パンダの「自由」、小説の「自由」

1.
 「自由」。手垢にまみれた言葉だ。小説の「自由」を称揚することも、小説の「不自由」を嘆くことも、今ではあまりにも素朴な態度に思える。小説特有の「自由」などに頼らなくとも、ポスト・トゥルースというオブラートのもとに虚言妄言が飛び交う現代ほど、言葉の「自由」が横行する時代などなかったとすら思えないか?そのように割り切ってしまえば、小説の「自由」度などを思索することは、徒労のように思われる。
 しかしここで一度考えるべきなのは、その「自由」の内実だ。「自由」とは何なのか。ポスト・トゥルースが掲げる「自由」は、言うなればfreedomとしての自由である。この「自由」が謳歌された先に待っているのは、手に負えないカオスだ。しかし、人間がその存在を賞賛し、その喪失に際しては嘆くような「自由」というのは、そのようなものなのか?人間はカオスを求めて「自由」を謳歌しようとしていたのか?否である。人間が志向していたのは、libertyとしての「自由」である。そこには理性、あるいは秩序と呼ばれるような、ある種の拘束が存在する。
 しかし、このlibertyとしての「自由」を掲げ、本当の「自由」を取り戻そう!などと言ったところで、説得力を欠いた呼びかけとして反復されるだけだろう。
 今、本当に「自由」を考えるのであれば、まさに「自由」という言葉で表される概念をこそ更新しなければならない。それは可能であれば、現在の世界を覆う西洋的な思考の磁場から距離をとったものであれば好ましい(西洋はすでに「自由」への希望も失望も経験してしまっている)。さらに言えば、人間という枠組みの外部に向うような思考すら必要かもしれない。
 ここではこの大きな理想の完成図を描くことはできないが、ある一つの小説を取り上げることで、このような自由について考えるヒントを得たいと思う。その小説の主人公は、パンダと呼ばれる異星人である。

2.
 タイの小説家プラープダー・ユンの作品『パンダ』[i]は、パンダというあだ名を持つ27歳の男が、人間は誰しも地球という星に間違って生まれたのであり、それぞれが帰るべき本来の惑星を持っていると悟ることから始まる。そして、その主人公が自らの故郷であるパンダ・プラネットに帰るまでの日々が描かれる。小説内では、宇宙をめぐる思索、人間と地球の関係、タイにおけるポストモダン的な文化状況や政治問題などが複合的に描かれている(動物としてのパンダが、政治性を背負わされたものとして描かれる場面もある)。その点で、ある種の哲学観や宗教観を示す書物としても、あるいはジャーナリズム的な書物として読むことも可能であり、キメラ的な要素を内包した小説的な「自由」度の可能性を感じる。
 しかし冒頭にも述べたように、我々人間が直観的に感じる「自由」に従うことをここでは避けたい。ここでは、小説に描かれるパンダがパンダ・プラネットに帰還した(とされる?)状態を、パンダが「自由」を手にしたことであると読みかえ、そのようなパンダの「自由」とはいかなるものであるかを考えたい。
 パンダがどのような方法でパンダ・プラネットに帰還するかは、終盤まで明らかにされない。そのような状況で、その帰還方法を考えるために重要なのが、「メモ:その6 ピーの形見のシューズ・ボックス」(以下、「ピーの形見」)という章である。

「これを読んでいるキミたちのうちの何人かは、人間はすべて別の星から来たと聞かされると、すぐにUFOとか宇宙人のことを想像するだろう。しかし、それは連想としてはあまり正しいとは言えない。この地球上の住人は、SF映画で何度もお目にかかっているようなメタリック色の円盤系宇宙船で他のプラネットからやって来たのでもなく、ヘンテコな姿をした生命体を先祖に持っているわけでもない。」
(『パンダ』、p.132)

 「ピーの形見」はこのような書き出しで始まり、その直後に、宇宙人は宗教の喪失を補うための理論だとか、UFOは実はタイムマシンであり中には未来人がいるといった仮説が紹介され、パンダはその全てが事実ではないと否定する。そのうえでパンダは、以下のように語る。

「パンダ・プラネットに辿り着く唯一の方法は、魂によって次元を飛び越えることだ。」
(『パンダ』、p.135)

