時限爆弾はまだ爆発していない。 上下動を欠く平面に隠された、もう一つの弾痕。

 

スタジオジブリが残した、日本アニメ映画の骨格

 

スタジオジブリの宮崎駿監督作品を語る上で、最も重要なことの一つに上下動の演出がある。どういうことか。これは、登場人物の身体的、そして時には精神的な「導線」が画面の中で垂直方向に近い上下動を導くとき、物語が大きく展開することを意味する。登場人物以外にも、画面に映されたものが人の代わりに上下動することもある。この上下動の演出は、ジブリ作品において、物語の主題を追う際に最も重要といっても過言ではない。

例えば、『風の谷のナウシカ』においては、自ら調整する小型機に乗って上空を飛び回るナウシカが空から落ち、腐海と呼ばれる地下空間へ降りていった時、彼女は世界の秘密を知る。そして、彼女が地下から再び地上へ出てきたとき、物語はクライマックスへと進んでいく。このような形で、物語の展開に沿って登場人物の導線が上下動するというのが、上下動演出の原型となる。

他にも例を挙げていこう。『魔女の宅急便』において、主人公の少女キキは、人間の世界で暮らしているうちに魔女としての力を一度失ってしまう。その直接的な原因は少年への恋愛感情が引き起こす嫉妬心などが考えられるが、彼女が箒に乗って空を飛べなくなるという落下(上下動)の演出は、これと関連して物語を駆動させる。「お腹が痛い」といって寝込むキキの姿が間接的にも示すように、キキは物語の途中から、次第に大人の女性へと変わっていく。その途中の不安定な状態に、空を飛ぶ、飛べないという上下動の演出が重ねられていることになり、言わずもがな重要な主題となり得るのだ。
『千と千尋の神隠し』ではどうだろうか。主人公の少女千尋は、迷い込んだ異世界の中で生きていくために労働を教わり、そびえ立つ遊郭を登っていく。動線を見るならば、その頂上で湯婆婆に出会い、逃げるように遊郭を駆け下り、そのまま地下の世界へ降っていく。この作品が魅力的なのは、そこ(地下)からまた水平線上に線路が続いているという点だ。千尋は、その道をずっと進んだ先で湯婆婆の双子の姉銭婆に出会い、真実を見つけ、ハクの飛翔と共に再び遊郭へと帰ってくる。上下動の演出を通して、千尋が物語の始めに立っていた地を踏みしめた時、彼女はもう過去の千尋ではなくなっている。
最後に『風立ちぬ』から、二郎と菜穂子が心を通じあわせるいくつかのシーンを紹介したい。ベランダの高い位置から地上の二郎に向かって紙飛行機を投げる菜穂子、そして菜穂子に紙飛行機を投げ返す二郎。二人の通じ合う心を表現するこのシーンを下支えしているのもまた、空を飛ぶ紙飛行機の上下動の演出である。カプローニが二郎と対峙する、おそらくゲーテの「ファウスト」や煉獄からアイデアを得ているであろう最後の場面。二郎がカプローニと話していると、上下動の演出により、坂の上からパラソルが落ちてくる。そこには菜穂子がいる。二郎が菜穂子からの「生きて!」という言葉を受け止めた時、彼の横を数台の零戦機が通り過ぎ、きらきらと輝きながら天へと昇っていく。二郎が作った飛行機という美しい創作は、地獄へ向かう彼を見送りに来てくれたのか、それとも彼が天国へ行くことを許したのか、いずれにしても、とても感動を誘う場面だ。この場面を演出するのもまた、上下の導線である。

さて、上下動の演出は『風立ちぬ』で今のところ途絶えている宮崎駿の作品にとどまらない。そのアニメ映画の骨格は、確実に次世代へも引き継がれているのだ。代表的な例が、元スタジオジブリのスタッフが創作に携わってもいる、新海誠監督作品の『君の名は。』だろう。世界の秘密を握る主人公(少女)の存在や、民俗学的な汚れの思想など、宮崎作品を多くの共通点を持つ作品には、やはり上下動の演出もしっかりと映画の中心に添えられている。

