映画『この世界の片隅に』におけるキャスティングの功罪について

1、
 2016年公開の映画、『この世界の片隅に』(以下、『この世界』と表記)が記録的なヒットをおさめたことは記憶に新しい。同年に話題となった他の映画と比べても、公開時の規模とその後の拡大にこれほど差のあった作品はないだろう。それほどの大きな反響を『この世界』は巻き起こした。
 実際に『この世界』は、こうの史代原作の漫画も含めて、非常にすばらしい。複数の批評家による賞賛や、作品に対して与えられた数々の賞もそのことを示している。そのような賞賛の一つに、主人公であるすずの声優として女優のんが起用されたことを評価するものがある。実際に、『この世界』の監督片渕須直はのんとすずという二人の人物の出会いに対して、「この巡り合わせは、本当に奇跡的だった」と述べている[i]。また、批評家の斎藤環は、片渕監督との対談の中で、すずを演じたのんの声が『この世界』にとって非常に重要であり、その「あまりのはまりぶりに驚きました」と述べている[ii]。さらには、2016年11月の公開以後に日本各地で行われた『この世界』関連のイベントには、監督の片渕だけでなくのんが参加したものも多くある。このように、女優のんは『この世界』を象徴する人物の一人となっている。
 しかし、ここで一つの疑問を投げかけたい。主人公であるすずの声優をのんが担当するというキャスティングは本当に適切だったのだろうか。『この世界』の原作は漫画であり、当然そこに実際の音声は存在しない。それゆえ、映画化において役ごとに声優をあてることは必然的でありそのこと自体を批判することは不毛だが、そのキャスティングが適切であったかを評価することは有益であろう。また、そのキャスティングがおおむね適役だったとしても、そのキャスティングによって損なわれた作品の魅力もあるかもしれない。現状の、のんというキャスティングを賞賛する声があまりに強い状態は、そのキャスティングによって損なわれた要素がありうるという可能性をあらかじめ否定することにつながってはいるように思われる。そのような言説を疑い、このキャスティングがもたらした負の部分を適切に批判することが、『この世界』の魅力をより理解することにもつながるのではないだろうか。

2、
 キャスティングによって作品のどんな要素が損なわれたかを考えるためには、まず作品の魅力を改めて確認する必要がある。『この世界』が、第二次世界大戦という今までも多くの映画で題材とされてきたものを扱いながらも、他の作品と一線を画しているのは、戦闘シーンにおける兵士の死や飢えで苦しむ人々の様子といった分かりやすく凄惨な場面を描くことなく、主としてただ繰り返される日常を描きながらも、戦争の悲痛さを表している点にある。
 このような『片隅に』の特異性は、主人公すずの特殊性や固有性が徹底的に消去されることで可能になっている。まず、作中ですずの日常として描かれる場面は、多くがとても平凡なものである。当然、物語が終盤にむかうほど戦時下であるという色合いは強くなり、8月6日、広島に原爆が投下される日も描かれているが、全体としては、何も特別ではない日常の反復が作品のベースとなっている。
 そのような平凡な日常の中でも、そこに生きる一人一人の個人は固有で特別な存在であると考えることもできる。しかし、『この世界』においては、ただでさえ特別な人ではないすずのアイデンティティ、固有性が脅かされる場面が多くある。例えば、周作の実姉である径子は、北條家にすずが嫁いできた日、周作にはもっと慎重に嫁を選ばせたかったと、すずに面と向かって言う。また、入湯上陸で北條家にやってきた、すずのかつての友人水原哲とすずが納屋で過ごす場面は、すずのパートナーが周作ではなく哲だったかもしれない可能性をほのめかす。そのことで、北條家の嫁であるというすずのアイデンティティが不安定なものとなっている。
 そして、北條家で暮らすすずの立場を危うくするこのような要素たちの中で、もっとも象徴的なのが、遊郭で生きる女性リンの存在だ。リンに関するエピソードは、映画版では原作と比べて大幅にカットされている部分があり、そのカットされた部分はエンドロールで暗示的に描かれるだけである。そのため、このエピソードの詳細を知るには漫画版の原作を読む必要がある。そこでは、周作の嫁という立場にいるのがすずではなく、リンであったかもしれないという事実が描かれている。原作では、漢字の読めないリンのために、お客さん(おそらく周作)が書いてくれたというリンの名前や血液型の記された紙切れが、周作が自分にくれたノートの一部であったとすずが気づくことで、このことは明らかになる。事実を知ったことで、自分が周作の妻であるという事実の不確かさに直面したすずの心情が、原作で描かれる「代用品のこと考えすぎて疲れただけ」というセリフに強く滲んでいる。
 これらの出来事に起因する、自分が北條家にいることの不確かさ。さらには、自分が付いていながら姪である晴美が死んでしまったこと、その時に右手を失い家事もまともにできなくなったことで、すずは北條家の中での自分の居場所を完全に見失ってしまう。そして、実家の広島に帰ることを決める。しかし、すずがイヤにならない限りここ(北條家)がすずの居場所であるという径子の言葉によって(あるいは、誰でもこの世界に簡単に居場所がなくなったりはしない、というリンの言葉も響いていたかもしれない)、すずは北條家に残ることを決意する。すずは、今ここにいることの偶然性、不確かさを受け入れたうえで、呉で北條すずとして生きていくことを決意する。偶然たどり着いたこの場所で生きることを、自らの意思で選ぶ。
 作品を通して、徹頭徹尾、すずがそこで生きていること、すずがそこで経験したことには必然性がない。だからこそ、すずが経験した戦争の痛ましさは、普遍的になりえるのである。すずの立場にいたのはすず以外の人であったかもしれない。そして、そこにはどのような人がいたとしてもおかしくない。それゆえ、この痛みは誰しもが経験しえたのかもしれない。いや、戦時中の誰しもが、あるいは多くの人が、この痛みを経験していたのかもしれない。すずがそこで生きていることの偶然性、その偶然性に起因する経験の普遍性と痛みに対する共感。このことが、『この世界』において、悲惨の場面が描かれなくとも、戦争の持つ暴力性と痛ましさを表すことを可能にしている。
 そしてこの、すずに特殊性がないことによって可能になる強い共感可能性が作用するためには、おそらく、主人公であるすず自身が最後まで死なないということも重要である。主人公の死は、物語の悲劇性を強烈に伝える。しかし、死によってその人物の存在は完結した固有のものとして閉じられてしまう。我々は一般的に、類推によって死にゆく人の気持ちや死んだ人の気持ちを(あるいは死んだ人が気持ちを持ちうるのかということ自体)知ることはできない。死者は、その死という事実によって、生者にからのアクセスを拒絶する死者という特殊性を獲得してしまう。すずと私たちでは、生きている時代も、おかれている環境も全く異なる。そこには、生者と死者が分断されているのと同じように、そもそも距離が存在している。しかし『この世界』で描かれるのは普通の日々を生きているすずの姿である。決して特別でない日常を生きる彼女の姿が描かれることで、私たちは自らの日常性とすずの日常性を接続し、彼女が戦争によって経験した痛みに想像をはたらかせることができる。もしすずの死ぬ場面が存在していたら、そのような回路すら断たれてしまっていただろう。

