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私的・「演劇」との出会いの記録

私はこの批評再生塾に参加するまで演劇というものをまったく観たことがなく(中学の校外学習で劇団四季の『ライオンキング』を観たことがあるのは数えてもいいのでしょうか?)、実際の演劇人がゲストに来るのにそれではまずかろうということで、まずはそのゲストであるところの岡田利規さんが主宰する劇団チェルフィッチュの最新作『部屋に流れる時間の旅』を観に行きました。

正直、わけがわかりませんでした。

話の内容とはまったく無関係に俳優が奇妙な動きをしているのもそうだし、内容自体も「これは震災によって生じた死者と生者、希望と絶望の分断を幽霊の存在を介して描いたものです」といったようなステートメントが書かれているのを見て「え、そうだったの?」と思うくらいだったし、そもそも幽霊とか言いつつそこに存在してるじゃん、そういうものとして観てくださいってことなの? と。要するに「見立て」ということなのだと思うのですが、そういう「演劇とはこういうものです」のインストールがされていないために、目の前で起こっていることにただただ戸惑うばかりだったのです。

で、その後巷間にあふれるチェルフィッチュ評や岡田さん自身のインタビューなどにも目を通すにつれ、岡田さんおよびチェルフィッチュは「身体とセリフの関係」の問い直しをしているらしいということがわかってきました。あの「奇妙な」動きはその表れなんだと。でもその価値ってよくわからない。「奇妙な動きをしている」そればかりが気になってお話に集中できないなあと。そうしたら今度は岡田さんは「そもそもドラマ(お話)とかには興味がなかった」と言ってのけるんですね。初めてドラマらしいドラマをやってみようと思い立ったのが、2012年の『現在地』なのだと。で、この作品についてはDVDで鑑賞したのですが、さすがに意識してドラマらしいものをやってみた作品ということで、自分にとっても初めて接点を見出すことができました。

なんだかこれって『ほしのこえ』みたいだなあ、と。

『ほしのこえ』というのは昨年大ヒットを飛ばしたアニメ映画『君の名は。』の新海誠氏が完全自主で制作した2002年の短編アニメーションなわけですが、この作品の最後のセリフというのが「(私は/僕は)ここにいるよ」というものなんですね。宇宙戦闘機のパイロットになった少女とその恋人(正確にはそうなる前に二人は別れてしまうのですが)の少年が、地上と宇宙に引き裂かれながらも携帯メールでコミュニケーションを続ける、といった内容なのですが、少女の乗る宇宙船が地球から離れていくごとに、どんどんメールがリアルタイムでは届かなくなっていくわけです。宇宙空間と地上ということで、ビジュアル的にも二人が遠く離れているということは自明だし、後半に進むにつれ語りの焦点が少年側に寄っていくため、見かけ上年齢差が生じてしまいもする(「僕とミカコとの時間はどんどんズレていく」)のだけど、ラストシーンに至って二人の声がオーバーラップすることで、観客が聴取する音声のレベルでは「私たち/僕たち」が「一緒にいる」ように錯覚される作りになっている。つまり少女と少年、それぞれの「ここ=現在地」というのが、時間的にも空間的にも離れたところにありつつも、観客の「ここ=現在地」においては「同じ」場所として錯覚されるということですが、これを踏まえて『現在地』における最後のセリフ「そうよ。そうして私たちは、今、ここにいるの。」を考えると、この作品が演劇という表現手法における「フィクション」の成立条件そのものを問い直そうとしているように思えてとても興味深い。

アニメにおいては、作中人物と観客が「ここ」を共有していないというのは自明です。当たり前ですが、画面という壁がありますから。だからこそ、「私たちは、ここにいるよ」という声を画面の外にいる観客に響かせることによって、その発話内容のフィクション性を暴くということが可能になっていたわけですが、演劇においてはそうではない。むしろ、物理的な空間としての「ここ=現在地」は、演者と観客の間で否応なく共有されてしまっているわけです。演劇における「現在地」とは、絶対的な「現実(リアル)」の基盤としてある。
『現在地』では、舞台となる村に大きな災いがやってくるという噂が流布され、それを信じる人信じない人、方舟に乗って村を出ていく人と残る人……に分かれて、そもそも災いはあったのか、虚構と真実……といったテーマが浮き彫りにされていくわけですが、こうしたテーマが採用されたのには、東日本大震災直後の、虚実ないまぜになった日本の状況に対する問いかけがあったのだといいます。どんなに情報が錯綜しても、私たちは「いま、ここ」にしか存在することができないのだから、その範囲を超えて物事を考えようとすべきではない。『現在地』というタイトルには、そうした演劇の持つフィクションを表現する媒体としての限界、ある種の諦観が込められているようにも思えます。しかしそれはあくまで「物語」の水準での話です。岡田さんは自身の演劇論集『遡行』で、以下のように述べます。

演劇という形式はフィクションをよくなしうるものだ。フィクションとは、物語におけるレイヤーにおけるものだけではない。上演の時間や空間によってもたらされる、体験というレイヤーにおけるフィクションも、それは作り出せる。どちらのフィクションも、この現実に対置され、それと拮抗できる。

演劇におけるフィクション性とは、目の前で起こっていることを「~として見る」という、観客側の態度に依存すると考えられがちです。事実私もそうした「見立て」の回路がインストールできていなかったからこそ、初めての観劇作品を楽しむことができなかったのだと考えていました。しかしそこにはいま思い返してみると、確かに時間や空間の新しい秩序が、リアルタイムで組織されていくような体験があったようにも思います。演者の身体の「奇妙な」動きは、たとえば発話のスピードに対して、身体だけはもっと引き伸ばされた時間を生きている、という状態の表現なのではないか、とか。舞台上に存在していた回転する謎のオブジェは、空間に新たな秩序をもたらす機能を果たしていたのではないか、とか。またこれは演劇全般に言えることかもしれませんが、暗闇の中に座らされ身動きが取れない、それ自体が非日常的な、ある種のフィクション的な経験だったのだと言うこともできます。以上は『部屋に流れる時間の旅』についてのインプレッションですが、『現在地』においても同じことは言えるでしょう(ですのでDVDで鑑賞した『現在地』の持つフィクションとしての本当の「力」は、私にはその半分も感得されていないのでしょう)。

私の管見では、やはり演劇という表現は、「いま、ここ」を絶対的な「現実(リアル)」の基盤として持つがゆえに、どうしてもすべてが「描かれた(作り)物」であるアニメなどと比べて、現実とは完全に異なる自立した「世界」を作り出すことには向いていない。しかし、強烈な「いま、ここ」性を持つがゆえに、演者や劇場と観客のリアルタイムの相互作用によって、時間や空間の新たな理解を生み出すことができる。「フィクション」という言葉にまとわりつく、現実とは完全に位相を異にする作り物の世界、というイメージそのものを内破する可能性が、演劇という表現には内包されているのかもしれません。こうして書くといかにも一般的で凡庸な結論ですが、それは岡田さんおよびチェルフィッチュが、演劇とは何か、演劇になしうることとは何かという根本的な問いを真摯に突き詰め続けているがゆえのことなのだと思います。初めて演劇というものに出会ったのが、チェルフィッチュの演劇でよかった。そんな感謝の思いを込めて、本稿を締め括らせていただきます。

文字数:3205

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