物語のクライマックス、三葉に出会うための手がかりを求めて、瀧は懸命に山を登る。そして瀧は、自らの身体だけを山頂に残し、三葉の口噛み酒を媒介にして三葉との最後の入れ変わりを経験する。三葉の身体と共に彼女のいる世界に戻ってきた瀧は、隕石の落下から人々を救うために動き回るが、時空を飛び越え山頂に存在する自らの身体の中に三葉がいるのではないかと感づき、再び必死に山を登る。これがクライマックスにおける2回目の登山である。瀧の予想通り、三葉は山頂にいた。身体が入れ替わったまま山頂で再会する2人は、お互いの声は聞こえても姿を確認することができない。次の瞬間、黄昏時が訪れ、瀧の身体に瀧の精神が、三葉の身体に三葉の精神が再び戻る。そして、瀧はとうとう自分の思いを三葉に伝えることに成功するのだ。上下動の演出により展開されたトリックを用いて、片時の間だが、瀧は三葉の世界へ移動することに成功し、2人は同じ世界の中で再会する。その後三葉が、瀧を忘れないように彼の名前を何度も叫びながら山を降っていくシーンもまた、上下動の演出を辿る上で印象的な瞬間である。
物語のエンディングにて、2つの異なる電車は2人を乗せたまますれ違い、2人の距離がとうとう近づいていることを示唆する。電車を降り、街中の階段を瀧が上り始めたとき、三葉が階段を上から降りてきて、2人は一瞬すれ違った後に、お互いを発見する。この重要なシーンもまた、上下動の演出の土台の上に成り立っているといえよう。

このように、宮崎駿がジブリ映画で用いた上下動の演出は、その興業的な大成功もあいまって、日本中に拡散されることになった。そしてその演出手法は、スタジオジブリの成功とともに30年以上をかけて日本アニメ映画の骨格となり、大ヒット映画『君の名は。』にまで引き継がれている。

前置きが長くなってしまったが、これから語る映画『この世界の片隅に』もまた、この上下動の演出を真正面から引き受け、それをさらに昇華させようとした作品と言うことができる。

個人的な事情だが、『この世界の片隅に』が上映された当時、私はカナダのトロントにいて、映画を日本で見ることができなかった。そのため、帰国後、私はインターネットを通して映画をダウンロードし、ストリーミング鑑賞した。上下動の演出を含む導線を拾っていったことで気づいたいくつもの発見は、『この世界の片隅に』が丁寧な作品作りを目指しているがゆえに、のちに重大な損害を作品に与えるかもしれない、大きな不発弾を隠し持っていることを示唆していた。

 

 

この世界の片隅に爆弾を見つける

 

映画開始から4分頃(以下の時間、全て映画開始時から数えたものとする)。すずが望遠鏡で破損前の原爆ドームや広島城を見ていると、突然籠の中に転げ落ちる。籠の中には兄がいてすずは驚く。そのまま2人が怪物に背負われた籠の中にいると、突然すずは夢から覚める。
6分30秒頃。部屋の中で、すずが兄や妹とともに川の字になって寝ている。すると、すずが突然天井に向けて指を差し、そのまま指を上げていく。次の瞬間、すずの「色んなものが見えてくる気がする」というセリフとともに、すずが指差している屋根裏から座敷童が出現する。
この2つのシーンに現れている上下動は、すずを、すずにとって不安定で予想外の状況へと誘うものとして機能している。それは、落下したとき籠の中に兄がいて「驚く」すずの様子や、座敷童に「驚く」すずの様子からもわかる。『この世界の片隅に』においては、映画を観ている観客にとっても、日常から非日常への転換、落差を感じる場面に、この上下動の演出が作用しているのではないか。だとすれば、垂直方向への上下動と対をなす、平行移動は安定をもたらし、日常をほのめかすものとして作用するのであろうか。
それらのことを、いくつかの場面を追いながら検証してみたい。すずが、幼い頃憧れていた水原という男子学生がいる。次の場面は、すずと水原が山の中にある小高い丘の上から、海を見下ろすシーンである。10分頃。2人は海を見下ろすというよりも、後の類似する場面と比較するならば、より水面に近い丘の上にいるように映される。波が跳ねている様子を水原は「うさぎが跳ねる」ようだと表現し、すずはまず画用紙に1本の水平線を引いた後、その白波の水平に動く様を描いていく。場に流れるリラックスした温かい雰囲気からは、2人がお互いを好いていることがよくわかる。
16分頃。直前の水原との場面よりも、すずはより高い丘の上にいるように見える。それを示すのは、すずが港を見下ろすときの、丘から港までの距離が「深く」感じられるようなショットである。すずは、見知らぬ断裁から初めての結婚の誘いを受けて動揺し、一人山の中にいた。港を見下ろしたすずに後ろから声をかけ、彼女を「驚かせた」のは、いずれすずの夫となる北条周作とその父であった。道に迷ってすずに声をかけた北条と、その彼に対して用いられた上下動の演出(垂直方向の演出)は、すずと水原の間に存在した水平方向の演出とは対照的なものである。事実、港をより高い位置から眺め、上下の深さが画面に示された瞬間に、すずは背後から声をかけられ「驚く」。だが、北条に対して上下動の導線が用いられていることは、単なる「驚き」を示したいのではなく、すずにとっての非日常の雰囲気をほのめかしているのではないだろうか。