3、
 それでは、このような『この世界』の魅力と、すずの声をのんが担当するというキャスティングはどのような関係にあるのか。そのことを考察することで、このキャスティングが持つ功罪を明らかにしたいと思う。
 まず功の部分についてだが、前述した片渕監督や斎藤環も述べているように、のんがすずの声を担当することによって生じたプラスの面があることは間違いない。それはおそらく、のんがほとんど声優として演じるという経験を持っていなかったことが原因である。
 ある程度声優としての経験を積んだ人は、役を演じる際の声に一定の規律化された様式を持っている。言うなれば、規律化された声というものをプロの声優は持っている。そして、その声の様式というのは一般の人々が日常的に行う発話とは異なったある種の特殊性持っている。
 しかし、のんの声にはそれがない。彼女は声優としての経験・訓練をほとんど経ていないがゆえに、規律化される以前の、あるいは加工される前の、生っぽさを声の中に保っている。それ自体、のんという一人の人物の個性として考えることもできるが、その声はやはり形式化された特殊性を持たない声であり、その点で、代替可能な声である。訓練によって獲得されるプロ的な声といった、ある意味での特殊性をのんの声は持っていない。この点で、習熟したプロの声優ではなく、のんのような声の持ち主を起用したことは、『ここ世界』の魅力を支えるすずの特殊性のなさを助長しており、その点で適切な選択であったということができるだろう。
 しかしその一方で、すずの声を演じたのがのんであったがゆえに生じてしまった作用があり、その作用が結果的に、すずの特殊性のなさという要素を見えにくくし、『この世界』が本来持っている魅力と姿を歪めてしまっているように思われる。この作用は、のん自身の意思や、あるいは彼女の演技力といった能力が原因で生じてしまっているのではない。それは、女優のんという存在が持ってしまっている、ある種のドラマチックな特殊性によって生じてしまっている。先ほど、すずの存在が特別でなく、強い共感可能性を持つための要因の一つは、『この世界』の中ですずが死なないことであると述べた。しかし、その声を演じる女優のんは、比喩的な意味での死とそこからの復活というドラマチックなストーリーを持っている。それゆえ、彼女がすずの声を演じることによって、本来の『この世界』とは関係のない一つのドラマチックな文脈のなかに『この世界』が位置づけられてしまっている。のんの死という表現に、突飛な印象を持つかもしれない。しかし思い返してみてほしい。女優のんは、“のん”である以前に一度“能年玲奈”として死んでいるのである。

