップス」としても機能しているあるバンドの歩みに注目し、「ゼロ年代」文化の中にすでに「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力――「リアルタイム」の哲学が胚胎されていたことを示していく。そのバンドはちょうど「ゼロ年代」の始まりとともに我々の前に現れた。BUMP OF CHICKENである。

 

2.

BUMP OF CHICKENは藤原基央(ボーカル&ギター)、直井由文(ベース)、増川弘明(ギター)、升秀夫(ドラムス)の4人からなるロックバンドである。下北沢のライブハウスを中心に活動していたことから同世代のASIAN KUNG-FU GENERATION、syrup16gらと共に「下北系」と呼ばれるオルタナティブ・ロックのムーブメントの一翼も担っていた彼らは、1999年にインディーズでのデビューアルバム『FLAME VEIN』を発売。翌年にはメジャーデビューを果たし、2001年のシングル「天体観測」でブレイクを果たした。
音楽性としてはストレートなバンドサウンド(カントリーやアイリッシュなど、トラディショナルな音楽からの影響も感じられるのが珍しいといえば珍しい)で、親しみやすいメロディと、繊細かつエモーショナルな歌唱が持ち味といえる。他分野のクリエイターからの評価も高く、これまで『ONE PIECE』や『ALWAYS 三丁目の夕日』などのいわゆる「国民的」と言われる作品とのタイアップも実現させていることから、この20年間において最も存在感のあったバンドのひとつと言っていいだろう。
彼らは演奏技量の卓越やルックスを売り物にしているわけではないし、先に挙げた大型タイアップというのも制作サイドからのラブコールに応えるという形がほとんどで、大々的なプロモーションが行われたということもない。それどころか「紅白歌合戦」に初出演した2015年ごろまで、一部の雑誌を除いてメディア露出は極端に抑えられていた。メンバー全員が幼稚園からの幼馴染であるというプロフィールも相まって、ある種の密室性・神秘性が彼らの人気を高めてきた側面もあるといえる。

そうした中でも多くの熱心なファンや業界人を惹き付けた彼らの最大の個性は、ボーカル&ギターの藤原基央が書く詞世界にある。その特徴のひとつには、物語的・寓話的ということが挙げられる。「ガラスのブルース」「K」「ダンデライオン」などの初期の作品には特に、擬人化した動物を主人公とした童話的な作風の歌詞が散見される。例外的に『FLAME VEIN』に収録された「アルエ」の歌詞では「セカイ系」的想像力の代表と見なされることの多い『新世紀エヴァンゲリオン』のヒロイン、綾波レイをモチーフにしているが(綾波レイのイニシャル「R.A」を取って「アール・エー」→「アルエ」)、そこでも「白いブラウス似合う女の子 なぜいつも哀しそうなの?」「ハートに巻いた包帯を 僕がゆっくりほどくから」と、あくまでキャラクターの心情を推し図るように軽快なメロディに乗せて歌われており、「セカイ系」的な陰鬱さや切迫感とは無縁である。時代を下るにつれ物語の主人公は「君」や「僕」といった抽象名詞で表されることが増えていくが、藤原自身と特定のモデルとなった誰か、というのではなく、あくまで自身とは切り離された、物語のテーマを語るための装置として存在しているようである。

では彼らの物語は何をテーマにしているのか。それは二人以上の登場人物が存在することによって顕在化する「時間」の共有不可能性、その帰結としての「(君の/僕の)不在」という主題である。

 

3.

彼らの出世作となった「天体観測」の一番の歌詞は、以下のようなものだ。

午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった
ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい

二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た
始めようか 天体観測 ほうき星を探して

深い闇に飲まれないように 精一杯だった
君の震える手を 握ろうとした あの日は

見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた

ラストの部分では、リフレインするメロディに乗せて

見えているモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで
静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた
そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている

もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで
前と同じ午前二時 フミキリまで駆けてくよ
始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている

と、微妙に内容を変えて繰り返される。

一見して明らかなように、ここで生じている差異とは「君」はすでに「僕」のそばにはいないということだ。しかし天体観測という行為を蝶番として「君」といた過去の時間が、現在の時間にオーバーラップしてくる。この二重化された新しい時間を「イマ」と名付けているわけだが、これは楽曲を聴く前と聴いた後の状態の変化を、「『天体観測』という楽曲を聴いた」という体験に統合することと一致している。音楽とは一方向的な時間の経過を持ちながらもメロディのリフレインによって反復の構造を作り出すことができるものであり、その中で歌詞や楽器のフレーズによって「ズレ」を生み出すことが内容の深まりに寄与する。BUMP OF CHICKENはそうした音楽のメディウム的特性を理解しつつ、「すでにそこにいないもの」を想うことによって生じる「痛み」などの普遍的な感情を描き出しているのだ。

 

4.

