『ジェルヴェーズ』にみる映画の生硬性

本論考では、エミール・ゾラが1877年に書いた小説『居酒屋』と、その『居酒屋』をルネ・クレマン監督が1956年に映画化した作品『ジェルヴェーズ』を通して、小説と映画の自由を検討したい。ゾラのこの小説は、多少強引にまとめるなら「パリ郊外の労働者街の叙事詩」という性格を有している。しかしながら、映画をみると、既にその題名が示すように、ヒロインであるジェルヴェーズに物語の中心は置かれている。

 

0 モノローグから導き出される言葉の相違


まず映画『ジェルヴェーズ』のファーストシーンに注目したい。小説では「ジェルヴェーズは、夜中の二時までランチェを待った。」という書き出しで、外泊した夫を待つ情景が描写されているのだが、映画では下着のままホテルの窓から下を見下ろすジェルヴェーズの姿から物語が始まる。そしてその様子に被せて、「だけどあの人は昨夜から帰って来ない」といった彼女のモノローグが語られる。この数秒のショットによって、観客は詳しい説明がそこになくとも、映画の物語がジェルヴェーズを中心としていることを直感する。ここに既に、小説と映画の自由をめぐる一つの問題提起が生まれている。

それは、小説と映画における「言葉の相違」である。

まず、小説の場合、一般的にモノローグはある人物の内的世界の表白そのものであり得る。小説では、ある時間表現に支えられた人物の内的体験は、そのものとして表現される。

一方、映画においては、時間表現は必然的に空間表現を伴うものであるから、内的体験そのものを言葉だけで表現することはできない。映画において、言葉は、小説においてそうであるようには表現的でない。そこでより重要とされているのは、視覚的映像である。映画では、言葉が対象を表現するのではなく、映像によって表現された対象が言葉を発するのである。そこで言葉は、必要な限度内で映像を補いあるいは注釈づける。映画における、いわゆるナレーションの可能性もこの点から理解されることができるだろう。

ある情景と重なって語られる言葉は、ある特定人物の台詞である必要はない。それはその情景、あるいはその雰囲気の説明として機能しているのである。クローズアップされた口を閉じたままの顔と重なって語られる言葉は、その人物の内的雰囲気の説明なのだと言うことができる。その意味で映画の言葉は「雰囲気的」である。

映画『ジェルヴェーズ』の初めに物語られる言葉は、その時のジェルヴェーズの内的雰囲気の説明であるとともに、それが他ならぬジェルヴェーズ自身の声であることによって、ファーストシーンをジェルヴェーズを中心としたものに雰囲気づける。そして、観客に映画全体の雰囲気(ジェルヴェーズという女の悲劇)に関して、鮮明な予感を与えるのである。

 

1 ジェルヴェーズの形象
では、そのようにして映画の中心に据えられたジェルヴェーズの形象は、小説における形象と比較してどのような相違を有するのであろうか。そしてここから導き出される議論が、本論考で扱う主題となる。ジェルヴェーズの描かれ方の違いを通して、映画のどのような特徴が浮かび上がるのか。そして、そこから生まれる小説の自由とは何なのか。

ゾラの小説において、ジェルヴェーズの悲劇の原因となっているものは言うまでもなく遺伝と悪質な環境である。この『居酒屋』において、ジェルヴェーズは飲酒、美食、怠惰という父方であるマカール家の遺伝を、そして母親からは働き者、男に対する執着、といった遺伝を受け継いでいる。

しかしながら、映画におけるジェルヴェーズからはこうした遺伝の要素がほとんど取り除かれている。以下に具体的に例証していきたい。

物語において最も重要な要素である飲酒癖について見てみると、小説では、ジェルヴェーズは第二の夫クーポーの生存中に既に飲酒を初めている。ところが、映画においてはクーポーの死後初めて酒のグラスに手を触れる。しかもそれは遺伝によるものではなく、別の原因によるものとして描かれている。