4、
 能年玲奈は、ファッション雑誌『ニコラ』が実施するニコラモデルオーディションの第10回でグランプリを獲得し、2006年に芸能界にデビューした[iii]。その後、2010年に湊かなえの同名小説を原作とした映画『告白』で女優としてのデビューを果たす[iv]。そして、おそらく多くの人が記憶しているように、2013年の上半期に放送されたNHK連続テレビ小説『あまちゃん』の主演をつとめたことで、一躍有名女優となる。『あまちゃん』での演技によって、能年は数々の女優賞を受賞する。NHK連続テレビ小説、いわゆる朝ドラは、近年は特に若手俳優の登竜門的側面も強くあり、能年もまた、その後の活躍が期待された若手の一人であっただろう。しかし、次第に彼女をテレビで見る機会は減り、2015年、能年はデビュー時から所属していたレプロエンタテイメントに無断で個人事務所を設立したとして、レプロと抗争状態になり、その後の2016年7月、本名でもあった「能年玲奈」という芸名を、「のん」に変更する。『この世界』の上映が開始したのはそのたった4ヶ月後であった。
 『この世界』の大ヒットによって、結果的にこの作品が『あまちゃん』以降の、のん(能年)の代表作となった。そこには、一度は『あまちゃん』で有名になった彼女が、事務所との騒動と改名という困難を経て、『この世界に』によって返り咲いたというドラマチックなストーリーが結果的に発生している。そして、このストーリーの一地点として『この世界』という作品を位置づけることを可能にしてしまったことが、微細ながらも、のんをキャスティングしたことによって発生した負の側面である。というのも、のんが生み出してしまったドラマ性というのは、すずの持つ特殊性のなさや『この世界』が描く平凡な日常と対立するものだからである。
 先ほど、『この世界』の魅力を支えるのは、すずの特殊性のなさ、作中におけるその存在の偶然性にあると述べた。このような偶然性は、ドラマ的なものを否定していると言うこともできる。ドラマは、観客に特定のメッセージを伝えるために、あるいは特定の感情を喚起するために、そこにむけて筋道立てられたストーリーを提示するのである。その意味で、『この世界』のように戦争を描いたものでも、兵士や市井の人々の死が場面として描かれれば、それは強い感情を喚起するがゆえにドラマ的ものであるということができる。そこで描かれるのは、固有性を持った個人の死であり、その人自身とその人の死は、必然的に分かちがたく結びついている。このような作品は、戦争の悲痛さを強く訴えかけるためには有効な手法であろう。しかし、それは一方で危うさを含んだ手法でもある。
 悲劇の提示は強い感情の動員を引き起こす。それゆえ、戦争に対する怒りや悲しみを強く伝えることができるが、それは、プロパガンダ的なものと表裏一体の関係にある。プロパガンダは当然、見る人の感情を強く動員することを目的として作られている。そのようなプロパガンダが、戦時中の日本軍の手法でもあった。それゆえに、ドラマ的なものはともすればプロパガンダ的な動員のためのストーリーに転じかねない。しかし『この世界』はそのようなことにはならない。『この世界』は、劇的な展開やストーリーによって戦争の悲痛さを強く訴えるのではなく、平凡な日常を描き、その日常が次第に戦争に脅かされていくさまを淡々と描くことで、戦争の悲痛さを浮かび上がらせているのである。そこには、ドラマ的な感情の動員は働いていない。
 しかし、のんがすずの声をつとめることで『この世界』に付加してしまったストーリーは、そのドラマチックさゆえに感情の動員を引き起こしうるようなものである。そのストーリーは不可避的に発生してしまったとはいえ、『この世界』の本質とは対極にある。もしこの動員に従うのなら、『この世界』の主人公すずは、のんと分かちがたく結びついた固有の存在として現れてくるだろう。あるいは、のんが持つ復活劇としてのストーリーが、作中に描かれるすずの姿も同様に、困難から立ち上がる感動的なものとして見せてしまうかもしれない。しかし、このような見方は『この世界』の本質を見誤ってはいないだろうか。すずの存在が特別で固有なものであり、その主人公が困難から立ち上がるから『この世界』という作品は魅力的なのではない。誰でもありえたかもしれない、決して特別ではないすずという存在が、平凡な日々を生きていく姿が丁寧に描かれているからこそ、この作品は魅力的なのである。すずという存在が決して特別でないこと、そして彼女の生きている世界もまた特別でないことが、『この世界』においては重要なのである。
 のんのキャスティングによって引き起こされた感情の動員を引き起こすストーリー的なものの発生に対して、私たちは警戒心をもたなければならない。そして、そのようなドラマ的なまなざしをのんに向けてしまうことにも、懐疑的になる必要がある。

[i] 映画『この世界の片隅に』のパンフレットに掲載された、片渕監督へのインタビュー内の発言より引用。

[ii] 『美術手帖 2017年2月号』に掲載された、片渕と斎藤の対談における、斎藤の発言より引用。

[iii] 能年玲奈 | アーティスト | レプロエンタテインメントhttp://www.lespros.co.jp/talent/artists/rena_nounen/ (2017/08/07 最終閲覧)

[iv] 同上

文字数:6534

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