彼らが2014年に発表したアルバム『RAY』は複数の意味で彼らのキャリアにおいて画期をなす作品である。「紅白歌合戦」や「ミュージックステーション」に初出演し、アルバムのリードトラックである「ray」を演奏したこと。このアルバムのツアーからエンブレムの大量に付いた揃いのジャケットを着るようになったこと。チームラボの開発した観客の反応によってその色を変える装置「teamLabBall」をライブの演出に取り入れるようになったこと。ベースの直井もこれに前後してTwitterアカウントを取得しており、急速に「外」に開かれていく様に旧来からの一部のファンの間には戸惑いも広がった(筆者もその一人である)。
インタビューなどを詳細に紐解けば、こうした「変化」に至った経緯が彼ら自身の言葉で語られてもいるのだろうが、ここではそれをしない。疑問の答えはすべて「ray」の歌詞の中に書かれているように思えるからだ。

理想で作った道を 現実が塗り替えていくよ
思い出はその軌跡の上で 輝きになって残っている

お別れしたのは何で 何のためだったんだろうな
悲しい光が僕の影を 前に長く伸ばしている

時々熱が出るよ 時間がある時眠るよ
夢だと解るその中で 君と会ってからまた行こう

晴天とはほど遠い 終わらない暗闇にも
星を思い浮かべたなら すぐ銀河の中だ
あまり泣かなくなっても 靴を新しくしても
大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない

この後に続くリフレインでは「お別れした事は 出会ったことと繋がっている/あの透明な彗星は 透明だから無くならない」と歌われている。「天体観測」で歌われていた「見えないモノを見ようとして」「『イマ』というほうき星」というフレーズを直接的に連想させるこのフレーズに託されているのは、忘却するということのポジティブな価値である。「天体観測」という4分半の楽曲の中で反復される「痛み」は、確かに物語中での過去と現在をオーバーラップさせ、「イマ」という新たな時間を作り出していた。しかしそれを演奏する現実のBUMP OF CHICKENは、この楽曲を作り出した頃と全く同様の気持ちで歌詞の内容を表現することはできない。音楽作品は固有のタイトルを与えられパッケージングされた瞬間に、片面においてはそれ自身がはらんでいる時間性を失い、無時間的なオブジェクトと化してしまうのである。
もちろんリスナーたちにとってはその発表年度にかかわらず「初めて聴いたタイミングが新曲」であるわけで、そこで扱われているのが普遍的なテーマだからこそ余計に、リスナーたちとのギャップはBUMP OF CHICKENのメンバーたちにとって大きなものとなる。彼らは「天体観測」をはじめとする過去の楽曲を歌い続けるために、「忘れても消えない」という「ヴァーチャル」な次元の存在を宣言しなければならなかった。その歌詞が実際のライブで歌われるとき、現実空間は「ヴァーチャル」化するのであり、それは件の衣装やインタラクティブな演出によって視覚的にわかりやすく表現される。そしてこうした試みは最終的に、「初音ミクとの共演」という形に結実することになる。

初音ミクとは単なる音声合成ソフト、またはそのパッケージに描かれた図像ではない。いや、まさしく当初はそうでしかなかったのだが、このソフトを使って様々な楽曲=物語が生成していったことにより事後的にキャラクター性が図像に対して付与され、いわば「すべてのN次創作が初音ミクの原作」と呼べる状態になった。キャラクターが物語に奉仕するのではなく、物語がキャラクターに奉仕するという逆転の関係が起こっているキャラクターのことを、村上裕一は特に「ゴースト」として区別したわけだが、彼女にまつわる物語が生成された場であるニコニコ動画のアーキテクチャに着目することで、さらに「時間」性を含み込んだ様態として彼女のことを捉えることができる。
ニコニコ動画が持つアーキテクチャとは、実際にはバラバラの時間に投稿されたコメントが、動画の再生時間の中で擬似的に「同時に」投稿されたように見えるというものである。濱野智史はこの特徴に「擬似同期」と名付けたが、我々の用語ではまさに「リアルタイム」である。初音ミクの歌声は楽曲固有の物語=時間に寄り添いつつ、無数のコメント=非同期的な時間を織り込んでいくのであり、その歌い手としての主体性はまさに多重化した、「ヴァーチャル」な時間の中に存在しているといえる。上掲のライブ映像はそうした「ヴァーチャル」な時間の中から響いてくる初音ミクの歌声と、自身の歌ってきたすべての物語=時間を「ヴァーチャル」な次元に還元したBUMP OF CHICKEN(藤原基央)の歌声が、「同じ」空間で響いている様を映し出しているのだ。