アルコール中毒で発狂したクーポーが、ジェルヴェーズが苦心して手に入れた洗濯屋の店を叩き壊す。そして彼は窓を破って外に飛び出し、結局車で運び去られていく。映画の中でも特に印象的なショットは、室内で呆然とした顔のジェルヴェーズの前に置かれた、酒の入った大きなグラスを捉える。店の何かがちぎれ落ちる金属的な音に続いて、ついに彼女はグラスを手にする。

このシーンに込められた内容は非常に豊かで、一言で表そうとするとと失われてしまうものも多いのだが、彼女の飲酒の動機は、彼女が全てをかけていたものの喪失、彼女の希望の喪失がもたらした絶望と空虚であると言うことができる。ジェルヴェーズの希望は、「安穏に動き、いつもパンを食べ、30年間アイロンをかけて田舎へ引っ込む」ことであったのだから。遺伝的要素の脱落という事は、クーポーの形象についても言えることだ。それは彼の飲酒の原因が遺伝というもので説明されていないことからも明らかである。

ちなみに、この遺伝的要素を脱落させることによって、映画におけるジェルヴェーズの形象は、ゾラの小説におけるそれよりもある程度の普遍性を獲得したとも言える。ジェルヴェーズの悲劇は、あらかじめ決定された原因に基づくものではなく、より普遍的な、いってみれば女性の業というべきものに基づいて描かれるのだ。もっとも、女性の業といっても、社会的に男性との関係において形成されたものとしてある事は言うまでもない。そのように考えてこそ、映画において原作よりも幾分悪役化されたランチェの存在、及び彼とジェルヴェーズの関係の意義が明確になり、また、原作におけるよりはるかに積極的に描かれているグージェの意義も、女性の業的なるものを強調する存在として際立ってくる。

 

2 『ジェルヴェーズ』から遺伝的要素が脱落する理由

それではなぜ、映画『ジェルヴェーズ』では遺伝的要素が欠落しているのか。最も考えられるのは、映画の中で遺伝的要素を描くことに対して、ある時間的な障害があったということである。具体的には、映画にはおよそ2時間ほどの上映時間という縛りが存在しているため、しばしばこれが表現においての大きな制限となる。だがしかし、小説には十分な時間が用意されており、映画には十分な時間が用意されていないから表現の幅が限られる、と一言で議論を終わらせてしまっては意味がない。表現の幅が狭められるのならば、それはどのように引き起こされているのかを追い求めなければならない。

一体、映画の何が時間の制限に反発するのか。映画は、何を持って表現のために必要十分な時間を欲するのか。これから導き出される映画の特性が、遺伝的要素を112分という上映時間の中で描くのを妨げることになるのだが、まずは原作の文章に注目する。

遺伝はある人物の父、母、祖父母などのある継続した行為において表現され得る。例えば、「幾度か、母は父親が酔いしれて帰ってきては、手足もうち挫けんばかりに残酷な振る舞いをした幾夜の物語をして聞かせた」という文章は、それだけでジェルヴェーズの父が悪質な飲酒癖を持っていたことを物語っている。そうした叙述の後に、ジェルヴェーズの飲酒が物語られることで、読者は遺伝にその原因を見いだすのである。

ここで、小説の文章は継続的な習慣を物語ることができるが、映画ではそれができない。映画はただ、現在と単純過去を有するのみだからである。

例えば、継続的、習慣的動作を表現している小説の文章は、シナリオになると、ただ一回の(それ限りの)動作に還元されてしまう。映画がもし、ジェルヴェーズの父親がしばしば酒を飲んでいたことを表現しようとするならば、その飲酒のシーンを繰り返し見せる必要がある。しかもその場合、そうしたシーンの繰り返しとジェルヴェーズの飲酒との間に因果関係を見出す事は困難である。もちろん、映画でも遺伝ということをセリフやモノローグの中で言う事はできる。しかし、映画では言葉は表現的ではなく雰囲気的であり、主要なのは視覚的な映像なのであるから、映像でなく言葉で言われたものは全体の構成を支えるものとはなり難いのである。