 パンダ自身も述べているが、この説明はあまりに抽象的で理解しがたい。そのためパンダは、地球人の我々が「次元の異なる物の存在を理解するうえでの手助けになるかもしれない」として、高校時代の親友であるピーとの思い出を語りだす。
 ある雨の日、パンダはピーと一緒にアイスクリームを食べながら、ピーはゲイであり自分に好意をよせていることを知る。パンダは、ピーからの好意自体には「気分の良い感覚」すら感じたものの、裏切られたという印象を持ち、もう二度とピーとは友達付き合いをしないと決める。
 翌日学校に行くと、ピーがいない。パンダは担任の先生に呼び出され、ピーがパンダと別れた後、不審者に強姦され殺されたと知らされる。
 パンダは、アイス屋に行く前にピーが買ったスニーカーを持って、ピーの葬儀に行った。お棺の前でパンダはピーの魂に呼びかけ、謝った。すると、ピーは返事をした。パンダに、スニーカーはしまっておいてくれと頼んだのである。この出来事を思い返し、パンダは「パンダ・プラネットとの交信は、ピーが葬式でボクの問いかけに答えたのと似たような交信だった」と言う。
 「ピーの形見」で描かれる内容はおおむねこのようなものであり、これ以降ピーの名前は出てこない。そのため小説では明示されていないものの、ここで、ピーとパンダがそのように交信できたのは、ピーが「魂によって次元を飛び越え」、自らの惑星に帰ることができたからだと考えることはできないだろうか。
 それでは、ピーはなぜ本来の星に帰ることができたのだろうか?この問いを明らかにできれば、パンダがいかにしてパンダ・プラネットに帰れたのか、パンダの「自由」を手に入れたのかが明らかになるだろう。
 素直に考えれば、ピーは死んだことで星に帰れたと考えるであろう。「魂によって次元を飛び越える」というのも、魂が肉体と離れることとして解釈することができる。しかし、死は星に帰るために不可欠な要素ではない。というのも、イラク戦争に派遣されたタイ人兵士が亡くなったというニュースをラジオで聞いたとき、パンダは以下のように言う。

「ボクはその二人のタイ人兵士が可哀想でならない。彼らは自分の本当の生まれ星を知ることがなかっただけでなく、少なくとも彼を愛し、その帰りを待ちわびていた人のいる地球の故郷にすら帰ってくることもなかった。」
(『パンダ』、p.180)

 死によって帰還はもたらされない。そして、どうしたら生まれ星に帰れるのかということが分からないまま、読者は小説を読み進めなければならない。
 しかし、この読者のフラストレーションは最後にあっけない形で解決される。パンダは言う。

「自分の故郷だと思う星を見つけたとき、それがどんな星であろうと、そこへ帰る手段を見つけるただ一つの方法。それは、心から愛する人を見つけることだ。」
(『パンダ』、p.300)

 実際にパンダは、インという女性と愛し合うことでパンダ・プラネットへ帰還する。ピーもまた、パンダという相手を愛することで生まれ星に帰れたのかもしれない。パンダの「自由」、本来の故郷である星に帰るという「自由」は、「愛」によってもたらされるのである。
 絶望的な結論だ。西洋的な思考の磁場からも、人間的な枠組みからも逃れようとしてきたはずが、「愛」という極めて古典的で人間的なテーマに行き着いてしまった。ここまでの試みはすべて失敗だったのかもしれない。

3.
 しかし、ここでさらに論を進めるためには、タイのポストモダン文学の旗手と言われるプラープダー・ユンの小説においてでさえ、「愛」という古典的なテーマが(ある種の拘束として)立ち現れてくるという事実に誠実に向き合うべきなのかもしれない。そのような、回帰してくる古典的なテーマというある種の拘束・秩序と向き合うことで、新しい小説の「自由」というものが考えられるのかもしれない。
 ここでは、水村美苗が『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』[ii]の第五章「日本近代文学の軌跡」において提示した小説論を参照し、日本近代文学の原点という過去を参照しつつ、現代日本の小説における新しい「自由」度を考えたい。
 水村が章題にもしている「日本近代文学の軌跡」とは、要するに、近代において日本が植民地にならなかったことを意味する。水村はこの条件抜きには日本近代文学は生まれえなかったと言う。植民地にならず、「日本語で〈学問〉ができる〈大学〉が存在するようになったこと」、そしてその大学で「近代日本を特徴づける知識人―西洋語で読み、しかしながら、西洋語で書かずに日本語という〈国語〉で書く知識人」が生まれたことが、日本近代文学を考えるうえで決定的に重要であったという。水村の論に従うのであれば、外国語で読み日本語で書くということが、(少なくとも近代以降の)小説の原点にあるということである。水村はそのような知識人の例として、二葉亭四迷や夏目漱石をあげる。
 この翻訳的行為は、小説の「自由」を考えるうえで非常に示唆的である。外国語は、ある程度の学習を経験したものでなければ、(ある意味で異星人の言葉のように)全く意味の分からないものとして立ちはだかる。これは、音楽や絵画など、音やイメージを媒介として行われる芸術と一線を画する点である(もちろん、音にもイメージにも一定の様式は存在するが)。外国語という理解不可能なものを理解するということは、その様式をインストールすることである。
 しかし水村も指摘するように、この時代の知識人が読んだ外国語というのは、多くは英語、ドイツ語、フランス語などである(二葉亭四迷は例外的にロシア語であったが)。現在の日本ではその状況は大きく異なる。
 今や我々はプラープダー・ユンの小説も、他のアジア諸国の小説も、日本語で読むことができる。そのような状況を可能にしているのはそれぞれの訳者たちである。そのような訳者が、現代の日本において、外国語で読み日本語で書くことを実践することによって、現代の日本における小説の「自由」度は拡張(あるいは更新)されるのではないだろうか。

[i] プラープダー・ユン、『パンダ』(宇戸清治訳)、2011、東京外国語大学出版会

[ii] 水村美苗、『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』、2008、筑摩書房

文字数:4340

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