BUMP OF CHICKENは個々の歌詞=物語レベルで過去と現在のオーバーラップする時間=「イマ」について描き出しつつ、複数の「イマ」が潜在する場としてライブ空間を捉えることで、さらに時空間の多重化を図ったのだといえる。この多重化した時空間の認識が清水=レヴィの言う「リアルタイム」に相当することは言うまでもないだろう。BUMP OF CHICKENの場合、それを歌詞表現と入れ子状に行っていることに画期性があるのであり、それは前述の通り「ゼロ年代」初頭のデビュー時からポテンシャルとして秘められていた。彼らは「リアルタイム」の時代を生きる我々にとって、先駆的な実存のモデルを示していたといえるのだ。

 

第三章 「イマ」と「セカイ」のクロス・ポイント

1.

BUMP OF CHICKENは『RAY』に続くアルバムとして2016年に『Butterflies』を発表したが、この年に最も大きな存在感を持ったロックバンドは別にいた。日本映画史上の記録を次々と塗り替えたアニメーション映画『君の名は。』、その音楽を担当していたRADWIMPSである。
『君の名は。』には劇中歌として彼らのボーカル曲が4曲も使われ、しばしば「(RADWIMPSの)ミュージックビデオ的だ」とも言われる。パッケージの売上が下落の一途をたどる一方で、フェスの動員数は増え続けているということはよく言われるが、国内最大級のロックフェスを謳う「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」の2016年の動員数が約27万人*13だったのに対して、『君の名は。』の観客動員数が公開年だけでも1500万人を超えていた*14ことを鑑みれば、音楽批評における映像作品の重要性について、もう少し顧みられてもいいはずだ。

2005年にメジャーデビューしたRADWIMPSはBUMP OF CHICKENの後続世代と目されるが、その作風、とりわけ歌詞表現は大きく異なる。BUMP OF CHICKENはあくまで「君」と「僕」を物語のテーマを表現するための装置として据えていたが、RADWIMPSの「僕」とはソングライティングを手がけるボーカルの野田洋次郎自身であり、「君」とは彼にとっての恋人ないしはそれに準ずる人物であるというのが通説である。『君の名は。』監督の新海誠もRADWIMPSの起用理由についてこう語っている。

〔…〕見ている方向は一緒なのかなっていうのが、聴いてみてあったんですよね。個人の小さな悲しみとか、あくまで個人のパーソナルな想いというものをすごく大きなものにつなげて歌っているような――運命というものであったりとか、星であったり、宇宙であったり。そういう小さな個人が大きなものにまっすぐつながっているような歌をずっと歌っているような気がしていて。それは僕がやりたいことでもあるし。*15

ここで言われている「小さな個人が大きなものにまっすぐつながっている」という特徴が、第一章で見た典型的な「セカイ系」の特徴に合致していることは明らかであろう。事実、2002年に新海がたった一人で制作したことで名を上げた『ほしのこえ』は、典型的な「セカイ系」作品のひとつとして挙げられることの多い作品である。

『君の名は。』のストーリーにおけるポイントは、三年のタイムラグを挟んだ主人公二人の運命的な「入れ替わり」と、彗星落下による人命の喪失という悲劇およびその回避、そしてそれらの出来事がラストにおいて誰の記憶からも失われるという「忘却」の主題である。こうして要素だけを取り出すとBUMP OF CHICKENが「ray」で問題にしていたことと非常に近い問題を扱っているようにも思える。
しかし「ray」においては「痛み(気持ち)」が「忘却」されることが肯定されていた一方で、起きた事実は「なかったこと」にはならないことが強調されていた(「あの透明な彗星は 透明だからなくならない」)。逆に『君の名は。』では彗星が落下し多くの人命が失われるという事実は「なかったこと」になる一方で、「どこかに運命の人がいる」という「気持ち」のほうは保存される。「忘れても消えない」という「ヴァーチャル」な時間性・空間性について歌っていたのが「ray」なら、「(出来事は)起きた/起きていない」「(運命の人は)いる/いない」という二分法によって形作られているのが『君の名は。』という作品であり、それは「君と僕」という二者の関係性を主題にしていることとパラレルになっている。
新海はビデオコンテという、絵コンテと音楽をあらかじめ合成した動画をもとに本番の映像を作り込んでおり、これによってRADWIMPSが仕上げてきた音楽に応じて絵コンテのほうを作り変える、ということも可能になっていたという*16。かように映像と音楽を緻密に同期させることが徹底されていた本作は、それによって観客の情動をもコントロールし、「君と僕」の物語に同期させるその精度において、何よりもまず卓越していたと評価するべきである。

 

2.

