左手では絵を描かなかった彼女の代わりに

日本映画として世界興業収入一位の記録を塗り替えた『君の名は。』を筆頭に、「アニメ映画の当たり年」と言われた2016年。その一角をなす作品として挙げられることの多いタイトルに『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』がある。これらの作品には、個人の力ではどうにもならないほどの巨大な災禍と、それに対置させられる「無名者」という構図が共通していた。
『シン・ゴジラ』はれっきとした特撮(実写)映画だが、アニメ監督としてのキャリアが長い庵野秀明が監督を務めたことで、これらアニメ映画と同列に語られることも多い。本作はゴジラという巨大な「災害」に立ち向かう人々の奮闘を描いた群像劇であり、彼らの顔のアップとともにいちいち名前のテロップも出るのだが、「ゴジラ」という長年我々の記憶に刻まれてきた破壊の象徴のような名前に対して、やはりその印象は相対的に小さい。また彼らは名指されることはあっても、官僚機構という巨大なシステムの一部にすぎないという描写が全編にわたってされている。二重の意味で彼らはその記名性を奪われている。
『君の名は。』はどうだろう。こちらも彗星落下という災害がモチーフだが、主要な人物はぐっと絞り込まれ、「身体の入れ替わり」を経験する二人の高校生にフォーカスが当たる。しかし重要なのはこの二人がお互いの名前を「忘れてしまう」ことである。一度忘れてしまった後思い出して、今度こそ忘れないようにと手のひらに書き残した文字が全く関係のない「すきだ」の三文字だったという展開まで入る徹底ぶりだ。ともあれ二人の奮闘により落下予測地点の住民の避難誘導には成功するのだが、そうした過程があったことは観客だけが覚えている状態で――作品世界には忘れられたまま――物語は幕を閉じる。
『シン・ゴジラ』と『君の名は。』では、「ゴジラ」「彗星」といった架空の災禍に対して、英雄的な活躍をした人物が英雄的な評価を得ることなく、無名者の列に置かれてしまうことの悲劇性があった。『この世界の片隅に』が扱っているのは、第二次世界大戦という史実に基づいた災禍である点で他二作とは異なる。現実の戦争というものは、誰か特定の英雄的=固有名的な人物の活躍によってハッピーエンドがもたらされるようなものではないことを、私たちはすでに知っている。題材として現実の戦争を選んだ時点で、本作が無名者の側に立つことは、宿命づけられていたようなものである。
しかし本作にも、やはり他二作と同様の悲劇性が存在する。それは主人公「すず」が、「絵を描く」人物であるという点による。本作では「すず」の描いた絵が彼女の周囲の風景と溶け合い、その境界を消失するといったシーンがたびたび登場する。そのことを、この映画が「すず」という夢見がちな女性の視点から見た世界を描いているからだ、と処理することは容易い。しかし虚心坦懐に目の前で起こっていることを見つめれば、彼女は実際に魔法使いのように、絵筆で世界を描き換えているという風にも取れないだろうか。少なくともそのように錯覚させる確かな筆力によって、「すず」は私たち観客に紛れもない主人公=有名の人物であると印象付けられる。
「すず」が絵筆をとる右手は、不発弾の爆発によって終盤、失われる。この点を切り出し、実際に戦争が絶望的な状況になっていくとともに「すず」は世界に対する全能性を失い、空想と現実との間でたゆたうことを止め「成熟」する、という見方はできる。しかしそうした見方は、絵筆によって世界を描き換えることができるという「すず」の力を、あくまで「作者」による「表現」として捉えようとするものだ。原作者のこうの史代は、「すず」が左手を失って以降の背景を実際に(利き手ではない)左手で描いたというが、これは「人物」だ、これは「背景」だと区別してしまうこと自体、作品世界を「描かれた」ものとしてしか認識できない私たちの都合である。作品世界に生きる「すず」にとっては、そのような区別など最初から存在しない。彼女の生きる世界は、私たちがこの目で目撃した通り、絵筆によって世界を描き換えることのできる世界なのである。
基本的にスクリーンに映し出されたものを「見る」ことしかできない「観客」という存在にとって、「すず」のような自らの行為によって「見える」世界に介入してみせる人物は、自分には決してできない行為を代行してくれる存在である。しかしそのような「観客」という制度も、そもそも座席指定、暗闇という環境、「上映中はお静かに」などのマナー徹底によってかろうじて保たれているものにすぎない。今年公開されたアニメ映画『BLAME!』は、公開と同時に映像ストリーミング配信サービスNetflixでの配信も開始したが、このように映画というもの自体「まず、映画館でしか観れない」という前提が崩されつつある。しかもひとたび映画館の外に目を向ければ、「現実と虚構のあわいをゆるがす」ことは非常に容易になっている。たとえばinstagramで写真にフィルターをかけることもそうだし、ニコニコ動画で動画にコメントを打ち込むこともそうだ。これらは正確には「現実と虚構のあわいをゆるがす」ではなく、「現実に新たな情報レイヤーを被せて、別の新たな『現実』を立ち上げる」と言ったほうが良いかもしれないが、「現実=この世界」に対するオルタナティブを志向するという意味では同じことである。こうした変化を比喩的に「VR(仮想現実)からAR(拡張現実)へ」と表現することも可能だろう。たとえば声出しあり、ペンライトありの「応援上映」も、そのような変化の中に位置付けることが可能である。私たちはもはや映画に対する無力を、映画の中の創作者に託す必要はない。スクリーンに映し出される映画もスマートフォンで観る動画も、すべてが「映像」としてフラットに捉えられる時代を生きる私たちは、映画館の暗がりから解放された、いわば「ポスト観客」とでも呼ぶべき存在になっている。
「すず」は想像力によって世界を上書きすることを止め、唯一的な「現実=この世界」の「片隅」で生きていくことを選択した。その選択自体を非難する権利は、私たちにはない。しかしそんな彼女の姿を通して見えてくるのは、『この世界の片隅に』 という作品が「観客」の時代のリアリティに留まっているという事実である。無自覚に世界への介入性を発揮していた彼女は、右手を失って世界に対する自覚的な「観客」になった。しかし彼女にはまだ左手が残っている。「観客」となってしまった自分を対象化しつつ左手で再び絵を描き始めることは、「現実=この世界」の上に新たな「現実」を重ねていくような想像力につながるはずだ。世界はもはや「中心」と「片隅」の存在する空間的なイメージではなく、レイヤー状に複数の「現実」が折り重なったイメージとして捉えられる。差し当たって私たちは「すず」が絵を描かなくなったことの代わりに、写真加工アプリやARアプリの搭載されたスマートフォンを手に、「この世界」を上書きしていくことから始めよう。