垂直方向への導線が不安定や非日常を示し、水平方向への導線が安定や日常を示すのではないかという仮説をさらに確かめるために、すずと北条の関係をもう少し追いかけてみよう。

すずが初めて北条の家へ向かう時、北条の家が呉の他の家よりもかなり高い位置にあることを、観客はすずが坂道を登る様子を見ながら知ることになる。

北条家での生活の中で、すずは義理の姉へのストレスから、棚畑があり、呉の港を見下ろせる丘のような場所へ向かう場面がある。気分を落ち込ませているすずは、そこにあったタンポポの綿毛をふく。風に乗ったタンポポの綿毛は、上下動を繰り返しながら丘の下へ向かっていく。次の瞬間、綿毛を追いかけていたすずの視線の先に現れたのは、仕事から帰ってきた夫の姿であった。「予想外」の出来事に嬉しくなったすずは、港に戦艦大和が寄港する様を見て、さらに元気を取り戻す。大和が水平に動く様に見とれていると、すずは次の瞬間丘から滑り落ちる。

印象的なのは、北条がここでも上下動の演出の中で画面に登場していることだ。すずと北条、2人の心理的な距離は次第に近づいていくものの、この場面ですずを日常に戻したのはやはり北条ではなく、水平に緩やかに動く戦艦大和の様であった。まだすずと北条の間には何らかの障害が存在していることがわかる。すず、水原、北条と言う3者の関係性を追いかけてみても、垂直方向の導線が非日常を、水平方向の導線が日常を辿ることを確認することができる。

垂直と並行の狭間を揺れ動くような、似たような場面が他にもある。義理の姉の話を聞いた後で、すずは再び棚畑へやってくる。すずは階段を登り、高い位置から絵を描くことにする。すずは水平に鉛筆を動かし、海岸線を描写するのだ。そして次の瞬間、すずの真後ろ、丘のさらに高い位置から憲兵が階段を降りてきて、すずは捕まってしまう。

このように、並行方向や垂直方向への導線を使い分けることで、この映画は観客がホッと一息つける場面と、驚きとともに状況が慌ただしくなる場面を演出し、メリハリをつけることに成功しているとも言える。

そしてこれは言わずもがな、日本アニメ映画を中心的な存在として引っ張ってきた宮崎駿のジブリ映画の影響を、『この世界の片隅に』が同年に興業された『君の名は。』と同様に継承していることを示唆しているのではないだろうか。

そして、上下動の演出を継承するだけではなく、そこに平行移動のエッセンスをより強めて導入したのが『この世界の片隅に』である。日常と非日常を2方向の導線で使い分けるこの演出は、映画の至る所に見受けられる。水平に動く電車があり、そこに激しい煙が巻き起こればその次の瞬間に現れるのは、乗客が一斉に窓を上から下に閉めるのを強調するショットであるように。

さて、この映画を語る上では、「戦争」についても言及をしなければならないだろう。そして、映画が「戦争」を中心的な題材に選んでいるからこそ、作品内に欠陥が生まれているのだ。今回の批評で作品への批判として言及したいのは、まさにその欠陥である。