映画史研究者・批評家の渡邉大輔は、実空間に増殖するスマートフォンやデジタルサイネージなどの画面、ネットワークの中でその意味性を拡散・変化させていくYouTubeやTwitterに投稿される動画といった対象を映画史的な見取り図の中に位置付けるべく、「映像圏」という概念を提出している。そこで疑問に付されるのは「映画」と「観客」が絶対的な一対一の関係を結ぶとされる「映画館」という空間の自明性である。我々の問題意識に引き付けて言うならば、個々の映像作品がはらむ時間性とそれらの作品をマルチスクリーンで「同時に」観ている際の時間性はどのようにして接合されているのかという問いであり、あるいはそうした「リアルタイム=イマ」な映像体験とはどのような空間においてなされるのかという問いである。

アニメーション研究者のトーマス・ラマールが提示するアニメーションの原理「アニメティズム」は、画面そのものをこうした時空間のモデルへと変える。「アニメティズム」とは重なり合った複数のレイヤーをそれぞれスライドさせたり、その間隔を変化させることによって見かけ上の運動を生じさせるような運動の原理であり、三次元空間に置かれたカメラが捉える運動の原理、「シネマティズム」と対置される。いわば観客が画面に対して向ける三次元的な視線の向きとは独立的な、レイヤーそれ自体の可動性が拓く時空間のモデルなのである。そして大塚英志も指摘するように、新海誠が世に出るきっかけとなった『ほしのこえ』はこの「アニメティズム」性をわかりやすく露出させた作品であった。

カットの中で風景がレイヤーの重なりとしてあり(つまり、空間内のレイヤー化)、そしてそのむしろ静止的であることが重要なカットごとの醸し出すイメージを私たちはレイヤーが次々と重なるように示され(時間軸上のレイヤー化)、そして、その映像の流れの上に少年のモノローグ、少女のモノローグ、そしてメロディーが重なる(意識、あるいは「声」のレイヤー化)のだ。そういう多元的なレイヤー技術によって新海のアニメーションはつくられていた。*17

『ほしのこえ』は典型的な「セカイ系」作品であると見なされることが多いと先に述べたが、それはこの第三のレイヤーである「声」のレイヤーの存在に拠っている。少年と少女、二者のモノローグが時間と空間のレイヤーを垂直に貫き、そこに〈僕‐君‐世界〉という「セカイ系」の直列構造を作り出すのだ。一方『君の名は。』においてはキャラクターにスタジオジブリ出身のアニメーター・安藤雅司が「シネマティズム」的な運動性を与えている*18ことが「セカイ系」的な直列構造を作り出している。新海的「アニメティズム」の時空間の中に「シネマティズム」によって描かれるキャラクターを持ち込むということは、観客の視線がキャラクターを中心として画面に対して三次元的に組織されることを意味する。観客の視線とは無関係に可動する「レイヤーの美学」が、そこでは相殺されてしまっているのだ(逆に言えば、新海の描き出したいものは常に二者の運命的な(恋愛)関係であり、時代ごとに使える技術や作品の公開規模によって手法は変えつつも、その主題は一貫しているといえる)。

そして「新しい時空間認識」について考察したい我々にとって重要なのは、むろん時間と空間のレイヤーのほうである。「アニメティズム」における「運動」とは、絶対空間におけるオブジェクトの連続性ではなく、レイヤーを差し引きすることでオブジェクトが消えたり現れたりする、不連続性にむしろ拠っている。「絵」としてのオブジェクトは各レイヤー間に断片的に存在しており、正確には「同一」のオブジェクトはひとつとして存在しないわけだが、物語の逐次的な進行をたどるためには、観客の側でその同一性を仮構することが必要となる。この「仮構された同一性」を観客の中に生じさせる特権的なオブジェクトが「アニメティズム」における「キャラクター」なのだといえる。これは「描かれた線」ではない、固有の実存を持つ人物なのだと思えなければ、その「キャラクター」の物語に感情移入することはできないからだ。
この「キャラクター」の機能はTwitterなどの「タイムライン」型SNSにおいて「アカウント」という概念が果たしている機能と近いものと言える。Twitterにおいて他者とのコミュニケーションが可能なのは、各ツイートがアイコンとidによって紐づけられており、ホーム画面に移動することでタイムスタンプにしたがって一列に並ぶ(=同一の「アカウント」によってツイートされている)ということが了解されているからだ。「リアルタイム=イマ」の時空間認識において固有名を持つ個人とは、「キャラクター」や「アカウント」のようにして、断片化・多重化された時間を局所的に束ねるものとして理解されるのである。

 

3.

