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「主観」から「眺望」へ――セカイ系批評の再生に向けて

1. 「セカイ系」再考――メディアが作り出すリアリティとしての

「セカイ系」という言葉がある。
ネットミームに出自を持つためその定義は錯綜しているが、代表的なものとして「主人公とヒロインの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる」というものがあるように*1、〈世界と自分〉、あるいは〈君と僕〉といった二項関係を強固な軸として持つ作品類型である。この言葉の下にカテゴライズされた作品群は自意識の肥大化や他者への恐怖の表れとして、批判的にやり玉に挙げられることも多い。しかし先述の批判が対象としていた問題――独我論や他者論といった問題それ自体は伝統的な哲学的問題である。それがわざわざ「セカイ系」などという新語を与えてカテゴライズされることになったのはなぜだろうか。

セカイ系と名指される作品群が隆盛した90年代末〜2000年代初めは、コンピュータが一般家庭に普及した時期と重なる。その情報環境のドラスティックな変化をいち早く捉えて新たな「主体」のあり方について考察した著作が、東浩紀『動物化するポストモダン』(2001年)だ。同書によればポストモダンの新たな主体(=オタク)とは、客体(=表象)「そのもの」ではなくその背後にあるデータベースをも同時に透かし見ているのだという。コンピュータディスプレイを介した主体と客体のこの関係を同書では「超平面性」「過視性」といった用語で表していた。それは従来の視覚表象――絵画や映画など――を受容するあり方とは確かに異なっていたのだが、しかしなお「見る」という行為動詞からは逃れられていない。「見る」という行為動詞は当然、それを行う主体と「見られる」客体を必要とする。その意味で東の理論はセカイ系の表象がなぜ生まれたかということを説明するのにこれ以上なく親和的である。目の前の表象から無限のデータベースにアクセスできるかのような感覚――「超平面的」な感覚こそが、「セカイ系的」な表象となって表れていたのである。

そしてスマートフォン時代の現在、ディスプレイは身体移動に伴って「持ち運ぶ」ものとなっている。いまやディスプレイとは主体と客体を結ぶ透明な一枚の板ではなく、それ自体「厚み=物質性」をもって存在を主張する第三項である。また人間とデジタルデータとの関係も、触知的インターフェースを介して相互に溶け合う(インタラクション)ものになっている。たとえばSNS上で「いいね」を送るという(主体的であるはずの)行為は、相手方の通知欄に表示されるアイコンの群れという客体に、タイムラグを必要とすることなく転じる。それは「見る」とも「触る」とも厳密には異なる行為だ。こうした完全に主体的とはいえない「中間的」な行為によって特徴づけられる世界認識への変化を、〈ディスプレイの時代〉から〈インターフェースの時代〉へのパラダイムシフトと言うこともできるだろう。

セカイ系作品が隆盛した〈ディスプレイの時代〉においては、作品と受容者との間に介在するディスプレイの「厚み=物質性」の忘却を許すような環境があった。それはセカイ系作品に欠けていたとされる「社会や国家のような中間項」と対応していたと考えられる。セカイ系作品から現在にも通ずる普遍的な主題を取り出すためには、作品内部の図式に〈君と僕〉の二項関係にとどまらない第三項を見つけ出し、それを〈作品‐インターフェース‐受容者〉の三項関係に重ね合わせるような読解が必要になる。本稿では以下〈ディスプレイの時代〉から〈インターフェースの時代〉への過渡期、2010年に発売された『素晴らしき日々~不連続存在~』(以下、『素晴らしき日々』)というノベルゲーム作品の読解を通じて、具体的なその道筋を示したい。

 

2. ノベルゲームのインターフェース――身体という第三項の発見

まずはノベルゲームというメディアについて触れておこう。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年)はノベルゲームをポストモダンの新たな「文学」として批評的に位置付けた著作だが、同書での定義を要約すればそれは「デスクトップないしはノートPCによってプレイする、テキスト、キャラクターのイラスト、背景画像を組み合わせたインターフェースを持つ、小説のように読み進めるゲーム」であり、その上で重要な特性として「ウィンドウ内部の映像は、基本的に視点人物の視野と一致していると見なされている」点が挙げられている。つまりノベルゲームとは基本的に、視点人物の「主観」に大きく依存する叙述形式を備えた表現メディアである。