映画『ジェルヴェーズ』において、物語から遺伝的要素が全く取り除かれていた理由は、小説と比較した映画の時間的生硬性に基づくものと考えられる。小説家がわずか数行で我々の想像の中に描き出したものを、映画はその何十倍もの時間をかけなければ表現し得ない。継続的、習慣的動作を表現するために、映画では大きな時間設定を用意しなければならない。

 

3 映画における時間の生硬性

それならば、映画における時間の生硬性とは、さらに具体的には、どのように説明することができるのであろうか。
映画の時間とは、映画に表現された色々な対象の変化(動き)によって表される時間である。そして、その映画における対象というものは、この現実に実在する対象と密接な関係を持っている。つまり、映画で表現されたジェルヴェーズは実在するマリア・シェルという女優と密接な関係を持っているし、ラストシーンでナナが走っていく街角はどこかに実在する街角を撮影したものとして、やはり実在的対象と密接な関係を持っているのである。

したがって、映画において、そうした対象の変化(動き)によって示される時間もまた、現実的時間と密接な関係を持つことも当然である。映画でジェルヴェーズが重い洗濯機を抱えある街角から街角まで歩く時間は、実際にそのような女がそうする時間とほとんど同一である。

映画では、あるショット内での時間経過は現実的時間経過とほとんど対応する。そのために、繰り返し同じ飲酒のシーンを見せるなどして、遺伝的要素を習慣的、継続的な表現を経由しながら描き切ることも困難となる。

もちろんいくつかの例外はある。映画に表現される被写体が実在的な対象と密接な関係を有するとはいっても、表現された対象自体が非現実的なものとしての色合いを強めた時、それによって示される映画の時間自身が非実在的な時間となることもある。だからこそ、時間の連続が絶たれたり、また時間が逆行したり、空想や追憶などという非現実的時間が映画に自由に入り込む余地が生まれる。

しかしながら、今仮にショットを一つのセンテンスあるいは動詞の代わりに用いるのならば、それは常に現在であるか、過去において完結した動作を表す「完全過去」であることしかできない。空想や追憶が入り込むといっても、それは純粋な内的時間の表現とはなり得ない。

映画は、すべての行為を単なる出来事として表現するのである。確かに、映画は空想や追憶を表現することができる。しかし、論考の始めに示したように、映画では時間表現は必然的に空間表現を伴わざるを得ないため、内的時間もまた空間化されることから避けられないのである。内的時間は、外化され具体化されてしまう。

したがって、映画では追憶や空想は、過去あるいは未来における出来事としてしか表現することができないのである。この点で、映画に流れる時間は、小説の全く柔軟な時間に比べて、はるかに硬化しているものだということができる。繰り返しになるが、このような時制の制限もまた、作品内である要素を描く障害となるだろう。単なる出来事としての描写を多用して遺伝的要素を描くことは、当然難しくなる。加えて、遺伝ということをセリフやモノローグの中で言う事はできても、そこでは言葉は表現的ではなく雰囲気的であり、映像でなく言葉で言われたものが物語全体の構成を支えるのは難しい。

 

4 小説の自由

これまでに述べてきた通り、映画が、実在と密着し硬化した時間や時制の呪縛の中で、継続的、習慣的な描写を必要とする飲酒癖などの様々な遺伝的要素を表現し切ることは困難である。映画の言葉は、内的時間としての追憶や空想を空間化なしに表現することもできないため、単なる出来事としての行為の描写に頼らなけらばならない。これらの障害を全て乗り越えるには、映画は観客や製作者に多くの時間を必要とする。そのために、映画『ジェルヴェーズ』においては、遺伝的要素を脱落させざるを得ない。そしてそこに、映画の不自由がある。

小説においては、表現される対象は実在のそれと関係を持たない。そしてまた小説の時間は、現実の時間とも対応関係を持たない。そこではあらゆる時間が、内的であれ外的であれ、単純過去であれ、半過去であれ、全く自由に表現される。映画の生硬性と比較して浮かび上がるのは、小説の柔軟でしなやかな時間の流れだ。そしてこれが、小説の自由である。

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