我々の生が上述したような意味で「キャラクター」「アカウント」的になっているとするならば、「アニメティズム」という方法論はむしろそうした我々の身体を表象する、実写作品において批評性を持つのではないか。実際に今日「アニメティズム」を徹底した映像作品のひとつは、アニメではなくあるアイドルグループのミュージックビデオ(MV)に見出される。奇しくも『君の名は。』が公開された2016年にデビューした、欅坂46のMVがそれである。軍隊風の衣装を身にまとい「大人たちに支配されるな」と歌う彼女たちは「反逆のアイドル」などと呼ばれ、かつてオルタナティブ・ロックに託されていた反抗精神を体現するかのような存在として我々の前に出現した。

とは言っても、そのデビュー曲「サイレントマジョリティー」のMVは、いまだ「シネマティズム」的な映像文法に基づくものであった。クレーンに括りつけられたカメラが立体的にフォーメーションの周りを旋回し、ライティングもメンバーの影をくっきりと浮かび上がらせるように、強めに設定されていることが見て取れる。

短編映画風の演出を取り入れた2ndシングル「世界には愛しかない」のMVを挟んで、様相が変化してくるのは3rdシングル「二人セゾン」のMVからである。まずわかりやすいところでは上下に黒い帯が入り、画面のアスペクト比がいわゆる「シネスコ」サイズに調整されるようになった。これによりパノラマ的な知覚が組織され、水平方向の運動を捉えやすくなる。被写体を捉えるカット割りは断片化の度合いを高め、鉄柵や草木、飛び立つ鳥、レンズフレア……といった様々なオブジェクトが次々とメンバーたちの姿とレイヤー状に折り重なるようにして映し出される。また「声」のレイヤー(歌唱レベル)においてはグループアイドルとしての全体性、ハーモニーの美しさが強調されている。

つづく4thシングル「不協和音」のMVでは一転、集団の中で「不協和音」となることを恐れるなというメッセージが歌われる。映像面ではやはり断片的なカット割りとその高速な切り替えから成り立っており、今作において同グループにおける映像表現の方向性は定まったと言えるだろう。無機質な港湾地帯で撮影されているため草木のような自然由来のオブジェクトがなく、そのことが相対的に彼女たちの身体表象のオブジェクト性を高めているともいえる。また、動的に前後のフォーメーションを入れ替えながら画面の手前側に行進していくダンスは、まさしく「レイヤー的」な可動性を観客に知覚させる。

「声」のレイヤーにおいてもその断片化は著しい。サビの部分を除いて全体歌唱は限りなく少なく、非常に短い文節でソロ歌唱が継ぎ接ぎされている。極めつけは三度繰り返される「僕は嫌だ」のフレーズであろう。特にセンターを務める平手友梨奈によるそれはまさに振り絞るかのような表情と発声で表現されており、モノローグ的な歌詞でありながら観客が感情移入する余地を残さず、ただ音の塊としてぶつけられたかのような感触を残す。

なぜアイドルグループのMVが「アニメティズム」の徹底された様態を実現しているのか。その謎を解くためには、そもそもアイドルというものがどのような存在であるかを考える必要があるだろう。ここで言う「アイドル」とは「ゼロ年代」以降、具体的には2005年にデビューしたAKB48以降のアイドルのことを指す。「握手会」や「選抜総選挙」の実施、それらに参加するためのチケットをCDに封入するなどの販売戦略は、ファンがアイドルの行く末に介入できる「参加型」時代への移行を推し進めた。ニコニコ動画などのUGC(ユーザー・ジェネレーテッド・コンテンツ)プラットフォームについても言えることだが、「参加型」のコンテンツにおいては場のルールを定める「運営」の権力が相対的に強まっていく。AKB48と同じく秋元康のプロデュースグループである欅坂46も、当初はそのような図式に収まっていくと考えられていた。「反逆のアイドル」などというイメージも、所詮は「運営」サイドの自己批評的な意識を演じさせられているだけなのではないか、と。

しかしどうやらそうした読みは違うらしいということが次第にわかってくる。そもそも世間に「反逆のアイドル」と受け止められたイメージというのも、秋元が他のプロデュースグループとは関係なく、彼女たち自身を観察する中で思いついたものだったという。「オーディションの最終選考に残ったメンバーが、みんな大人しくて、どちらかと言うと、暗い印象があったのと大人や社会と接することを拒否しているような“引きこもり感”があったから、『君は君らしく生きて行く自由があるんだ 大人たちに支配されるな』という歌詞が浮かんだのだ」とは秋元の言である*19。欅坂46は社会や既存の秩序を破壊することをコンセプトとしているわけではない。破壊すべきとされているのは、「引きこもり感」を抱えているとされる、他ならぬ彼女たち自身なのである。その課題に応えるようにして、彼女たちは各々が歌詞や振り付けの意味を咀嚼し、表現する。「サイレントマジョリティー」以来すべてのシングル表題曲の振付を担当するTAKAHIROは、欅坂46について次のように語る。