1つの重要なシーンを紹介したい。

71分頃。棚畑で義理の姉の娘、はるみと話をしているすずがいる。次の瞬間、ファンファーレのような防災警報が鳴り響き、何もわからないすずは上を向き、すずの目線の先を画面は辿り始める。上空の後は、すずの目線の動きに従って下に広がる呉の港が映し出される。そこから画面は横に平行移動を始め、呉の山脈が映し出された瞬間、その山に爆撃が起こる。そして、戦闘機に続いてやってくるのは上空から降り注ぐ砲弾の破片であった。

このシーンでは、日常の中に醸し出される非日常の恐怖が、画面に緊張感を与えている。非日常が顔を出すとき、画面には上下動の導線が現れ、何も起こらないのかと不思議な静寂に包まれる時間には、画面の中で水平移動が起こっている。そして再び次の瞬間には、非日常を示す上下動の演出として、上空から爆弾が降ってくるのだ。戦争が身近にやってきた瞬間を、鮮やかに描きだす見事なショットだと言えるが、それを支えているのは紛れもなく垂直、並行方向への導線の演出である。

戦争がすぐそこまでやってきた。それも、食事の量が減るなどといったレベルではなく、爆撃自体が近づいてきたのだ。生命の危険を感じるこの重要な瞬間を、ここまで用意周到につなげてきた導線の演出もより強く盛り上げていく。垂直方向、上下動の演出がもたらす非日常の緊張感は、爆弾の到来とともに、より強くより巧みに演出されていく、、、はずだった。

85分頃。すずは義理の姉の娘であるはるみとともに、海岸近くの道を歩いている。海岸に沿って立ち並んだコンクリートの壁が、一部破損していることに気づいた2人は、その破損部分に近づき、そこから海に隣接した工場を眺める。この時、工場が2人の視線の位置からそれほど低くない場所にあることから、2人が歩いている道もまた、水平線からみて高いところにあるという印象をあまり感じさせない。2人の様子を同じ道の背後からとらえたショットには、壁の破損部分に近い、道の右側が軽くえぐれている様子が映される。決して深みを感じさせないそのえぐれた地面は、2人を背後から、地面と水平に収めたショットに収まってしまう程である。穴が垂直方向の広がりを感じさせないため、そのえぐれた箇所がどれくらい深い穴なのかを横から捉えることもない。結果的に、この弾痕には時限爆弾が潜んでいて、すずは自分の利き手である右手とはるみの命を同時に失うことになる。

爆発の寸前、すずは学校で習った時限爆弾について思い出す。次の瞬間、画面は上空から2人と弾痕を同画面に収める。これはどういうことかというと、画面という平面に、2人の姿と弾痕が映しきれているということであり、そこに上下の導線は存在しない。再び、その穴の深さは観客には伝わりづらくなっている。すずが時限爆弾のことを「ハッと思い出し、驚きとともに」その穴を発見する場面である。直後、時限爆弾は爆発し、1分30秒ほどの、すずの記憶を意識したのではないかと思われる夢の時間が画面に挿入された後、傷だらけのすずは北条家で目を覚ますのだ。
ここまで、作品内の上下動の導線と、登場人物の感情や物語の起伏を重ねて見てきた私たちにとって、この映画で最も重要と言っていい場面には、その演出が大きく欠落しているように見える。幼いはるみが命を失う場面だというだけではなく、絵を描くのが好きなすずが、利き手を失うという意味でも重要な場面であるにも関わらず、そこには意外性や不安定、戦争の「非日常」を匂わせるような上下動の演出も、すずの感情を激しく動揺させる垂直方向の画面の動きも存在していない。これは、ここまでその導線の演出において、周到に準備をしてきたこの映画にとっては、全体の整合性を狂わす大きな失敗だと言うことができるのではないだろうか。爆発の直後、映画のアート面を意識させるような挿入部分に重きをおいたことで、導線の演出がおろそかになってしまったのかもしれない。

『この世界の片隅に』という映画は、作品内に宿る日本アニメ映画の骨格に、この瞬間隠しきれないヒビを与えてしまった。映画の芸術性を高めることと引き換えに、丁寧に作り込んできた演出の一貫性を失い、映画の骨格に大きな傷をつけることとなった。骨にヒビが入っていても、外見上の違いはわからないかもしれない。それでも、骨格に入った歪みは、全体のバランスを崩す方向に作用していく。映画の終わりに素晴らしい演出が待っているならなおさらだ。

