ラジオという変換装置――死者の〈声〉を聴くために

1.

〔…〕なんであなたの耳にこの僕の声が聴こえてるかって言えば、冒頭にお伝えした通り想像力なんですよ。あなたの想像力が電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔であり、つまり僕の声そのものなんです。
(いとうせいこう『想像ラジオ』より)

 

ここで言われていることは、頭の中で「音読」することの強制である。それは小説という表現形式の可能性を狭めてはいないだろうか? 小説と呼ばれる文字の連なりに相対するとき、私たちはそれが誰かの台詞であれば声を想起することができるし、あるいは音声というものをまったく介さずに、視覚的に広がる情景を想い描くこともできる。そこには「この文字の連なりは“小説”である」という構えの存在が不可欠である。しかしラジオの電波に乗って届く音声は、そのような構えを必要とすることなく耳に飛び込んでくる。それ自体は物理的な現象にすぎない音声は、頭の中で一度文字に変換しなければ――分節という操作を噛ませなければ、多彩な意味内容を持つことはない。上に引いた一文は、そうしたラジオの持つ「まず耳に飛び込んでくる」という特性を、小説という表現形式の上に再現するものであった。

ではなぜ、そのような特性をこの小説は必要としたのだろうか。

 

2.

ノベルゲーム、とりわけ恋愛アドベンチャーと呼ばれるタイプの作品においては、主要キャラクターのうち主人公にだけキャラクターボイスが搭載されていない。それは主人公が、プレイヤーが恋愛対象となるヒロインとの擬似的なコミュニケーションを楽しむための「器」として設定されているからである。『CROSS†CHANNEL』(以下『CC』)という作品の冒頭では、そのことを露悪的に突き付ける演出がなされる。舞台となるのはある学校の放送部。部員たちは自前で屋上に電波塔を組み立て、世界に向けてこう発信する。

「生きている人、いますか?」

それまで「お約束」として聴こえないふりをしてきた主人公の〈声〉が、電波に乗せられたことになった途端、「聴こえない」ことへの違和感が生じる。私たちはその問いかけに答えることができない。誰からの応答も得ることがない主人公たちは、人類は滅亡してしまったのだと信じ込んでしまうことだろう。事実人類が滅亡した後の世界で主人公たちはラジオ放送を試みていたということがすぐに明かされるのだが、この放送は結局「生きている誰か」の元に届くことになる。人類滅亡後の世界というのはいわゆる並行世界で、そこに迷い込む以前から(一種の精神疾患として)殺人衝動を抱える主人公は、苦悩の末に他の部員たちを元の世界に送り還し(彼はそのような衝動を抱えていこそすれ、他者との交流を求めているのだ)、ひとりその世界に残る道を選ぶ。エピローグでは元の世界に戻った部員たちが、主人公が並行世界から発信するラジオ放送に耳を傾ける様が描写される。相変わらず私たちはその内容を「読む」ことしかできないが、部員たちの耳には「聴こえて」いるという。

私たちには聴こえないが、キャラクターたちには聴くことのできる〈声〉。そのような〈声〉の存在は、冒頭の問いを解く鍵になる。

 

3.

『CC』のキャラクターたちは人類滅亡という状況に耐えられず自壊するか、あるいは潜在的な殺人鬼である主人公に惨殺される形で、何度も何度も死を迎える。それはゲームプレイというメタな次元でのみならず、作中の出来事が「ループ」しているというSF的な設定によって、「現実に」繰り返している。よって本来死者と呼べそうなのはキャラクターたちのほうである。しかし繰り返すように、主人公の問いかけに応えることができるのはそれを音声として「聴く」ことのできるキャラクターたちなのであり、「想像する」ことしかできない私たちは応答する権利を奪われている。ここでは生者(プレイヤー)と死者(キャラクター)の地位が反転している。

『想像ラジオ』は2013年の発表当時、著者・いとうせいこうにとって実に16年ぶりとなる小説であった。いとうは16年もの間小説が書けなかった理由のひとつに「『ので』の問題」というものを挙げている。小説において出来事を記述しようとすれば、「~があった『ので』こうなった」という因果性=時間の経過に縛られる。そのことが不自由に感じられて仕方なかったというのである*。小説が因果性に囚われているのは、何よりそのインターフェース的な特性による。これもノベルゲームと比較するとわかりやすいかもしれないが、小説はゲームのように繰り返し構造を持てない。より厳密に言えば、「ループという現象が起こっている」と記述することはできるが、それが「ページをめくる」という読者の現実世界における体験とリンクすることはない。つまり因果性から離れた書き方をすればするほど、現実世界における「(一方向的に)めくる」という小説のインターフェース的特性は読者に強く意識されるようになる。読者は「めくればめくるほどに」否応なく自らが作品世界から弾き出された、「神の視点」に位置する存在だと自覚させられることになるだろう。

そこで必要とされたのがラジオという装置だったわけである。ラジオというのは特にこちらが「聴こう」と構えることもなく、カーステレオから、美容室の待合い室から、行きつけの食堂から聴こえてくる。因果性の軛からは解き放たれたものとして、その〈声〉はそこかしこに存在している。『想像ラジオ』という作品にもそのような〈声〉は縦横に反響している。全五章からなるこの小説は、冒頭に引いた一文の語り手「DJアーク」によるラジオ放送を模したパートと、その放送を「聴く」人々のドラマが展開するパートが交互に繰り返される構成を持っている。「DJアーク」は東日本大震災にて生じた津波に逃げ遅れた人物で、彼が「放送」を行っているのは死ぬ間際の走馬燈的な、一瞬の時間が何千何万倍にも引き伸ばされているような場所である。一方その放送を「聴く」立場にあるのは生者たち――つまり因果性の時系列に住まう人々である。複数化され、相互に入り乱れた時間。その中心に位置させられるのが「電波であり、マイクであり、スタジオであり、電波塔」であるという、「あなた(読者)の想像力」だというのである。読者にとってはDJパートも生者たちのパートも同等に「読む(めくる)」という一方向的な体験なわけだが、それが「あなた」という二人称を介して、「想像する」という無時間的な体験に還元される。こうして過去から未来へと「流れる」因果性の時系列は抹消され、生者(読者)と死者(キャラクター)の境界も失われることになる。

小説という表現は、読者の想像力を無限に喚起する――読者が「生きている」限りにおいてどこまでも「自由」なものだからこそ、死者を本質的には取り扱えないという根源的な問題を抱えている。死者との交流は能動的=因果的な「読む」ということでは成し得ず、「聴く」ということによってのみ達成されるのだ。『想像ラジオ』という小説におけるラジオとは、生者と死者の境界を抹消するために、「読者」を「聴く者」に変換する装置であった。

 

*:  「文藝」2014年5月号「対談 いとうせいこう×千葉雅也 装置としての人文書―文学と哲学の生成変化論」より。なお、同対談はWeb上でも公開されている。 http://www.kawade.co.jp/souzouradio/talk_b01.html

 

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