欅坂46の一番素晴らしいところは、誰かにやらされてるんじゃなくて自分たちで欅坂46を作ってるところなんです。僕は設定やきっかけを与えるだけの存在です。例えば彼女たちの人気曲「世界には愛しかない」だったら、歌詞の中で<最後に大人に逆らったのはいつだろう>って言ってる、なら主人公は現在何歳だと思う?とか、「二人セゾン」だったら<僕>は今までどんな人間だったんだろう? とか、 僕は歌詞が伝えている設定をみんなで共有する時間を持ちます。そうやって主人公の心情やメッセージについて話し合って、世界観を共有し、メンバー自身が最終的に考えて答えを出す。僕が答えを教えてるわけじゃないんです。*20

ここに生じている事態とは、「アイドルが主体性を持つようになった」というような単純な話ではない。欅坂46のメンバーと秋元やTAKAHIROといったスタッフとの間には、スタッフが彼女たちの中に潜在する「コード」を歌詞の形に翻訳し、投げ返されたそれをまた彼女たち自身が解釈して表現する、といった関係性がある。半ば主体、半ば客体でもあるようなこうした対象についてミシェル・セールは「準−対象」という身分を与えているが、これを弟子であるレヴィはさらに「個」と「集団」の問題として深化させる。レヴィが『集合的知性』において主題としているのは、「人のアイデンティティが、なんらかの決まった集団への帰属によって決定されてしまう現代社会のあり方をどうするか」ということだと清水高志は言う*21。(アイデンティティを持つ)個人を「準−対象」として――「複数の普遍的なグルーピングやスペックを結びつける結節点的な媒体」として捉え直すことで、「個」が「集団」を生成し、また「集団」が「個」を生成するような相互生成的な関係を描き出しているのだと。これはフォーメーションを目まぐるしく変えながらも「僕は嫌だ」の発話によって局所的に「個」を現前させる(そして、またその「個」は「集団」へと還っていくという往還を繰り返す)欅坂46のパフォーマンスと、あるいは複数の「タイムライン」が並存しながらもツイートという断片的な単位が局所的にそれらを交差させる「タイムライン」型SNSの機構と、パラレルになっていると言えるだろう。

「リアルタイム=イマ」の時代においては「主体」が自身と「客体」との間に「コード=セカイ」を見出すのではなく、先験的に存在する「コード=セカイ」によって、「主体」と「客体」が相互に入れ替わりながら生成される。情報技術によって日々自らの生きる時空間を断片化・多重化させ、「アカウント」や「キャラクター」のようにして生きている我々にとって、欅坂46のあり方は実存のもうひとつのロールモデルと言えるだろう。「コード=セカイ」の存在を知覚しつつ、その解釈とともに自らを変容させ続けることのできる者だけが、「僕は嫌だ」と口にすることができるのだ。

 

おわりに 「オルタナティブ」なき2020年代の戦い

「新しい実在論」を唱えて近年日本でも注目を集めるドイツの若手哲学者、マルクス・ガブリエルはその著書『世界はなぜ存在しないのか』の邦訳出版(2018年)に際して、以下のようなコメントを寄せている。

新しい実在論は、二つのテーゼからなっています。「わたしたちは、現実をあるがままに認識することができる」。しかし「現実は、何か巨大な対象として存在しているわけではない」。現実それ自体は、現実に存在する物ではありません。
単一物としての現実、すなわち「世界」に代わって、さまざまな意味の場の果てしない増殖と拡散、果てしない生成と変化が立ち現われてくるのです。そこには始まりも終わりもありません。*22

フィッシャーの遺した「Is there no alternative?」という問いは、「資本主義リアリズム」という「単一物としての現実」を措定していた。一方で本稿で繰り返し述べてきた、情報技術による時空間の断片化・多重化、「現実」の「ヴァーチャル」化という事態は、ガブリエルの言う「現実は、何か巨大な対象として存在しているわけではない」というテーゼと重なっている。我々はライブ空間を「ヴァーチャル」な「意味の場」へと変容させることで過去の自己像をもキャラクター化してみせたBUMP OF CHICKENの例と、与えられた役にただなりきるのではなく、その意味=コードを解釈することで新しい主体性を手に入れた欅坂46の例をすでに見た。彼らが体現する「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力とは実のところ、「オルタナティブ」という「仮想敵=外部にある対象」の存在を前提とした価値観そのものを宙吊りにしているといえる。断片化・多重化した時空間の中で「主体」と「客体」の関係は不断に入れ替わり、確固たる「外部」の存在を許さない。それはカート・コバーンの陥った「膠着状態(デッドロック)」――いつの間にか、自分が敵視していていた対象そのものになっていた――を回避し、絶望せずにこの世界を生きていくための処方箋でもある。