映画がはじまってから45分頃、すずは山の上に上下に延びるかなとこ雲を見つけ、激しい雨の前兆を感じる。そしてこれは、のちの原爆雲と比較されるような存在だと観客は想像を巡らせるわけだが、やはり103分頃、広島に落とされた原爆の雲が呉の上空にも立ち上がり、すずはそれを眺める。上下動の演出に基づいた伏線はきちんと回収され、垂直方向への導線が戦争の恐ろしさと非日常性を明らかに押し出した場面の後、物語は新たな方向へと進んでいく。

最後の場面。原爆で母親を亡くし、生命の限界に近づいていた孤児がいた。命を振り絞って必死に歩みを進めた彼の元に、「水平移動」で地面の上をころころと転がってきたのは、すずの落としたおにぎりであった。これは、すずが北条といる時に現れた「水平移動」のショットとしても大きな意味を持っている。これまで、「水平移動」とともに描かれる水原とは対照的に「上下動」の演出で描かれたきた北条のことを考えれば、これはすずと北条が夫婦としての幸せな日常を掴み取る未来を、示唆しているのではないだろうか。そしてそれは、戦後の広島にとっても、非日常が終わり日常を取り戻していく、復興の始まりを表す瞬間なのではないか。それだけこの「おにぎりの平行移動」が映画の末尾に存在していることは大きな意味を持っているのだ。

やはり、映画の最後に待っていたのも、物語の内容に沿った導線の演出であった。『この世界の片隅に』という映画は、それだけ丁寧に、用意周到に日本映画の伝統と美しい演出をなぞり幕を閉める、はずだったのだ。

ちなみにこの映画は、導線の演出に終わるだけではなく、もちろん導線の演出からも始まっている。だからこそ、映画が物語の最も重要と言えるシーンで演出の欠落を露呈しているのが余計に悔やまれることになる。

映画の始め、船を使って川を水平移動をしたすずがたどり着いたのは商店街。店に並ぶお菓子の小箱を眺めるすずの並行な視線の動きが次に続く。そしてすずは上を向いて、空を眺めた。映画のオープニング音楽はその瞬間に流れ始める。

すずが眺めている上空。そこに流れる雲は、垂直方向に上下動しているように見える。本来雲は横から水平に動いてくる様子を映し出されることが多いが、ここで水平方向に飛んでくるのは鳥たちである。しばらくすると、雲は並行に流れ始める。しかしながら、映画は画面に上下に揺れ動くタンポポの綿毛を映し出すことで、作品における「導線」の存在を、未来を強く押し出している。

『この世界の片隅に』における、垂直方向、水平方向への導線の重要性、それは日本アニメ界を先導してきたスタジオジブリ宮崎駿作品に由来する演出であった。宮崎駿が作品を作るのをやめた時、新海誠は『君の名は。』において、上下動の演出を含んだスタジオジブリ作品の技術を結果的に継承した。
そして、日本アニメ映画の骨格とも言える、その導線の動きをさらに追求したのが『この世界の片隅に』であった。この作品が、その立場を、画面やショットを通して著しく示唆する以上、それに由来した映画の大きな欠陥にも触れないわけにはいかない。導線の演出を引き継ごうとし、途中までの丁寧な準備のせいで尚更その失敗を大きく目立たせてしまった日本アニメ作品の例として、私は『この世界の片隅に』を批判する。

すずの目の前で時限爆弾が爆発した直後、90秒に渡ってアーティスティックに表現された夢のシーンに目を奪われていた観客の多くは、いずれ映画に大きな欠落をもたらすことになるもう一つの時限爆弾の存在を見逃していた。上下動の導線を欠く、平面依存の演出がもたらされたその瞬間、映画の中に確かに時限爆弾は埋め込まれていたのだ。その存在に気づかず、安心と喜びのもとに映画の批判的な部分から目をそらし続けることは、『この世界の片隅に』というタイトルを持った映画のためにもならない。映画世界の片隅を眺め、批判であれそこに何かを見つけることで、この作品は一段と光り輝くのだ。

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