これを踏まえて、『素晴らしき日々』とはどんな作品なのか。
全6章+3種類のエンディングからなる本作を最も強く特徴づけるのは、それぞれの章ごとに異なる視点人物が存在する――いわゆるマルチサイト方式をとっているという点である。メインプロットはある学校で起こった事件(ひとりの女子生徒の不可解な転落死と、それに端を発する終末思想の流行と集団死)の真相に迫るという探偵小説的なものだが、「不連続存在」の副題が示す通り不自然な時間の寸断(これには後述するトリックが関係している)や精神錯乱に陥った視点人物も存在する。シナリオライターのすかぢはウィトゲンシュタインの思想に影響を受けた「懐疑主義」の立場から本作のシナリオを執筆したと語るが*2、本作のマルチサイト方式も複数の視点によって物語を立体的に見せるというよりもむしろ「それぞれの人物の認識可能な範囲で“しか”事件について知ることができない」ということを強調するものだといえる。

問題はこの構成に対して「多重人格」という設定が与えられている点である。探偵役となる少女「水上由岐」、学校中に終末思想を振りまく少年「間宮卓司」、そして物語開始当初はヒールとしての位置付けが与えられているものの、実は彼らの共有する身体の当初の主であったという役どころの「悠木皆守」。全6章のうち4本までもが彼らのうちいずれかの視点を借りて読み進められることになるわけだが、プレイヤー視点で彼らのうち2人以上が同一空間上に存在しているように見えることも多いため、この事実は最終盤まで、先述の悠木皆守の設定が明かされるまで明示的にされることはない。
上記の内容は「三つの魂(人格)が一つの身体の所有権をめぐって相争う物語」と要約することが可能である。これまで「ゲーム的リアリズム」的に透明な視点として各章の視点人物と同一化してきた我々は、この事実が開示されることで、その所有権争いから弾き出される(あるいは、はじめから「蚊帳の外」にいたことを突き付けられる)。もし用意された魂の数が二つ(視点人物+もう一人の魂)であったなら、ディスプレイの「向こう側」と「こちら側」という二項関係に、我々プレイヤーと作品世界との関係も回収されてしまっていただろう。三つの魂(より正確に言うなら、最終的に身体を所有することになる一つの魂と、その他二つの魂)がそこにあるからこそ、プレイヤー自身の「この身体」は作中で所有権を争われている身体とは異なるものとして、ディスプレイの「こちら側」に再発見されることになるのである。同時にそれまで作品世界を見通す「透明な窓」であったディスプレイも、「厚み=物質性」を持ったものとして再認識されるようになるだろう。

 

3. 「主観」から「眺望」へ――セカイ系批評の再生に向けて

『素晴らしき日々』が上記のような構成を必要とした理由は、シナリオを執筆したすかぢの「(恋愛ゲームを作らなければならない立場にありながら)恋愛を書くことができない」という自己認識にあった。インタビューですかぢは「恋愛モノの作品って、誰かを好きになってその人と結ばれたら終わるじゃないですか。でも僕は、「その後別れたりしないのかな」っていつも不安だったんです。そもそも「愛が一番重要だ」というようなテーマ設定がピンと来ていなくて」と語っている*3。そのような懐疑から出発した上記のような構成は、ノベルゲーム作家による恋愛=二項関係という図式そのものに対する批評的な介入だといえる。

しかし、作品としてそのような批評が達成されたとして、プレイヤーたる我々は「この身体」に置き去りにされてしまったままである。結局我々は現実の生において、「この身体」の唯一性を引き受けて「主体的」に関係を築くより他ないということなのだろうか? 実は本作ではこの点に関しても興味深い解決を示しているのだが、その前にひとつの前提を共有しておこう。それは全6章のうち、前述した三つの視点の他にもう二つの視点(転落死した少女と、「皆守」の実の妹)が存在しているという事実である。彼女らは「多重人格」の一つではないわけだから、これらのシナリオにおけるプレイヤーと視点人物の同一化は「三つの魂による一つの身体の奪い合い」という物語によっては説明できない。プレイヤーと各視点人物との同一化を一括して物語的な整合性の中に収めるためには、また別のロジックが必要となる。