ここに至って「ゼロ年代」との比較検討をすることなく、固有の「2020年代」を問うことができるようになったわけだが、最後に改めて「批評」がこの時代に果たすべき役割について考えながら本稿を締め括ろう。

我々は何か巨大な敵を措定しそれに対する「オルタナティブ」を標榜するのではなく、「単一の意味の場」へと収斂させていく力学とこそ戦っていかなければならない。これまで扱ってきた音楽の例でいえば、サブスクリプションサービスにおける「プレイリスト」の問題が挙げられる。膨大な数の楽曲が「聴き放題」になることによる認知限界の問題をサポートするのは、「テンションを上げたい時に聴く曲」「寂しい気分の時に聴く曲」など、リスナーの心情や選好を先回りして規定するグルーピングである。
しかし音楽の表現としての特性は本稿第二章で見たように、「作品」それ自体が持つ反復の構造と、その只中に入り込むことでリスナーの中に生じる「ズレ」や「ラグ」にこそある。その聴取体験を通じて「現実」とは異なる時間の位相の存在に気づけるということが重要なのだ。仮に「プレイリスト」によって新しい音楽と出会ったとして、「作品」体験とはそのグルーピングからははみ出してしまう部分を必ずはらむ。何よりも「聴く」という体験の只中で、与えられた意味づけから次第にズレていく部分。そこにこそ「コード=セカイ」を読む行為としての「批評」が起動するのだ。

そして現実に2020年代とはまず、東京オリンピック・パラリンピックから始まる。開閉会式の総合プランニングチームに前回リオデジャネイロ大会の閉会セレモニーから引き続き参加する椎名林檎は、その閉会セレモニーにおいて「電車やバスの運行ダイヤの正確さをはじめとする『お待たせしない』精神」を「日本らしさ」としてプレゼンテーションしたのだという*23(実装レベルではPerfumeのライブ演出に携わるイレブンプレイとライゾマティクスが「一糸乱れぬダンス」とそのAR(拡張現実)上の演出とのシンクロという形で行った)。要は「同期性」を強調したということだが、これは巨額の国費も投じられる「国民的行事」であるオリンピックを「スポーツを通じた世界平和の祭典」という「単一の意味の場」に収斂させる目的には適っているだろう。しかしそれを対外的に「日本らしさ」としてプレゼンテーションするのはどうなのか。実際には時間の断片化・それに伴う「現実」の「ヴァーチャル」化という「リアルタイム=イマ」の時代は全世界的に訪れているものである(だからこそそれを情動によって瞬間的・局所的に同期させるドナルド・トランプの「憎悪ツイート」やフェイクニュースの問題が現前化しているのだ)。実際の開閉会式の演出がどのようなものになるのであれ、忘れてはならないのは我々の生きる時間はどうしようもなくバラバラであるということであり、同期した(ように見える)その結果に至る過程にこそ目を向けなければならない。我々は「オリンピックなんてくだらない」などと見せかけの「オルタナティブ」を気取るのではなく、「単一の意味の場」に収斂させようとするその力学の中に飛び込み、そこに潜む「ズレ」を言葉にしていかなくてはならないのだ。

ああ 調和だけじゃ危険だ
ああ まさか 自由はいけないことか
人はそれぞれバラバラだ
何か乱すことで気づく
もっと新しい世界

(欅坂46「不協和音」)

一見調和したように見える世界に潜む軋みを言葉によって顕在化させ、「新しい世界」の存在に「気づかせる」ということ。それが「不協和音」を恐れ、ますます同期性を高めようとしていく2020年代に、「批評」が果たしていくべき役割なのである。

 


 