補論 「ポスト2016年」のアニメ映画について

「VRからARへ」……この題材をそのまま扱ったアニメ映画が、今年に入って公開されている。その作品、『劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』(以下『劇場版SAO』)は、VR技術が現在よりも少し発達した近未来を舞台にしたTVアニメ『ソードアート・オンライン』シリーズの映画化で、完全オリジナルストーリーが原作小説の作者によって書き下ろされている。TVシリーズで描かれたのはVRMMO(仮想現実大規模多人数オンライン)ゲーム世界における主人公の活躍であったが、劇場版では小型のデバイスが開発されたことでAR技術がより生活に溶け込む形で浸透してきており、ゲームの世界でもVRMMOゲームを脅かす勢いで「オーディナル・スケール」なる“AR”MMOゲームが台頭してきているという設定である。こうした変化は「Pokémon GO」のブームを通過した私たちにとってはイメージしやすいものだろう。
『劇場版SAO』では「VRからARへ」というテーマと並行して、「無名者の反逆」というテーマが通底している。タイトルにもなっている「ソードアート・オンライン」とは作中にかつて存在したVRMMOゲームのタイトルなのだが、これがマッドサイエンティスト的な志向を持つ開発者の手によって「ログアウト不可能・ゲーム中での死が現実世界の死にも直結する」という「デスゲーム」に変貌するという事件があった。主人公・キリトの英雄的な活躍によって事件は解決を見せるのだが(ここまでがTVシリーズで描かれた)、その過程では数千人単位での犠牲者が出たし、誰もがキリトのように行動できたわけでもなかった。『劇場版SAO』で暗躍するのは幼馴染とともにこの事件に巻き込まれ、しかし目の前でその幼馴染を失うことしかできなかった「無名者」、エイジである(ちなみに、実際にこの劇場版で「後付け」的に設定されたキャラクターである)。エイジは幼馴染の父親であり、「オーディナル・スケール」の開発者でもある人物と結託して、ある計画を実現しようとする。そのためにエイジは「ソードアート・オンライン」事件の生き残りたち――事件の顛末を追ったルポ本にも名前が載っている「有名」プレイヤーたち――を、「オーディナル・スケール」で狩っていくのだ。そんな彼の「戦い」がどのような結末に辿り着くのかは……ぜひ本編を観て確認してほしいが、重要なのは「VR世界の英雄」であるキリトに、「VR世界の無名者」であったエイジが、AR世界で戦いを挑むという構図の象徴的な意味である。
本論をお読みいただいた方にはこの作品が「ポスト観客」の状況を織り込んだ作品であるのみならず、「ポスト2016年」のアニメ映画として、きわめて正統的な作りをしていることがおわかりいただけるだろう。

文字数:4063

課題提出者一覧