そこで召喚されるのが「遍在転生」という概念である。心理学者・渡辺恒夫の議論を典拠とするこの概念は、「目に映るすべての人は、過去や未来の〈こうであったかもしれない私〉のバリエーション(転生体)であり、したがってすべてが〈私〉なのだから、なぜ他者の視点・心情を理解できるのかという問い自体が無効化される」という、ややアクロバティックな主張によって成り立っている。この議論に照らせば、三つの魂によって見出された身体(「皆守」の身体)とディスプレイの「こちら側」に存在するプレイヤー自身の身体との分別、ということに関しても、そもそも問題として成立しないということになる。「遍在転生」の議論とは、同一平面上に複数の時間が併存していることを前提としつつ、「身体を起点とした定点観測(主観)」ではなく「時間経過に伴って変化する視点」を基準に認識論を再構成しようとする試みなのである。

この「時間経過に伴って変化する視点」のことを、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫版)の訳者でもある野矢茂樹の近刊『心という難問 空間・身体・意味』(2016年)で扱われている「眺望点」という概念と照らし合わせてみてもよい。同書によればこの世界には、そこに立ちさえすれば誰でも同じように世界を感じ取れるというような「眺望点」が無数に存在している。「眺望点」から「眺望点」へ移動するには身体的な移動が伴うが、逆にいえば身体とはそのようなものとしてのみ了解されるのだ。そして他者とは、自分とは異なる「眺望点」に立っている/立ったことのある者として理解されることになる。ある他者Aが立ったことのある「眺望点」すべてに移動することができれば、自分もその他者Aと限りなく近い世界把握が可能になるかもしれない。しかしそのときにはすでに他者Aは他の様々な「眺望点」を渡り歩いており、「現在の」私と「現在の」他者Aの世界把握が完全に一致するということはあり得ない――このことから「私」と「他者」を区別するのは、身体移動に伴う時間の経過であるという帰結が導かれる。

身体的な「移動」による主体概念の更新。ここから東浩紀が『ゲンロン0』(2017年)で展開する「観光客の哲学」を連想することは容易いだろう。そこで思考されている新たな主体――「郵便的マルチチュード」を理論的に支えるネットワーク科学が、頂点「3」を持つネットワーク(クラスター)を最小単位とするものであったことを思い返しても良い。東は『ゲーム的リアリズムの誕生』以来表立ってノベルゲームを論じることはなくなっていたが、その間に発表されたノベルゲーム作品と東の最新の思想が、このように似通った場所にたどり着いたという事実は重要である。ひとつの結論に至る道筋は、常に複数あってよい。このことはセカイ系について今日語ることの困難――「セカイ系」というカテゴリ名が「乗り越えるべき過去」として固着化し、それを「乗り越える私」との間でまさしく排他的な二項関係を結んでしまっていることへのアンチテーゼとなるからだ。「過去」から「未来」へと流れる直線的な時間概念に対して、異なる時間線が複数併存するような仕方を考えているという意味では、先に述べた「遍在転生」や「眺望点」の議論とも重なるだろう。常に「眺望点」を移動し続けながら、「セカイ系」という言葉とのパースペクティブを変化させ続けていくこと。セカイ系をめぐる批評的な言説の再生は、そのようにしてなされなければならないのである。

 

*1: 東浩紀『コンテンツの思想 マンガ・アニメ・ライトノベル』(2007年)「はじめに」より

*2: 『素晴らしき日々~不連続存在~ 公式ビジュアルアーカイヴ』(2010年)「製作総指揮 すかぢ interview」より

*3: 「TECH GIAN」2014年6月号「特集 『サクラノ詩』Revision!」より

 

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