*1: マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ・河南瑠莉 訳, 堀之内出版, 2017年)より。
*2: 河出書房新社より2017年に刊行された『1990年代論』の序文において、編著者の大澤聡も言及している。
http://web.kawade.co.jp/bungei/1517/
*3: 東浩紀ほか『コンテンツの思想 マンガ・アニメ・ライトノベル』(青土社, 2007年)より。
*4: アラン・ケイ「すべて年齢の『子供たち』のためのパーソナルコンピュータ」参照。「日経 xTECH」にて翻訳が掲載されている。
http://tech.nikkeibp.co.jp/it/article/COLUMN/20140327/546448/
*5: 「法・倫理・社会を超えて――元長柾木インタビュー」(最終批評神話 編「最終批評神話」収録)より。なお、同誌の縮刷版は『東浩紀のゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦』(講談社BOX, 2009年)に収録されている。
*6: 元長柾木(@motonaga_masaki)の2017年12月17日のツイートより。
https://twitter.com/motonaga_masaki/status/943115198537220096
*7: 「ポスト・インターネットとは?──ネット化が生み出した現代アートの最前線~メディア・アーティスト・谷口暁彦氏」(「電通報」2015年9月21日付の記事)より。
https://dentsu-ho.com/articles/3085
*8: 「『ゼロ年代批評』を超えて 『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社)刊行を機に」(「週刊読書人」2011年10月14日号 掲載)より。
*9: 蓮實重彥『映画の神話学』(ちくま学芸文庫, 1996年)より。
*10: 谷口へのインタビュー(同上)より。
*11: 原題直訳。邦訳に際しての書名は『ポストメディア人類学へ向けて――集合的知性』であるが、本稿の主題に沿って原題のニュアンスを残したものを採用した。
*12: 清水へのインタビュー「文明の第三世代へ──『ポストメディア人類学に向けて』」(サークル「Rhetorica」の公式サイトに掲載)より。
http://rhetorica.jp/interview-takashi-shimizu/
*13: 「イエモン、横山健、アジカン、WANIMAらが熱演『ROCK IN JAPAN』後半戦」(「音楽ナタリー」2016年8月19日付の記事)参照。
https://natalie.mu/music/news/198768
*14: 「『君の名は。』興行収入200億円突破 IMAX上映も決定」(「アニメ!アニメ!」2016年12月6日付の記事)参照。
https://animeanime.jp/article/2016/12/06/31641.html
*15: 「特別対談 新海誠×RADWIMPS」(「EYESCREAM2016年10月号増刊『新海誠、その作品と人。』」掲載)より。
*16: 「インタビュー “かたわれ時”に出会うもの」(「ユリイカ2016年9月号 特集=新海誠」収録)参照。
*17: 大塚英志「レイヤーの美学」(「EYESCREAM2016年10月号増刊『新海誠、その作品と人。』」掲載)より。
*18: 「WEBRONZA」に掲載のインタビューから、安藤の発言を引用する。「自分がやるとなると、時間軸や芝居の流れにこだわったものになっていってしまうんですね。どういうタイミングで話し、それを受けてどういうリアクションで反応して、身体がどういう風に動くのか……と。」「自分は『映画の中の連続する時間軸で芝居を描く』ということに一番興味があるんです。」
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2017090400008.html
*19: 「【秋元康コラム】欅坂46が売れた理由」(「YOMIURI ONLINE」2017年5月8日付の記事)より。
http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20170501-OYT8T50003.html
*20: 「振付師・ダンサーTAKAHIROが語る、欅坂46の表現が進化し続ける理由『言うならば、振付は器』」(「Real Sound」2017年10月11日付の記事)より。
http://realsound.jp/2017/10/post-116777.html
*21: 清水へのインタビュー(同上)より。
*22: 講談社学術文庫・選書メチエ編集部の公式Twitter(@kodansha_g)より、ガブリエル本人のコメントとして投稿されたものを参照。翻訳は『世界はなぜ存在しないのか』も手がけた清水一浩による。(本文中で引用したのは、7回に分けて投稿されたツイートのうち「②」と「⑤」)
https://twitter.com/kodansha_g/status/964478355192991745
https://twitter.com/kodansha_g/status/964478685393731584
https://twitter.com/kodansha_g/status/964478761998548993
https://twitter.com/kodansha_g/status/964478998062354438
https://twitter.com/kodansha_g/status/964479264417460224
https://twitter.com/kodansha_g/status/964479327122239488
https://twitter.com/kodansha_g/status/964479390858936320
*23: 「媚びないおもてなしを 椎名林檎さんが思う東京五輪」(「朝日新聞デジタル」2017年7月24日付の記事)より。
https://www.asahi.com/articles/ASK7G5678K7GUTQP02P.html

 

【主要参考文献】

・東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』(河出文庫, 2011年)
・東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(講談社現代新書, 2001年)
・清水高志『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークへ』(白水社, 2013年)
・濱野智史『アーキテクチャの生態系 情報環境はいかに設計されてきたか』(ちくま文庫, 2015年)
・南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(南雲堂, 2014年)
・村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社BOX, 2011年)
・渡邉大輔『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』(人文書院, 2012年)
・トーマス・ラマール『アニメ・マシーン グローバル・メディアとしての日本アニメーション』(藤木秀朗・大﨑晴美 訳, 名古屋大学出版会, 2013年)
・ピエール・レヴィ『ポストメディア人類学へ向けて――集合的知性』(米山優・清水高志・曽我千亜紀・井上寛雄 訳, 水声社, 2015年)
・マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』(セバスチャン・ブロイ・河南瑠莉 訳, 堀之内出版, 2017年)
・マルクス・ガブリエル『世界はなぜ存在しないのか』(清水一浩 訳, 講談社選書メチエ, 2018年)

 

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